テレーズ・デスケールー  フランソワ・モーリアック

 

  「テレーズ・デスケールー」 フランソワ・モーリアック

 

 夫殺人未遂容疑者、テレーズ。私にはテレーズがその夫ベルナールに殺意を持っていたとは思えなかった。テレーズはベルナールが砒素の分量を間違えて飲むのをただ見ていただけである。薬の分量を間違えていることを知っていて止めなかったことは、怠りの罪であるが、殺意と言えるかどうか。彼女はそれだけ夫に対して無関心だった。

 田園、松林、財産は守られなければならなかった。テレーズは子供の頃からその土地を足首に足枷としてつけられていたようなものだ。その足枷はもう永遠にはずすことのできないものであると、人生全て、諦め、妥協、絶望だった。テレーズは煙草をふかす人形にすぎなかった。ベルナールとの会話が何になるのか、何にもなりはしないことをテレーズはベルナールに出会ってすぐに知っていたのだ。いや、知り合う前から知っていただろう。幸せを夢見ることが出来ないテレーズは我が子マリを可愛がることが出来ない。テレーズは自分のことを愛していない。夫のことも、周りの者達のことも愛していない。目に映る物全て、自分の物は何一つない。そう、時間さえも自分の物ではないのだ。目に見えない物、愛もテレーズの物ではなかった。唯一仲が良いと想われていたアンリにさえ、テレーズは言葉を恐れる。

 パリに出たテレーズの幸せを願う者はいるだろうか。テレーズが幸せになることはないと想う者達の声が聞こえてきそうである。幸せの計量カップは人それぞれ、大きさも違えば、メモリも違うだろう。一概に人の幸せは測れない。夫を殺そうとした、或いは夫の死を願った女テレーズは幸せになる資格などないとファリサイ派の人達の声が聞こえる。痩せこけたテレーズがもう一度、夫の優しさに触れながら、食べるべき物を食べ、散歩をするようになる。この時、絶望のどん底から這い上がることを望む事さえ、溜め息が許さなかったテレーズの心が動いたのだと想う。神がテレーズを赦したのではないか。テレーズは求めるべき物を求めたいと想う。それを心に浮かび上がらせることが出来るようになったのだと想う。彼女は松林を捨てて自由になったのだ。不必要な物は捨てればいい。

 初めてこの小説を読んだとき、私なら娘のマリも連れていくと想った。しかし、テレーズは1人を選んだ。たった1人で生きていくことを選んだ。彼女がどうやって自活していくかは知らない。それよりも、煙草を吸う人形であるより、生きた女であることを選んだのだ。