「我と汝・対話」 マルティン・ブーバー(田口義弘訳)と新約聖書

 

 私が今現在知っているこの世の中に存在しているもの、またその存在を知らないが存在している可能性のあるものは全て意味のある物であるだろう。つまり、私が知っているかどうかはその存在に置いて、全く、問題ではなく存在している。私は博識ではない。私が知っているものは少ないと断言できるだろう。

 我と汝、人と人の関係は「始めに受容ありき」なのではないだろうか。新約聖書のイエスは多くの人と出会う。子供、病人、手の萎えた人、らい病を患っている人、悪霊にとりつかれた人、盲人、姦淫した女、口をきけない人、徴税人、群衆、ファリサイ派、弟子達、数多くいる。実際には数え切れない人達とイエスは出会った筈である。イエスはまず、その汝をそのまま受容していると思う。受容されるはずがないと思っている人にとって、イエスから受容されるということは想像を絶するほど素晴らしいものだと感じたはずである。何故なら、病人や悪霊にとりつかれている人や姦淫した女も、人から蔑まれていた人達であった為に、イエスに受容されるはずがないと思っていた。またその人達は自己受容、自己肯定もできない人達だっただろう。可哀想な人達という同情ではなく、受容、そして共にあるということを示された。

 虐げられた人々を受容するということ、その人のその今の精神的、社会的状況をありのままに認めるということである。それはもともとあったはずのその人の人権の尊重であると思う。存在が必要とされない人はいない。人それぞれに、それぞれの場所において存在する限り、我も汝も必要とされている事を前提にして考える。互いに認め合う関係、互いを尊重する関係。傾聴し、非審判的態度で受容するということは、その人の存在を肯定するということ。自己否定していた人が自己肯定、自己受容を支援することである。そこから我と汝の関係が始まるのではないか。迷子に道を示すのとは違う。人生の迷子は道を探す。しかし、その道を探し当てるのは本人である。我が汝の道を探すのではない。我は支援者であって指導者ではない。

 イエスはペテロが3度嘘をつくと預言した。預言通りにイエスのことを「知らない」と言ったペテロのことを、その後イエスは見捨てたりなどしない。

 審判は神であり、他の誰でもないのではないか。裁かず受容することから人と人との関係は始まると思う。そして、受容し続けることであるのかもしれない。