「家出のすすめ」(寺山修司著)を読んで

 

 どんなに精神的に落ち込んで自己否定してしまっている時でも、これを読み始めると、どんどんと面白いように自己肯定へと導いてくれる。素晴らしい哲学書であり、不良だけど後悔しない人生を送る為のマニュアル本だと思う。もし、今、少しでも、自分のことを嫌いだと思っている人、本当の自分を見失っている人が周りにいたなら、すぐにこの本を読む事を勧める。お説教も経験談も無力に違いない。タジタジである。

 私が「家を出たい」と初めて思ったのは、いつのことだったろうか。小学生の頃か中学生の頃のどちらかに違いないのだが、はっきりしたことはもう覚えていない。「自由」と「親孝行」のどちらかを選べと言われたなら、私は物心ついた頃から「自由」を選んでいた。「自由」とは、心のまま、思う通り、欲しいままという意味もあるが、我が儘、勝手、気ままという意味でもある。私は言い換えれば、実に親不孝な我が儘娘と言える。著者はそれを肯定し、明らかに家出を勧めている。家出は親からの独立、経済的、精神的自立を早めてくれると思う。自分の人生を自分で考え、選び、決断する自由があるという事は、難しい言葉で言えば、人間の尊厳に関わることだと思う。

 尤も、私の場合、好きなことを好きなようにしたいだけなのだけれど、もし、今現在夢中になってやっていることをどうしても志半ばでやめなければならなくなったとしても、自分自身を犠牲にしたとは思いたくない。別の道を自分で選んだのだと思いたい。

 私はこの本を読む直前、自分の人生について考え、過去を省みて、将来のことを思ったときに、今のままでは我が儘すぎるのではないかと思えてきていた。中学の家庭科の授業で自分の人生設計を考えるという授業があった。何歳で学業を終えて、どんな職業に就き、何歳で結婚し、その何年後に最初の子供を産むかというものだった。計画通りになったのは、20歳の学生の時までで、その後は全く違う人生を歩んでいる。今からでも、軌道修正するべきなのではないかと思った。

 だが、この本を読んで、人生の軌道修正はしないことにした。私は家出娘である。私が家を出るとき、私の母はこの本の中のかあちゃんのように「がんばれ」と言わなかった。炬燵の中で「淋しい」と、泣かれた。私がもう何年も帰省しない理由の一つは、あの涙声を背中で聞いてしまった事が大きい。年に1〜2度、罪滅ぼしをする。私の電話は短い。

 書いている内に、私が家を出たいと思ったきっかけの一つを思い出した。友達が青春時代の懐かしいレコードを聞かせてくれた。私はその音楽よりも青春時代の思い出の品が、傷一つなく保存してあることが羨ましかった。私は散らかし魔であり、私の母は片づけ魔だった。片づけるということは、収納上手であるか、物をどんどん捨てるかのどちらかだ。母は後者だった。思春期の頃、誰もが経験するように、自己嫌悪や自己否定、マイナス思考に物事を考えるところがあったが、どこか無意識のうちにも自分自身を自分で認めたいと思っていたのかも知れない。