Antonín Dvorák
アントニーン・ドヴォルジャーク
※(B)番号について
ドヴォルジャークの作品には、すべてに番号(Op.)が付されているわけではない。現在では、ヤルミル・ブルクハウザーという作曲家によって付けられた作曲年代順の作品番号(B)が併記されることが通例となっている。
管弦楽曲(Orchestral)
ドヴォルザーク代表的な管弦楽作品を集めたCDには、以下の2種類がある。
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ボヘミア(チェコ)組曲 Op.39(B93)
Bohemish(Czech) Suite Op.39(B93)
ドヴォルジャークの管弦楽作品の中では比較的おとなしめの曲で、ボヘミア地方の田園風景を思わせる彩り豊かな佳品である。作曲の順番では、スラヴ舞曲集第1集の翌年の1879年に作曲されている。この組曲は、前奏曲(パストラーレ)、ポルカ、ソウセツカー、ロマンス、終曲(フリアント)の5つの楽章から成り、このうち第2、第3、第5曲は彼が得意とする舞曲が織り込まれている。第1〜第4曲は、しみじみとした情感溢れる静的な旋律を主体とし、第5曲では一転して動的で活発な舞曲によって盛り上がってゆく。
- リボル・ペシェク/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Virgin>
- イルジ・ビエロフラーヴェク/プラハ交響楽団<Supraphon>
ペシェク盤のスタンダードな演奏も良いが、ビエロフラーヴェクのチェコの演奏家らしいイントネーションの演奏もなかなか味があって良い。
3つのスラヴ狂詩曲 Op.45(B86)
Slavonic Rhapsody Op.45(B86)
常々、リストのハンガリー狂詩曲のような作品を作曲したいとの想いを抱いていたドヴォルジャークが、2つのスラヴ舞曲集の作曲の間に挟まる時期に完成させたのが3曲によって構成されるスラヴ狂詩曲である。円熟期の作品ということもあって、ドヴォルジャーク独特の節回しとフレーズにさらに磨きがかかっている。なお、これらの曲は標題音楽として作曲されたわけではないが、オタカール・ショウレックなどのドヴォルジャーク研究家たちは、チェコの歴史的情景を描いたものと見ている。
- 第1番ニ長調
神話の時代の平和な情景を描写したと解釈されている。牧歌的な雰囲気を漂わせつつもしっかりとした足取りで力強く歩むようなところは、これからのチェコの礎を築こうとする人々の意志を表しているようにも思える。- 第2番ト短調
低弦と木管による出だしから不穏な雰囲気を醸し出している。これは、ボヘミア建国の後の闘争の時代を表現しているものとみられ、激しく叩きつけるように奏される金管と打楽器は覇権を争う勢力の衝突を連想させる。- 第3番変イ長調
ハープによる穏やかな調べに始まり、陽気で活気に満ちた音楽は中世の騎士の時代の優雅な日常を思わせると評されている。最後は、「これでおしまい」といわんばかりの2つ和音によるコーダは、いかにもドヴォルジャークらしい演出である。
- ヴァーツラヴ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<TERDEC>
- ズデニェク・コシュラー/スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団<NAXOS>
- ボフミル・グレゴル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
スラヴ狂詩曲第1番〜第3番の全曲盤は、現在のところ上記の3つの録音が確認できている。この中ではノイマン盤とコシュラー盤を推薦。グレゴルの演奏は堅実だが第2番ではほんのちょっともったりとしているので、飽きさせず聴かせるとすれば、やはりノイマンかコシュラーであろう。コシュラー盤は、すこし粗いが速めのテンポできびきびと演奏しているので、ファーストチョイス盤としてお勧めである。
スラヴ舞曲集第1集&第2集 Op.46(B83), Op.72(B147)
Slavonic Dances Series 1 & 2 Op.46(B83), Op.72(B147)
ハンガリア舞曲集が自らの出世作となったブラームスのアドヴァイスから生まれた名作として知られている。ドヴォルジャークの才能を高く評価したブラームスは、音楽出版社を経営するフリッツ・ジムロックへドヴォルジャークを紹介し、やがてジムロックの依頼でスラヴ舞曲第1集が作曲された。この第1集はヒット作となり、ドヴォルジャークの作曲家としての名声を確立させることとなった(この後の彼の作品の多くはジムロック社から発刊されることになる)。この作品は文字通りスラヴ系民族の踊りの曲で、チェコに限らずスロヴァキア(オドゼメック)、ウクライナ(ドゥムカ)、ポーランド(ポロネーズ、マズルカ)、ユーゴスラヴィア(コロ)などの地方の舞曲の特徴を生かした非常に印象に残る曲集である。
- 第1集(全8曲)
第1番ハ長調(フリアント)、第2番ホ短調(ドゥムカ)、第3番変イ長調(ポルカ)、第4番へ長調(ソウセツカー)、第5番イ長調(スコチナー)、第6番ニ長調(ソウセツカー)、第7番ハ短調(スコチナー)、第8番ト短調(フリアント)- 第2集(全8曲)
第9番ロ長調(オドゼメク)、第10番ホ短調(マズルカ)、第11番へ長調(スコチナー)、第12番変ニ長調(ドゥムカ)、第13番変ロ短調(シュパチールカ)、第14番変ロ長調(ポロネーズ)、第15番ハ長調(コロ)、第16番変イ長調(ソウセツカー)
- ヴァツラヴ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>(1985)
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
- アンタル・ドラティ/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団<Decca=London>
ノイマン盤(1985年)は長らく名盤としてSupraphon=DENONレーベルの看板CDとなっていたもので、はつらつとした演奏はさすがに看板CDとなっていただけのことはある名演である。彼はスラヴ舞曲集全曲盤をこの他に3回録音しているが、いずれも良い演奏である。クーベリックもお国物とあって快演を披露しているが、この録音も高音がシャンシャンと鳴り、あまり音質が良くないのが残念である。ドラティにとってドヴォルジャークやチャイコフスキーなどのスラヴ系の曲は十八番といって良く、非常に明快な気持ちの良い演奏となっている。
祝典行進曲 Op.54(B88)
Festival March Op.54(B88)
1879年に作曲され、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ=ヨゼフとその皇后エリザベートの銀婚式を記念して催された演奏会で演奏された晴れやかな行進曲。行進曲というと威厳をもって覇気を鼓舞するというものが多い中、めでたい式典のための喜びに満ちた華やかな曲となっている。
- ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<ORFEO>
- イルジー・ビエロフラーヴェク/プラハ交響楽団<Spraphon>
ノイマン/チェコ・フィルは洗練された華麗な演奏で、ドヴォルジャーク以外のチェコの作曲家の小品を集めたアルバム「プラハのガラコンサート」の最後に収録されている。ビエロフラーヴェク/プラハ響は少し発音がはっきりしているので硬めの演奏にも聞こえるが、ノイマンに劣らず良い演奏である。ビエロフラーヴェク盤は、これ以外にポロネーズ、ポルカ、ワルツなどがカップリングされていて、スラヴ舞曲集以外のドヴォルジャーク特有の舞曲の数々を楽しめる。
スケルツォ・カプリツィオーソ Op.66(B131)
Scherzo Capriccioso Op.66(B131)
ロンド形式の明るい雰囲気をたたえた舞曲風で、緩急のコントラストときびきびとしたフレーズと流麗で穏やかなフレーズが交互に入れ替わる自由で気ままな音楽である。曲の随所で挿入されるクラリネットと弦で奏されるフレーズは、単純だがうっとりする美しさである。めまぐるしく次から次へと場面が移り変わり、最後にはトゥッティで力強く締め括られる。
- イシュトヴァン・ケルテス/ロンドン交響楽団<Decca=London>
- リボル・ペシェク/ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団<Virgin>
ケルテスに比べるとペシェクの方が若干おとなしめの演奏に聞こえるが、ペシェク盤も負けず劣らず曲の本質をとらえた秀演である。
オリジナルの主題による交響的変奏曲 Op.78(B70)
Symphonic Variations on an Original Theme Op.78(B70)
チェコ民謡を参考にして作られたオリジナルの主題と28の変奏より成る変奏曲(ドヴォルジャークの作品で登場する民謡風の旋律は、スラヴ舞曲集を含めた全作品中の圧倒的多数が彼のオリジナルである)。20分以上の大曲であるが、聴き込むほどに面白さや中身の濃さが実感できる曲で、変奏曲特有の主題が表情をすばやく次々と変えていく技法、オケの色づけの仕方など、ドヴォルジャークの円熟した作曲家としての手腕を目の当たりにさせられる。比較的ゆったりと落ち着いた展開は、生涯にわたって恩人あるいは友として慕っていたブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」とよく似ており、かなりこの曲を意識していることがうかがえる。
- イシュトヴァン・ケルテス/ロンドン交響楽団<Decca=London>
- サー・チャールズ・マッケラス/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団<EMI>
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
- ボフミル・グレゴル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
それぞれに特徴があって味わいがあるので、どれもお薦めできる演奏ではあるが、まずは定盤ともいえるケルテス盤、アップテンポのクーベリック盤は飽きさせることなく味付けに工夫がみられる。マッケラスは少々くせがあるが、これはこれで面白い演奏である。この中でもっともオーソドックスなのはグレゴル盤だろう。
序曲「我が家」 Op.62(B125a)
"Domov muj" = Overture "My Home" Op.62(B125a)
紆余曲折、様々な起伏がありながらも幸福な家庭を連想させる音楽である。ドヴォルジャークは家族を大切にする家庭人で、即興で自分の子どもたちのために楽曲を作ったりすることもあったそうである。そんなドヴォルジャークの描く「家庭」とはさぞかし明るく弾むような音楽だろうと思いきやさにあらず。意外と前半は暗めの展開で意表をつかれてしまうが、最後には幸福感に満ちた大団円で幕を閉じるのでホッと一安心といったところである。
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
アンチェル盤は、かなり重々しく演奏をしているので少々暗くドラマティックな家族を連想してしまうが、これはかなり肩がこるので、適度に力を抜いた演奏が丁度良い。そのような条件を満たすのがクーベリック盤である。適度に力を抜くといっても中だるみするようなものではなく、ごく自然に耳に入ってくる類の演奏だろう。
「フス派信徒」序曲 Op.67(B132)
Husitská = Hussite Overture Op.67(B132)
カトリック信徒のドヴォルジャークが、ボヘミア・プロテスタントであるフス派を題材とする曲を作曲したことは、チェコ国内でかなり物議を醸し出した。彼自身は宗教問題には無頓着だったようで、カトリックであろうとプロテスタントであろうと、彼の興味を惹く題材はすべて作曲の対象となっていた(国内のドイツ派と国粋派の敵対やハンスリック派とヴァグネリアンの対立などもあまり関係ないといった風体であった)。この作品では、「汝ら神の戦士」というフス派信徒によって歌われていたコラール(スメタナの「我が祖国」の第5曲「タボール」と第6曲「ブラニーク」でも主要主題として使われている)がテーマとして使われ、フス派の苦難と旧教派との戦いを象徴するように重々しく奏でられるが、最後には輝かしい勝利の歌として締めくくられる。
- カレル・アンチェル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
- アントニ・ヴィト/ポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団<NAXOS>
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
- カレル・シェイナ/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
それほど一般に知られた曲ではないが、意外と数多くの録音が残されている(私が持っているものでも5種類あるが、実際には8〜9種類の録音はあると思われる)。アンチェル盤は、これまでに聴いたものの中ではダントツでこれほど力強く共感を呼び起こす演奏はそうそうはない。ヴィトの演奏は、スマートではあるがしっかりと肉付けがされた秀演である。クーベリック盤は速めのテンポで曲を描ききっているが、メリハリはしっかりとついている(私が聴いた中では1番速い)。シェイナも比較的速めのテンポでそつなく演奏しているが、時々前へと迫ってくるような瞬間があり、ちょっとスリリングである。
序曲「自然の中で」 Op.91(B168)
"V prírode" = Overture "In Nature's Realm" Op.91(B168)
大作曲家として国際的に大きな名声を獲得したドヴォルジャークが、創作意欲の旺盛な1891〜92年に作曲した作品である。この曲はそれぞれ「自然と人生と愛」をテーマとする演奏会用序曲3部作の内の最初の曲で、タイトルからもわかるように「自然」をテーマとした、おおらかで穏やかな音楽である。だが穏やかとはいえ、ドヴォルザーク流の節回しは健在である。なお、この曲の主要主題となっているフレーズは、後の第2曲「謝肉祭」序曲、第3曲「オセロ」序曲にも登場する基本フレーズで、3部作全体を関連付ける要素となっている。
- リボル・ペシェク/ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団<Virgin>
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
両盤とも伸びやかな木管と低弦による序奏に続き、晴れやかな盛り上がりはおおらかな自然の情景をよく表している。ペシェクは力の入り過ぎない丁寧な演奏で、クーベリックは細かなところで粗が目立つがペシェク盤とは違った魅力を感じられる演奏である。
「謝肉祭」序曲 Op.92(B169)
Carnival Overture Op.92(B169)
「人生」をテーマとする演奏会用序曲3部作の第2曲にあたる。ボヘミアの謝肉祭に沸く人々の熱狂と祭の合間に見せる哀愁を描いており、非常に活気に満ちた作品である。1年に1回の大規模な祭りは、それまで日常の抑圧されていた生活から解放される瞬間であり、その分、羽目をはずして盛り上がる様子を、めまぐるしい場面転換によって巧みに描写している。
- リボル・ペシェク/ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団<Virgin>
- イシュトヴァン・ケルテス/ロンドン交響楽団<Decca=London>
- カレル・アンチェル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
最初は比較的落ち着いた演奏だったのが、クライマックスに近づくにつれテンションがあがっていく、まさしく「祭」の音楽といった感じのペシェク盤はおすすめ。ケルテス盤はペシェクのようにクライマックスへ向けてテンポを上げるということはないが、なかなか熱い演奏である。アンチェルは、テンポを大きく動かさない割には「祭」の熱狂をうまく表現した名演奏である。
「オセロ」序曲 Op.93(B174)
Othello Overture Op.93(B174)
ウィリアム・シェークスピアの有名な悲劇「オセロ」を題材とする演奏会用序曲で、「愛」をテーマとする三部作最後の曲である。愛するがゆえに「嫉妬」に責めさいなまれ身を滅ぼす英雄オセロと、オセロに対する献身的で無垢な「愛」を抱きつづけるデズデモーナの悲劇を描いている。「自然と人生と愛」の基本フレーズが嫉妬心をかきたてるようにトロンボーンによって不気味に奏され、破滅へ向かって突き進むドラマティックな展開が聴きどころである。
- リボル・ペシェク/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Virgin>
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
ペシェクは変わらず落ち着いた丁寧な演奏でしっかりとメリハリをつけており、細かな表情付けもうまくこなしている。クーベリックの場合はペシェクほど造詣がしっかりとはしていないが、クライマックスへ向けての盛り上がりはなかなかで、一聴に値する名演である。
J.K.エルベンのバラードに基づく4つの交響詩
Based on Ballads by Karel Jaromír Erben
チェコの詩人カレル・ヤロミール・エルベンが収集・編纂した民話叙事詩集「花束」の中で詠われる4つの物語を題材とする交響詩。これらの作品は、彼がアメリカでの4年間の滞在から故郷のボヘミアへ帰郷した翌年の1876年中に4曲ともに作曲されたドヴォルジャーク晩年の傑作群である。それぞれに物語の展開にしたがって曲が奏でられる音楽物語の体裁をとっている。
- 交響詩「水の妖魔」 Op.107(B195)
Vodník = The Water Goblin Op.107(B195)
水の世界を支配するヴォドニークによって連れ去られ妻となった娘が、母親に会いたいと頼み込み、ヴォドニークは彼女との間に生まれた子どもをおいて行くことを条件に里帰りを許す。しかし、母親が娘を引き止めていつまでも返さないことに腹を立てた彼は、嵐を巻き起こして威嚇をし、それでも妻が顔を見せないことに激怒して、子どもを真っ二つに裂いて家の扉に叩きつけるという凄惨なシーンが描写される。- 交響詩「真昼の魔女」 Op.108(B196)
Polednice = The Noonday Witch Op.108(B196)
いつまでも泣きつづけて聞き分けのない子どもに対して、母親が「いいかげんにしないと魔女を呼ぶよ」と脅し文句を述べるや否や小さな魔女が現われて子どもを渡せと要求する。母親は子どもを渡すまいと抱きかかえて抵抗するうちに教会の鐘が鳴り響き、魔女は消えうせ、母親は子どもを抱いたまま気絶をしてしまう。やがて、父親が帰ってきて倒れている母親を助け起こすが、既に子どもは息絶えていた。- 交響詩「金の紡ぎ車」 Op.109(B197)
Zlatý kolovrat = The Golden Spinning Wheel Op.109(B197)
若い王が森の中で狩をしているときに見初めた美しい娘ドルニェチカに求婚するが、その継母と義姉が彼女を八裂きにして殺害し、義姉が身代わりとして若い王の元に嫁ぐことになる。ドルニェチカの遺体を見つけた魔法使いの老人が復元を試みるが、目と手足が王妃である義姉のもとにあるため、黄金の紡ぎ車と糸巻棒と引換えに受け取り、魔法によってドルニェチカを生き返らせることに成功する。一方、王妃が若い王に自慢げに金の紡ぎ車を見せ、糸を紡いでみせると、紡ぎ車が王妃とその母親の悪事を暴露し、事の真相を知った王は森に住むドルニェチカを改めて王妃として迎え入れ、罰として継母と義姉は放たれた狼によって引き裂かれるという場面を表情豊かに描いている。- 交響詩「野鳩」 Op.110(B198)
Holoubek = The Wild Dove Op.110(B198)
自分の夫を毒殺した若く美しい未亡人が、やがて魅力的な青年から求婚を受けて結婚することになった。そのうちに亡き夫の墓標のうえに樫の木が育ち、その木の枝にとまった野鳩が悲しげに彼女を責めるように鳴く声を耳にするうちに、自らの罪深さを自覚するようになる。鳩の悲しい鳴き声に身も心も張り裂けんばかりとなった彼女は、やがて自らの命を絶つという物語。コーダで主人公の女性が自殺をするシーンをオーケストラが消え入るように奏でるところが非常に印象的である。
- ヴァツラヴ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団<Supraphon>
- ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団<DG>
4作品ともにノイマン盤が決定盤といってもよいほどの名演を聴かせてくれる。ファーストチョイス盤としてもイチオシである。クーベリック盤も名盤だが、高音がシャンシャン聞こえ音質については少々難がある。
交響詩「英雄の歌」 Op.111(B199)
Hero's Song Op.111(B199)
「野鳩」と共にグスタフ・マーラーが絶賛したとされる交響詩で、ドヴォルジャーク晩年の大作の一つ。ハンスリックがリヒャルト・シュトラウス的な作風への傾倒を懸念して彼に忠告をしようとしたとされているが、ドヴォルジャーク自身は特に気にすることもなく、エルベンの民話に基づく交響詩を書き上げた翌年の1897年に完成させた。作風だけでなくタイトルからもリヒャルト・シュトラウスとの類似性が見られるが、この曲のタイトルは弟子のノヴァークの奨めで「英雄の歌」となったとされている。なお、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」はこの作品の翌年に作曲されたものである(だからといってリヒャルト・シュトラウスがドヴォルジャークの真似をしたわけではない)。勇壮な旋律と同時に素朴な民謡風の旋律が奏でられるところから、ドヴォルジャークは英雄とは近寄り難いものではなく、民衆とともにあるという印象を持っていたであろうことが想像できる作品である。
- アントニ・ヴィト/ポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団<NAXOS>
あまり演奏される機会が少なくなってしまったため、録音もかなり少ない。現在入手可能なもののうち、最も手に入りやすいのがヴィト盤だが、この演奏はドヴォルジャークの演奏としては珍しく上品であまり土臭さを感じさせない優美さが光っている。
弦楽のためのセレナーデ ホ長調 Op.22(B52)
Serenade for Strings in E major Op.22(B52)
チャイコフスキーの弦楽セレナーデと一緒のカップリングとなることが多いが、チャイコフスキーのような派手な演出は少なく、しみじみとした美しい調べが印象的な5楽章から成る組曲である。押しが強く、明確なアクセントによって彩られる数々の管弦楽作品とは異なり、優雅で感傷的な調べは若く多感なドヴォルジャークが経験したほろ苦い恋愛を連想させる。第1楽章は夢見るような穏やかな主題が奏でられる前奏曲、第2楽章は感傷的でありながら芯が一本通ったようなワルツ、第3楽章は速いテンポのスケルツォ、第4楽章ははかなげなフレーズが流れる全曲中最も美しい小品であり、チャイコフスキーの弦セレ以上に聴く者を魅了するだろう。第5楽章は活発で自由な展開を見せるフィナーレで、最後に第1楽章の主題が奏された後に駆け上がるようなあわただしさでコーダを迎える。
- ヒューゴー・ウォルフ/セントポール室内管弦楽団<TELDEC>
- ヤロスラヴ・クレチェク/カペラ・イストロポリターナ<NAXOS>
ウォルフ盤は、ある意味スタンダードな演奏といえるかもしれない。妙な色付けがなされていない素直な演奏で入門盤としては最適ではないだろうか。クレチェクはテンポを落しすぎるところが多々見られるのが不自然だが、ゆったりと非常に美しく楽器を響かせているところが良い。
管楽器によるセレナーデ ニ短調 Op.44(B77)
Serenade for Wind Instruments in D minor Op.44(B77)
オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン3、チェロ、コントラバスといった編成で、純粋な管楽器による作品ではない。編成は小規模で野外向けサロン音楽としての趣きがある。地味めでブラスバンド向けの派手な効果を狙った作品ではないので、そのような効果を期待すると肩透かしを食ってしまうが、「ソウセツカ」、「フリアント」などのチェコの民族舞踊のエッセンスが散りばめられたブラスバンド愛好家にも充分楽しめる楽曲であると思う。
- イシュトヴァン・ケルテス/ロンドン交響楽団<Decca=London>
- ヒューゴー・ウォルフ/セントポール室内管弦楽団<TELDEC>
共に素直な演奏なので、BGMとして流れていたら気付かずに聞き過ごしてしまうようなさりげなさがある。しかし、よくよく聴いてみると、各楽器の特質を浮き彫りにした演奏であることがわかる(この曲は、それぞれの楽器が主役なので、特定の楽器だけが目立つような演奏ではいけないというのは当然ではあるが……)。あまり特色を出そうとすると鼻につく演奏となってかえって失敗する可能性の高い曲なので、普通なのが1番良いのかもしれない。ただ、機械的に譜面を追っている生気を失ったような演奏とは全く違うので、そこのところは誤解のないように。