「白痴」(坂口安吾)

 

 今初めてわかったことだが、このワープロソフト一太郎8では「はくち」と入力すると、「白雉」と変換される。「白痴」はでてこない。この「白痴」は使ってはいけない言葉なのだろうか。言葉は時代と共に変わっていくものであるから、私の古い国語辞典をひいてみてもその答は出てこない。「白痴」はその辞書によれば、「精神薄弱者」とあるが、この「精神薄弱」という言葉も「知的障害」に変わろうとしている。

 私は戦争を体験していない。大阪大空襲の時の地獄絵図のような京橋の様子を時折お年寄りから聞いたり、その時代を背景にした小説を読む程度の知識しかなく、ありがたいことに体感していないので本当の戦争を知らない。帝国主義から軍国主義。国の政策によって国民の生活も人生も精神までも操られてしまう。操り人形の心とはどんなものだろう。操り人形には心はないが、人間には心とか精神というものがある。どんなものにも、誰にも操られていいものではない。この時代背景にした小説でよく「戦争で人が変わった」という言葉を目にする。

 毎日当たり前のようになってしまっている空襲。戦争一色、世間では内地決戦のために女、子供も訓練され、表現の自由が奪われた時代。人と違うことをすることは悪とされ、捕らえられ帰らぬ人となった。人と同じ事をしていても、戦況は悪化するばかりでやはり帰らぬ人となった。死ぬかも知れない日が毎日やってくる。闇がやがて朝日と変われば、一日生き延びたという証ではあるけれど、また闇がやってくるように死に近づいている証でもあるのかもしれない。死が身近にある毎日。何が正しく、何が間違っているのか判断することが許されない時代。

 白痴の女は本当に白痴だろうか。誰が白痴と決めたのか。違うのではないか。町内の婦人達と同じ事をしない。ご飯を炊く事もみそ汁を作ることもできない。しかし、他人の家の押入に閉じこもることで自己主張している。気違いも本当に気違いだろうか。もしかすると、時代に翻弄されず、自分を見失わない人なのではないか。白痴の女は押入に閉じこもることで、気違いの男から逃げようとしたたのではなく、本当はこの日本の国から逃げようとしたのかも知れない。白痴の女がブツブツと言うのは、自分自身を保っているからだと思う。それに比べて、主人公の伊沢は、空襲の最中にも世間体を気にしている。それも小さな、狭い路地の一角だけのことなのに。また、数時間後にはその世間も無くなってしまっているのかも知れない。それは、戦争による虚無感、脱力感、正義感の喪失がそうさせてしまった。

 伊沢は女の柔らかい体を抱きしめて二人一緒だと言う。その言葉にどれほどの真実味があったか。まだ戦争が終わったわけではない。戦争のない時代であれば、二人に明るい未来があるだろうが、戦時下において、男の言葉にどれほどの真実があるのか。女が小さく頷いて、ほんの一瞬だけ恋愛映画のようだ。無感動のはずの男が自分の取った行動に感動している。しかし、すぐに現実にもどされてしまう。

  あの戦争が終わってもう、半世紀以上が過ぎた。日本は平和ボケしていると言われるほどに平和である。国内の治安も先進国の中で一番いい。表現の自由もあるし、民主主義であり、自分の思い通りに生きることが出来る。人権問題も少しずつ明るい方へ向かおうとしている。女性も男性と同じように自分の人生を選択することができる。不可能が可能になった。自己主張することができて、人生に置いて学校、職業、結婚、出産等自由に選ぶことが出来るようになった。

 だが、今、自分の選択権を自ら放棄していないだろうか。他人を頼っていないか。自分を善とする人達ばかりのところに逃げ込んでいないか。他人の考えに左右されるのではなく、他人の批判や意見を咀嚼して自分の心に受けとめているか。自己主張や自由は度が過ぎれば、利己主義で我が儘になる。足下を見つめ直さなければいけない。

 今年のワールドカップでクロアチアのボバン選手を初めて知った。長い間内戦が続いた旧ユーゴの人々は、そんな時代にも夢と希望を捨てなかったように見えた。ボバン選手はクロアチアの英雄と言われている。どんな時にもサッカーを愛していた。