「いづこへ」(坂口安吾)を読んだ後で
切なくなった。それは、なんとも言いようのない深い切なさだった。
私はそれまで、坂口安吾先生の名前は知っていても、実際にその文章を読んだことはなかった。初めて読むかの有名な坂口安吾の文章が「いづこへ」であったわけだが、前半でとても共感、親近感、予想を上回る程の好感を持つ事が出来た。「落伍者」という語感、その言葉の軽さと重さが心地よく響いた。
私は自称「中途半端な落伍者」である。挫折とか妥協という言葉も一通り知っているが正義感というものをゴミ箱に捨てたつもりはない。自分が正しいと思う事を発言し主張もするが、それをどんな時でも押し通すかというとそうでもない。やはり、食べるためだけに働いているのではない。食べるためだけの仕事は、面白くもなんともない。もちろん、今の仕事を楽しいと思っているが、遊ぶこと、浪費する事も楽しいと思う。貧乏人は実は浪費家だったのだ。貧乏人は、お金がないのだから絶対に質素倹約に勤めると決めつけられがちかもしれないが、案外そうでもない。お金がないならお金がないなりの生活をするのではあるが、ないお金の範囲でお金を浪費するものだ。私は自分の貧乏さ加減を自分自身で認知しているので、決して分不相応なブランド志向ではないが、バーゲンの頃になると、所有欲が沸々とわき起こってきて、ショーウインドーのワンピースに吸い込まれそうになる。
ところで、私は男と女の修羅場をまだ経験したことがない。そういう経験をしてもおかしくない年齢であるし、決して浄くない私は修羅場をみてもおかしくないような事も犯してしまった事もあると思う。それだけに、「いづこへ」を読んだ後、切なく、怖くなった。将来、これから先、私はどうなるのだろうか。私の性欲というものは、まだ私自身にもよくわからない。私の体を通しての経験や読書を通じての経験からも想像つかない。男と女の性欲というのは、もっともっと、エネルギッシュなものだった。ずうっと昔も、そして今も。
不良信者の私は、「無償の行為」というものを言葉の上では知っているが、実際に無償の行為というものを日頃行っているかというと、全く自信がない。というよりは、まだまだ、「無償の行為」など、今の私には畏れ多い言葉のような気すらしている。