「田舎司祭の日記」・・・ジョルジュ・ベルナノス(木村太郎訳)

 

 私は神に愛されていると信じている。それは揺るぎない確信である。苦しみの中にある時にこそ、「神に愛されている」と強く思う。思わずにいられないのである。

 司祭という職業、生き方は私が普段思うよりも孤独なものなのかもしれない。信者や教会との関わり、「時間」は自分自身のものであるときは一瞬もないのかもしれない。私の周りの神父、牧師さん達は信者、手助けを求めている人のもとで精力的に活躍されているように見えて、孤独とは無縁のように思っていた。

 しかし、「孤独」という蟻地獄の中にはまってしまった時、苦しみのうちに神が与えて下さるのは、「沈黙」と「時間」である。そして、それを神様の思し召し、お導きだと慰められる。「孤独」の中の「沈黙」と「時間」は悲しみをより深める。恐怖である。

 私は省みる。彼の不安は私には恐怖だった。そして、私は沈黙した。その沈黙により、彼の不安は強まった。言葉は時に人を傷つける。沈黙も同じである。そこには信頼関係はなかった。

 神と私の関係はどうか。私は苦しみの中にある時にも神に愛されていると思う。周りの友人を通して神を感じる。ユダのようにならないと思う。それはユダを責めているのではなく、最後の最後の時まで神を愛していたいと思うからである。十字架の上のイエスは、その苦しみを神の恩寵だと思ったのではないか。主人公の若き司祭も死を神の恩寵だと言い残して死んでいく。私はイエスのように生きたいと思い、洗礼を受けたはずである。イエスは苦しみの中にあるとき、神に祈り、神に従った。私は沈黙してはいられない。時間は与えられた。