「人はすべて死す」を読んで・・・・ボーヴォワール

 

 ボーヴォワールという人は、夜の生き物の足元を照らす月のように愛溢れる優しい女性だと思った。人を愛するということは、その人の強いところも弱いところも、口元から足の先まで無条件に愛することだと思う。私はボーヴォワールに憧れている。

 主人公は小瓶の中の液体を飲んだ為に永遠の命を得る。愛する人に出会う度に心から愛し、その愛する人の死に出会う度に死ぬことができない辛さを感じ何度も無気力になり、そして、また人を愛し、生きたいと思う。

 私はこの小説を読みながら「永遠の命」について考えずにはいられなかった。イエスさんでさえ、十字架の上で死ななければならなかったのに、人間が永遠の命を得ようとすることはなんて愚かなことだと思う。私は忙しさのためにミサには年に数回しか行かないが、これでも一応カトリック信者なわけで、ミサの中で「永遠の命を信じます。」と、言葉にして誓う。その言葉通りの「永遠の命」を欲しいとは思わない。全ての人は死ぬ。全てのものの命には限りがある。そして、すべての人の最期は誰も知らない。それは、この世で一番確かなことだ。主の召すがままに。では、ミサの中の「永遠の命」とはどういう意味なのか。

 確実に「永遠の命」を得たのは、イエスさんである。「永遠の命」を信じる事は信仰の証である。私は、イエスさんのように生きたいと思い、洗礼を受けた。それは、間違いのないことだと思ったし、今も思っている。ミサにはあまり行っていないが、悲しいことがあった時、イエスさんが聖書の中で言っていた事を考える。「永遠の命」とは何かという答はイエスさんのように生きることにあると思う。イエスさんのように、愛し、限りなく愛するのである。その愛の向こうにあるのだと思う。私はイエスさんのように生きることととは、人をいっぱいいっぱい愛することだと思っている。すべての人がイエスさんから愛されている。それは、どんな時にも、永遠にそうなのだと思う。イエスさんは目に見えないけれど、いつもそばにいてくれていると思うことは、安らぎである。それは、永遠に続くと思うのである。

 「無駄な時間」という言葉がある。しかし、人生に無駄な「時」はないと思う。無職かどうかとか、学校を中退したとか学校に行かなかったとか、そんな事とは関係なく、人生をさぼっている人など一人もいないと思う。働いていない時も、学校に行かない時も、人生にとって大切な時であると思う。そして、最後の最後まで、その死を迎えるときまで、その人なりに精一杯生きるのだと思う。たとえ、最期の時を路上や暗がりで迎えたとしてもである。