18切符 98’(Prologue)

 

 

 人は、非日常を求めて旅をするのだろうか?私は去年の春生まれて初めて、JRの青春18切符を手に旅をしてからというもの、すっかり青春18切符旅行の虜になってしまった。18切符、それは普通電車、或いは快速電車にしか乗ることの出来ない普通列車乗車券。

 

 前日、定時の5時はとうに過ぎているのに、6時半から始まるはずの会議の為に職場の椅子に深く座って腕組みをして、深いため息をついていた。部屋の中央の時計の針が7時を指そうとした頃、女性経営者が額の汗をきれいに畳まれたハンカチで拭きながら部屋の戸を開けて入ってきた。会議始まって30分間、幾度発言しただろうか、全てがむなしい物のように思えてきた。それからは、聞く人によっては耳障りの良い言葉だけど実は何も本当のことを語っていない薄っぺらな発言が延々と続き、埒のあかないジレンマに陥ってしまい、思いの丈を口にする気力をすっかり無くしてしまった私は、この会議が1分でも1秒でも早く終わってくれる事をばかりを考えるようになっていた。

 

 去年の春休みの一日目、3月25日、去年と同じように青春18切符を利用して2泊3日の一人旅に出かけた。と、一人旅といっても、実は2日目はパソ通友達と逢う約束をしていたので、3日間まるっきり、一人孤独を楽しんだというわけでもなかった。が、程々に孤独で、時折、初対面の人の暖かい優しさに触れ感謝し、充実した3日間だった。

 

 通勤には自転車を使っている。近くの買い物には自転車、少し遠くの買い物には、バイクを利用しているので、普段、滅多に電車に乗ることのない生活をしている。仕事のある日の起床時間は7時、3月であれば、すっかり明るくなっている。そんな私がカーテンの向こう側が、まだほとんど暗闇に近い4時に起きた。このマンションの誰もが寝静まっている時間。それだけでも、既に非日常的なことだ。旅行鞄の荷物の最終チェックを済ませた後、オレンジ1個と夕べのうちに作っておいたおにぎり2個をほおばりながら、たった今ドアポストに届いたばかりの朝刊の連載小説を斜め読みした。そして、睡眠不足の為にいつもよりも少しお化粧ののりが悪いのではないかとちらりと思ったけれど、決してそんな事はなく、鏡に映る私の顔はこれから始まる非日常的な出来事を想像してに胸をわくわくさせ、生き生きとしているように感じられた。そして、mail友達に協力してもらいながら2週間前からインターネットで6〜7千円で宿泊できるホテルと民宿を情報収集し、普段とても優柔不断で決断力のない私であるけれど、1週間前には計画がすっかりできあがっていた。後は、その立てていた計画の通りに全て行動しさえすればよかった。

 

 嬉しいことに自宅は最寄りの私鉄駅からたったの300mしか離れていない。と、油断していると、のんびり屋の私は電車の発車時間のぎりぎりに家を出ることになってしまい、慌てて駅まで走らなければいけなくなるという事をよくやる。この日も例外ではなく、時刻表でどの電車に乗ったらどの駅まで到着し次にどの電車に乗り継ぐと目的地まで早く着くのか等電車の乗り継ぎ方法を考えていて、ふとテーブルの目覚まし時計に目をやると「はっ」とした。そして、とりもなおさずコートのポケットに文庫本サイズの時刻表を入れて、青春18切符がミニリュックの内側のファスナーの中に入っている事を確かめ、最後に財布の中に最低限必要な夏目漱石先生と福沢諭吉先生を足して、旅行鞄を右手にしっかりと握りしめて部屋のドアを出た。