「余は如何にして基督信徒となりし乎」内村鑑三(鈴木俊郎訳)
内村鑑三氏の名前は今まで耳にしたことはあっても、私は彼がどんな人なのかはっきりとは知らない。基督信徒であるということ、それだけは知っている。内村鑑三氏のことをよく知っている人から見れば、失礼なことを書いてしまうかもしれない。
まず、驚いたのは基督信徒になるための署名が強制的であったこと。周りの影響がかなり強かったと思う。洗礼を受けて自分は生まれ変わったと強く感じたというのは、私にはない体験である。私は成年になってから洗礼を受けている。自分の自由意志の基に洗礼を受けた。よく幼児洗礼の人に受洗理由を聞かれる。幼児洗礼の人は洗礼に自己の意志が伴っていないわけで、不思議に思われる。しかし、私には不思議がられる程の理由はない。
キリスト教との出会いと同時にキリスト教への疑問は沢山生まれた。キリスト教の歴史、聖書を読めば読むほどに躓いた。その中には美しい物語もあればその逆で血なまぐさい物語がある。十字軍、魔女刈り、宗教裁判、宗教戦争、宗教がらみではなくても、隣人愛、博愛のキリスト教徒が何故戦争をするのか。聖書の物語には非科学的な物が多い。旧約聖書の神は怒ると人間を殺してしまう。処女懐胎、イエスが起こした数々の奇跡、イエスの復活。信仰講座を受けてもこれらの謎は私には解けなかった。納得がいかなかった。同じ信仰講座を受けていた人達はその次の年の復活祭でみんな洗礼を受けた。私一人洗礼を受けないことを選択した。私はもっと気楽な聖書勉強会に出掛けた。同じ教会のものだったが、聖書の中の非科学的なことに躓かなくなった。非科学的なことよりも、聖書の中にはもっともっと大切なことが説かれていることに気付いたのである。イエスは奇跡を民衆達にアピールしたかったのではなく、もっと大切なことを告げ知らせようとしていたと思った。その聖書勉強会の中には既に洗礼を受けている人もいれば、私のように未信者もいたし、洗礼を受けていてもいろいろな理由から教会のミサにはあまり行かない人達もいた。聖書を読み、語り合った後には、茶話会、飲み会をした。よく聖書を閉じる前に「結局、この聖書に書かれているのは隣人愛!互いに愛し合いなさい!」その一言にそれまでの会話が凝縮されて終わっていた。全く、その通りだと思った。
私は洗礼を受ける前にシスターから、洗礼を受けると新しく生まれ変わり、それまで罪が赦され、天国に行くことが出来ると聞いたことがあった。シスターはイエスさんの花嫁なのだと聞いた。私はそのシスターから親しくしていただいたと思うが、やはりどうも心から打ち解けられなかった。私は違うと思う。ある神父は要は生き方だと語った。洗礼を受けた後もそれまでの罪を忘れてはいけないのだと答えた。神の前で全ての人が平等であるならば、洗礼を受けているかいないか、信者か否かで神が天国行きの切符を渡すのはおかしいと思う。路傍のお地蔵さんに朝夕手を合わせる婦人と私の心がどれだけ違うのかと思う。むしろ、その婦人の方が私などよりも余程優れているだろう。
この世界には様々な宗教がある。カルトは別として、大きな宗教の中にはよく似た教義がある。私はキリスト教徒も仏教徒も他の宗教徒も優劣はないと思っている。プロテスタントとカトリックも平等である。
彼は洗礼を受けた後、いわゆる敬虔なクリスチャンになる。そして、渡米しいろいろな人との出会いの中で信仰を深めていく。言うまでもなく、私との違いは天と地以上にある。
私は主の祈りを唱えることは出来てもロザリオの祈りをしたことがない。安息日の日曜日にも求められれば当然のように仕事をする。だからといって、神が罰を与えるとは思わない。基督信徒として生きる道を選んだが、洗礼はゴールではない。始まりだと思う。スタート地点である。洗礼後には前に進むのみかというと、後ずさりする時もあるだろう。そしてまた進むのだろう。