「無関心な人びと」モラーヴィア作 河島英昭訳

 

 20世紀を代表する作家モラーヴィアの処女作。主人公の青年ミケーレは、自分を取り巻く現実と自分とのずれを意識している。が、あらゆる行為に情熱が持てず、周囲に対して徹底した無関心に落ち込んでいく。ローマの中産階級の退廃と、その中で苦悩する若者を描いたこの作品は、当時のファッショ政権から発禁処分を受けた。

 

 私は時として人と話すことが億劫になる。休みの日には一日誰とも口を聞かなくても日が暮れていく。スーパーで支払いを済ませて買い物篭の食料品を袋に詰めていて、ふとそのような事を考えた。店員が「○○○円です。」「○○○円お預かりします。」「○○○円のお返しです。」「ありがとうございました。」この間、私は一言も口から言葉を発しない。事務的で無関心である。

 無関心な関係は薄っぺらな関係で、そこには愛も希望もない。ミケーレもカルラも絶望のどん底にいる。自分の人生を自分で切り開くことが出来ない。この現実から逃れたいと切望しているのに、他力本願さえも躊躇しながら日々暮らしている。そして何も変わらない朝がまた来る。これは昔の小説ではなく、この小説を通して、現在の人間関係を考えさせられる。今の日本には階級制度はない。人々は自由である。であるにも関わらず、人の心はいつも自由ではない。何かに囚われている。その何かは人によって違うが、金銭、地位、名誉、仕事。何かとは欲である。欲が全くないよりは、適度に持っている方がいいと思うが、度が過ぎれば自己中心的、利己主義になってしまう。ミケーレとカルラは現実の生活にウンザリしながらも、自らその現実に囚われの身となって絶望している。自ら囚人服を着て、それを脱ぎたいともがきながらもやはり現実に引き戻され脱げずにいる。

 カルラとミケーレはこの日本にも沢山いる。そして、この弱い私の中にも時々現れる。彼らは愛を知らない。人を愛せない。愛人と母親を尊敬できないし、自分の本当の気持ちをずっと隠している。食事は家族で共にするのに、その会話はうわべだけの会話である。

本当の気持ちを言えば、母親は壊れてしまうかもしれない。仮縫いのギャザーのようである。現実という糸が家族を繋いでいる。そこには愛がない。

 無関心の心から自己中心的な殺人は生まれるのだと思う。自分さえよければ、相手はどうなってもい良いという気持、何故そう思えるかというと、愛がないからである。この世の中には愛がないと思っているからである。自分は誰からも愛されていない。これからも自分を愛する人は現れないと絶望しているからである。そして、愛を知らない自分のことも愛せないのである。そんな2人には神は存在していない。

 私は愛を知っている。神を知っている。