第120回平成10年度下半期芥川賞受賞

「日蝕」   平野啓一郎作

 

 まず、最初に告白しておきたいことがある。それは私がカトリック信者だということだ。

 そして、この小説を読むにあたって、芥川賞小説だからといって、さほど読んでみたいとは思わない方であるが、現役京大生が中世のカトリック司祭を主人公にした小説を書き、それが芥川賞を受賞したということで興味をそそられた。

 カトリック信者といっても、私は幼児洗礼ではない。成人してからの洗礼である。つまり、自分のしらないうちに洗礼を受けたのではなく、自分の強い意志を持って洗礼を受けたつもりだ。だからといって、幼児洗礼よりも熱心なクリスチャンだというわけでは決してない。見合い結婚か恋愛結婚かというぐらいの違いである。

 中世カトリックは組織として大きくなりすぎてしまっていた。愚かな過ちも沢山してきている。その中の一つが異端者審判であり、魔女狩りである。司祭は権力や財力を持ち、教会は法律だった。本当は、司祭はタダの人間であり、教会はタダの人の集まりであるのにである。人々は多額の献金をすることで天に富みを積もうとした。しかし、その真実は地に空の宝箱を積み上げていた。異端者審判も魔女狩りも集団心理と強く関係していると思う。いわゆるイジメの心理である。自分が誰かをイジメなければ、自分が集団によって虐められることに人はとても恐怖を覚える。身の危険を感じるのである。人は弱いのである。イエスは神であるのに、人として馬小屋で生まれ、人によって十字架に架けられるほどに強かったのに、人は愚かで弱かった。イエスを神と信じるならば、強くなることが出来るはずなのに、20世紀になっても人は愚かで弱い。

 聖フランシスコも、最初は教会から異端者扱いされ、当時の教皇からなかなか認めてもらえなかった。彼は清貧に生きた聖人であった。彼の映画を見たことがある。教皇は金ぴかの聖堂に立っていた。その教皇に跪いて忠誠を表していた。

 今、教会やローマ法皇に異を唱えたとしても、せいぜい破門されるぐらいで、焚刑に処せられるなどという野蛮なことはこの地球上ではあり得ない。私には、教区の大司教や司祭を無条件に尊敬することは出来ない。正直なところ、畏怖もない。だから、教会の活動や説教を理性的に賛同もすれば批判もする。そのことについて、私のことを異端者だと言う者が現れ、もし、破門されたとしても、私は主の祈りを暗唱することができる。イエスは弟子達に「互いに愛し合いなさい」と言った。何も怖れることはない。