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『ノストラダムスの大予言』と終末ブーム


初稿2002/07/14
改訂2002/08/16
追記2006/10/01
修正2006/10/24

 我が国で広くノストラダムスの名前が知られるようになったのは、1973年に出版された五島勉の大ベストセラーからというのは賢明なる読者には改めて申し上げるまでもない。以後「人類滅亡の年」という強烈なキャッチフレーズが添えられた1999年に到るまで何度かブームが起こったけれども、それから3年過ぎた今となっては完全にブームは終焉し一部のマニアの関心しか引かなくなった。五島の一連のノストラダムスに関する著作に対しては、と学会の尖鋭である志水一夫や山本弘らによってその内容の問題点が明らかにされた。山本は五島を称して日本史上最大のペテン師とさえ呼んでいる。五島の『ノストラダムスの大予言‐迫りくる19997の月、人類滅亡の日』(以下、『大予言』と記す。)の出現は果たして必然だったのであろうか。すでに最初のノストラダムスブームは、1999年を過ぎ去り21世紀の到来とともに遠い過去へと押しやられた。今こそ冷静に当時の資料を振り返り、あのブームは何だったのか探ってみたい。

 人類滅亡の日と銘打った五島の著作は、鮮烈な終末のイマジネーションを一般大衆の深層に植え付け、19731125日の初版発行以来、実に400版以上も途絶えることなく出版されてきた。手元で確認できるのは445版である。五島は最初の『大予言』以来1999年の直前まで世相をにらみながらノストラダムス本を執筆し世に問うてきた。ノストラダムス本以前まで遡り、五島の著作から思想的なものの変遷とそれがノストラダムス本に反映された経緯に関しては、ポップ・カルチャー・クリティーク4の99年の滅亡を夢見て』青弓社 に収録されている許光俊の秀作「五島勉、『ノストラダムスの大予言』への道」が決定版ともいえる評論である。許はその最後でこう述べている。「はっきりしているのは、第一に五島氏はノストラダムスの紹介者でもなければ、予言の研究家でもなく、そうしたものを手掛かりとして現代と未来をながめようとする、一種の文明批判を試みているということなのだ。」この一文は五島の描いてきたノストラダムスの予言を的確に言い当てている。五島は最後までノストラダムスの解説者としての立場を超えようとはしなかった。ベストセラーになった事後の弁明として滅亡の非常ベルを鳴らす警世の書とはっきり位置づけた。決して本を売らんが為に読者に脅しをかけたわけではないと強調した。予言解説者という自由な立場に身を置くことにより自らのアイデンテティを存分に表現することができたのである。一部のサブカルチャー系のノストラダムス本の著者とは自ら差別化を図り、ノストラダムスの霊に解読を教わったとか自称ノストラダムスの生まれ変わりなどという荒唐無稽な解釈本を非難しながらも解説者の一線を越えてノストラダムス教の教祖となることを避けてきた。最後の第四次ブームの際にもここぞとばかりテレビ出演した、自ら予言者と化したトンデモ予言研究家のような映像のメディアへの露出は避け、もっぱら新聞や週刊誌の取材のみに応じた。がそのインタビューで語る話の内容も安定しておらず結局何が言いたいのか判然とせず読者を煙に巻いた。なぜならそれは客観的なノストラダムスの研究とはまったく方向性が違ったものだからだ。自分の解釈に都合のいい材料を用い、しばしばドラマティックな創作を行い、世間の反応を窺いながらさらに想像力を膨らませ、その時々の情勢に応じた文明批判の道具としてノストラダムスを利用したことは否定できない。

 『大予言』の詳細な内容分析は、ノストラダムス研究室主宰の田窪勇人著『ノストラダムスの大予言分析』に詳しいのでそちらに譲るが、ここでは『大予言』執筆当時の時代背景についてもう少し踏み込んでみたいと思う。田窪は雑誌「ユリイカ」に発表した「日本におけるノストラダムス受容史」の増補改訂版をホームページに発表しているが、そこで最初のブームにおいて五島の著作が多くの日本人に受容された理由をこう述べている。「一九七〇年代に入り,高度経済成長の終焉とともに豊かさへの警戒,あるいは疑いを持つ人たちも増えていった。急激な経済成長は日々の生活を一変させ,人々の心理に様々な歪みをもたらした。野坂昭如氏のように終末論について言及するものも現れた。すでに終末予言が受け入れられる土壌は存在していたといえよう。一九七四年一月には「日本沈没」が大ヒットし,近未来には何かが起きるという不安感が五島氏の著書を更に後押しすることとなる。」五島が『大予言』を執筆していた当時、中東戦争やオイルショックなどで世相が急に不透明になり、お調子者の日本人はみな右に倣えと終末感に襲われていた。当時の公害問題は危機的状況を現実として認識させた。さらにはそこからの逃避として、超能力・オカルトなど現代科学で認知されていない不可思議な世界への誘いが求められブームとなっていた。『大予言』はそんな先の見えない不安感に苛まれた日本人の心の隙間を埋める、おどおどしい演出を全面的に押し出した。小学館・集英社・祥伝社三社の各雑誌は大々的にプロモーションをはり、予言本初の空前のベストセラーが実現したのだ。

 当時小学生であった筆者は、母親が近所の知人から借りて読んでいた『大予言』を見てすんなり引き込まれてしまった。というのも1972少年サンデーに連載が始まった、人類滅亡後にタイムスリップした小学校を描いた漫画、楳図かずおの『漂流教室』を夢中になって読んでいた頃だったのだ。残念ながら筆者は見てはいないが『漂流教室』はつい最近テレビドラマ化されて注目を浴びたという。その相乗効果で文庫本でも復刊したが、それを買って読み返してみると当時のことが思い起こされる。その頃は映画『猿の惑星』も大ヒットしていて、人類が滅んだ後に築かれた、猿が支配する世界の映像にこんな未来像があるのかと戦慄したものだ。『大予言』の中にも終末のイメージとしてこの映画のカットが用いられている。映画『猿の惑星』はその後シリーズ化されて、遂にはテレビドラマとなり日本でも放映された。さらにこれをベースに子供向けの日本版ドラマである『猿の軍団』が放映されたほどだ。当時の様相については山本弘の『トンデモ予言者の後始末』に詳しい。それによると1973年夏にはその名もズバリ『終末から』(筑摩書房)という雑誌も刊行されている。小松左京、野坂昭如、井上ひさし、埴谷雄高といった面々による小説やエッセイが掲載されていた。そう、1973年という年は大変な「終末ブーム」だったのである。」(47) 筆者も子供ながらに当時はやった様々な終末のイメージの影響を受けていたと思う。しかしそれほどの終末ブームだったとはまったく意識していなかった。そんな1973年の年末、その後のサブカルチャー系のジャンルを引導していく大予言ブームが起きたのだった。

 自宅の近所に「本を買わないのなら立ち入るな」といった感じの張り紙がしてある古本屋があった。昔ながらの古本屋のオヤジで棚を見ても古本に対する愛着が窺えるし、本を大切にしてくれるお客さんだけに売りたいといった感じだ。すぐ近くにある古本屋ブックオフとは対照的である。そこには他の古本屋には決して見られないマニアックな古書が多い。しかもそれぞれラップをかけて大切に保管されている。ざっと本棚を眺めていると「終末から」2(19738月)という雑誌が目に留まった。もちろん先の山本の文章で1973年当時こういう雑誌があったことは知っていた。値段を見ると1000円。本の定価は380円だから古本といっても随分と割高だ。ラップに包まれているから中を見ることができない。しかし表紙の19738月という日付の誘惑に負けて買ってしまった。五島の本が出版されたのは1973年の年末だから、それ以前の終末論には当然ノストラダムスのノの字も出てこないはずだ。さっそくラップをはがしてみると実に保存状態がよく、30年以上経っているとは思えないほどきれいであった。巻頭には「東西地獄絵比べ 絵空ごとかよ火責め人喰い」なる恐ろしげなグラビアが載っている。ノストラダムスと同時代のボス・ヒエロニムスの「最後の審判」1561年頃 やキーン・ジョルジオの「墓場」1553 はノストラダムスの生きた時代の終末思想を垣間見た感じがして興味深い。

 最初の記事は「埴谷雄高「終末」を語る 人類の自己克服について」で当時の公害問題について触れ、この現実を地獄と位置づけた。資本主義を悪と見なして芸術の視点で共産主義の先の革命を訴えている。このあたりは最初の『大予言』の根底にあるものとまったく同じと思う。五島は社会の仕組みの変革を別のものによる世界と表現している。さらに「終末から」の頁をめくっていくと、若き日の野坂昭如の「不死唯生腐(しなずしてただいきぐさるのみ)」が目に留まった。氏は当時42歳だったがいろいろな大学をまわって破滅について講演していたという。たけしの「TVタックル」で、大予言バトルに参入してトンデモ系の予言研究者たちと口論している氏を思い出すとなにやら楽しくなってくる。人類は滅亡するぞ、終末がくるぞと、もう30年近く前に破滅を唱えていた人と同一人物とは思えないほどだ。しかしこの文章を読む限りでは野坂氏は社会的な危機のネタを持って論じており、一昔前のノストラダムスの予言詩を曲解して自分自身が予言者と化してしまったトンデモさんたちとは少々違っていたようだ。野坂は今でもテレビや雑誌、ホームページなどで精力的に活躍している。とにかく五島の『大予言』が出版される前に終末ブームが起きたのはこの雑誌を読むととてもよく理解できる。さては五島はこの雑誌からネタを拾い出したのかと思って読み進むと、出てくるは五島流解釈と関連のある話題の多さに気付く。

 1973年のトピックを拾い出してみると、第一次オイルショックで世の中不安が蔓延していた。スーパーからはトイレットペーパーが買占めにより姿を消した。その隙間にタイミングよく登場したのが五島勉の『大予言』であった。予言書初のベストセラーはなんと250万部も売れたという。五島はもともと週刊誌記者でありルポライターだった。1960年代、安保の熱かった時代には体をはってルポをものにしていった「トップ屋」の一人だったという。『大予言』初版の前書きには、1962年の秋にノストラダムスの予言の原文を読む機会にめぐまれたとある。「女が船に乗って空をとぶ/それからまもなく、一人の偉大な王がドルスで殺される」の的中をリアルタイムで体感し、ノストラダムスに夢中で取り組むようになったというのが本人の弁である。しかしこの予言詩は後の青背版『大予言』に部分的に原文が載せられたものの、ノストラダムスのテクストあるいはその習作にも見られず、五島の創作であることが判明している。後に五島は最初にショックを受けた詩を第九巻六五番の「月の片隅に到達するだろう」に置き換えている。最近のものでは『ノストラダムス 21世紀へのメッセージ』の「第一部 緊急インタビュー・五島勉氏に聞く」32頁など。古くは雑誌「ムー」19815月号(第10号)の五島の寄稿「ノストラダムスの謎を解くKEY!日本が生き残る道はあるか」には「この変てこな詩を、私は十五年ほど前にはじめて読み、なんのことかさっぱりわからなかった」とある。逆算すると詩の存在を知ったのが1966年となり、1969年のアポロの月面着陸にしか結びつかない。何故『大予言』初版で初めてその原文を読んだのを1962年としたのか。それは1962年の翌年の6月のソ連の初の女性宇宙飛行士テレコシワ誕生と1122日のケネディ暗殺の前に予言詩を読んだことにしたかったからだ。こういった事後にその昔予言詩の成就を自ら目撃したとして、予言の正当性あるいはノストラダムスが本当に未来を見る能力を持っていたと主張する手法は海外の研究書にも見られる。ジェームズ・ランディは英国のノストラダムス研究家ガランシェールの似たような例を紹介している。五島の場合にはそれをまったく架空の詩(しかも四行詩にもなっていない!)でもって演出し、創作と知れるやいなや別の詩がそうだったと置き換えた。こんなひどい実例はさすがに世界でも例を見ない。ところが14年後に出版された大予言シリーズ『ノストラダムスの大予言スペシャル日本編』ではあくまで正本ではない異本(五島はビットリオの異本と命名しているがこの世に存在しない)にあるとしているが、今更蒸し返さなくても・・・と感じたのは筆者だけではないだろう。

 五島の『大予言』執筆の裏側については本人も簡潔に記しているし、様々な方面からの指摘もある。「創」198211月号の沢田博の文章によれば、最初に五島が持ち込んだ企画は「世紀末を予言する十人ほどの予言者の、予言のアンソロジー」であった。それを絞り込んで、ノストラダムスを選んだのは、ノン・ブックの編集長伊賀弘三だったという。五島自身は「あまりも恐ろしかったから」迷ったというが、結局これが大当たりするわけだ。(『文藝春秋』19744月号、『BOX』1991年8月号)アンソロジーの候補として眠れる予言者エドガー・ケイシーも上がっていたはずだ。『大予言』に引用されている『大異変』はケイシーのリーディングを取り上げたものでネタ本として手元に置いてあったのではないだろうか。志水の『大予言の嘘』『トンデモノストラダムス解剖学』にはいわゆる海外資料の入手経緯が細かく紹介されているのでそちらを参照されたい。『大予言』におけるノストラダムスに関する種本は、まず197211月頃に南山宏に借りたという、ヘンリー・C・ロバーツ(邦訳『ノストラダムスの大予言原典諸世紀』)とスチュワート・ロブ(邦訳『オカルト大予言』)の洋書二冊が挙げられる。この経緯については南山自身が『大崩壊 ノストラダムスの予言』の解説や『ノストラダムスの遺産』のあとがきで触れている。さらに国内で出ていたノストラダムスに関する乏しい資料の中で、黒沼健の物語、澁澤龍彦のエッセイ、セリグマンの『魔法その正体』、スターンの『予言』であろうと見当がついている。ロバーツの本は表紙や一部の原文の写真のカットが挿入されていることから原文、注釈を最も参照したものだろう。ロブの本も第二次大戦の予言詩の拾い出しで利用された。例えば、百詩篇第三巻11番の『大予言』の注釈「ムッソリーニの処刑」はロバーツの解釈というよりは『オカルト大予言』53頁にあるようにロブの注釈を転用したにすぎない。最も印象的な部分はロブがノストラダムスの予言から第二次大戦を占ったとされる『大予言』223-224頁の記述だ。これは『オカルト大予言』61-62頁のロブが第二次大戦を予言解釈から占ったとされる9つのリストに対応しているようだ。『大予言』224頁に引用されたロブの言葉「もし、ノストラダムスの予言が当たらなかったように見える場合は、それは解釈がまちがっているからで、彼自身はつねに完全に正しいのだ」『予言』165-166頁に極めて近い。細かい点だがさらに『予言』との符号箇所が見られる。百詩篇第九巻16番のフランコの名前が現れるとされる四行詩の解説も実に興味深い。五島はこの詩に当てはまる事件を第二次世界大戦の始まった1940年に置いている。(『大予言』82頁)ところが1936年のフランコに結びつけるのが伝統的な解釈なのである。(『妖人奇人館』92頁、『ノストラダムス予言全書』225頁他)『オカルト大予言』によればロブは1941213日の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたというリビエラ会談の記事を紹介している。五島がこの本を参照したのなら1941年と書いたはずだ。ところが『予言』165頁にはロブが1940年初めから記事を探し続け、数ヵ月後に新聞にリビエラ会議らしきものを見つけたとある。つまり五島は本来のロブの説を引用するなら1941年と書くところを、『予言』の不完全な記述を参照したため1940年と書いたとしか思えない。

 このように何度も引用されたロブだが、ゲーテのパスツールショックの挿話の責任を五島により取らされている。ロブの著作には見当たらず明らかに五島の創作である。黒沼の本からは簡潔な伝記、最初の妻の名がアドリエット(誤植であろうがアビリエットと紹介している)であることなどの情報を得た。また恐怖の大王の解釈として宇宙人来襲説、第二次大戦のロバーツの解釈、チャールズ・ワードの著作に関する情報などの引用をしている。黒沼は同じような内容で形を変えて本にしているが、五島が参照したのは高木の参考文献にもある『世界の予言 日本・世界の危機と著名人の生死』と思われる。澁澤については『大予言』75頁でもエッセイ「星位と予言」に触れているが、21世紀へのメッセージ』32-33頁の中に不思議な言及が見られる。なんと五島は澁澤と手紙でやり取りをしていろいろと教えてもらったという、が本当だろうか。『大予言』を読む限り澁澤から何らかの資料の提供を受けたというようには思えない。『大予言』で紹介された一連の架空のエピソードを澁澤が示したとは到底考えられない。カート・セリグマンの本はノストラダムスの予言集の各巻のタイトルであるサンチュリを「諸世紀」と訳したことで知られているが、「七人の肖像」の中でノストラダムスは簡単な紹介しかされていない。21世紀へのメッセージ』31頁の五島の言葉「まだ科学と魔術が渾然一体となっていた、神秘的な中世ヨーロッパについての雑学本」とはこの本を指していると思われる。五島がスターンの『予言』を参照したか、先に述べたように可能性は高いが議論が分かれるところでもある。というのも『予言』で紹介されたノストラダムスのエピソードにまったく触れられていないからだ。筆者は部分的な大雑把な参照によりノストラダムスの原典の関する情報を歪めて引用したと見ている。例えば、ノストラダムスがパリの宮廷から戻った後で予言を執筆したなどの情報はスターンの本にしか見られない。以上のような乏しいノストラダムスの資料を基に、思い存分空想の翼を広げて五島はわずか一ヶ月で『大予言』を執筆したという。そのためノストラダムスと直接関係のないところで多くのミスが生じ、出版当初より不正確との批判を受けていた。志水が指摘しているように青背版『大予言』ではそういった細かい部分が書き直されていたのだ。しかし一般読者が確認することのできないノストラダムス研究者やエピソードについてはそのまま残された。文明批判をテーマとした五島だったからその名もズバリの「終末から」という雑誌を参照したのは疑う余地がない。

 さて五島が『大予言』を執筆していた当時の終末ブームでどんなことが語られていたのか。それを「終末から」2号より拾い読みし、『大予言』の予言解釈と比較してみたい。まずこの号の特集@に「ニッポン列島ノーリターン」があり、前述の野坂の記事が続き、85頁に飢餓の時代について書いている。これは『大予言』110頁以下の解釈とほとんど同じ。野坂の後には根本順吉の「氷河期ついに地球をおおう」があり異常気象と氷河期の到来を予告しているが『大予言』118頁以下の解釈につながる。また竹内均の「人の災い地の災い」にはエネルギーの消費による異常気象について書かれているが、『大予言』64-6頁の解説とほとんど同じである。また竹内の「2 大地は動く」には関東地震が近づいていると論じているが『大予言』114頁や122頁に関係している。日比逸郎の「子供たち、奇形社会へ、ようこそ!」で『大予言』108-9頁の滅亡の前兆に通じる。田尻宗昭は「死の海は今日も」で公害問題について論じているが、これまた『大予言』53頁以下で主題とされたテーマと一致している。田尻の評論は当時の高度経済成長期のツケとして企業から排出される有害物質の怖さとともに公害世論の盛り上がりを再認識させられる。当時は実に大きな社会問題に発展していたが五島はそれを巧みにノストラダムスの予言に結びつけた。この号の特集Aでは「大アンケート 破滅の前にこう生きる!」がある。これを読むと当時は見識者の間でも終末論の論議がさかんで一方それに眉をしかめていた人達がいたことが知れてなかなか面白い。その中で文化放送アナウンサーの落合恵子の名前が目に留まった。アンケートの質問は@もし24時間以内に地球が破滅するとすれば何をするかA自分の死に方を選べるとすればどれを選ぶか である。落合は『大予言』のカバーに「あなたならどうする?」という推薦文を書いており、最後を「もし明日、人類が滅亡するとしたら、あなたなら、どうする?」で結んでいる。ここからアンケートの内容をアレンジしたのはほぼ確実だ。「終末から」の中でのアンケートの答えは案外平凡で「@髪を洗ってゆっくり風呂に入り、あとはボンヤリ寝ています。」実際には人類がいつ滅亡するかなんてわからないし、急に明日といわれても非日常的な命題を与えられても案外日常生活から抜け出せないだろう。」『大予言』の直後に出版された高木彬光の『ノストラダムス大予言の秘密』『大予言』以後の終末ブームにおける様々な反響を紹介しているが、やはり同じような問いかけが見られる。「さて、この「大予言」の最大のあやまりは自分の独断、強引きわまる解釈によって、原書のノストラダムスの予言そのものさえ曲解し、しかも運命絶対論的な見解を強調して、一九九九年の人類大破滅が、絶対にさけられないものだ−と断定したことにあったろう。」こうして将来の最後の瞬間を思い悩む人達へのメッセージとして詩人リルケの言葉「たとえ地球の滅亡が明日に迫ろうと 私は今日林檎の樹の種子を植える」を引用して『大予言』の呪縛を解こうとした。

 こうしてみると、五島流解釈を受容することで人類滅亡といった予言が根付いてしまっただけで本来、ノストラダムスと世界の終末は結びつく必然性がないことに気づく。浅野八郎著『オカルト秘法』によると当時はアメリカでもオカルトブームであったという。アメリカを中心とする世界各地の予言者や占い師、神霊学者たちがざっと三百人ホノルルに集まって世界の終末について語り合った。浅野はこれを「水がめ座時代会議」と命名している。日本でもテレビ出演して話題になった超能力者ユリ・ゲラーの登場。透視治療で有名な眠れる予言者エドガー・ケイシー、ケネディ大統領の暗殺を霊感で予知したと名高いジーン・ディクソン夫人らの予言者が連続して出現している。その少し前までは科学万能主義。月ロケットの成功に熱狂していたアメリカやヨーロッパの人々の間で占いや神秘主義、オカルトが異常なまでのブームを呼んだのは何故だろう。当時の日本の終末論ブームがこれとリンクしていたことは疑いない。人類や世界の終末が前述の気象や地質学上の大異変、エネルギーの消費による資源の枯渇、経済論理の下の公害問題、そういった現実が直面する危機のみを取り上げるだけでいいのだろうか。浅野は「人類を終末に導くかもしれない、もっと恐ろしい要素は""の問題だと、私は思う。」と述べ、オカルト的な神秘主義のクローズアップの必然性を説いている。なかなかの炯眼で後年起こったオウムの事件が思い起こされる。オウム真理教の信者たちはまさしく『大予言』の洗礼を受けた世代が神秘的な宗教へ帰依し、挙句の果てには教祖の指示のもと善悪の判断さえ失って凶悪な犯罪に手を染めてしまった。五島本人は否定しているが、当初は単に終末ブームに乗じたスリラー的な便乗本、想定読者を分別ある一般サラリーマンに向けた娯楽本でも書いて小銭でも稼いでやろうとの意識しかなかったと想像する。そのため五島にとってはノストラダムスの正しい実像なんてまったく必要がなかったわけだ。終末ブームから人類滅亡を演出するための小道具にしかすぎなかったのだ。しかし五島の巧みな筆力により終末ブームに翻弄された人々の心の隙に巧みに入り込んだ。五島が科学万能主義を打破しようとして、逆にアポロの月面着陸のような科学万能をノストラダムスが予言したと持っていたのは皮肉である。結局五島の『大予言』は、文明の進歩と平行して漠然とした不安を植えつけられた人々の心の病を促進させる触媒として、世紀末の日本に蔓延った実態のない非合理主義と位置付けられるだろう。

(文中敬称略)


このページの最終更新日は 2006/10/24 です。

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