「我が姉ボーヴォワール」エレーヌ・ボーヴォワール(平凡社)
エレーヌ・ボーヴォワールはそのタイトルの通り、ボーヴォワールの妹である。私は、あの「第2の性」のシモーヌ・ボーヴォワールのことが全編に渡って書き連ねてあるのかと思い、興味津々でページを捲り始めた。正直なところ、サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールとの関係について知りたいという覗き見のような気持も持っていた。しかし、その期待は読み進むうちに少々裏切られた。この「我が姉ボーヴォワール」は妹エレーヌの姉の回顧録でもあるが、エレーヌ自身の自叙伝でもある。考えてみれば、姉妹と言えども生涯生活を共にしていたわけではなく、シモーヌにはシモーヌの人生があり、エレーヌにも彼女の人生があるのは当たり前のことである。別々の人生を歩んではいるが、彼女たちは常に愛し合っていた。だからこそ、この本は存在している。
私は先に裏切られたと書いたが、しかしその裏切りは私に良い結果をもたらした。私はこの本を読んで、シモーヌ・ボーヴォワールの生い立ちを知り、ますます彼女を尊敬するに至ったし、それと同時に妹のエレーヌ・ボーヴォワールのことも尊敬し憧れる。姉妹は都パリのブルジョア階級の家庭に生まれ育つ。母は敬虔なクリスチャン、父は無神論者というまるで正反対の両親の元で育つことによって、親鳥のもとを自分の力で巣立つ力強い情熱を持つ。姉は文学または哲学者であり、妹は画家で全く違う分野で活躍しているが、大きく似通っているのは2人とも非常に努力家であるということである。彼女たちが通った学校は司祭が教鞭を執り、勉強をしなくても学生生活を送ることが出来る学校だった。今のミッションスクールではそのうなことはないかもしれないが、あの時代がそうしていた。彼女たちは成績優秀でありながら、権威からの抑圧を嫌う生徒であり、問題児だったかもしれない。私と彼女たちでは成績優秀という点で大きく異なるが、強い共感を覚える。 私はもっと早くにボーヴォワールに出会いたかった。中学か高校生の頃に出会ってみたかった。しかし、残念ながら私の通った小さな図書室には「レ・ミゼラブル」は並べられていても、残念ながら「第2の性」はなかった。
エレーヌはこう書いている。「人生の中で1分でも無駄にしなかった。」と。その言葉は、彼女が如何に人生を生き生きと謳歌していたかを現している。また、自分の人生を自分で切り開く自己実現に向けての努力を少しも惜しまなかったことを意味している。私はまだ彼女の半分も生きていないが、彼女のようにきっぱりと断言することは出来ない。自分の人生を否定的に振り返ることはしたくない。自分の過去も現在も肯定的に考えたいが、彼女のこの言葉を前にすると、今の私は跪いてしまう。この胸に突き立てられたナイフを右手に持ち替えて、まだ見ぬ自分の未来の皮を剥がしていこう。