「エプロン」

 

 「待てど くらせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月が出るそうな・・・」

今日子は声を出さず、心の中で歌うのだった。シュッシュッと今日子の右手が音をたてる。ピンク色のゴム手袋をはめて天ぷら鍋の裏をアルミ束子で磨き始めてから30分たとうとしていた。リビングのテレビは見る人がないまま映像を流している。今日子の勤めるパート先で話題になっているドラマが終わろうとしていた。いつもなら、台所の洗い物など後回しにしてトイレに行くことさえ躊躇いつつドラマを見るというのに、今夜の今日子はそんなことはどうでもよく、遠い世界のことのように思えていた。

 ジャーッと、蛇口をひねり水を流す。黒色の泡が排水口に流れていく。それらはまるで逆らえない力によって決められた道を走り去っていくかのようだった。水が泡を消し去り、泡で隠れていた天ぷら鍋の裏に銀色の光りを見つける。さっきまで彼女が磨き続けていた箇所だ。汚れていたものがきれいになった時の壮快さは女だけが得ることの出来る快感ではないかと今日子は思っていた。鍋を磨いていると、心の汚れまで消し去られていくような気がしていた。部屋の掃除や整理整頓は決して得意な方ではない。子供の頃から母親任せにして育ってきた。学生生活を終えて、独り暮らしをして初めて、仕事をしながら家事をする母の苦労を知った。

 それでもまだアルミ束子で天ぷら鍋の裏をこすると凸凹して黒ずんでいるところがある。その黒ずみに向かって三回ほど粉末洗剤を振りかけた。直径5ミリの穴から灰色の粉が飛び散っていく様をじっと見た。今度はアルミ束子を左手に持ち替えて擦り始めた。アルミ束子によって灰色の粉が液体と混じり、今日子の描く円どおりに黒い泡があらわれてくる。

 そして、左手を小刻みに動かしながら、「主の祈り」を心の中でつぶやく。祈ることができるほど今日子の心は平安ではなかった。このやるせない心の乱れは女性ホルモンのせいだと彼女自身思うのだった。静かな台所に束子の音だけがシュッシュッと響く。同じリズムが繰り返される。他の何物も音をたてない。今日子の束子だけが静寂を壊し、今日子が手を休めればまた静寂が生まれる。

 彼女の頭の中には過去の彼女がいた。今日子は安らぎを求めて陽介と結婚をした。彼女自身結婚前はそのことに気づいていなかったが、天ぷら鍋を磨きながらそう思うのであった。陽介と出会う前、今日子には結婚を夢見た恋人がいた。仕事の転勤のための遠距離恋愛期間も含めて7年間交際は続いた。彼は彼女の耳元で愛の言葉を囁いた。お互いの仕事が忙しく逢えない日々が続くと、恋人はまるで流行の恋愛映画の台詞のような言葉を深夜に受話器の向こうから囁いた。その一語一句で今日子の胸は熱く焦がされ、心は浮き立った。今日子自身、そのような言葉を求めていた。その語られた言葉を耳にして、忘れられた夢を思い出す。今日子は夢を前に疑うことをしなかった。ただ信じるのみであったはずなのに、その時の今日子の心はどこか安らげずにいた。陽介と結婚して2年たった今でも、あれはいったい何故なのかという問いが頭の中に浮かんでは消えていく。

 リビングの柱にかけられたキャラクターもののからくり時計が静寂の壁を破って愉快な行進曲を奏でるとともに、キャラクター人形が現れて踊りだした。今日子はリビングの方を振り返ってその時計を見た。10時を指していた。今日子は小さな溜め息をつくと、アルミ束子の持ち方を変えた。そして、「人は口にしたその言葉によって、心を束縛されるのだ」と、そう思った。今日子は遠距離恋愛の間、よく手紙を書いた。時には仕事中、上司に気付かれないようにこっそりとパソコンのキーを叩き、そのまま彼の部屋へFAXしたり、事務用品を買いに入った文房具店でかわいい便箋を選んだりもした。愛しい人に逢いたいときに逢えない淋しい日々の中で、手紙を使って自分の気持ちを恋人に完璧に伝えたかった。ポストに手紙を投函する度に、今時の女子高生よりも自分は純真ではないかと思う自分を省みて、自惚れていたかもしれないと思う。そして、今日子自身が綴ったその手紙の言葉によって、やはり自分では気がつかない間に自分の心を束縛していたのかと思ってみるが、自分の愛は寛く深いものだと信じることにする。3年の地方転勤から戻ってきた彼には周囲の噂通り約束されたポストが与えられた。今日子は正直過ぎる彼の言葉を恐れた。彼の口から出る言葉全てを信じる今日子の心は自由ではなくなっていた。

 陽介と今日子は半年の交際で結婚した。尊敬していた女性上司からの紹介で、最初から結婚を前提に交際を申し込まれた。何事にもそつなくこなす彼と違い、着古したセーターを着た陽介は、自分の気持ちを言葉にするのが不器用に見えた。もうすぐ陽介が準夜勤を終えて帰ってくる。今日子は水道の蛇口をひねって、天ぷら鍋についた灰色の泡を全て洗い落とした。灰色の泡は透明の水と共に排水口に消えていく。天ぷら鍋の底も側面も銀色に輝き、茶色の油汚れも黒ずみも磨き落とされた。今日子は天ぷら鍋を伏せて水を切ると、台所を離れた。寝室のドレッサーの前に座り、ルージュをひいた。

                                               fin