「母の上京」(坂口安吾)

 

 「子が自立すると母は子供の子のような動物になりたがる。」そうだ。主人公は母親に厳しく育てられた記憶のまま月日を重ねていて、母親とは恐ろしいものだという。私は、物心がつき初めた頃から、親というものに疑問を持つようになった。中学の卒業文集で尊敬する人の欄に偉人や小説家の名ではなく、「父親」または「母親」と書く友達の気が知れなかった。私は思春期の終わりまで、その事について悩んだ。聖書の十戒にも「あなたの父と母を敬え」とある。でも、私には物心ついた頃からそれができなかった。そして、思春期の終わりの頃、ようやく親とは、決して完璧なものではなく、欠点だらけの一人の人間にすぎないということ、そして自分自身も欠点だらけの人間に違いないと思えてきた。 私は、子供の頃、母親の言うことを聞かないとき、顔を叩かれたこともあるし、何か物で体を叩かれたこともある。確かに、その当時、母親は恐ろしいものだと思っていた。癇癪持ちでヒステリックで、それは、時として私の予想に反して起こった。けれど、自我の目覚め、私の心の中に自立心が芽生えるとともに、私は貝のように頑固になった。進学、クラブ活動、引っ越し、就職、思春期の頃に決断しなければならない時、それを反対されようがされまいが、自分自身で決めて譲らなかった。そして、私の身長体重は中学に入る前に母親を追い越した。また、それに伴い、体力的にも追い越していった。ある出来事によって、母親が子供の子のような動物に思えた時、母親とは私にとって、哀れで、切ない存在となった。どんな偉人でも、その母親からすれば、100%親孝行な子供などいないのかもしれない。

 今現在、私の周りには、既婚未婚に関わらず、結婚に否定的、悲観的な人が多い。でも、この頃私は、その言葉に耳は傾けるけれどそればかりでもないと思っている。結婚して妻となり、母親となれば、愛する人が増えるという事だと思う。また、今とは違う自分を見つけることが出来るのではないかとも思う。人の親になるということは、何も自分が偉くなるということでは決してないけれど、愛する人が増えるということは、無条件に素晴らしい事だと思う。母親とは子供を無条件に愛するものだと思う。それが、前提にあるからこそ、主人公は久しぶりに母親に再会して、自然と親不孝を詫びることができたのだと思う。