「淳」「少年Aこの子を生んで・・・」「彩花へ 生きる力をありがとう」

 

 この3冊を続けて読んだのは、それなりに訳がある。被害者側と加害者と加害者の両方を知りたいと思った。この神戸の事件の記憶もまだ鮮明なうちに京都で小学2年生が白昼校庭で刺殺されるという事件が起こる。この犯人はまだ逮捕されていないが、報道によると未成年の可能性がある。この神戸の事件の時には震災の記憶がまだ生々しかった。震災で未曾有の大災害を受けた神戸の人達誰しもが地域の復興、家族のため、愛する人のために助け合って生きているように見えた。そのような神戸で日本全国を震撼させる事件が連続して起きてしまった。被害者の方は過剰なマスコミの反応の為にプライバシーを侵害され、精神的によりいっそうダメージを受けられたこと、ただの同情では済まされないものであると思うが、当時連日のように報道されたこの事件の進行に目を離さずにいられなかった。もちろん、興味半分ではなく、批評家や小説家達が語ることだけでは少年Aは私の中では消化されなかったからである。

 では、この3冊を読み終えて、少年Aを理解できたかというと、答はNoである。ただ、はっきりと言えるのは、彼は人と人との繋がりを自らきっぱりと絶つことを望んだということだ。これはこの本を読む前、当時、事件の報道がなされていたときから感じていた。少年が傷つけた対象は必ず、少年よりも明らかに弱者である。少年は自分よりも体格の良い格闘技家にハンマーを振り下ろすような事は絶対にしなかったはずだ。猫も友人も淳くんや彩花ちゃんもそうである。気に入らない友人を拳に腕時計をつけて殴るという行為はその友人との関係を断ち切る行為である事には違いないし、淳くんや彩花ちゃんの場合は命をも断ち切ってしまっている。自ら愛を拒否しているかのようにも思える。

 少年の逮捕後、心理学者達は少年についていろいろと述べていた。逮捕後の少年の自供は少年の心を正直に言語化したものがあると思う。人間は動物とは違い言葉というものを持っている。言葉により心を表現する事が可能である。それは相手に自分の心を伝える働きもするが、自分の心を自分自身に知らせるという働きもする。その少年の言葉を私は正確に読みとる自信などないが、少年は人格形成過程の中で最も大切な乳幼児期や少年期に愛の原風景が満たされなかったのではないかと思う。そして、愛を感じることが出来ず、社会への適応能力が欠けてしまった。少年は両親にとって初めての子供であり、少年の両親の手記によれば両親は少年の事をとても可愛がったとあるが、少年はやはり幼い頃に愛に飢えている事を証明するかのような行動とっている。

 少年の両親は少年を如何に愛し少年との楽しかった想い出を綴っているが、少年にとってはその想い出は必ずしも両親とは同じように捉えていなかったと思う。それらは、少年にとって愛の原風景に成り得なかったのである。そして、少年にとって特に母親の影響は大きかったと思われる。一緒に過ごした時間が誰よりも長かったし、母親というのは、どこの家庭でもとても大きな存在であるはずだ。それは良くもあり悪くもありだろう。淳くんのお父さんの手記と少年の母親の手記では同じ事柄でも異なるものがある。事件の3年前、少年は淳くんを苛めていた。少年の先生は淳くんの家に少年を連れていき、少年に拳をあげて謝罪させ、少年は泣いていたので、その時淳くんのお母さんは少年を許し、少年の母親にその事を報告の電話をすると、母親は「仲の良い友達とクラスが別れてストレスが溜まっていた」のだと言い訳をして終わらせる。その後、少年の問題行動は次第に過激になっていくが、母親が説教をする度に彼は彼なりの言い訳をしている。私は母親だけを責めるつもりはないが、どこかズレを感じる。少年の母親は淳くんが行方不明で淳くんのご家族や近所の人達が一心不乱にその行方を捜しているときに、淳くんのお宅の留守番を申し出ておいて当時流行だったたまごっちをしていたという、そのあまりの無神経さに唖然とした。また、彩花ちゃんのご両親と面会したときにも申し訳なさそうにしている父親にはその心情を推察せずにはいられないが、彩花ちゃんのお母さんが申し出るまで少年の母親はサングラスを外さなかったそうである。たとえどんなに涙で目が腫れていようとも、室内でサングラスを掛けることは謝罪の相手にあまりにも失礼である。誠意がないものと相手に取られても仕方のない行為である。率直に述べると少年の両親の手記を読むと、少年の両親は少年を連れて淳くんや淳くんのご両親に謝罪することはないのではないかと思えた。もちろん、これは断定できるものではない。

 人間は動物とは違う。感情、心、精神を持っている。彩花ちゃんも淳くんも誰からも愛されるべき存在だったと思う。二人とも、家族のことはもちろんのこと、スニーカーも亀も花も精一杯愛していた。彩花ちゃんの最後まで生きようとする力、愛の力というのは、本当に素晴らしい。彩花ちゃん自身の愛があのように奇跡的にも穏やかな最期を迎えるように働いたのだと思う。

 この事件というのはとてもデリケートであり、私の心の中で纏まりきらないのではないかとずっと思ってきた。またこの本が出版された当時はまだその本を手に取る勇気がなかった。しかし、読み終えておいて良かったと思う。私は私の心の中で育まれてきた愛を大切にしたいと思う。また、この事件には「だけ」という言葉は不適当だと思っている。これは少年一人だけが悪いわけではなく、また少年の両親だけが悪いわけでもなく、日本の教育だけが悪いわけでもなく、この社会を創り出した大人達だけが悪いわけでもなく、少年の通っていた中学だけが悪いわけでもない。責任を曖昧にするつもりはないが、全ての責任は全てにある。その責任の割り当ては私にはわからない。

                          

                     

 

 

                 

 

 

 

 

 

                         

  「淳」「少年Aこの子を生んで・・・」「彩花へ 生きる力をありがとう」

 

 この3冊を続けて読んだのは、それなりに訳がある。被害者側と加害者と加害者の両方を知りたいと思った。この神戸の事件の記憶もまだ鮮明なうちに京都で小学2年生が白昼校庭で刺殺されるという事件が起こる。この犯人はまだ逮捕されていないが、報道によると未成年の可能性がある。この神戸の事件の時には震災の記憶がまだ生々しかった。震災で未曾有の大災害を受けた神戸の人達誰しもが地域の復興、家族のため、愛する人のために助け合って生きているように見えた。そのような神戸で日本全国を震撼させる事件が

連続して起きてしまった。被害者の方は過剰なマスコミの反応の為にプライバシーを侵害され、精神的によりいっそうダメージを受けられたこと、ただの同情では済まされないものであると思うが、当時連日のように報道されたこの事件の進行に目を離さずに入られなかった。もちろん、興味半分ではなく、批評家や小説家達が語ることだけでは少年Aは私の中では消化されなかったからである。

 では、この3冊を読み終えて、少年Aを理解できたかというと、答はNoである。ただ、はっきりと言えるのは、彼は人と人との繋がりを自らきっぱりと絶つことを望んだということだ。これはこの本を読む前、当時、事件の報道がなされていたときから感じていた。少年が傷つけた対象は必ず、少年よりも明らかに弱者である。少年は自分よりも体格の良い格闘技家にハンマーを振り下ろすような事は絶対にしなかったはずだ。猫も友人も淳くんや彩花ちゃんもそうである。気に入らない友人を拳に腕時計をつけて殴るという行為はその友人との関係を断ち切る行為である事には違いないし、淳くんや彩花ちゃんの場合は命をも断ち切ってしまっている。自ら愛を拒否しているかのようにも思える。

 少年の逮捕後、心理学者達は少年についていろいろと述べていた。逮捕後の少年の自供は少年の心を正直に言語化したものがあると思う。人間は動物とは違い言葉というものを持っている。言葉により心を表現する事が可能である。それは相手に自分の心を伝える働きもするが、自分の心を自分自身に知らせるという働きもする。その少年の言葉を私は正確に読みとる自信などないが、少年は人格形成過程の中で最も大切な乳幼児期や少年期に愛の原風景が満たされなかったのではないかと思う。そして、愛を感じることが出来ず、社会への適応能力が欠けてしまった。少年は両親にとって初めての子供であり、少年の両親の手記によれば両親は少年の事をとても可愛がったとあるが、少年はやはり幼い頃に愛に飢えている事を証明するかのような行動とっている。

 少年の両親は少年を如何に愛し少年との楽しかった想い出を綴っているが、少年にとってはその想い出は必ずしも両親とは同じように捉えていなかったと思う。それらは、少年にとって愛の原風景に成り得なかったのである。そして、少年にとって特に母親の影響は大きかったと思われる。一緒に過ごした時間が誰よりも長かったし、母親というのは、どこの家庭でもとても大きな存在であるはずだ。それは良くもあり悪くもありだろう。淳くんのお父さんの手記と少年の母親の手記では同じ事柄でも異なるものがある。事件の3年前、少年は淳くんを苛めていた。少年の先生は淳くんの家に少年を連れていき、少年に拳をあげて謝罪させ、少年は泣いていたので、その時淳くんのお母さんは少年を許し、少年の母親にその事を報告の電話をすると、母親は「仲の良い友達とクラスが別れてストレスが溜まっていた」のだと言い訳をして終わらせる。その後、少年の問題行動は次第に過激になっていくが、母親が説教をする度に彼は彼なりの言い訳をしている。私は母親だけを責めるつもりはないが、どこかズレを感じる。少年の母親は淳くんが行方不明で淳くんのご家族や近所の人達が一心不乱にその行方を捜しているときに、淳くんのお宅の留守番を申し出ておいて当時流行だったたまごっちをしていたという、そのあまりの無神経さに唖然とした。また、彩花ちゃんのご両親と面会したときにも申し訳なさそうにしている父親にはその心情を推察せずにはいられないが、彩花ちゃんのお母さんが申し出るまで少年の母親はサングラスを外さなかったそうである。たとえどんなに涙で目が腫れていようとも、室内でサングラスを掛けることは謝罪の相手にあまりにも失礼である。誠意がないものと相手に取られても仕方のない行為である。率直に述べると少年の両親の手記を読むと、少年の両親は少年を連れて淳くんや淳くんのご両親に謝罪することはないのではないかと思えた。もちろん、これは断定できるものではない。

 人間は動物とは違う。感情、心、精神を持っている。彩花ちゃんも淳くんも誰からも愛されるべき存在だったと思う。二人とも、家族のことはもちろんのこと、スニーカーも亀も花も精一杯愛していた。彩花ちゃんの最後まで生きようとする力、愛の力というのは、本当に素晴らしい。彩花ちゃん自身の愛があのように奇跡的にも穏やかな最期を迎えるように働いたのだと思う。

 この事件というのはとてもデリケートであり、私の心の中で纏まりきらないのではないかとずっと思ってきた。またこの本が出版された当時はまだその本を手に取る勇気がなかった。しかし、読み終えておいて良かったと思う。私は私の心の中で育まれてきた愛を大切にしたいと思う。また、この事件には「だけ」という言葉は不適当だと思っている。これは少年一人だけが悪いわけではなく、また少年の両親だけが悪いわけでもなく、日本の教育だけが悪いわけでもなく、この社会を創り出した大人達だけが悪いわけでもなく、少年の通っていた中学だけが悪いわけでもない。責任を曖昧にするつもりはないが、全ての責任は全てにある。その責任の割り当ては私にはわからない。