「自由への道」(1部分別ざかり、2部猶予、3部魂の中の死、4部断片)

 ジャン・ポール・サルトル著  佐藤 朔・白井浩司訳

 

 私は自由だろうか?自由であるはず、自由に振る舞ってきたと過去を振り返る。私は自由が好きだし、自由でいたいと思う。しかし、その自由の結果、誰かを悲しませることになる場合もあるが、不自由でいることの方がもっと誰かを悲しませることにもなるのではないだろうか。

 マチウは孤独だった。主人公マチウは愛人マルセルが妊娠して「愛している」と嘘を言う。もう愛していないと自分自身分かっているのに、マルセルへの愛情ではなく同情の為に嘘を言う。マチウは嘘をつかなければマルセルが不幸になると思ったのだ。マルセルもマチウの前で孤独だった。マルセルはマチウが自分を愛していないと分かっているので子供が欲しいとも結婚したいとも言い出せない。2人とも結婚は望んでいなかった。それならば妊娠する前に別れれば良かったが、互いの孤独の為に自分の気持ちを口にする自由のない関係になっていた。愛を錯覚しているように振る舞い、時を送ってしまった。互いにその錯覚に気付きながら、気付かぬ振りをしていた。

 堕胎すれば2人の関係はそのまま続くだろう。しかし、マルセルには子供を産みたいとマチウに言う自由がなければならない。不自由は辛い。心が傷つく。今日本では堕胎は法律で認められているが、当時のフランスでは堕胎は犯罪であるために、まさに赤ちゃんを闇に葬るように女性は怪しげな人の前に脚を開き、全てを委ねなければならない。危険な行為であり、その費用も当然のように高額だった。大したことではないと慰めても、堕胎前も堕胎後も健康面での不安と傷ついたプライドは続く。宗教的には認められない行為であるから、それを慰めるような司祭など1人もいないだろうし、いくらその内容に関して秘密保守義務があるとしてもそう簡単に告解できることではない。マルセルは子供が欲しかった。女であれば当然の欲求だと思う。

 マチウはマルセルに「結婚したい」と嘘をつく。それはダニエルによってマルセルが不幸になるぐらいなら自分と結婚した方がましであると考えたからである。マルセルの幸福はマルセルの意志で得られなければならない。マルセルはダニエルを慕っていたし、子供を産むという希望を叶えてくれる。しかし、ダニエルはホモセクシャルなのである。今でも同性愛者の人権は侵害され続けているし、その存在を否定する人までいる。当時はもっと厳しい立場に置かれていただろうと思う。自分で自分を認めることが出来ない不自由な毎日であっただろう。ダニエルはマルセルと結婚することで世間体を取り繕うことができる。生きていくことが出来るのである。マルセルを人間として親しい気持を持っていても、性欲の対象としてはみることができないが、愛そうと努力するという苦渋の目的を持つ。不自由な自由である。

 その点、イビッチは自由である。思いやりに欠けた我が儘娘でもあるが、世間体を気にするよりも自分の気持ちに正直に生きようとする。その若さ故に、思慮が浅はかで若気の至りともいう過ちを犯してしまうが、自由を浅くしか捉えていないので、自分で自分の人生に責任が持てない。この「自由への道」は未完であるが、サルトルがイビッチのことを書き続けていたなら、イビッチは婚家を出ているだろう。目先の自由ばかりに囚われると、人は孤独になる。自由と孤独は光りと陰のようなものである。思いやりに欠けた自由は、その人を孤独のどん底に突き落とす。

 またイビッチと対称的に成長したのが、弟のボリスである。年上の愛人ローラを肉欲の対象としてしか見ることが出来なかったが、戦争による不自由、青春の象徴パリ占領というショック、・・・・・・自分の自由を愛あるものにしようとしていると思った。ボリスは孤独ではなくなった。

 マチウも徴兵されて不自由な場所に身を置くことになるのだが、パリから遠く離れて、仲間と24時間何日も生活を共にし、戦争を背中に背負うことによって、仲間に心を許すようになる。1人、2人と仲間が倒れていく中で、ドイツ兵に向けて銃を乱射したその時こそ、彼は孤独のない自由を得る。平和主義であった彼が戦場で銃を撃つことで彼の心はようやく自由になった。撃たなければ死んでしまうという状況で、撃つという強い意志をまさに身を持って最大限に表現している。自分の存在証明である。

 人は永遠に自由に恋い焦がれ追い求める。1部では堕胎、2部では戦争は回避されるが、3部ではパリが占領され、戦争が本格的になる。4部はその後。「汝殺すなかれ」と聖書にある。堕胎も戦争も聖書で禁じられた行為である。宗教は人の自由を奪うのか?私はそうではないと考える。真の信仰は人の思考能力を停止させるものではない。それが洗脳と信仰の違いであると思う。聖書によって禁じられた行為だから堕胎をしないのではなく、産みたいから堕胎をしないというのが正しい。戦争は誰でもしたくない。平和であって欲しい。重い銃など持ちたくないだろう。しかし、目の前で仲間が倒れていく中で銃を捨てることは出来ない

 この「自由への道」を読んでいて、驚き、感心したのは、第二次世界大戦の日本とフランスの違いである。私は戦争を知らずに育っているが、当時の映像や兵士の遺品や当時を書いた文章を通して私の知っている日本と同じ時代のフランスは、全く違う世界である。当時の日本は軍国主義一色で不自由極まりない。日本の憲兵からみれば、ほとんどのフランス人が非国民に見えるだろう。夜がやって来ることを知らせるコウモリのように戦争がすぐ目前に迫っていても、フランス人は思想の自由を持っていた。歴史に「もし」はありえないが、もし、同じように日本に思想の自由が根付いていたなら、広島や長崎に原爆は落ちなかったかもしれないし、東京や大阪の大空襲もなかったかもしれない。悲劇はすくなくて済んだかも知れない。

 戦争中、教会は平和を強く訴えることが出来なかった。その事はバチカンも認めている。日本の場合は軍国主義の中であったからもっとひどい。キリスト教徒はまるで敵国のように迫害を受けた。拷問を受け続け殉教した人もいると聞く。教会を守ることが出来なかったと悲しみ、罪悪感に苛まれている司祭や信者もいるのかもしれない。拷問を受けて殉教した人には手を合わせたいと思うが、憲兵から逃れた人の苦しみにも目を向けたい。それは信仰を捨てたことでは決してない。生き延びるための一つの手段だったのだと思う。遠藤周作の小説「沈黙」の中でイエスが「踏むがいい」と言ったように、「憲兵から逃げるがいい」とイエスは言ってくれたのではないかと思う。今なら大声で平和を唱えることが出来る。その声で憲兵から逃れた信者さんを責めるのは間違っている。責めるべきは軍国主義である。