「死に至る病」キェルケゴール著 斎藤信治訳

教化と覚醒とを目的とする一つのキリスト教的=心理学的論述

 

 アンティ=クリマックス著 セーレン・キェルケゴール編

 

 第一章から著者のこの一冊の本にかける熱い情熱を感じずにはいられなかった。この本の巻頭には、実存主義者セーレン・キェルケゴールのモノクロの肖像がある。彼の瞳は大きく、若々しく、中原中也を思い起こさせる。(これは、エピローグを読んでで分かったことだが、キェルケゴールの肖像には醜く描かれたものと実際よりも美男子に描かれた物の2種類あり、その巻頭のものは、後者であった。)

 私は今、幸せに暮らしている。好きな物をお腹一杯に食べたり、好きなお酒を飽きるほどに飲む事はとてもとても貴重な経験であるからこそ、その時には自分はなんて幸せなんだろうと思うぐらいに貧しいけれど、好きな仕事をしている。そして、自由である。夢もある。現在幸せであると思っている私でも将来絶望する可能性がないとは言い切れない。私は何に絶望するだろうか。病気、愛する人の突然の死。そのどちらも日常的に三面記事の隅に掲載される自殺の原因の一つである。自殺は神への反逆であるとキェルケゴールは書いている。キリスト教徒にとって、神に反逆するということほど恐ろしいことはないのではないか。私はボーヴォワールやカミュを愛する。自分を実存主義者だと表現したことは今までなかったが、気がつけばそうなのかもしれないと思う。

 絶望はどこからくるのか。死も病もある日突然やってくる。死に至る病を現実のものとして受け入れることが出来た時、人は絶望から希望を見いだすのか。絶望は決して悪い物ではなく、絶望したからといって、死に至るとも限らない。私は一人で暮らしていて健康に不安に思った時、必ずと言っていいほど、病院のベッドに横たわる自分の姿を想像する。そこにいる私は、今と同じように本を読んだり、パソコンを使って自己表現をしている。ただ、違うのは仕事をしないでベッドに横たわっているということ。つまり、病気や障害を持ったとしても、自分らしさを失わないでいたいと思っている。

 私が師として慕っている先生は「人の心は神の神殿」と説く。絶望は自己自身からやってくる。全ての重荷は自己自身で作り上げている。人間は自己自身で分裂させ絶望者となるが、キリスト教徒は希望、勇気を自己自身の内側から芽生えさせるのである。