「狭き門」M・A・Gに アンドレ・ポール・ギョーム・ジード
力を尽くして狭き門より入れ ルカ伝13章24節
私はこの小説を中学か高校生の頃に一度読んだ記憶がある。今、読み返してみると、当時の私には難しすぎたのではないかと思う。何故なら、もう一度そのページを繰ってみて、私は何一つ分かっていなかった事に気付いたからだ。そして、今、この小説のどれほどのことが私に理解できたか、どのような気持でジードがこれを執筆したか、私には述べる資格がない。私には無理である。この小説に出てくる詩集を読んでいない。聖書もジード程に熟読していない。絶対に、である。ここに綴ることは非常に拙い物であると私は自覚している。
アリサは愛する人との未来予想図が書けない。喜びと不安がさざ波のように交互に胸に溢れる。そして、悲しいかな愛する人を遠ざけることで均衡を装うことができた。アリサはその生育歴から愛の儚さを知っていた。故に、愛する人に自分の気持ちを伝えることを恐れた。愛する人から愛を告白されたのにもかかわらず、その愛を胸を開いて受け入れることが出来なかった。しかし、アリサは力を尽くして愛したのだろう。神の国に入るためにも。
愛を成就させようとすることと、神の国に入ろうとすることは両立できないのか。その愛が選択でないのなら、愛は持続するだろう。私は永遠の愛というものを信じている。でも、アリサのように愛の儚さも知っている。愛を恐れてもいる。やはり、私も愛する人との未来予想図は書けない。同じ種類の女である。理論では片付けることが出来る。分析することができる。それでも、人の心はグラスの氷が固体から液体に変わるようにその形を変えることは出来ない。実験もできない。
アリサは若くして死んでしまうが、それは作者ジードが結核に倒れたことがあり、病と死をいつも身近に感じていた事が関係していると思う。その点ではアリサと私は違うだろう。私が信仰について語るにはまだまだその道は漠然としすぎている。未知の道である。