過去は現在を映す鏡


1.はじめに

 皆さん、こんにちは。
 さて、コラムの第1回ということで何を書いたらよかんべと思案していたところ、まあ歴史が好きならば歴史ネタでいったら良かろうということで、今回は、歴史の伝えるところと現在の事件とを比べながら、少々思うところを徒然なるままに書き綴ってみたいと思います。

2.フランス革命前夜

 かのフランス・ブルボン朝の国王ルイ16世の后マリー・アントワネットは、民衆の貧しい生活状況を知るにつけ、かようなことを口にしたと伝えられています。

「パンが食べられないのなら、お菓子を食べれば良いじゃないの」

 なんと言う暴言。アントワネットがこのようなことを言ったかどうかは定かではありませんが、これは彼女がいかに世の中のことを知らなかったかということを例えて引き合いに出される言葉です。本人は「そんなことないわよ」というかも知れませんが、事実彼女は世間知らずだった。しかし、なにも彼女だけが世間知らずだったわけではなく、国王ルイ16世も王族、貴族、僧侶のほとんど大半が現実が見えていなかったのです。ルイ16世は日がな錠前作りと狩に明け暮れ、この2つのこと以外は何も関心が無かったそうなので、アントワネット以上に世間知らずだったようですね(彼の日記には、錠前作りの日と狩の日以外はいつも「今日は何もなし」と書かれてあったそうな)。
 
 当時のフランス王国はルイ14世以来の放漫財政と相次ぐ侵略戦争のために国庫は枯渇し、いつ破産してもおかしくない状態にありました。そのくせ、毎日毎日、やれ舞踏会だ、やれオペラ鑑賞だ、やれパーティだ、やれ花火大会だ、やれ展覧会だ、やれ音楽会だ、やれ外国の大使を招いてお茶会だ、やれ……。入ってくる金は右から左、止まるところを知らぬ有様。このように湯水のごとく金を使うのは、自国の繁栄を他国に知らしめるための国策であったということですが、王族、貴族、僧侶ばかりが良い目を見るような国策なんぞは一般民衆にしてみれば良い面の皮で、自分たちには麦粒ひとつだって得にはなりゃしない。医療控除も無ければ、年末調整で取られすぎた分の税金が帰ってくることも無く、金が無くなりゃさらに税金が重くのしかかってきて、自分たちのところにしわ寄せがやってくる。そんな、民衆たちの間には不満、鬱憤がたまってくる。でも、どうしたらいいんだと考えているところに、啓蒙思想なぞを唱える知識人が登場し、「君らは何も知らないから、なすすべなく地主や役人の言いなりにならなきゃならないのさ」と言い、もっと勉強しなきゃだめだよと教えられるようになる。そうこうするうちに、一般民衆の間からもいっぱしの知識人として王朝批判なんかを打つような輩が現われるようになる。
 
 一方では、貴族や僧侶の中にも旧体制(Ancient Régime)に対する疑問を持ち、啓蒙思想に傾倒してこれを支持する人々もいたりしました。つまり、自分たちの同類の中にも敵となりうる人々が少なからずいたということです。このような事実に対して、自分たちが行ってきた誤りを正すどころか、軍や警察を動員して弾圧を強行するばかり。そんなことを続ければ、反体制勢力がどんどん膨れ上がっていくのは目に見えているはずなのに、ちっとも意に介しない。
 
 そのうち、彼らの尻を蹴り上げるような事件が起こります。1781年に当時の財務総監(大蔵大臣)であったネッケルという人が、機密事項であった国家財政の内情をはじめておおやけにして、民衆に宮廷財政は破綻に至っていることを知らしめたのです。ネッケルはこれによって、何度となく裏で潰されてきた、免税特権を持つ貴族や僧侶への課税を前提とする財政改革を推進しようと図ったのです。しかし特権身分はこれに対して頑強な抵抗を続けます。ですが、彼らが自分たちに不利な財政改革案を何度潰しにかかっても、財政が好転することはありません。悪化の一途をたどる一方です。やがて、財政改革を主張する政府(国王側)とこれに反対する特権身分との間の対立が激しくなり、特権身分が、新しい税制を導入するには国民の代表により構成される三部会を招集し、これにより採決されなければならないと主張し、宮廷に厳しく詰め寄ったところから、1789年5月5日に三部会が開会されることとなりました。これが、フランス革命の始まりとなったわけです。
 
 実は、フランス革命は民衆の暴動によってではなく、特権身分の国王および宮廷に対する反乱(三部会招集)によって幕を開けることになったのです。その後、どのような顛末が待っているのかをまったく自覚することなく……。

 なおマリー・アントワネットについての件は、池田理代子著の『ベルサイユのばら』という漫画か、この漫画の元ネタとなっているシュテファン・ツヴァイク(オーストリアの作家です)の『マリー・アントワネット』に詳しく書かれてありますので、興味のある方はそちらをご覧になると良いでしょう。

3.惠帝と西晉の滅亡

 マリー・アントワネットも世間知らずなら、中国の皇帝にも世間知らずがごまんといます。初代皇帝ならいざ知らず、2代目以降となると、天子たる者、気安く下々の者と交流を持ってはならないという古今東西どこでも使われる理由によって、宮廷内に閉じ込められて生活を送る羽目となるので、現実の世の中を知らずに育ってしまうということが非常に多かったようです。ましてや、これが大馬鹿者であれば、なおさら始末に終えない。
 
 時は3世紀後半。西晉という王朝が、後漢末期の群雄割拠の時代から三国時代を経て、91年ぶりに中国の統一を達成した後の話になります。三国時代については、世にあふれかえる「三国志」関連の本やゲームソフトなどでご存知の方も多いとは思いますので、詳しくはそちらを参照あれ。とりあえず、ここでは簡単な概要を記しておきましょう。

 宮廷内紛争が絶えない後漢末期における政治の乱れは、やがて「黄巾の乱」という天下の大乱を引き起こし、これを機に地方に拠点を持つ官僚や豪族、武将などが相次いで独立政権を樹立し、あわよくば天下を我が手にと虎視眈々と後漢皇帝の後釜を狙う群雄割拠の時代が到来することになります。このような状況の中で、「黄巾の乱」を平定し、後漢の威光復活を称して皇帝を操る曹操が、彼に対抗する有力な士族の袁紹を「官渡の戦」(200)で破り、華北(中国北部)を制圧します。これに対して、劉備は諸葛亮孔明という軍師を擁して、中国南東部の江南地方に勢力を持つ呉の王孫権と同盟し、曹操に対抗します。やがて、中国全域支配の野望を持つ曹操の南下を「赤壁の戦い」(208)で阻止し、その出鼻をくじいた後に、曹操の息子曹丕が後漢皇帝から皇位を奪い魏を建国したことを機に、中国西部の四川地方を拠点に蜀という王朝を立てて三国時代が現出することになります。この三国時代も、曹丕(文帝)が263年に蜀を併合し、魏の後継王朝の西晉が呉を280年に征服することで終わりを迎え、ここに中国の分裂が一応終息することになります。

 ようやく話は本題へと突入します。といっても、もう少し前振りが残っているんですけどね。さて、一時は中国の3分の2を手中に収めた魏でしたが、この魏の帝室では、曹丕の死後、有力な側近司馬氏が統治の実権を掌握するようになり、彼らによって父祖3代に渡る帝位簒奪の陰謀が着々と進められていました。やがて、265年には司馬炎が武帝として、魏王朝から禅譲(譲られること)を称して帝位を奪い、西晉王朝がここに誕生しました。この初代皇帝は、実質的には3代目皇帝といってもよく、実際の西晉王朝の下地は彼のおじいさんにあたる司馬懿(しば・い)という人がつくり、さらに彼のおとうさんである司馬師が完成させたので、楽して帝位を手に入れたことになります。武帝はあまりできの良い君主ではなかったらしく、放蕩の限りを尽くし、後宮お抱えの妾は一万人を超えると伝えられています。まあ、中国の歴史家は物事をやたらオーバーに伝える傾向があるので、それを差し引いて考えても千人以上はいたでしょうから、それだけでもすごいといわざるを得ません。

 この武帝にもまして無能であったのが2代目皇帝惠帝でした。彼は、飢饉によって民衆がばたばたと死んでいっているということを聞いて、このようなことを口にしたと伝えられています。

「米が食えないのなら、何故肉を食わないのだ?」

 これは『晉書』という歴史書に書かれていることなのですが、これと同じような言葉をどっかで聞いたことあるでしょう。そうです。マリー・アントワネットが言ったといわれている発言とほぼ同じですね(アントワネット発言の由来は、じつはここからきているのではないかと私は疑っております)。こんなのが君主なのですから、どんな王朝だったのか、たやすく想像できるでしょう。案の定、宮廷内では王朝の実権を掌握するための骨肉の争いが展開され、これに異民族の反乱も加わり、西晉は半世紀あまりの短期間で早くも終わりを迎えました。以後、隋の文帝による中国統一まで、2世紀半以上に及ぶ分裂時代が再び到来することになったのです。

4.民衆から遊離した指導者層

 以上の2つの出来事は、単に過去に起こった古臭い話というだけではありません。「お菓子を食べればいいじゃない」とか、「何故肉を食わないのだ?」といったレベルのことを言っている輩は数多くおります。しかも、現在の日本の指導者に。

 ここのところ、立て続けに会社更生法の適用申請を行って、事実上倒産に至る企業が続出しています。何故、このようなことが起こるのでしょうか。最近、アメリカを筆頭とする外国からの圧力もあって、国が護送船団方式と呼ばれる国内の企業や金融機関に対する保護政策を緩和し、外国企業の日本市場への参入を容易にするような改革が相次いで打ち出されています。日本も、これまでの「ぬるま湯の時代」からメガ・コンペティション(大競争時代)へと移行しつつあるわけです。しかし、このことが倒産する企業が続出する原因なのでしょうか。少なくとも根本の原因は他にあると考えられます。

 また、失業率が月を追うごとに過去最悪を更新し続けていますが、なぜこれほどに失業率が高まっていくのでしょうか。さらに、新卒学生の新規採用も少なくなる一方です。では、なぜ新規採用枠が抑制されねばならないのでしょうか。その理由として挙げられるのが、必ずといって良いほど、「これまでの経営努力にもかかわらず、昨今の厳しい社会状況により当社も業務の縮小ならびに人員の削減を余儀なくされ」るという口上です。ここで挙げられる「経営努力」の内容は明示されることはありません。つまり、激動の時代に対応した経営を経営陣がやっていなかったというだけの話なのです。目先のことにこだわり、「厳しい社会状況」に責任を転嫁し、自己の責任をあいまいにする風潮が日本には未だに根強く生きていることを感じさせます。

 このような「経営努力」へのしわ寄せは、まず末端の社員にやってきます。いわゆるリストラというやつです。しかし、待ってください。リストラとは、re-structuringの略で「再構築」を意味しています。首切りを意味する言葉ではありません。ところが、リストラというと即人員整理を意味するようになってしまっています。つまり、経営者の多くは人減らしをすることによって会社を立て直そうという安易な考えを持っていることの現われなのです。このような安易さが、その後、どのような顛末をもたらすかを自覚することなしに……。

 会社をリストラするのに人員削減を行わなければならない場合もあります。ところが、社員の給与を減らし、社員の首を切っている一方で、会社の上層部の待遇については最後まで手付かずというのがほとんどです。たとえ、上層部の待遇が以前より悪くなったとしても、一般社員の待遇に比べれば微々たるものです。そのような状況にあって「経営努力」という言葉が空しく響き渡ります。会社における経営悪化の最大の責任は経営陣にあります。もちろん、一般社員もその責任を分担して負わねばなりません。会社が傾いた責任は全社員が平等に負うべきものです。それなのにも関わらず、自分たちの待遇は留保して、一般社員に負担を強要するのは本末転倒といわざるを得ません。ましてや、会社における最終的な意思決定を行っているのは取締役等の経営陣なわけですから、その分責任も重く、会社に損失を与えた場合のペナルティは他の社員よりも多く負わなければいけないはずです。現状から言うと、今の世の中はこれとは逆になっているように見えます。

 さらに、リストラの名のもとに次々に首を切っていくことの末路がどのようになるかも、どうやら世の多くの経営者の方々はわかっていらっしゃらないようです。失業者が増えれば、その分消費が抑制されることは、何も私がこんなところでいちいち御託を並べなくとも自明のこととして皆さんご存知ですよね。ところが、相変わらず首を切りつづけていて、なおかつ営業成績が上がらないといっては、社員の給与を減らす。これによってまた消費が抑制されるから、営業成績が上がらず首切りと給与のカットが実施され、また消費が抑制され……、という具合の悪循環が続いているわけですね。やがて業績不振がたたって国にすがって何とか助けてもらおうとしますが、結局は手遅れで倒産と相成るわけです。こんなことで、「日本経済は長く暗いトンネル」を抜けることなんてできるんでしょうかね。

 相次ぐ金融機関の破綻は、以上のような自分たちだけ良ければいい型の典型です。しかも、国は金融機関の破綻は経済に多大な影響を及ぼす可能性があるからということで、公的資金を投入して救済しようとする。それに対して、金融機関は自力で再興しようという意欲を持たず、貰えるもんはどんどん貰ってしまえとばかりに、国におんぶに抱っこ状態です。「飢えて民衆を食らう」だけでは飽き足らず、「飢えて国を食らう」ところまでいってしまっても平気のさたです。しかも、この公的資金は究極的には税金から出ているわけですから、結局は、また「飢えて民衆を食らう」状態となっているわけです。これを知るにつけ、また労働者諸氏は「やってらんねえよ」とばかりに、労働意欲を喪失し、日本経済はさらに悪化の一途をたどるのでした。

5.歴史的事実が示しているもの

 ある日本の企業のリーダーは、経済が低迷して失業者があふれている状態を見てこのように言いました。

「銭がないのなら、なぜ札を使わないんだ。」

 こんな逸話が後の世に伝えられることになるかもしれません。世の経営者は、自分の会社のことだけ、自分たちの保身だけを考えるのではなく、もっと広い視野にたって、経済全体、社会全体を見渡さなければなりません。これは、私たち一介の労働者とて同じことです。「自分たちとは関係ねえや」、「自分だけが……」というのでは、結局は無責任なリーダーたちと同じです。今、私たちは意識改革を迫られています。メガ・コンペティションは、なにも経営陣の目の前にだけ突きつけられた事実ではありません。私たち自身にも厳しい現実として突きつけられているのです。ここで、自分は何をなすべきかをもう一度考える必要がありそうです。会社のために働くのではなく、自分がこの会社で何ができるのかという意識が必要なのではないでしょうか。企業というものは同じ目的を持つもの同士が、特定の目的を実現するために設立するものですから、極端な話、その目的を達成してしまえば消滅してしまってもかまわないものなのです。何のために働くのか、それは私たちが本来的に持っている目的を実現するためであって、会社を存続させることではないはずです。これを乗り越えられなければ、日本経済の再生はありえないのではないかと思います。
 
 さて、話を2つの歴史的な出来事に戻しましょう。フランス革命の勃発と西晉王朝の滅亡は偶然ではなく、起こるべくして起こった事件なのです。国を指導する立場の人々が、現実から目をそむけ、自分たちに都合の良いことばかりを押し付ける。そのことが、やがては自分たちの不幸へとつながって行くことを知らずに……。結局、マリー・アントワネットとその家族は断頭台の露と消え、西晉の王族はただ一人を除いて異民族の反乱によってことごとく殺害されてしまいました。さらに、これらの一連の事件は、それから後の長い混乱の時代への幕開けとなったのです。一方で、この混乱は民衆が引き起こしたものでもありました。民衆は目の前にある事実にばかり振り回され、個人レベルの欲求を充足させることに意識が行ってしまい、どうすれば社会が秩序を取り戻すことができるかを考える余裕がありませんでした。中国でも同様です。つまりは、これらの大きな事件の背景となった様々な要因が彼らには見えていなかったわけです。

 現代に生きる私たちは、当時の彼らに比べて様々な事件を知るのに必要な情報を手に入れやすく、そこから事実を判断することができます。ところが、逆に情報の氾濫によって、どのような情報を入手すれば良いのか、何を見れば良いのかがわかりづらくなっていることも事実です。昔の人々と今の私たちでは立場の違いはありますが、大切なことは「いかに世の中を見ていくか」という点ではないでしょうか。安定的な社会が構築されるには、一人一人の個人が現実逃避や自己中心的な考えにのっとった行動をとるのではなく、自分の行動が社会にどのような影響を及ぼし、どうすればより良い社会が構築され、ひいては自分にとってより良い人生を送ることができるかを考えて行動することが求められていると、過去の事件と今の社会情勢は物語っているのではないかと思います。
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