虞美人草を読んだあとで

 

「虞美人草」は漱石の後期の作品であり「坊ちゃん」や「三四郎」、「それから」などとは全く違う。私はこの作品の中で一番好感が持った登場人物は藤尾ただ一人である。それを最後に何も殺さなくても良いではないかと思う。

 普通なら、大和撫子のような小夜子や、裁縫のよくできる糸子の恋が成就して目出度し目出度しの結末のように思うのだろうが、私にはあまり目出度い結末には思えなかった。私は小夜子も糸子もあまり好きではない。自分の気持ちを表面に出さず、障子の影で涙するいじらしさを美しいと思う人もいるだろう。宗近が奔走しなければ小夜子の恋は実らなかった。小野との結婚を小夜子は一度は諦めたのだ。自分の気持ちを一度も言葉にすることなく、自分の気持ちをただ押し殺して諦めたのだ。自分の気持ちを隠してしまうことが美しいとされた時代だったのか。日露戦争、国民の思想が一つに纏められようとしていた時代でもあった。

 平成の今、小夜子や糸子のような女性はほとんどいないだろう。少なくとも私の周りには見当たらない。糸子は裁縫も上手いが機転も利く、才女のように見える。才女と呼ばれる女性は今の時代自己主張をしっかりとするものである。特に結婚の事となれば、尚更である。自分の結婚相手は自分でしっかりと見定める。糸子は糸子の強い意志を持って結婚を決めたのではあるが、甲野さんの恋愛関係が強く結ばれているとはまだ思えない。結婚というものは、どこか勢いでするところもあるから、宗近の奔走が結果としては良かったと言えるのかもしれない。結婚が人生での絶対の課題、お嫁に行かなければ落第という時代の中での良い結果である。

 小野さんにしても、甲野さんにしても男達は弱々しい。優柔不断である。友人の借金の申し込みの替わりに小夜子に断りを入れてもらうのである。言語道断。全く持って男らしくない。正々堂々としていない。小野さんも甲野さんもとてもデリケートな神経の持ち主である。

 いつの時代も男は女心が理解できずにいる。が、人が誰かを愛したいとか誰かに愛されたいという気持ちは、人の心の奥深いところに誰でもが持っているもので、ふとした瞬間に自分の正直な気持ちに気付く。結婚は恋だけではできない。結婚は恋の延長線ではない。2人の信頼関係を積み重ねていかなければいけない。自分の正直な気持ちを相手に伝えることを言葉によって何度もしておくべきである。恋は育てなければ恋愛にはならない。その恋愛を育てて結婚に至るのだと思う。結婚後も育て続けなければならない。永遠に続くのである。人と人との関係というのは信頼関係を育てていかなければ断ち切れてしまう。それは友人だけではく、たとえ親子でもそうである。恋は点と線であるが、愛は柔らかな物。愛は許しあう。愛は湧き出る泉のようなもの。

 私は藤尾を殺して欲しくなかった。藤尾は奔放である。プライドが高く我が儘なお嬢さんである。藤尾は小野さんに恋をした。そして失恋した。藤尾と小夜子は相対する。藤尾は小野さんとの結婚を母や兄にはっきりと言う。鼻持ちならない女ではなく、むしろ可愛らしいと私は思う。好きな人に言葉による意志表示をするということ、昔から日本人は苦手にしていると言うが、とても大切なことである。人と動物の違いの中に言葉がある。何故、言葉が生まれたのか、浅はかながらも感情が生まれたからではないかと思う。人には心があり、その心を言葉により、自分以外の人とその心の持ち主である自分に知らせるのである。私は「言葉」を大切にしたい。