「悪魔の陽のもとに」 ジョルジュ・ベルナノス
あらすじ
第一部 少女ムーシェットは公爵と性的関係を持ち妊娠してしまう。偽りと裏切り、それがムーシェットの中で悪魔が芽生えさせ、公爵を銃殺してしまう。
第二部 ドニサン神父は夜道で道に迷ってしまう。そこで馬商人の姿をした悪魔と出会う。道に倒れたドニサン神父は見知らぬ少女と巡り会う。
弟三部 その後のドニサン神父、のちに「ランブルの聖者」と呼ばれる。
ベルナノスは一生の間にどんな司祭と出会ったのだろうか?生涯を通して揺るぎない尊敬の心を持つ司祭と言葉を交わし、触れあって生きていたのだろうか。それとも、・・・。
少女ムーシェットは早熟で中年男からみれば魅力に溢れ、小悪魔のようである。同時に、彼女は中年男の被害者でもある。まだ「愛」を知らぬ少女は中年男にその肌を弄ばれた。大人達の偽りと裏切りによって、少女の心は一瞬にして暗い絶望の淵に突き落とされた。もう二度とそこから出ることができないような闇の中に落ちてしまった。人が人を殺すという行為に移る時とはこのような時なのかも知れない。それは計画的なものではなく、ほんの一瞬の出来事。絶望の闇から逃れるためにしてしまったことは殺人だった。少女には、もうその場所から逃げるための行動は殺人以外に選択肢がなかった。否、選択肢というような思考回路はもはや少女にはなかった。判断能力もそこには存在しなかった。
もちろん、この考えは殺人を肯定するものではない。今なら中絶は法律に触れない。中年男の子供を妊娠して中絶する少女は数字では表せないが、確実に存在する。また、シングルマザーも世間一般社会から公認されつつある。養育権、教育の権利も保護されている。今の時代のムーシェットは我が子を中絶したとしても人目にも法律にも触れない。シングルマザーとして生きるという選択肢も可能である。大人の男に裏切りに屈することはない。また、避妊の方法は幾つかあり、妊娠そのものを避けることも当然のように可能である。ムーシェットの罪は今なら犯さなくても済む罪なのである。ベルナノスはそんな時代がくることを想像しただろうか。愛のない大人の男に愛を知らない少女が身を任せた罪の罰が人殺しであり、自殺というのなら、その神には赦しはないのかと思う。イエス・キリストは姦淫した女を赦した。
ドニサン神父と悪魔との対話はまるでイエスとサタンとの対話そのものである。また、ムーシェットとの対話ではマグダラのマリアを連想する。神父とは、キリストのように生きることとは、時に、悪魔と対話しながら生きていくこと。神の裏の悪魔と対話することが神と対話することでもある。目に見えないはずの神と悪魔。信仰を持たず、何も感じず、何もせず、何も見ず、何にも関わろうとしなければそのどちらとも対話することはない。不信仰、無関心、そこには紛れもなく孤独しかない。どんな時にも孤独という悪魔は忍び寄ってくるが、ほんの些細なことから打ち負かしたり、避けることのできる悪魔である。
ムーシェットは最期に神の赦しを願ったのだと思う。偽りに偽りを重ねてその場を逃れるよりも、神に身を委ねることを願ったのではと思う。ドニサン神父はそれをサポートしたのである。
教会でいう奇跡とは自分からは遙か遠くにあるもののように思えていたが、本当はごく身近にあるものなのでないかと思った。何故なら、主の平安を願わない日はないのだから。