「嘔吐」 サルトル を読んだ後で
ロカンタンは「在る」と書いている。書くことによってその想いは強められている。存在しているのは現実である。この世界に存在している。誰かがそれを知ろうと知るまいと「在る」のである。それは絶対である。
私はこの「在る」について考えたとき、聖書の中のある言葉を思い出した。
出エジプト記3章14節
神はモーセに、「わたしはある。私はあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
神は絶対にある。私はロカンタンの中に私を見る。私は、ロカンタンと同じように自分自身の存在を苦しんだことがある。しかし、私は在る。在るという確信は絶対である。なぜならば、神が「在る」からである。
しかし、人生を生きていく年月の中で、孤独が背中を突き飛ばし、鞭打つときがある。自分の期待した通りの言葉を返し、絶えず自分にとって都合の良い愛情を表現してくれる人はそういない。決して世間一般よりも理想を高く持っているつもりはなくても、自分の中の理想とは違う現実を心に突きつけられる出来事は、幾度となくやってくる。ある日突然深い悲しみの沼に突き落とされ、二度と地上にあがれないような心となってしまった時、『わたしはある』という神を忘れることはできなかった。
マタイによる福音書1章23節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
喜びの内にあるときにも、悲しみの内にあるときにも神は共におられる。そして、
ヨハネの黙示録7章17節
玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
私は一人では生きていない。私はいつも誰かと関わって生きている。その関わり方は人それぞれ様々であるが、誰もが誰かと関わって生きている。自分と向かい合う誰かがいつもいてくれると感じる。もちろん、インマヌエルであるが、神以外の人間の中にも求め、求められて生きている。神に慰められ、励まされる。また、私を一つの人格として扱ってくれる誰かによって、慰められ、励まされる。それは生きている間、ずっと続くのである。永遠でありたい。サルトルにとっては、ボーヴォワールが人生に置いての「共にいる」人だったのかと思うと羨ましい限りだ。いや、私にも人から羨ましがられる「共にいる」人がいると信じて感謝する。