Voyage de noces
私は今、かなり幸せである。私の愛の原風景は、確かに子供のころに遡る。その頃と同じくらい幸せである。穏やかに寄せては返す波の上に生まれたままの姿でこの身を委ねているような幸せ。幸せな人、神の恵みを受け生きる人。1年前なら、自分が口にすることをひとかけらも想像することができないような歯の浮くような台詞を易々と一日に何度でも口にしている。このことは不思議でもなんでもない。
2001年7月14日、パリ祭の日に挙式。夫と私は神の前で永遠の愛を誓った。そして、7月17日火曜日、成田から南仏へと新婚旅行にでかけた。この記録は記憶を紐解く度に、そうカレーを作るとき最初に炒めるガーリックの役割を果たしてくれることだろう。
結婚式前は式の準備で忙しく、式の翌日私の家族を羽田空港で見送った後、慌しく旅行の準備をした。楽しいであろう新婚旅行に胸を膨らませながら、お揃いのリュックやトラベルグッズ等を買った。7月13日は私の誕生日だったが、結婚したらもうバースデイプレゼントは買ってもらえないかもと思うようにしていた。ツアーの添乗員の方からの電話連絡でフォーマルな服を一着荷物の中に入れるようにとアドバイスされたこともあり、白地にグリーンのチェックのワンピースを買ってもらった。
旅行会社の前日パックを利用して、7月16日は成田空港近くのホテルに宿泊した。私達は、もっと早くホテル入りするつもりだったにも拘らず、結局ホテルに着いた時は夕暮れを過ぎていた。そのホテルは、新婚旅行の前日パックでなければ生涯もう二度と泊まることはないだろうと思う程の大きなホテルだった。部屋に案内され女性のポーターが部屋を出た後、部屋の扉という全ての扉を開き、その度に感嘆の声をあげた。その後、これは2週間の新婚旅行の間ホテルに到着すると必ず行う、私たち二人の儀式となった。
2001年7月17日、成田・新国際空港北ウイング4F出発ターミナルEカウンター集合。「芸術と自然が織りなす憧れの南フランス」ツアーの始まりである。参加者17名のうち、お一人以外は私たちの両親の世代のご夫婦ばかりで、このことは旅行中ずっと私達二人をとてもリラックスさせてくれたと思う。私は、私達二人がこれからこの旅行中に体験する事、ツーリストから前もって渡されている予定表以外の事を想像すると、遠足のバスに乗ったばかりの小学生のようにはしゃいだ。
以下、ツアーの日程表を片手に、2冊の分厚いアルバムを片脇に置いて綴っていく。7月14日、出発地 東京、10:25発 KLMオランダ航空にて、アムステルダムに向けて飛ぶ。私は乗り物酔い止めの薬を服用し少し眠ることにする。15:10アムステルダム着。ほぼ定刻どおりにアムステルダムに到着した。アムステルダムの空港は私が今まで利用したことのある空港の中で、国内外問わず最も大きく、ヨーロッパだけでなく、アフリカはもちろん、アジア・・・世界中の人々が行き通う場所、まさに坩堝だった。まるでデパートのようなショッピングゾーン、長時間の飛行の疲れを癒すコーヒーショップ、空席のベンチが必ずある。人がどこからかしこからと群れては流れていく。見て回るうちにインターネットカフェをみつけた。次のフライトまで4時間近くも待ち時間があったが、その空き時間を私達は持て余したとは言えなかった。
私はサマータイムを生まれて初めて体験した。日本であれば真夏でも夕方の7時頃から薄暗くなるものであるが、次のフライト19:15になっても辺りは昼間と全く変わらない明るさだった。アムステルダムから空路、KLM空港でフランスのトゥールーズへ飛ぶ。飛行時間は約2時間、女性乗組員の一人もいない飛行機だった。日本の飛行機に喩えるなら、国内線の小さな町の空港と都会の空港を結ぶ飛行機、私の実家に帰省するときに利用する飛行機と同じ大きさのものだった。日本の国内線のそういう飛行機の機内サービスは女性乗組員の笑顔と飴玉ぐらいのものだが、KLMはしっかりと軽食がもてなされた。短時間のフライトで救命着の場所や装着の仕方などの説明を鮮やかにやってのける。私は、その眩しいほどに無駄のない指先の動きに見とれてしまった。日本時間を考えるととっくに真夜中で疲れが顔を覗かせても可笑しくはないのに、アムステルダムからトゥールーズまでの飛行は少しも眠くなく、退屈もしなかった。
トゥールーズの空港に21:10着陸し、空港の駐車場に出たところでようやく薄暗くなっていた。初めて吸ったフランスの空気は日本の猛暑から一転して少しひんやりしていた。バスに乗り込むとすぐにHOTEL GRAND CAPOULに向かう。このホテルには2泊する。私は初めて泊まるフランスのホテルに胸を躍らせた。ホテルに着くと、ロビーでこのツアーの添乗員さんから、部屋割り、翌日の予定、枕チップ等の説明を受ける。ロビーも廊下も部屋の中も愛読していた雑誌のプロヴァンス特集の写真の中に自分自身が入り込んだようだった。
7月18日(水)8:00ロビーに集合し、バスに乗り込む。バスの運転手さんは水色の眼をした元軍人さんで、名前はチェリーさんといった。このツアーは南仏を貸し切りバスで周っていく。チェリーさんにはニースまでお世話になった。また、自由行動以外の観光は現地ガイド付だった。この日のガイドさんの名前はベロッタさんだが、彼女は日本人であり、年齢も私と同じくらいだった。日本から遠く離れた異文化のフランスに住んでいても、日本人女性の奥ゆかしさを感じさせる女性だった。親切で最初の目的地は丘の上の城砦都市ゴルドだった。トゥールーズからゴルドまで約80キロあった。バスの中でベロッタさんからゴルドについての説明を受ける。バスの左右の窓はどこまでも続くひまわり畑から私達を離さなかった。その後もプロヴァンスの旅行中、ひまわり畑と私達は固く結ばれた。
城砦ゴルドに入る前にバスを停めて、ゴルドの町がよく見える場所で写真撮影をする。緑の美しい山の上に石造りの町やお城があった。この日は小雨まじりのやや肌寒い日だった。私達夫婦は日本の猛暑の印象が強すぎて、南仏の真夏に涼しい日があるとは少しも予想していなかった。スーツケースにはTシャツや半ズボンなどの夏物の服ばかりを入れていたことを後悔した。雨具においてはナイロンカッパのみしか用意していなかった。私は全く海外旅行慣れしていなかった。
ここで初めてのトイレ休憩をする。南仏の田舎町の公衆トイレは石造りの外観でトイレ内もこざっぱりしていた。しかし、便座がなかった。フランスの公衆トイレは便座のないところが多いそうだ。予め、ベロッタさんはそっと女性陣にだけ中腰で使用することを教えてくれた。
町の入り口でバスを降りて、城砦の中にあるゴルドの町を歩いて回る。どの道も幅2メートル程の狭さで、急な傾斜になっている。又、道も家々も土産物店もレストランもありとあらゆるものが石と岩で造られている。日本では最近まで木と紙と土の家が主流だったというのに、遥か昔12世紀の頃から、頑丈な石造りの建物が今に至るまでずっと人とともに生きている。時々朝方の小雨で濡れて滑りやすくなった路面に目をやりながら歩いた。目にするもの全てが珍しく、私はきれいと感じたもの、面白いと感じたものを見つける度に、それを指差して夫に知らせた。建物はみな同じ色の壁をしているが、軒下に吊るされた牛や豚や龍のオブジェや色鮮やかな旗がそこに暮らす人の温もりを感じさせてくれた。
私達はゴルドの町を後にして、再びバスに乗り、画家ロートレックの故郷アルビへ向かった。アルビでは元大司教館(現在のトゥールーズ・ロートレック美術館)を見学する。私は決して美術に詳しくなく、ロートレックの絵は柔らかな印象しか持っていなかった。ガイドのベロッタさんからロートレックの生い立ちからその生涯についての説明を聞きながら油絵やデッサンなどを鑑賞した。そして、サンセシル大聖堂、ここからフランスの教会巡りが始まった。私はカトリックの大聖堂には大阪教区の聖マリア大聖堂にしか足を踏み入れたことがなかった。しかし、フランスの大聖堂は、もうまるでその比ではない。荘厳で、豪華で、巨大で、感嘆し見上げる私の口は塞がることがなかった。
アルビから40キロ進んでカストルに到着した。ここではゴヤ美術館を見学する。ここは庭園が素晴らしかった。美術館の2階の踊り場から庭園を見下ろすと、植木で形作られた百合の紋章をくっきりと見る事ができ、手入れが行き届いていることがよくわかった。この日の観光はこれで終わり、バスはまた70キロの道のりをトゥールーズまで走った。
翌日7月19日木曜日、この日はカルカソンヌに泊まるために朝食までにスーツケースに荷物をまとめて部屋のドアの前に置く。トゥールーズからカルカソンヌまでは90キロ。バカンス行きのキャンピングカーやパリナンバーの車がバスを追い越していく。カルカソンヌではコンタル城、サンナゼール教会、旧市街シテの散策を楽しんだ。カルカソンヌはふいに甲冑を身に着けた中世の騎士が蹄の音をたてて現れそうな街だった。また、今にも塔の窓から御伽噺にでてくる可愛らしいお姫様が顔をみせてくれそうだった。私はそのポン・ヴュー(旧橋)を渡り城砦の中に足を踏み入れるまで、全く予備知識を持ち合わせていなかった。前日に訪れたゴルドも城砦の中に家々やお店などがあったが、カルカッソンヌは規模がもっと大きい。街がすっぽりと砦に囲まれている。私の目をひきつけて離さないアイスクリーム屋やパン屋にはどの筋を曲がっても必ず出合った。レストランやカフェやホテルまでもこの砦のなかにある。そして、その砦の中の建物は全て13世紀にタイムスリップできる外観をしている。頑丈な石や岩の建物は争いの絶えなかった時代に権力を勝ち得た者の象徴であり、それは素晴らしい芸術に強く結びついている。人間とは愚かであると同時に素晴らしい。サンナゼール教会は芸術品の宝庫だった。天から宝石箱を散りばめたようなステンドグラス、数知れないほどの聖像、彫刻が一つもない壁面はどこにもない。
夕食にはこのラングドック地方の名物「カスレ」を食べるはずだったが、昼食を予約してあるレストランに入ってみると、他の日本人ツアー客がダブルブッキングされており、私達はしばらく店先で待たされた後、夕食の予定のレストランと昼食予定のレストランをチェンジし、昼食に「カスレ」を食べた。昼食で私たち夫婦と同じテーブルについたご夫婦の話によると、ヨーロッパのツアーではこのような予約のダブルブッキングは珍しくないことだそうだ。「カスレ」という料理を一言で言えば、洋風の煮豆である。しかし、当然、出汁がまるで違うわけで、大皿に盛られた「カスレ」をお代わりできたのは添乗員だけだった。しっかりと煮汁がしみこんだビーンズはどっしりと私の胃を重くしてくれた。
旧市街シテの散策後、カルカッソンヌのホテル、HOTEL TERMINUSにチェックインする。ロビーに入ると正面の左右にミュージカルの舞台セットのような大階段があった。真鍮の手すりに触れながら階段を昇る。添乗員から部屋の鍵を渡されるときに、ドアの鍵が開けにくいと聞いていたが、その言葉どおりだった。同じツアー客は同じフロアの部屋の前でみんなすぐに部屋に入れずにいた。夫は自分の部屋の鍵を開けた後、隣近所の人の鍵を開けるのを手伝い、私たちは全ての人影が廊下から消えてから、部屋に入った。もちろん、ご自分ですぐに鍵を開けて部屋に入られた方もいらっしゃった。このドアの鍵の話題は翌朝に続く。
夕食の集合時間まで二人で散歩する。すぐ近くの駅まで行って見る。カルカッソンヌの駅は私達の住む街の駅よりやや小さいくらいの大きさであり、電車が到着するとキャスター付の大きな荷物を運ぶ人、自転車を押して改札を通る人を見かけた。夏は楽しむためにあるようだった。売店を覗いたり、駅構内の掲示物を見たりしていると、フランスの新幹線TGVが停車した。私はそれをバックにシャッターを押してくれと慌てて夫にカメラを押し付けた。
昼食と夕食のレストランがチェンジしたことは結果的に良かったかもしれなかった。夕食のサーモンとインデカ米はありがたかった。デザートのタルトも美味しかった。パンが美味しくて、私はついついメインデッシュを食べ終わる前にパンをお代わりしてしまい、甘いタルトは残念ながら半分しか食べられなかった。テーブルに立てられたキャンドルの仄かな灯りが、店内の古い人形や聖像の顔を浮き上がらせ、とてもロマンチックな雰囲気を醸し出していた。また、南仏ではホテルのフロント係り以外は英語が話せない人がほとんどであるが、私達のテーブルに料理を運んでくれた若いウェイトレスさんは英語で「日本語で食事を楽しんでください」はどういえばいいかと話しかけて来た。私達を一生懸命もてなそうとしてくれる気持ちを嬉しく思ったが、どう答えていいか分からず、首を傾げることしかできなかった。彼女は添乗員のテーブルでも同じ質問をしていたが、日本語には当てはまる言葉がないということで納得したようだった。ライトアップされた城砦は幻想的で、もし電気のない時代にタイムスリップしたら、夜の妖精を見ることができたかもしれないと思った。
第4日目、7月20日金曜日はニームに泊まるために、スーツケースを朝食前に部屋の外に出す。バッゲージアウトのある朝は慌しい。スーツケースを廊下に出すとホッとする。のんびりと朝食をとる事ができる。朝食後、身支度を整えるために部屋に戻る。夫は自分で一度は鍵を開けてみるようにと私に鍵を手渡した。鍵を鍵穴に差し込んで回そうと試みるが、ドアノブはビクとも動かない。私がガチャガチャとデタラメにドアを押したり引いたりしていると、中学生ぐらいの男の子が近づいてきた。その男の子は私達の部屋のドアに触れるやいなや、いとも簡単にドアを開けて見せた。フランスの男の子は女性に優しい。
カルカッソンヌから180キロ進んでポン・デュ・ガールに向かう。ポン・デュ・ガールが造られたのは、紀元前にまで遡る。大阪城のお濠の石を初めて見たときも驚嘆したが、こちらはそれより1600年古い。前日までは夏服では少し肌寒いお天気だったが、この日はからりと晴れ渡り、美しい青い空にサンドベージュの巨大な石橋がよく映えた。夫はビデオカメラをまわした。私はパノラマサイズに設定してカメラのシャッターを押した。紀元前にガールという川に橋を架けるだけでも偉業だと思うが、ニームの町までその水を運ぶ水道橋を造るとは、その時代のアウグステイヌス帝の繁栄は私の想像を絶するものだ。向こう岸に渡って、息を切らしながら小高い丘に登って振り返るとポン・デュ・ガールの端から端までを見渡すことができる。大昔に人間が造った頑丈な橋と、その下を流れる澄み切った川、バカンスを楽しむ家族連れ、新居でパソコンに向かってこれを書いている今、その光景を思い出すと心がスーと開放されるようだ。
真夏の太陽の下を歩き回って喉が渇いた。私達のツアーのバスには小さな冷蔵庫があり、エヴィアンとヴィッテルの500mlが冷やしてある。散策で歩き回った後、運転手のチェリーさんからそのミネラルウオーターをよく買って二人で分け合って飲んだ。私の語学力でもこのくらいの仏会話はできるので、チェリーさんから飲み水を買う役目は片言のフランス語会話しかできない私の役目だった。ある時こんな事があった。「エヴィアン シルブプレ」と私が言うと、チェリーさんは「ノー ビア」と答えた。私の「エヴィアン」の発音が「アン ビア」に聞こえたようだった。
ポン・デュ・ガールに続いてニームの円形闘技場、メゾン・カレ神殿へと史跡巡りが続く。この日の現地ガイドさんの名前はメモしていないが、インテリ風の中年の日本人女性だった。昼食はニームの円形闘技場近くのレストランだった。店内の壁には闘牛の頭の剥製や絵で埋め尽くされていた。生きていないものとはいえ、闘牛の顔は大きくて、その目はしっかりと見開いていた。このツアーではまだまだ他にも古代劇場や円形闘技場等のローマ時代の遺跡見学が予定されていた為、ニームの遺跡は足早に回った。円形闘技場の観客席の中段まで上がってみた。石段を一段ずつ気をつけながら降りた。メゾン・カレ神殿にしても歴史の教科書に白黒写真で掲載されていたものをこの目でカラーで見ることができる事が、信じられない気持ちで360度見渡した。その後はニームの市内散策をした。ワニの紋章の噴水の前で写真を撮った。ガイドさんに市街地を一通り案内してもらった後、ホテルに向かう。
4日目のホテル、NEW HOTEL DE LA BAUMEは大通りから少し入ったところにあった。インターナショナルなホテルという感じではなく、最近の日本のファッション雑誌に紹介されているようなプチホテルだった。一つ問題があったとしたら、バスがホテルの前に止まる事が出来ず、たまたまポーターもいない時間のチェックインだった為に、バスの運転手のチェリーさんが私達のスーツケース17個を一人で運ぼうとしていたことだった。ツアー客の2〜3人の男性陣がもしかしてと気づき、私も後からついて行くと、チェリーさんが大きなスーツケースを2つずつ、トレードマークのポロシャツを汗びっしょりにして運んでいた。次第に、スーツケース運びを手伝うツアー客の皆さんの人数が増えて、夫も部屋の鍵を添乗員から受け取るとすぐに手伝いに来てくれた。
このホテルではもう一つハプニングがあった。このツアーでのホテルの部屋は全てツインで予約してあったが、このホテルだけツインの部屋が足りなかったのか、数組のご夫婦がダブルの部屋に泊まらなければならなかった。ホテルに到着後、添乗員が作った籤に奥様方が一喜一憂した。私達は新婚ということで無条件にダブルの部屋に泊まることになった。
ホテルのロビーやカフェにはドキリとするようなポーズの裸婦が描かれた絵が飾られてあった。私達の部屋は2階だった。ロビーを曲がるとすぐに、曲線の美しい手すりの階段があった。部屋の中は前日のカルカッソンヌのホテルよりも広く、スーツケースを開ける場所に迷うこともなかった。また、つい二人でどっしりと腰を下ろしたくなるような心地よいソファがあった。フランスの家具は機能的であるばかりではないと、つくづく感心した。椅子、テーブル、壁にかけられた絵、それぞれが宿泊客に静かに語りかけているかのようだった。バスルームも前日のホテルよりも、明るく広かった。1泊しかできない事、部屋の中で写真を撮っていなかった事が残念でならない。
夕食までの自由時間、私達はニームの街の散策に出かけた。何かあった時のために、フロントでホテルカードをもらい、地図を見ながら歩いた。古い教会の中に入ってみる。日本のカテドラルを想像するほどの大きな教会だったが、その中は薄暗く、埃っぽくもあり、カビの臭いも漂っていた。有名な大きな教会は観光客で賑わっているが、そうではない教会は信徒離れが進んでいるのかもしれない。丁度、2階のオルガン周辺の修繕工事をしていた。私は旅の思い出にロザリオを買いたいと思ったが、教会には売店はなかった。入り口にいたおばあさんに聞いてみるが、フランス語と英語では言葉が通じず分からなかった。本屋に入ってみる。店内は鰻の寝床のように間口は狭いのに奥行きが広かった。私達は広場を通り、マルシェの古本、アフリカを思わせる雑貨やアクセサリーを見て回った。
そして、市街地を少し離れて小高い丘にあるマーニュの塔を目指して坂道を登る。この日は快晴で真夏の太陽が煌いていた。私は息を切らし弱音を吐きながら、夫の30メートルぐらい後ろを歩いた。塔の中に階段があり、33メートルの高さの塔の頂上に登ることができた。人一人通れるだけの狭く暗い階段を昇り、塔の頂上にでると、ニームの街が一望できた。澄み渡った空の下にベージュ色の石造りの町並みがどこまでも続いた。背中に太陽を浴びながら、坂道を下った。
本屋にもう一度入ってみる。夫はカトリーヌ・ド・メディチの本を買った。私はオレンジ色の財布を買ってもらった。ショーケースにはチューリップのモチーフの小物が飾ってあった。私はチューリップ柄の財布が欲しかった。「名詞+シルブプレ」と言うだけでは、チューリップ柄の財布は手に入らない。私のフランス語会話能力では全くお手上げだった。夫が仏語ミニ辞典を片手に店の人に聞いてくれたが、チューリップ柄の財布は在庫がなく、同じタイプのもので、紫色のハートのものを買ってもらった。私はフランス旅行の間、このオレンジ色の財布にフランを入れて使った。日本に戻った今は、クリーニングの引換券や色々なお店のポイントカードを入れている。
それから、フランスのカフェに初めて足を踏み入れたのもこの町だった。日本でもこの頃はオープンカフェは珍しくなくなってきているが、フランスではドアのあるカフェを探す方が難しい。お客の入り具合、お店の雰囲気、ギャルソンなどを見て、カフェを決めた。カウンターとテーブルがあり、カウンターには洋酒の瓶がずらりと並べてあった。私達は入り口から2つめぐらいのテーブル席の壁側に隣り合わせて座った。私達はエスプレッソを2つ注文した。1杯7フランだった。小さなテーブルを一つ挟んで革ジャンのお兄さんが店の奥の天井からぶら下がっているテレビに見入っていた。テレビはミュージックビデオを流していた。私は知っているミュージシャンがテレビに映ると、その名前を声に出した。すると、革ジャンのお兄さんは私達に微笑みかけ、同じミュージシャンの名前を口にし、その曲を口ずさんだ。知っているミュージシャンを見つける度に楽しくなった。特にボブ・マーリーが私達を喜ばせた。私は単純に彼はミュージシャンではないかと考えた。何故なら、テレビから流れる曲をずっと口ずさんでいたからである。
夕食のレストランはホテルを出てしばらく歩いたところにあった。店内の壁には鮮やかな花柄の絵皿が幾つも飾られてあった。よく見ると、その全ての絵皿は、どれも似ているようで一つ一つ微妙に違っていた。店内を見渡すだけで楽しかった。この夕食は私達夫婦にとって大変思い出深いものになった。ツアーの添乗員が私達のハネムーンの為に思考を凝らしてくれた。同じツアーの皆さんで長い大きなテーブルを囲んだ。レストランのマダムも私達の結婚を祝ってくれた。料理も美味しかった。デザートにブロンドの短い髪をツンと立たせたギャルソンが運んできたケーキには花火が踊っていた。また、ホテルのチェックイン時に荷物運びをツアー客の皆さんが手伝ったお詫びもかねて、ワインが振舞われた。テーブルにはにこやかな笑顔が広がり、暖かい拍手が湧いた。つい数日前の結婚式が思い出された。ツアー客の皆さんが私達の結婚を心から祝福してくれて、まるで子供の頃からお世話になった親戚縁者のようにさえ思えた。すっかり気分の良くなった夫はビールを、私はワインをよく飲んだ。宴が終わり、レストランを出るときには、披露宴会場の出口さながらに、私達夫婦にお一人ずつ言葉をかけてくれ、私は感動と感謝で胸がいっぱいになった。また、私達がお店を出る時にレストランのマダムからケーキをプレゼントされた。ほろ酔い加減でホテルに帰り、部屋のドアを開けるとすぐに二人ともベッドに朝まで沈んだ。
翌朝の出発時間は早かった。バッゲージアウト6:30、7:30出発。ニームからアルディーシュ渓谷に向かう。空は晴れ渡り、私はそびえたつ山々の緑に目を奪われた。青緑色の川では、カヌーをする人、水遊びをする子供たちが南仏のバカンスを実感させてくれた。絶壁の道‘オート・コルニッシュ’や天然岩の巨大アーチ‘ポン・ダルク’の景色は絶景だったが、カーブの多い山道で大型バスを運転するチェリーさんは大変そうだった。また、ガイドブックにもなかなか載っていない南仏観光の穴場中の穴場、マドレーヌ鍾乳洞にも案内された。私は鍾乳洞の中はやや寒いのではないかと思い、ウインドブレーカーを羽織ってバスを降りた。鍾乳洞というと、小学生の頃バス遠足でよく行った山口県の秋芳洞を思いおこさせた。女性スタッフの説明を聞きながら、鍾乳洞の奥深くに入っていく。最小限の足元の灯りと手すりを頼りに、時々頭を低くして前に進んだ。狭い階段を降りると、小さな踊り場があった。踊り場を幾つか降りて、最後にライトを消して、ほんの数分間音楽が流された。鍾乳洞の自然のスピーカーが私達を不思議な世界へ誘った。音楽が止まると、小さなライトによって、数種類のオレンジ色に岩肌が照らされていた。想像を絶する歳月の果ての幻想的な世界は、地球の体内に足を踏み入れたかのようだった。
カーブの多い山道のために、バスは何度も大きくハンドルを回しながらオランジュへと走った。オランジュでは前日のガイドさんと合流して古代劇場を案内された。その時代はローマにまで遡る。私の中では歴史の教科書上の人物に過ぎなかったアウグスツス帝の像が頭上にそびえ立っていた。劇場の観客席の最上段まで上がってみるとオランジュの町並みが一望できた。私はサングラスを外して深呼吸をした。オランジュの街中には近代的な建物は見られず、劇場ほどではないにしても古い建物ばかりだった。いつまでも残しておきたい風景だった。頑丈な石壁でできた回廊はどこまでも広く、幼少時代に戻ってかくれんぼをして遊べそうだった。そそっかしい性格の私は「形あるものはいつかは壊れるもの」という言葉を座右の銘にしているが、この広い地球には人間の造ったものでその言葉が間違っているものが確かにあるのだと思った。
私達はオランジュを後にしてアルルに向かった。途中、ワイン工場を見学した。私達夫婦がすっぽり入りそうな大きなワイン樽が天井まで積み上げられ、広い工場の建物いっぱいにずらりと並んでいた。ワイン工場のスタッフの説明をガイドが通訳した。そして、プロヴァンス産ワイン‘シャトー・ヌフ・デュ・パブ’の試飲をした。白、赤、ロゼを試飲した。ロゼは口当たりがよく飲みやすかったが、他は私の口には渋く、アルバムには私がワイングラスを片手に唇を窄めている写真がある。この地方は、ワインの他にアーモンドとオリーブ石鹸の産地でもあった。ワイン工場の売店でお土産にアーモンドチョコレートを1つと可愛らしい色のオリーブ石鹸を幾つか買う。
日本人の感覚ではワイン工場を出たときすでに夕刻だった。サマータイムのために黄昏はない。空は晴れてばかりいた。ブドウ畑、オリーブ畑、ひまわり畑、はるか遠くのんびりと動く牛達‥牧歌的な風景が窓の外を流れていく。朝早くからのドライブで見た景色はどれも日本では目にすることができないもので、いくら見ていても見飽きないものばかりだったが、さすがに夕方ともなるとバスの乗客はみんな夢の中を旅していた。私も夫の隣の席で心地よく眠った。バスのスピードが緩やかになったところで目が覚めた。私達の後ろの席で眠っていた男性も目を覚ました。そこはニームの街だった。夫は地図でバスのルートを確かめた。同行していたガイドがニームの駅でバスを降りるために高速道路をニームで降りたのだった。ガイドはツアー客に挨拶をしてバスを降りた。私達のバスはアルルのホテルに向かっていると思っていたら、目を開けると今朝早く出発したニームの街に戻ってきたことに驚いた。いつもならもうとっくにホテルにチェックインしている時間であったし、今日は特にみんな長時間のバス旅行で疲れていた。まず、私達のすぐ後ろの席の男性が声を上げた。「一人のガイドのためにわざわざ17名もの乗客を乗せたバスに遠回りをさせた。」という言い分である。もし、バスが高速道路を下りた所ですぐにそのことが分かっていたら、その場で直接ガイドに訴えていただろう。日本国内のバスツアーではガイドの都合でバスがコースを変えるということは非常識だろう。バスガイドがバスを降りてしまった後なので、矛先はガイドを派遣している現地の旅行会社にまで及んだ。ガイドと現地旅行会社に翌朝の謝罪を要求した。一番憤っていた男性とツアー客に添乗員が代わりに深く謝罪した。が、これまでのサービスでの好印象によって、誰も添乗員やバスの運転手のチェリーさんに対しては不信感を抱かなかった。むしろこのトラブルを同情した。
ニームから1時間近くを要してアルルに着いた。MERCURE ARLES CAMARGUホテルは高速道路を下りてすぐのところにあった。日本のどこにでもあるような建物だった。このフランス旅行では6ヶ所のホテルに泊まった。3つ星もあれば4つ星もあったが、それぞれ良い所もあれば、その逆もあった。夕食はホテルのレストランで8:15からだった。ふと、腰掛けた椅子を見るとパイプ椅子であることに気づいた。模様一つない白いテーブルクロスを見ても、ホテルのレストランというよりは会議室のようだと思った。夕食のテーブルでもバスの中でのトラブルが話題になった。添乗員は私達の夕食の飲み物を注文した後もなかなか食事のテーブルに着けずにいた。現地旅行会社の人との打ち合わせに忙しいようだった。みんな疲れが表情に表れていた。中には食事をせずに部屋に戻るご夫婦もいらっしゃった。夫はというと、いよいよ自分が本当に行きたかった町に近づいていることに心を弾ませていた。次の日はアヴィニヨンからサンレミ・ド・プロヴァンスを周る予定だったが、夫はツアーから外れて学生時代に歩いた町を自由に歩きたがった。長いバス旅行の中で、乗り物酔いの薬を飲んで眠くて仕様がない私に南仏の地図をしきりに見せたがった。夕食後、添乗員に翌日の希望を申し出ると快諾してくれた。翌日も同じホテルに泊まる予定だったので朝を気にせずに済んだ。次の朝ホテルが変わる場合はせっかく洗濯したものが乾かなかった時のことを考えると洗濯を躊躇する。私は部屋に入るとすぐに洗濯をした。また、デジタルビデオカメラの充電をセットするのは私の役割だった。夫はノートパソコンを電話回線に接続しインターネットやメールチェックをした。
6日目の一番目の目的地はアヴィニヨンの法王庁宮殿だった。アヴィニヨンに到着後、新しいバスガイドと合流した。当初の予定では4日目から6日目まで同じガイドの予定だったが、急遽ガイドを変更したようだった。最初は妥当な選択と思えたが、後になって素晴らしい選択だったと感じた。新しいガイドさんはマリーさんといって、流暢に日本語を話すフランス人の中年女性だった。彼女は朗らかで、ユーモアのセンスもあり、私達を上手に笑わせた。また、ベテランのガイドさんらしく、その名所の説明も詳しくしてくれるだけでなく、土産物を買う時間にも気遣ってくれ、このツアーのガイドの中で最も日本人が喜ぶツボを知っているようだった。
私達はバスを降りて、マリーさんの後ろを歩いた。夫はポロシャツに半ズボン、私はノースリーブのTシャツとやはり半ズボン、この出で立ちをもってしても、南仏の太陽には敵わない。法王庁は恐ろしいほど大きく、広かった。マリーさんは法王の歴史、当時の法王の暮らしぶり、主な部屋の壁画や彫刻などの説明を聞きながらゆっくりと石の廊下を歩いた。残念ながら、アルバムにもプロヴァンスのガイドブックにも載っていないのだが、フランスで見て歩いた大きな教会は屋根の一番高いところに必ず金色のマリア像が建っていた。多分、マリア像が高すぎてうまくファインダーに収まらなかったのだろう。初めて金色のマリア像を見た時は、少し違和感を感じたが、巡礼していくうちに南仏ならではの土壌を感じた。
この法王庁の近くでショッピングの時間を得た。夫は日本語のプロバンスのガイドブックを買った。私達はそろそろ新婚旅行の土産物を気にしなければならなかった。この地方の土産物で有名なものは、独特の美しい柄の布製品、ラベンダー等のハーブを加工したもの、オリーブ石鹸、蝉をモチーフにした置物、それからサントン人形である。私は安いオリーブ石鹸と絵葉書を数枚買った。夫はサントン人形を求めた。土産物店に足を踏み入れるやいなや、サントン人形が並べられた棚に一直線に歩み寄った。鎌を手にした農夫や収穫物を抱えた農婦もあれば、聖母マリア、聖ヨセフ、そして、生まれたばかりのイエス、子羊、羊飼いなどのイエス生誕のセットのものもあった。顔の表情が豊かで、身に着けている服や小物もとても精巧に作られていた。当然の事ながら、人形の大きさによって値段が上がる。近くの土産物店2〜3店回って、高さ30センチ足らずのラベンダーを抱えた老農夫婦の人形を買った。
次にサン・ベネゼ橋を歩いた。これはポン・デュ・ガールのように立派な橋ではなく、伝説のある可愛らしい橋である。橋にちなんだ歌があり、その歌によると橋の上、正確には橋の中州で町の人達が朝まで踊ったそうだ。ここでも土産物店で私は、少年が主人公の伝説が英語で書かれた絵本を買った。それから、マリーさんはラベンダー畑の向こう側にベネゼ橋を見ることができる写真スポットを案内してくれた。日本人は本当に写真好きである。マリーさんはここ以外にも、所々で写真を撮る時間をとってくれた。そして、添乗員もその時々で私達夫婦に「お撮りしましょうか」と声をかけてくれた。お陰でアルバムには二人で写っている写真が何枚もある。
この日の昼食にはムール貝をお腹いっぱい食べた。ギャルソンが実のプリッと大きいムール貝がどっさりと盛られた皿をテーブルの上に置くと、その度に感嘆の声が上がった。塩コショウの味付けに1センチ角に刻まれたセロリが入っているだけのシンプルなムール貝スープだった。それ故に食が進んだのだろう。メインデッシュに胃が重くなる印象を持っていた私も、珍しくメインデッシュをきれいにお腹にしっかりと収めた。ギャルソンがムール貝の鍋を持ってテーブルを回ると、手を上げてお替りを求める人が続出し、この時ばかりはツアーの皆さんが大食漢に見えた。もう一つ食事のことを書いておく。ツアーの食事のメインデッシュにはビーフは一切出されなかった。チキン、豚、サーモンか白身の魚や魚介類などだった。ツアー客の皆さんの中にはメインのチキンが、或いは別のものが苦手であることがあったが、このムール貝とマルセイユでのブイヤベースは例外だった。
午後、夫の念願だったサンレミ・ド・プロヴァンスに向かう。まず、マリーさんの説明のもと、レ・ザンテイックの凱旋門と記念碑を見た。私達夫婦はこの後バスには戻らなかった。ツアーから離れてサンレミ・ド・プロヴァンスの町を二人きりで散策した。添乗員は観光客を狙った置き引きや引ったくりが多いのでくれぐれも気をつける事と、何かあれば、観光案内所に行ってみるようにとアドバイスしてくれた。マリーさんの話では観光客の中にジプシーが紛れ込んでいて、子供で油断させるとのことだった。ツアーのバスが走り去った後、夫は満面の笑みを浮かべて、プロのカメラマンさながらに角度を変え、距離を変え、時間をかけてこの古い建造物の写真を撮った。私はベンチに座って待った。ツアーに参加する前から夫は私に「私をおいて行かないこと」を約束していた。夫はずっと約束を守ってくれた。夫はビデオカメラを肩にかけ、私はミネラルウオーターのペットボトルを手に持って歩きだした。
凱旋門と記念碑のすぐ近くにグラヌーム遺跡があった。古代人が現代に遺した偉大な石の街角に古代人の影を見たようだった。中でも浴場はその当時の形をほとんどそのまま保っていたのではないだろうか。案内板に当時の絵と多国語で説明が書かれていた。日本の温泉や銭湯の湯船ぐらいの大きさだが、少し違うのは深さだった。飛び込んで水遊びをする姿を想像した。または、現在と同じように寝転がって日光浴を楽しんだかもしれない。私は遺跡の浴場を見てプールをイメージした。
そこから20分くらい歩いたところに、ゴッホが晩年を過ごした精神病院があった修道院がある。今は修道院付属の教会と小さな美術館を見学することができる。夫は白い道を選んで歩いた。私はその後ろをついて行った。互いに甘えたり、はしゃいだり、笑ったり、水を分け合って飲んだりしながら二人で歩いた。修道院付属の教会は古い小さな教会だった。もう使用されていないのだろうかと思いながら足を踏み入れる。聖堂入り口の掲示板には、まだ新しそうなお知らせの紙が貼ってあった。また、聖水もあった。庭には真夏の野花が咲き、旅人の目をさらう。晩年のゴッホが愛用していた道具や小物、繊細で柔らかなタッチの絵を見て回る。白い窓枠から見た景色は、ゴッホの瞳に映ったものと変わっていないと思う。白い壁の小さな部屋の真ん中に横になった人がすっぽりと入るものが置いてあった。私はそれを見て棺桶を想像して恐怖に慄いた。夫はバスタブだと言った。しかし、それは雑誌で見たことのある洋風のバスタブとは違う、今まで私の見たことのないものだった。ゴッホの晩年に多くの疑問が湧いた。私達は出口の傍の休憩所で腰を下ろす。ジュースやミネラルウオーターの自動販売機があった。そこには、大きなリュックを背負った若い男女の旅行者がいた。日本の自動販売機はコインを入れてボタンを押せば欲しいものが出てくる。それが常識であるが、国が違えばそうではない。お釣りが出ないかもしれないし、代金を払ったのに、商品が出ないかもしれない。運良く、冷たい水で喉を潤すことができた。
住宅街はどこの町でも同じような家が並んでいて、迷子になりやすい。サンレミ・ド・プロヴァンスの街も例外ではなかった。昔と変わらない趣のある町並みだが、大きな通りから一つ筋を入ると、京都や奈良の碁盤の町とは大違いで、実に入りくんでいる。まるで迷路に迷い込んだようだった。夫はノストラダムスの生家とその泉を探していた。町の教会はすぐに見つけることができて、そのそばにある筈なのになかなか辿り着けなかった。私達は再度大通りに出る。そこで、お酒やビーンズと一緒にサントン人形を売っているお店を見つけた。立派な顎鬚を生やし、片手に羽ペンを持った学者風のサントン人形を見つけた。「ノストラダムス?」夫は半信半疑でその人形を見つめた。サントン人形は一つ一つが手作りであるために同じモデルでも顔や服装が微妙に違う。エプロンをした小太りのお兄さんに尋ねると、首を大きく縦に振った。途端に夫はその人形を買う気になった。大喜びでカードを取り出す様を見て、陽気なお店のお兄さんはそのジェスチャーを真似てみせて、私を喜ばせてくれた。人形を日本に持って帰るという夫の願い通り、ノストラダムスのサントン人形である証明書と共に丁寧に箱詰めしてもらった。
夫は宝物を手に、ビデオのバッグを肩にかけて、よく似た建物が並ぶ通りを歩いた。どれくらい歩いたか覚えていない。ノストラダムスの生家のすぐ近くまで来ていることは確かなのになかなか見つからなかった。夫は地図とガイドブックを見ながら、まだ歩いていない通りを探す。私はただついて行く。私達がノストラダムスの泉を見つけたのは突然だった。夫は車1台通るのがやっとの通りを右往左往しながらビデオを回し、シャッターを何度も押した。石のノストラダムスの胸像の下の鯱の口から水が流れ落ち、泉のほとりには苔が分厚く育っていた。生家の外観は決して美しいものではない。扉や2階の窓もペンキがはがれて傷んでいる。しかし、建物は確かに現存している。日本の家屋で100年も前のものが現存していれば、それは記念物である。日本以外の国では、壊して新しくするのではなく、中古住宅、古い町並みを最大限に大切にするのだろう。
私達は7月22日の目的を達成した。アルルまでタクシーで帰る事にする。私達は夕食を取るためのレストランを探すことにした。タクシー代は手持ちの現金で、夕食代はカードで払うことにした。食事を提供する店は大通りにも、路地裏にも幾つもあった。その中で飲み屋ではなくカードのステッカーが貼ってあるレストランであることと、読むことのできるメニューと安い値段を望んだ。安全と安価を併せ持つ食事と水分補給と休息が必要だった。自分でも感心するほどによく歩いた一日だった。ほとんどの食べ物屋の前のボードにはメニューと値段が表示されていたが、私達の理解できるフランス料理は限られていた。結局、私達はイタリア料理のレストランに決めた。パスタとサラダとビールを注文した。私達はビアグラスを傾け、乾杯した。隣のテーブルでも家族連れが食事を楽しんでいた。私達と同年代のパパとママと2歳くらいの女の子と男の赤ちゃんがいた。私達の未来予想図を見ている思いがした。
食事が終わり、夫はお店の人にカードでの支払いとともにタクシーを呼んでくれるように頼んだ。私をテーブルに残し、夫はカードのサインの為に店の奥に行った。お店の主人の他に若い女性が英語で夫に何か話している。どうも様子が変である。私はてっきり、お店でタクシーを呼んでもらってアルルに戻ることができると思っていた。夫がテーブルに戻ってきた。若い女性の話では、教会の前の通りに行けば、タクシーを捕まえる事が出来るかもしれないとの事だった。私達は荷物を手にレストランを出た。両肩が一段と重くなった気がした。言われたとおり教会まで行く。車は通るが、タクシーは通らない。右を見て、左を見て、前後に首を振ってもタクシーは通らない。日は暮れないが、時間が過ぎていく。どうすることも出来ず、大通りに向かって歩き出す。
私達はしばらくそこに佇んだ後、観光案内所に行って見る事にする。時間はとうに7時を過ぎていた。日曜日だった。観光案内所は閉まっていた。その隣にあった小さな警察署も閉まっていた。昼間にその前を歩いた時、前の広場で二人の警察官が子供達とペタングをして遊んでいた。私はそれを見て平和だなあと思った。二人でバスを降りる前にガイドのマリーさんや添乗員に強盗に気をつけるように忠告されていたが、この光景が私を安心させてくれた。しかし、時間が過ぎて、その広場にはもはや誰もいなくなっていた。まるで「夕焼け小焼け」の歌のように、お寺の鐘が鳴って子供たちが家路に着いた後のようだった。個人旅行でアルルのホテルにも予約をしていなければ、アルルに戻る必要はないが、ツアーであり、アルルのホテルに予約しスーツケースがあり、翌日はアルルからマルセイユを経由してエクス・アン・プロヴァンスに宿泊する予定だった。私達はその日のうちにアルルに帰らなければならなかった。観光案内所の前のベンチに腰を下ろして二人の考えをまとめた。
よく庭の手入れのしてある小さいホテルの前で、どちらが思いついたかホテルでタクシーを呼んでもらおうとそのホテルの扉を開けた。気品のある木製のフロントのカウンターには痩せ型の男性が座っていた。夫がその男性に英語でタクシーを呼んでくれるように頼む。彼は困った顔をして、私にも聞き取れる発音で「ノータクシー」と言った。私と夫は顔を見合わせた。彼は私達にホテルに泊まるか尋ねた。「ノー」と答えた。彼はタクシー会社に電話してくれた。「いい人で良かった」とホッとした。なのに、受話器を置いた彼の口から出た言葉は、やはり「ノータクシー」だった。夫は私達がツアーの参加者であり、アルルのホテルに荷物が置いてあり、そのホテルにどうしても戻らなければいけないが、タクシーがなくて困っていると英語で訴えた。彼はもう一度受話器を持ち、どこかに電話してくれた。不安半分、期待半分で彼を見つめる。一つが駄目ならまた別のところへ電話してくれて、ようやく受話器をおくと、いい知らせを聞かせてくれた。そして、タクシーがくるまで、そのホテルで待つことも許してくれた。絵画や絨毯、素晴らしい調度品のあるロビーや中庭を案内してくれた。タクシーが来るまで中庭の椅子で座っていればいい、タクシーが来たら知らせてくれると言い残して彼は庭から出て行った。つい5分前に、あんなにもハラハラしたことが嘘のようだった。私達は白い椅子にどっしりと腰を下ろして、ホッと大きな息を吐いた。そして、タクシーに電話してくれた彼に何度も礼を言った。それから30分位して1台のタクシーが来た。
私達は喜び勇んでタクシーに乗り込んだ。そのタクシーには中年の運転手の隣に小学生の男の子が乗っていた。夫は運転手に今朝アルルのホテルでもらったホテルカードを見せて、車がアルルに向かって動き出した。前の席の親子はとても明るい親子で、おしゃべりで私達を楽しませてくれた。お父さんは英語が分からないようだったが、少年とは片言の英語で会話ができた。この親子はスペイン人だった。親子で会話する時にはスペイン語を使っていた。私達が日本人だと分かると、少年は「フットボール!」と大喜びした。私は疲れきった脳細胞でスペイン語の「ありがとう」必死になって思い出した。そして、「ムーチョ グラシャス!」と叫んだ。フランス語も挨拶程度しかできず、英語にも自信のない私は、このたった一言を覚えていて良かった、教えてもらっていて本当に良かったと思った。外国の現地の人、しかも自分がとても困った状況を助けてくれた人と、ほんの一言でもコミュニケーションを自分からとる事ができて嬉しく思った。また、この少年のお陰で私達のアルルの発音が間違っていることに気づいた。私達はARLESをカタカナで「アルル」と発音していた。しかし、この親子には通じていなかった。少年の話の中にでてくるARLESは全く違う。仏語のRをきれいに発音していた。夫は少年の口を真似てARLESの発音を覚えた。アルルの街に近づいてきて、運転手のお父さんはホテルカードの電話番号からホテルに電話をし、ホテルの人に道を教えてもらった。次第に、車窓が見覚えのある景色となっていく程に私の喜びは増していった。そして、私達は無事にホテルに帰ることができた。車を降りて、トランクの荷物を下ろしてもらった後、運転手のお父さんと少年一人ずつに握手をして、御礼を言った。「旅の恥はかき捨て」という。また、旅にハプニングも付き物だろう。もし、この1台のタクシーが現れなかったら・・・と想像すると、どうしていただろうか。「電波少年」の海外ロケのヒッチハイクには、テレビ画面の裏側に危険が沢山隠されていると思っている。サンレミ・ド・プロヴァンスのホテルでタクシーを呼んでくれた人、タクシーの親子に心から感謝である。
ツアー7日目、アルル郊外のホテルを8:00に出発する。朝食時にツアー客と合流し、前日の午後について会話した。ツアーの予定ではプロヴァンス地方をバスでまわって、アルルに戻り、夕食は自由行動だった。ホテルが街中から少し離れていたために、街までタクシーで出るしか方法がなかったのだが、アルルの街でもタクシーが少なくて困ったそうだった。日本の観光地では駅や大通りにタクシーが客待ちをしているものである。アルルの街には素晴らしい名所旧跡がたくさんあり、日本人の目から見れば立派な観光地である。タクシーの少ない街で、何故、郊外のホテルに泊まっている時に夕食が自由行動なのかとツアーへの不満を漏らす人も見られたが、考えてみると、バスツアーではタクシーに乗る機会はまずない。タクシーだけではなく、飛行機とツアーのバス以外の他の交通手段を利用しない。私達はサンレミ・ド・プロヴァンスの半日と8日目の自由行動のために、カルカッソンヌやエクス・アン・プロヴァンスの駅で時刻表を見て、電車での移動をあっさりと断念しなければならないほど電車の本数は少ないものだった。ガイドブックを見ているだけでは分からないことは多い。それが分かったこと、不便さを体験できたことは悪いことばかりではなかったと思っている。
朝食後、マリーさんの案内でアルルの街を歩いた。円形闘技場、古代劇場、サン・トロフィーム教会、エスパース・ヴァン・ゴッホを見学した。午前中はゴッホゆかりの街だけに、ゴッホづくしという感じだった。土産物店の店先には必ずゴッホの絵ハガキが何種類も飾られていた。市庁舎の前を通り、ゴッホが毎晩通ったというカフェの前で写真を撮る。エスパース・ヴァン・ゴッホではガイドブックに掲載されている写真と同じ中庭でシャッターを押す。オレンジや黄色のマリーゴールドや真っ赤なサルビアなど日本の公園で良く見かける小花が咲き並んでいた。また、跳ね橋にも行く。ここでは韓国人のバスツアーも見学していた。跳ね橋は決して大きなものではない。その川は日本の山間の川となんら変わらない。ゴッホの絵の主人公から抜け出たようなおじさんが釣りをしていた。私は恐る恐る川を覗こうと近づくと、そのおじさんは不意に釣り竿を振り回した。私は声を上げてその場にしゃがんだ。おじさんも私も顔を見て笑った。ゴッホの絵というと、ひまわり畑も有名である。跳ね橋の近くのひまわり畑の一番美しいところでバスを停めて、写真を撮りあった。濁りをしらない黄色の大輪は全ての人に微笑を恵んでくれる。
マリーさんはガイドの合間に、前日の午後ツアーから離れた私達を心配してその後の出来事を私に聞いてきた。私はグラヌーム遺跡、ゴッホゆかりの修道院に行ったこと、サントン人形を買ったこと、ノストラダムスの泉、生家にも行ったこと、帰りはタクシーがなく、観光案内所も警察も閉まっていて困ったが、ホテルのフロントの人にタクシーに電話してもらって、何とか暗くなるまでにタクシーでアルルまで帰ることができたことを正直に話した。マリーさんもツアーの添乗員も私達のことを気にかけていてくれたが、二人きりの時間を楽しんだことと、無事だったことで、安心したようだった。或いは、夫にプロヴァンスを旅行した経験があったので、心配はあまりしていなかったかもしれない。
ゴッホを十分に堪能した後は自然の美しいカマルグへ行く。動物の保護地区で、野生の馬、鴨、ピンクフラミンゴ、鷺などを見ることができた。途中バスを降りて、双眼鏡を覗いて湿原の中の動物を探す。バス運転手のチェリーさんがビデオ録画をしながら、夫に遠くを指差して何かを話した。指の向こうに双眼鏡を向けると白い鳥が小さく見えた。このツアーではガイドブックそのままに観光客で溢れているところにも案内されたが、5日目のマドレーヌ鍾乳洞やこのカマルグのように自然の美しいところにも案内してもらうと、旅行の疲れが癒されるようだった。
この日の昼食は楽しみにしていたブイヤベースだった。ブイヤベースのためだけにマルセイユまで行く。カマルグからマルセイユまでの道で面白い体験をした。湖だったのか、大きな川だったのか、今となっては覚えていないが、バスを降りることなく向こう岸に渡ったのである。バスの窓からバスが動かずに外の景色が動く光景を見ていると不思議だった。他のツアー客もみんな窓の外を覗き込んで驚きの声を上げた。
マルセイユに着くと、ポールを立てたヨットがずらりと停泊する港を横切ってレストランに直行する。青い海に浮かぶヨットの群れや色鮮やかさを競い合うかのように咲いている花壇の花々は正しく夏のプロヴァンスを象徴しているようで、もっともっと見ていたかった。ただ通り過ぎてしまうのはもったいないので、いつまでも保存しておきたく、歩きながらビデオやカメラに収めた。港町マルセイユならではのブイヤベースは、身の大きな魚介類がスープからしっかりと顔を出している。ギャルソンの手の皿が自分の目の前に着地すると、顔が緩む。一口、二口とスプーンを口に運んでいくうちに、スープ皿の底が見えてしまうのが惜しいほどに美味しかった。普段の生活ではなかなか口にすることの出来ない味である。
食事後、一路エクス・アン・プロヴァンスに向かった。セザンヌのアトリエは少し小高いところにあった。バスを降りてサント・ヴィクトワール山を見ながら歩いた。セザンヌにしてもロートレックもゴッホも素晴らしい芸術作品を後世に残しながらも、その生涯を知ることは容易ではないのかもしれないと思う。年月、世紀をこえて変わることのない南仏の自然が彼らを魅了し、癒し、生きることを急がせたのかもしれない。ミラボー通り、市庁舎広場など旧市街地をゆっくりと歩いた。エクス・アン・プロヴァンスはセザンヌでも有名であるが、学生の街でもある。私達夫婦は夕食までの1時間、街にでかけた。地図を見ながら歩くが、ホテルを出て反対に歩き出してしまったようで迷ってしまった。私は女子大生風の二人に道を尋ねた。一般の南仏の街の人はフランス語しか話すことができないが、学生は英語を上手に話す。学生であるか否かに関わらず、日本人は母国語しか話すことの出来ない人がほとんどである。日本の観光地で外国人が道を尋ねられて、ちゃんと応対する日本人は珍しいのではないだろうか。南仏はフランス人がバカンスに訪れるだけでなく、欧米、アフリカ、アジアの人も観光旅行をする。私は英語も片言なら仏語も挨拶程度しかできないが、もっと話すことが出来れば楽しみも増えるだろうと思った。
ツアー8日目は朝食後から終日自由行動だった。私達夫婦は同じツアーのほとんどの人が参加したオプショナルツアー、リュベロン半日観光には参加せず、二人きりでサロン・ド・プロヴァンスに出かけた。エクス・アン・プロヴァンスで宿泊したホテルはアルルの郊外のホテルとは全く違い、市街地の中心部にあり、都会的なホテルだった。朝食後、ホテルのフロントでタクシーを呼んでもらい、サロン・ド・プロヴァンスまでタクシーで直行した。この日も一日いい天気で、夫の後ろを歩きながら、私は「暑い」と弱音を吐き、少し歩くたびに木陰のベンチに腰を下ろした。時計塔の門をくぐってノストラダムス記念館に行く。夫はまっすぐに歩かない。ノストラダムスの壁画や像を画像に永久保存しようと頑張る。私はベンチに座って、のんびりと休んで待つ。ノストラダムス記念館でも夫のペースに合わせる。夫は生き生きとしていた。この旅行で、夫にとって最も楽しみにしていた日だったと思う。記念館でもサントン人形を2つ、その他沢山の買い物をした。もうひとつ、このサロン・ド・プロヴァンスで夫がどうしても行きたがった場所があった。それは、個人的に自宅のガレージを改造してノストラダムスの関連グッズを展示している画家のシェイネさんの家である。シェイネさんの顔写真と自宅前の写真が掲載された雑誌をもとにシェイネさんの家を探す。元にしている地図が詳細ではなく簡略したものだったために、私達は何度も同じ通りを歩いては引き返した。羨ましいことに、フランス人は昼休みをたっぷりと2時間取る。折角、観光案内所に行くが、昼休みで閉まっている。だらだらと、待っていては時間がもったいない。仕方なくおまわりさんに道を尋ねる。しかし、返ってきた答えの通り歩いていくと、ノストラダムス記念館とシェイネさんの私設博物館を勘違いしているようだった。昼食はカフェでサンドイッチを食べた。そのサンドイッチは食パンを薄くスライスしたパンではなく、バケットのようなパンを半分に割って、トマトやレタスやチキンをはさんだ物がアルミホイルにまかれて出てきた。しっかりと噛んで食べるが、いくらほおばって食べてもなくらなかった。私は結局、それを3分の1残して、アルミホイルに包んでリュックに入れた。食後、ノストラダムス記念館の近くのエンペリ城に行ってみることにする。石段を上がってみると、残念なことに休館日だった。どうすることも出来ず、その石段で写真を撮る。それから、ノストラダムスの墓があるというサン・ローラン教会まで足を伸ばしたが、ここでは、お葬式の最中だった。夫は教会の中に入ってみたかったようだが、諦める。私達はシェイネさんの家を探すためにノストラダムス記念館にもう一度行き、地図をみせて教えてもらった。シェイネさんの地図の他にもう一つアドバイスしてもらったことがある。「今日、博物館が開いているかどうか分からない。」ということだった。
夫はシェイネさんの博物館をなかなか見つけることができなくて少ししょんぼりしていた。私は記念館で人形や本などの買い物をして両肩に荷物をかけている夫の後ろではなく、夫の前を歩くようにした。シェイネさんの家にようやく辿り着いたときは3時過ぎぐらいだった。そこでまた気づいた重大なこと、それは博物館の開館が4時からということだった。私達はひたすら待った。ガラス戸から中を覗くと、シェイネさんの絵らしきものがあった。ぼんやりとした淡いやさしいラインの絵が額縁に入っていた。また、ガラス戸にはシェイネさんが掲載された新聞の切り抜きなどが張ってあった。夫はカメラとビデオを撮り続けた。でも、4時まで待っていてもシェイネさんがガラス戸を開けてくれるかどうかわからない。雑誌に掲載されたシェイネさんの写真に年月を重ねると、まぎれもなくおじいちゃんになっているはずである。時計の針が4時をさそうとしている頃、私はシェイネさんの家の呼び鈴を見つけた。シェイネさんの名前が確かにある。すると、呼び鈴の傍のドアから女性が現れた。彼女は私達がシェイネさんの家の扉が開くのを待っているのを見て、「ムッシュ シェイネ」とシェイネさんを呼んでくれた。しばらくして、シェイネさんのお店のガラス戸が開いた。現れたのは、肩まで白髪を伸ばしたおじいちゃんだった。背も私と変わらず、可愛らしい印象を持った。私は思わず、やっとの思いで会うことの出来たシェイネさんに握手を求めた。シェイネさんは私達一人一人に握手をし、暖かく迎え入れた。シェイネさんは自分の顔と私設ノストラダムス博物館の写真が掲載された雑誌を見せると、とても喜んでくれた。私にはシェイネさんの言葉が分からないし、シェイネさんには日本語が分からないが、お互いの笑顔で喜びを伝えることができた。夫に言わせると、シェイネさんの仏語には少し訛りがあるそうだ。ノストラダムスのことを熱く語るシェイネさんは、本当に楽しそうで顔をクシャクシャにした。喋り捲るシェイネさんに対して、私は所々なんとなく単語が理解できるかどうかといった感じで、ただ傍で頷いて微笑んでいた。私達はシェイネさんと写真を撮った。シェイネさんは写真を送って欲しいと「フォト・・・」と言っていた。来館者ノートに署名をした。シェイネさんとの出会いは夫だけでなく、私にとっても楽しい思い出になった。
サンレミ・ド・プロヴァンスとは違って、サロン・ド・プロヴァンスではタクシーが客待ちをしていた。私達は大通りでタクシーに乗って、エクス・アン・プロヴァンスのホテルまで戻った。終日自由行動だったので、夕食も各自で取らなければならなかった。お昼のサンドイッチがまだお腹に残っている感じで、あまり空腹感を覚えていなかった。私達は買い物に街に出た。スーパーでミネラルウオーターを買った。私達はコンビニのようなお店を探したかったが、日本と違ってさっぱりとない。歩き回って、中華の総菜屋を見つけた。焼きソバのようなものを買った。想像していたよりは意外と美味しかったと思う。
フランス旅行9日目、エクス・アン・プロヴァンスからコート・ダジュールへと向かう。この日からニースでの3日間の現地ガイドは若い日本人女性だった。まず、ピカソ美術館に案内された。それから、コート・ダジュール美術館カードを使って、ルノワール美術館にも入った。ニースでのホテルも大きなホテルで、屋上にはプールがあった。この夕食でバスの運転手のチェリーさんとお別れだった。夕食の最後にチェリーさんはツアーのみんなに挨拶をした。誰もがチェリーさんに暖かい拍手を送った。言葉は片言しか通じないが、ホスピタリテーは私達の心に届いていた。また、ニースの次にパリに行く予定の私達に、夜9時以降はシャンゼリゼ通りや凱旋門のあたりは危ないから歩かないこと、くれぐれも強盗に気をつけるようにと忠告してくれた。
翌日の10日目も終日自由行動で、ニースを二人でのんびりと過ごした。朝も朝食をゆっくりととり、サントン人形を持って郵便局に行った。日本の自宅に航空便で送るためである。最初にアヴィニヨンで買った農夫婦のものをあわせると、サントン人形は全部で5体になっていた。スーツケースに収まりきらず、飛行機に手荷物で持ち込んでも破損してはいけないので、高くついてしまうが航空便で送ることにした。郵便局員が「たか〜い」と何度も言っていた。
郵便局を出ると私のガイドブックをもとに歩いた。私の足が向いたところにノートルダム教会があった。偶然にもミサに参列することが出来た。この旅行でいくつも教会を巡ったが、実際にミサに授かることはできなかった。このニースの教会では運良く、ご聖体拝領もできた。ほんの短い時間であるが、心を静かにすることが出来た。言葉は分からなくても、安らぎを覚える教会だった。
私は海沿いの道を歩きたかった。マセナ広場を通る。高く水しぶきを上げる噴水とバラの棚、夏を彩る花壇の花が美しかった。観光客がベンチで寛ぎ、街人が語らう公園だった。公園を過ぎると海が見えてくる。「プロムナード・デザングレ」は海岸に沿った散歩道だ。白い海岸には水着姿、或いはトップレスで日光浴を楽しむ人達で溢れていた。波の向こうにはウインドサーフィンや水上スキーなどマリンスポーツ、夏のバカンスを象徴する光景が心を開放してくれる。散歩道を東に歩き続けると、お城があり、展望台があった。もう、お昼近くなっていた。燦燦と太陽が照らす下、展望台に上がってみようと私達は手をつないで歩いた。坂を上っていくと、ニースの街を見下ろし、遠くまで見渡す。坂道の途中で赤ちゃんを抱いたお母さんと一緒になった。赤ちゃんを抱っこして展望台まで上がるなんて、何も抱っこしていなくても息を切らしている私にはとても真似できないと思った。ニースの街を上から見た景色は美しい。家々の壁や屋根の色が整っていて、奇抜な建物は一つもなかった。展望台の公園には売店があった。私達はアイスクリームを食べた。フランスにはどの街にもアイスクリーム店があった。甘すぎず、ちゃんと果汁が入ったアイスクリームが大好きだった。その公園には小さなゴーカートがあった。3人ぐらいの子供たちがハンドルを右に左にグルグル回して遊んでいた。見ていると、いくら遊んでも飽きることがないようだった。
私達はホテルに戻って、水着に着替え、屋上のプールに行った。プールからもニースの街並みが一望できた。プールサイドには日光浴をする人達が寝転がっていた。中には、トップレスの人もいた。私達はジャグジーに入ることにした。泡に体を打たせながら、ニースの街を見下ろすと俄かにリッチな気分になった。みんなプールで水遊びはあまりしないようで、プールに入っても1往復もすればすぐに水から上がって、また日光浴をしていた。プールの中に入ってみる。そのプールははしごのあるところで深さ130センチぐらい、端の一番深いところで150センチもあり、背の低い私は端でプールサイドに捕まらなくてはならない。私は最初にプールの壁を思いっきり足で蹴ってクロールで端まで泳いだ。すると、水着のファスナーが下がってしまうという大事件が発生してしまった。一緒にプールで泳いでいたブロンドのピンクのビキニのおねえさんは、私達がキャキャと慌てていることが不思議そうだった。プールには私達夫婦の他に1組の日本人家族がいた。6歳の女の子と男の子の赤ちゃんがいた。また奥さんは妊娠している。プールから上がって、同じツアー以外の日本人に久しぶりにあったことと、丁度私達と同世代のご夫婦だったこともあり、少し世間話をする。そのご家族はパリに住んでいて、ニースにはバカンスで来たとのこと、私達は新婚旅行でフランスに来ていることなどを話す。そのご夫婦の新婚旅行もヨーロッパのツアーだったが、荷物回収が朝早くてかなりスケジュールがハードで大変だったそうだ。それに比べると、私達の場合、新婚旅行のツアーではなく、フランスのみのツアーで移動もバスがメインなので旅行の行程がゆったりとしていたと思う。また、ニースでは中華料理がお勧めとのことだった。この日の夕食は二人で市街地に出て中華料理を食べた。
11日目でツアーの皆さんとはお別れである。ニースの空港までバスで一緒に行く。そこから私達はパリのオルリー空港に飛ぶ。他のツアーの人達はアムステルダム経由の飛行機で帰国の途に着く。ニース空港に着いたところで、11日間一緒にフランス旅行を楽しんだ人生の大先輩達に幾度も頭を下げ、「お幸せに」「お元気で」と言葉を掛け合い、お別れをした。ニース空港のターミナルビルまでピカソ美術館を案内してくれたガイドさんが同行してくれた。パリでの2日間の一番の楽しみはディズニーランドだと話すと、ユーロディズニーが出来たばかりの頃は、子供向けのアトラクションばかりだったが、次第に大人向けのアトラクションが増えているとのことだった。遺跡も美術館もたっぷりと見て回った。私は何も考えずに童心に戻って遊びたかった。
ニースからパリのオルリー空港まではエールフランスに乗った。もう添乗員もガイドさんもいない。二人きりになった。搭乗手続きも自分達でする。私は夫に従い、ついて行く。機内持ち込みの手荷物の検査は、フライト時間にまだ余裕があったためかガラガラに空いていた。私は前の人の真似をしてリュックやビデオカメラのバッグをベルトコンベアに載せる。次から次へと荷物を載せて、検査があまりにも素早いのに驚いた。エールフランスは番号順にゲートに入ることになるが、立ったまま長時間待たされた記憶がある。ニースからパリまで1時間のフライトだった。アムステルダムからツールーズまでのオランダ航空の飛行機と同じくらいの大きさの飛行機だった。オランダ航空の飛行機の男性乗務員の救命用具の説明はテキパキと鮮やかでショータイムのようだったが、エールフランスの女性乗務員の場合、指先の動きがしなやかで、二つの飛行機会社はとても対照的に思えた。
オルリー空港からバスに乗って、パリ市内のホテルまで行く。オルリー空港からバスが分刻みでパリ市内やドゴール空港を巡回していた。モンパルナスのバス停でバスを降りる。ポーターにホテル名を告げて場所を教えてもらう。振り返ってその大きさに驚いた。ホテル情報は旅行会社から箇条書きでもらっていたが、私達の想像していたものを超えた近代的なホテルだった。ホテルの玄関を入ると、カウンターが幾つもあって、どれがチェックインのカウンターか迷うほどだった。チェックイン時に立て替え金として1000フラン払わなければならなかった。チェックアウト時にミニバーや電話代などの料金を差し引いて返してくれるとのことだった。しかし、現金で1000フランは大金である。1000フランを差し出すと手持ちの現金が寂しくなる。パリで過ごすのは2日間のみであることを考えると、フランスフランに両替して、使いきれずにフランを余らしてしまうのも勿体無い。再度フロントでディズニーランドの予約をしようとすると、カードではなく、現金で払わなければならなかった。それで、チェックインで払ったお金を返金してもらい、立て替え金をカードで払って、ディズニーランドの予約を入れてもらった。私は初めてパリで地下鉄に乗った。日本では地下鉄は乗り慣れた公共の交通機関であるし、東京や大阪の繁華街の人込みを考えれば、人の多さも驚くほどのことはない。しかし、そこはパリ、肌の色も髪の色もファッションも千差万別なら、言葉も私の分からない音が飛び交う。南仏の田園風景は日本の田舎に通じるところがあったが、パリは東京や大阪とは違った。やはり私には遠い異国だったのである。
地下鉄の一日乗車券を買って、まずはノートルダム寺院に行く。アルルのサン・トロフィーム教会やアヴィニヨンの法王庁宮殿など、荘厳、巨大を極めた聖堂を見学したことがあったが、パリのノートルダム寺院が最も観光客が多かった。欧米人だけでなく、韓国の団体旅行者が目立った。教会に入るために長蛇の列が出来ていることに非常に驚いた。入り口でノートルダム寺院の英語のガイドブックを買う。売店のおばさんは仏語しか話さない。私にはおばさんの言葉がよく分からない。ただ、分かったのは「静かにしなさい」と不機嫌に言ったことだった。
聖堂の中はややうす暗かった。すぐに目が慣れてきて、1歩歩けば聖人の聖像や壁画を目にする。その芸術品の多さは、溜息をする息がなくなるほどだった。また、広さはノートルダム寺院の中に4つの大聖堂がすっぽり入るぐらいだった。また、高いところにある聖像やステンドガラスを見るために、時々首を45度も仰け反らなければならなかった。聖堂の奥で司祭が聖書を朗読し、お祈りをしていた。ざっと、50人くらいの人たちが長いすに座り、或いは膝をつき、或いは立ったままお祈りをしていた。私達もしばらく椅子に座って中央の司祭の方を見る。しかし、ニースの教会でミサに授かった時ほど心を落ち着かせることは出来なかった。日本の教会の主日のミサではミサの最中に子供の泣き声や笑い声がすることがある。私はそういう子供の声を騒がしいとは思わない。聖堂の奥の部屋に中世の豪華絢爛な美術品が展示されていた。追加料金を払って、奥まで入る。それぞれの美術品には作られた年代が記されていた。聖堂とは違って、その部屋はお祈りをする場所ではなく、観光の場所といった感じで、観光客は私語もすれば、しきりにカメラのシャッターを押していた。私達のアルバムにはパリのノートルダム寺院の内部の写真はない。フィルムがなかったわけではない。祈る気持ちにもなれなかったが、かといってはしゃぐ気持ちにもなれなかった。私は疲れてきた。出口の売店で夫が絵葉書とロザリオを買ってくれた。
私達はどこに行こうかと話しながら、川沿いを歩いた。私が歩き疲れると、夫はアイスクリームを買ってくれた。見上げれば、てっぺんに金色の天使がいる塔があった。それが、バストウーユ広場だった。椅子に座ってアイスクリームを食べていると、カフェのおじさんが注文を取りに来た。どうやら、テーブルと椅子はカフェのもので、アイスクリーム屋のものではなかったようだ。私達は立ってアイスクリームを食べた。それから、地下鉄でモンパルナスに戻った。ホテルでの食事は7月28日の朝食のみで夕食は含まれていない。散歩をしながら、安くて、美味しいお店を探した。おしゃれなカフェやレストランよりも、私達が選んだのは中華だった。ニースの中華料理店でもそうだったが、フランスでは中華料理店でもカフェのように店の外にもテーブルが並べられている。私達は店の中のテーブルに座った。その店には日本語が少し分かる人がいたので注文に苦労することなく、食べたいものを注文することができた。店の外は風が強くなり、急に雨が降り出した。店の中で食事をすることにして良かったと思った。
パリ2日目は、ホテルで朝食を取る。大きなホテルだけあって、朝食のバイキングは素晴らしかった。パンもジャムも何種類もあり、フルーツヨーグルトやチーズ等の乳製品も選び放題だった。しっかりと朝食を済ませると、一日ディズニーランド・パリで遊んだ。8:30にホテルの前にワゴン車が迎えに来る。運転手は女性だった。私達が予約送迎の最後の客だった。9人乗りのワゴン車の後部座席はすでにいっぱいになっていた。私達はワゴン車の前の席に座った。時々運転手の女性と会話をした。専ら、私は聞き役で主に夫が彼女と会話した。彼女の細い指には煙草が良く似合い、黒いサングラスも巻き毛の彼女を格好よく見せた。ディズニーランドへの道はガラガラに空いていて、渋滞知らずだった。
ディズニーランド・パリは、どのアトラクションも2時間〜3時間待ちが常識の東京ディズニーランドほどは、人込みが少ないと感じた。まず、ミッキーマウスと写真を撮る列に並んだ。小さい子供から大人まで並んでいた。スタッフがミッキーマウスと家族、カップル、グループで1枚の写真を撮ってくれる。東京ディズニーランドのミッキーマウスも近くで見たことがあったが、パリ仕様のミッキーマウスなのか、私と身長が同じくらいのミニミッキーマウスだった。
その後は園内の地図を見ながら、ゆっくりと歩いてまわる。園内はパリ郊外ということを忘れてしまうほど、人種の坩堝だった。ヨーロッパ大陸は広い。フランスはアフリカにも近い。色鮮やかな民族衣装にみを包む女性が私の目を引いた。それから、私達のようにアジア人も見かけた。前夜の天気が余りよくなかったので、晴れるかどうか心配したが、その心配は不必要だった。次第に暑くなり、ジュースを買うことにした。ジュースを飲みながら、次に行くところ、絶対乗りたいアトラクション、見たいショーやパレードを話し合った。太陽が高くなってきて、気がつくと園内の人込みが増えていた。
ジュースを飲み終わると、ダンボの列に並んだ。並び始めたときには、せいぜい30分ぐらいでダンボに乗ることが出来ると思っていたら、その予想は全く外れた。私はトイレに行きたくなった。しかし、30分どころか、1時間たってもダンボが見えてこない。ようやく、ダンボが見えるところまで来ても、なかなか前に進むことが出来ない。ロープで仕切られてグニャリグニャリと折れ曲がった列の人込みをかき分けて逆送してトイレに行くよりも、ダンボに乗るまで我慢をすることを選んだ。ダンボが見えてきて、私は日本語でブツブツ不満を口にした。ダンボはどちらかというと子供向けで、並んでいる人は家族連れが多い。子供は大人よりも、どうしても乗り物の乗り降りに時間がかかる。それは仕方がない。日本の遊園地のアトラクションなら、少しでもお客さんを待たせないように配慮して、もっと要領いいのにと思った。
ダンボと違って、ほとんど待たずに乗ることが出来たのが、スペース・マウンテンだった。入り口では40分ぐらい待たなければならないと言われたのに、立ち止まることなく、どんどん前に進んだ。スペース・マウンテンの乗り方や注意などをビデオで繰り返し流しているようだったが、私達はそれを見終わらずにスペース・マウンテンに乗り込んだ。迫力満点で、これぞ、絶叫マシーンといった感じだった。スペース・マウンテンから降りた後は、しばらく休憩したくなった。ちょうど、クマのプーさんのショーを見ることができた。客席は満席になり始めていたが、運良く座ることが出来た。ところが、前の席の奥様の日傘が邪魔している。真っ白な肌に大きな瞳で美しい奥様の隣には、まるでラガーマンかフットボーラーのようながっしりしただんな様の背中があった。どうりで、その席が空いていた筈だと肯けた。私の隣の子供が首を伸ばしたりして落ち着かない様子だった。今度は夫が日本語で不満を洩らす。私の隣はアメリカ人の子供連れのお母さんだった。私は隣の女性に前が見えるかどうか話し掛けた。私には英語をすらすら話す彼女の言葉の全てを理解することは出来なかったが、彼女も前の席の女性の日傘に困っているようだった。プーさんショーがもうすぐ始まろうとしていた。私の隣のお母さんは前の席の女性に傘を閉じるように言ってくれた。それを見て、手を叩いて喜んだのは私だけでなく、私の後ろの列の人達も彼女の一言を称えた。前の席の女性はショーが始まる前に日傘を閉じてくれた。しかし、その隣のダンナの背中は小さくはならなかった。
それから、アリスの不思議の国の迷路にも入ったし、パレードも3回見た。ミッキーやドナルド、ディズニーアニメの「美女と野獣」のフロートをすぐ近くで見ることができて、ビデオにもカメラにも思い出を沢山納めることができた。ビデオで何度見ても笑ってしまうシーンがある。サーカスのパレードでピエロの格好をした男女が楽しいパフォーマンスをしている時、私達はその後ろをついて歩いた。ピエロの中で緑のアフロへアのおにいさんが何度も失敗して棒を落としていた。ディズニーランドでパフォーマンスをする人は練習をしっかりしている人ばかりだと思っていた。それが、緑のアフロヘアのおにいさんは失敗ばかりして、そのうちやる気をなくしているように見えたが、それも芸のうちなのかと思ったりして可笑しかった。東京ディズニーランドでは、このようなハプニングはまずないだろう。私達は十二分に楽しんだ後、お土産を沢山買い込んだ。ショップにはディズニーランド・パリのTシャツやバッグ、靴下、あらゆるグッズがあった。お店の中は空いていて、ゆっくりとお土産を選んだ。また、支払いの時に日本語で個別包装をお願いしたら、快くサービスしてくれた。大きなショッピングバッグを持って、朝送迎してくれた車を降りた場所に行くと、既に運転手の女性が待っていてくれた。
パリ最後の夕飯は、ホテル近くの食料品店でハムとビール等を買って済ませた。思い残すことがないほどに楽しい一日だった。いよいよ日本に帰ると思うと、私は嬉しかった。翌朝、7時前にはホテルを出る予定だったので、早めにベッドに入ったが、何故か私は一人眠れなかった。モンパルナスのホテルの窓から見たパリの夜景は東京や大阪の繁華街とは違って、ネオンが少なく、街はひっそりと静まり返っていた。昼間はあんなにも沢山の人がエネルギッシュに生きているように見えたのに、夜になって、あの沢山の人達がどこかに消えてしまったかのようで寂しく感じた。言葉も文化も、生活習慣も違うパリという都会で暮らすことは私には出来ない。故郷の文豪、森鴎外を崇めた。
7月29日(日)ホテルからタクシーでシャルル・ドゴール空港に向かう。フランス人は交通ルールに対して大らかという印象を持った。パリでもニースでも信号を守らない歩行者は多かった。信号や横断歩道のない所で、いきなり道路に飛び出して横断してしまうところは、大阪人よりも上をいっていた。また、いい車も走っているが、その逆の車も走っている。日本でも少しの凹みを修繕せずに走る車は多い。ディズニーランドの送迎のワゴン車のフロントガラスがひび割れていたのには驚いたし、ドゴール空港までのタクシーでの中でも明らかにタイヤがパンクしているトラックが大通りを普通の速度で走っていた。
KLMでアムステルダム空港に10:20到着。私達はお土産リストを見ながら、ショッピングカートいっぱいにお土産物を買った。14:40、KLMで成田空港へと飛び立つ。フライトは予定よりも少し遅れたと思う。ゲート前は乗り継ぎ客で混雑していた。ヨーロッパのハブ空港を感じさせた。日本人の高齢者の団体ツアー客、ヨーロッパ、アフリカの個人旅行者等、人で溢れていた。私達の乗った飛行機はベネズエラのスポーツ団体客が機内を賑やかしていた。ぐったりと旅の疲れを感じ、空気枕や腰当てなどを使ったが、あまり眠ることが出来なかった。離陸は予定時間よりも少し遅れたが、成田には予定通り翌朝の8:45に着いた。
2週間のハネムーンは長いと言う人が多い。このフランス旅行で、私達夫婦は様々な体験をした。素晴らしい美術、芸術品を目にすることが出来た。それは、日本では見ることができないものであったし、私が生まれて初めて目にするものも沢山あった。私達は決して、いつも同じものを見て、同じものを食べて、同じように感じたわけではなかったと思う。それぞれの五感は違うだろう。これから先も互いの五感は自由であればいいと思う。旅の恥はかき捨て。このフランス旅行でしか体験できない事があったと思う。予想外のハプニングもあったし、喧嘩もした。それは互いに分かり合おうとする過程だったと思う。人生を長い旅に喩える人がいる。結婚式を終えたばかりの夫婦が旅行する新婚旅行は、これから長い人生を共に歩む二人にとって、大きな意味があった。私は、ここに綴らなかったこの2週間に思い巡らせた心模様を忘れない。