ドストエフスキー「虐げられた人びと」の感想文を書くつもりです。

一度、読んだのですが、もう一度読みたくて、今晩から読んでいます。

                           5月11日

ようやく、半分読み終わりました。

                           5月12日

読み終わりました。               

                           5月13日

 

   「虐げられた人びと」

 

あらすじ

 若い小説家の主人公ワーニャの目を通して、幼友達ナターシャと軽薄で世間知らずの公爵の息子アリョーシャとの悲恋を中心に語られる。誠実で正直で頑固者のナターシャの父は公爵に騙され虐げられ蔑まれ、財産を奪われる。そんな父と心優しい母に育てられたナターシャは、アリョーシャとの恋の為に家を出る。頑固者の父は娘を許せない。そして、公爵はナターシャとアリョーシャとの恋に反対し、伯爵夫人の継娘で大金持ちのカチェリーナとアリョーシャを結婚させようとする。

 ある日、ワーニャは街で貧しい老人スミスに出会うが、すぐにその老人はワーニャの腕の中で息絶えてしまう。ワーニャがスミスの家に引っ越すと老人を訪ねてエレーナという孤児の少女があらわれる。エレーナはスミスの孫で、スミスの娘すなわちエレーナの母は昔公爵との恋に落ちるが騙されて捨てられスミスの財産も奪われてしまう。そんなエレーナの母の事をスミスは最後まで許すことができなかった。主人公はエレーナをしばらく自分の家で世話をするが、てんかんの発作を持っていて精神的にも不安定なエレーナはナターシャの父母に引き取られることになる。ナターシャは公爵の策略を見破り、アリョーシャが家出をした自分のことを負担に思っていてカチェリーナの事を愛し始めている事を感じ、アリョーシャと別れる決心をする。そして、ナターシャの父は病床のエレーナの口から生い立ちやエレーナの母と祖父の関係を告白されて、ナターシャを許す気持ちになり、ナターシャを迎えに行く。ナターシャとその両親、エレーナと幸せに暮らしていく筈だったが、エレーナはベッドから起きあがることなく息を引き取る。自分の父親が誰であるかということを秘密にしたまま・・・。

 

   感想 

 可愛そうなネリー(エレーナ)、幸せ薄いネリー、貧しいネリー、最後は病気で死んでしまった。その短い人生の中で、ほんの一時でも、心が安らぐ時があっただろうか。多分、それはママがまだ元気な頃、ママが幸せそうに見えたほんの一瞬だけだったのではないかと思う。傲慢でエゴイストで詐欺師で狡くて、貧しい人を嘲り笑う公爵はネリーに呪われて当然だ。

 

 この小説を読んだ一度目は、正直なところ、いったい誰が虐げられた人なのかわからなかった。ナターシャと彼女の父、スミスとその娘のネリーの母そんな小さな関係ではなくもっともっと大きなもののような気がした。が、それが何なのかわからなかった。そして、その事について自分なりに詳しく知りたいと思い、もう一度ページを捲ることにした。

 

 「正直者が馬鹿を見る」というけれど、ナターシャの父イフメーネフとネリーの祖父スミスはまさにその通りだった。その誠実さを利用され、引き替えに貧しさを受け入れなければならなくなるのだ。公爵の悪巧みの他に、その背景には19世紀のロシアの農奴解放の波乱の時代があった。貧しさは虐げられる理由になり得る時代だった。いや、今現代はどうだろう。今もそうではないのだろうか。今の社会は、貧しい人びとを虐げてはいないだろうか。虐げられるべき人、虐げられて当然の人などこの世に存在しないはずなのに、虐げられている人びとがこの日本にも、そして世界中に沢山、沢山いるのではないだろうか。気づいていないだけなのか、気づかない振りをしていないだろうか。

 

 ネリーもネリーの母もネリーの祖父もイフメーネフもナターシャも、貧しくても虐げられても、嘲笑われても、蔑まれてもプライドを捨てなかった。でも、プライドよりも何よりも大切なものがある。それは親子の愛。誠実で正直者で周りの誰からも信頼されていてただひとつ頑固なところだけが欠点というイフメーネフの事を考えれば、ナターシャがアリョーシャのもとへ走ることはイフメーネフを裏切り、世間の笑い者にすることに繋がる。しかし、ナターシャには家出をする意外にアリョーシャと結ばれる方法はなかった。ナターシャは身一つでアリョーシャのもとへ走ったのである。昔の日本風のいい方をすれば、押し掛け女房なのだ。その昔の日本風の押し掛け女房とか駆け落ちとは少し違う。日本風であれば、もう少し男は女の責任を取ろうとするのではないかと思う。ナターシャは、それまでの生活も親さえも捨ててアリョーシャと結ばれたいと思ったのに、アリョーシャの方は自立はおろか公爵のすねを囓ることしかできない生活力ゼロの子供だった。アリョーシャはおぼっちゃま特有の世間知らずで自由奔放なのだが、純真で人を疑うことを知らないというどこか憎めない性格というよりは、むしろ愛すべき性格の持ち主だった。ナターシャのアリョーシャへの愛は聖母マリアの無償の愛のようだと思った。どんなにアリョーシャの帰りを待ちわびて心を乱していても、アリョーシャが跪いて謝り、甘い言葉を一言でも投げかければ全てを許してしまう。まるで、いたずらをした子供がお母さんに「ごめんなさい」を言って許してもらおうとしている姿によく似ている。

 そう考えても、ナターシャとアリョーシャは、結ばれても幸せになることはできないのかもしれない。男と女が出会って、結婚したら、お互いに成長できる関係が正常な関係なのだと思う。どちらかだけが我慢し続けるとかどちらかが一方を重荷に思ったりする関係を続けることは、お互いのためによくない事だと思う。子供でさえ、身体的成長ならいざしらず、精神的な成長は何かそれに伴う出来事でもない限り成長を目にすることはない。ましてや、大人であれば、なおの事である。が、我慢や重荷はどこかで荷を下ろすか、軽くしないと、息が切れてしまう。

 

 人はいったい何の権利があって、誰かを虐げることが出来るのだろうか。自分とは違うとか、自分よりも何かの能力が劣っているとか、弱いとか、貧しいとか、地位が低いとかそんなくだらない事で自分との仕切りをつくっているのか。その仕切りの判断は正しいのか。人間誰しも愚か者であるのに、その愚か者が優劣をつける判断など持ちあわせているはずなどない。「優」「良」「可」「不可」の判子を押すことの出来るのは、大学の先生が生徒の成績表にのみである。自分と違うというのは、どう違うのか。違う事は悪い事だろうか。たとえ、数学の成績が自分より悪い人がいたとして、それが虐げる理由になりうるのか。数学の成績が自分より悪くてもそれがいったい何だ。力が弱いからといって、精神的に弱いとは限らない。また、精神的に弱い事は愛される理由に成り得ても、虐げられる理由など成り得ない。貧しいことは幸いであり、地位の低い人は押し上げられる。愛されるべき人々。

 

  ネリーは死んでしまった。ハッピーエンドではなかった。これから、ナターシャとその家族に囲まれて幸せに暮らすはずだった。不幸のまま、最後に病気で死んでしまうネリー。まさに不条理そのものだ。人間は愚かだと先に書いたが、不条理と戦うことが出来るのも人間だけなのだと思う。