ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ヴァイオリン協奏曲ニ長調−聴き比べ


 私は大学生の頃、一時期ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に凝っていたことがありました。それも「今は昔」。最近はトンとご無沙汰で、マイナー路線をひた走り、ベートーヴェンの他の作品もごくたま〜に聴く程度となってしまいました。それがこのコーナーを公開したことで、また聴いてみようかという気になりました。そこで、過去に買ったLPを改めて聴きなおしてみると、さすがはベートーヴェン、またまた聴き惚れてしまいました。何年かぶりにベートーヴェンのコンチェルト買い漁りが再発してしまいそうです。
 ところで、このベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、各楽章のコーダのあたりでカデンツァの挿入が指示されています(しかし、第2楽章から第3楽章のつなぎとして挿入されるカデンツァは、通常省略されることがほとんどです)。今回の「聴き比べ」は、特にこのカデンツァに注目してみたいと思います。ちなみにカデンツァとは、協奏曲において演奏者が自由にアレンジして自分のテクニックを披露できる部分のことを言います。ベートーヴェンは自作のカデンツァを残してはいますが、せっかく自分なりのアレンジができるのだからと、色々なヴァイオリニストや作曲家が思い思いのカデンツァをこしらえています。その中でも、ヨーゼフ・ヨアヒムとフリッツ・クライスラーのものが有名で、大半の演奏はこのいづれかを使用しています。しかし、現在でも腕に自信があって作曲や編曲なども手がけているヴァイオリニストは、自分流のカデンツァを演奏することがあります。今回紹介しているものの中ではヤッシャ・ハイフェッツがそうですし、新しいところではマキシム・ヴェンゲーロフが挙げられます。
 以下には、使用されているカデンツァによって分類し、感想を書き込んでいます。例のごとく私が聴いた録音を私の独断によって★〜★★★★★の5段階で評価しています。特にお勧めというものには、(特選)とか(推薦)という表記をつけています。



【ヨーゼフ・ヨアヒムによるカデンツァ】
 19世紀に活躍した高名なヴァイオリニストによるもので、最もよくとりあげられるカデンツァです。この曲のスタンダード・ヴァージョンといっても良いでしょう。技巧的にそれほど難しくはなく、主題を生かしたヴァイオリン独奏用変奏曲としての性格を強くもっています。当時のヴァイオリニストの演奏水準は、現在ほど高くなかったので、あまり技巧的に高度なものはできなかったようです。今でこそチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は、スタンダードナンバーとして頻繁に演奏されていますが、初演当時、ロシア最高のヴァイオリニストと称されたアウアーが「演奏不可能」と評したというくらいですから、パガニーニやヴェニャエフスキの作品を次々に弾きこなす現代のヴァイオリニストほどの技巧はなかったのでしょう(アウアーの場合は、弾きたくないという意味ももたせていたとは思いますが)。このカデンツァは、私が聴く限りではそんなに面白いものではないし、印象に残るものでもありませんでした。その点、ハイフェッツやクライスラーのカデンツァの方が聴きごたえがありますし、面白さからいえばシュニトケによる刺激的なカデンツァの比ではありません。

Henryk Szeryng(vn) Bernard Haitink/Concertgebouw Orchestra, Amsterdam<Philips=日本フォノグラム>
★★★
 私が持っているヴァイオリン協奏曲の録音の中で、最もオーソドックスな演奏。派手さはありませんが、叙情性を大切にした丁寧な演奏が気に入っています。ヘンリク・シェリングは、比較的ゆったりと落ち着いた弾き方をするヴァイオリニストで、やさしい音の響きが印象的です。同じコンビでブラームスのヴァイオリン協奏曲と二重協奏曲も録音していますが、こちらの方もシェリングの丁寧でふくよかな音の響きを堪能させてくれる演奏です。どちらかというとベートーヴェンよりもブラームスの方が出来は良いと思います。

Volfgang Schneiderhan(vn) Wilhelm Furtwängler/Berliner Philharmoniker(1953、Live)<DG=ポリドール>
★★
 音質があまり良くないので、多少キンキンした響きが耳につきます。さすがに協奏曲ということもあって、フルトヴェングラーもいつものようにテンポを極端に変化させたり、怒涛のフォルテッシモを鳴り響かせたりしない、比較的普通の演奏をしています。ヴォルフガング・シュナイダーハーンのソロは、線が細いちょっと癖のある演奏です。細部では少し粗さが目立ちます。録音のせいか、少しピッチがずれているように思われるところが何箇所かありました。それほどいい演奏というわけでもないので、フルトヴェングラー・マニアやシュナイダーハーン・マニアでなければ特に買って聴くほどではないと思いますが……。なお、シュナイダーハーンは、オイゲン・ヨッフムともこの曲を録音していますが、こちらのほうはシュナイダーハーン自身によるカデンツァが使われています。

Igor Oistrach(vn) David Oistrach/Vienna Symphony Orchestra<Ariola Eurodisk=日本コロンビア>
★★
 オイストラフ親子の共演とのことで注目の1枚となりそうなところですが、演奏は可もなく不可もなくといったところですね。まあ、テクニック的には充分うまいので安心して聴けます。だけど、私はもうちょっと冒険しても良いんじゃあないかなと思ってしまいました。オイストラフ父に比べオイストラフ息子はあまり評価は高くありませんが、実力は並よりは上です。ただ、父と比べてしまうと見劣りしてしまうようですね。父は指揮をしていますが、これも可もなく不可もなくといったところでしょうか。


【ヤッシャ・ハイフェッツによるカデンツァ】
Jascha Heifetz(vn) Charles Munch/Boston Symphony Orchestra<RCA=RVC>
★★★★
 ドライで明快な演奏です。やはり、20世紀を代表する技巧派ヴァイオリニストとして知られるだけあって、テクニックはすばらしい。私がこれまで聴いたものの中では最も早い演奏ではないかと思います。何故そんなに急ぐの?、もっとためて弾いても良いんじゃあないと思うことしばしば。情感とか叙情性とは程遠い演奏なので、この曲にこれらの要素を求めるならばお薦めはできません。カデンツァはヨアヒムのものをベースにしているようではありますが、高度なテクニックが要求される独自のものを弾いています。さすがハイフェッツのカデンツァだけあって、華麗な演出による聴かせどころのツボはしっかりおさえられています。「をを!!!すげえ」と感嘆符を3つ以上並べるのには最適な1枚でしょう。


【フリッツ・クライスラーによるカデンツァ】
 「愛の喜び」や「愛の悲しみ」の作曲者として有名なクライスラーもヨアヒムのカデンツァには不満があったらしく、自らカデンツァを作曲しています。ヨアヒムのカデンツァはあまりひねりがないので面白みに欠けます。しかもカデンツァはヴァイオリニストにとってみれば腕の見せ所となるわけですから、もうちょっと「見せ場」らしくテクニックを披露できるものにしたくなるのは致し方ないでしょう。このカデンツァは、柔和ではあっても硬派の域を守りつづけるベートーヴェンの曲調と、まるで円舞曲のように華々しいクライスラーの作風とが不思議なくらいしっかりとかみ合っています。昔はヨアヒム版カデンツァが主流を占めていたのですが、最近ではテクニックに自信のある実力派のヴァイオリニストたちは好んでクライスラー版カデンツァを演奏しています。ここ十数年の間に録音されたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の圧倒的多数は、クライスラー版を使用しています。

Yehudi Menuhin(vn) Wilhelm Furtwängler/Berliner Philharmoniker(1947、Live)<Fonit Cetra=キングレコード>
★★★★(推薦)
 若きメニューインの華麗なヴァイオリン・テクニックがこのカデンツァの魅力を大いにひき立てています。音がこもり気味で録音状態は良くないのですが、メニューインの情熱的な演奏がしっかりと伝わってくる名演と言えます。快活で若々しい彼の演奏はクライスラー版カデンツァのグローバル・スタンダードと呼んでも良いのではないかとも思えます。フルトヴェングラーとの息もあっており、音の悪さを除けば充分お薦めできる名盤です。私はまだ未聴ですが、音の良さをとるのであればクレンペラーと入れたステレオ録音があるので、そちらを聴かれると良いでしょう。これは余談ですが、1947年のティタニア・パラストという映画館(戦後しばらくの間、ベルリン・フィルの活動拠点となっていました)での演奏ということもあり、音響効果はあまり良くない上、第1楽章の中間部でプロペラ機(ひょっとしてB17だろうか)の轟音がかすかに入っていたりします。何とはなしに「戦争」を感じさせる1枚です。

Pinchas Zukerman(vn) Daniel Barenboim/Chicago Symphony Orchestra<DG>
★★
 ズーカーマンは柔らかな音色とポルタメントを多用するロマンティックな奏法が特徴のヴァイオリニストです。全体的にゆっくりめで、あまり強く我を主張することがない演奏です。できればカデンツァでは、もう少し我を主張してほしかったと思います。私は彼の優雅でロマンティックな演奏は好きなのですが、カデンツァはメニューインぐらい派手にやってほしかったですね。バックのバレンボイムとの相性は割に良いようで、オケがソロの醸し出す音のイメージをぶち壊すというようなことはありません。さすがに協奏曲でのソリストの経験が豊富なバレンボイムは、そこのところはきっちりとおさえています。

Itzhak Perlman(vn) Carlo Maria Giulini/Philharmonia Orchestra<EMI>
★★★★
 重厚でどっしりと腰の座ったジュリーニ/フィルハーモニアoによるバックに支えられた落ち着いた演奏です。これもズーカーマンの演奏と同様にゆっくりめで、派手さはありませんが非常に堅実で安定しています。ひょっとしたらパールマンはジュリーニの感化を受けてゆっくりめの演奏をしているのでしょうか。カデンツァの部分はもう少し派手めの演奏でも良かった気がします。私としては、クライスラー版カデンツァは「勢い」も重要なポイントだと考えていますので、パールマンにはがんばってほしかったのですが。ただ、全体のバランスを考えれば、テンポや奏法はパールマンの演奏通りの方が良いかもしれませんね。


【フェルッチョ・ブゾーニによるカデンツァ】
Joseph Szigeti(vn) Antal Dorati/London Symphony Orchestra<Philips=日本フォノグラム>

 この録音では、第1楽章でイタリアの作曲家ブゾーニによるカデンツァを、第3楽章ではヨアヒムのカデンツァを使用しています。演奏はというと、バックの分厚いオケの響きに比べてシゲティのヴァイオリンはか細く聞こえてしまい、今一つの感が否めません。やはり寄る年波には勝てないのか、音が不安定で幾分か「入り」が遅く感じられます。少々ためて弾きすぎる傾向があるので、そのせいでちょっと引きずっているように聞こえるようです。さて、ブゾーニのカデンツァですが、オケがフォルテで和音を奏して伴奏を中断した後にヴァイオリンのソロが入るのですが、「チロリチロリ、チャラララ〜〜ラ」てな感じであまりパッとしないはじまり方をします。それまでのトッティとソロとのギャップが著しいと申しましょうか、か弱い感じがして、ちょっとベートーヴェンのイメージと重ならない違和感のあるカデンツァです。


【アルフレート・シュニトケによるカデンツァ】
Gidon Kremer(vn) Neville Marriner/Academy of St.Martin in the Fields<Philips=日本フォノグラム>
★★★★★(特選)
 ギドン・クレーメルとくれば、シュニトケが背後霊のごとくついてくるというくらいシュニトケの紹介に熱心です。シュニトケが国際的な名声を獲得することができたのは、ひとえにクレーメルの功績によるところ大です。さて、当のシュニトケは何やらベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に大変興味を示したようで、一丁カデンツァを作ってみようかと思ったらしいのですが、これが非常に面白い。第1楽章のカデンツァでは、ベートーヴェンによる主題の他、ブラームス、ベルク、バルトークのヴァイオリン協奏曲の主要動機がちりばめられています。曲当てクイズのような聴き方ができ、ご家族の団欒のひとときを演出するのにも、お子様の音楽教育にも最適かと思われます。そして、シュニトケらしさがもっともよく現われているのが第3楽章フィナーレのカデンツァで、シュニトケ編曲の「清しこの夜」を思わせるフレーズが登場し、さらにソロと共にオケのヴァイオリン・パートがトリルと重音による不協和音を響かせて不気味さを演出しています。クレーメル氏は、このカデンツァを千枚通しで100枚束の紙を一気に突き刺すごとく鋭い演奏をしております。マリナー/アカデミーの端正な演奏とクレーメルのシャープな演奏が妙にマッチしており、曲の持つ面白さをうまく引き出した優れた演奏といえるでしょう。これまで聴いたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の中で最もエキサイティングな魅力あふれる一枚です。

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