18切符 98’ Epilogue

 川端康成の「踊り子」の主人公は、二十歳で伊豆に一人旅に出かけている。小説の中の彼は学生だった。私も二十歳の時学生だったが、一人旅には全く興味がなかった。一人旅どころか、旅の楽しみすら知らなかった。それどころではなかった。旅をするほどの金銭的、精神的ゆとりがなかったのかもしれない。今から考えると、安く旅行する方法は探せばいくらでもあるのに、もったいないことをしたと後悔する。

 

 3月25日からの2泊3日の10日後、友達に誘われて再度東京に遊びに行った。もちろん、18切符の残りを使い、神田のビジネスホテルは週末価格で1泊4000円台になっていたからこそ、よく言えば倹約家、平たく言えばけちん坊の私にも10日のうちに2回も東京に旅行するなんてことができたのだ。

 

 今年の旅行で、今までの東京観ががらりと変わった。東京は、遠いところだと思っていた。18切符だと、東京〜大阪間は半日がかりなわけで遠いことには間違いないのだが、「東京の人は冷たい」なんていうのは、とんでもない嘘で関西人も東京の人も同じ日本人であり、とても身近な場所、親しみの持てる人達だと感じた。上野の不忍池の周辺は、天王寺に似ていたし、人が溢れかえっている新宿を歩いていて思ったのだが、東京の人は優しい。新宿は地下鉄、切符売り場、出口と沢山の人が思い思いの方向に歩いている場所だ。というと、大阪では梅田の阪急、阪神のあたりもそうだし、難波の近鉄のあたりもそうかもしれない。大阪の場合は、自分の歩く方向を強く意識してそれに向かってまっすぐに早足で歩くのがコツである。そうすることによって、向かってくる人とぶつかる事を防ぐことが出来る。ずっと手前からお互いの方向を意識しているから、うまくすれ違いぶつかることはない。それが、東京の場合は、私の歩く方向と逆にこちらに向かってくる人は、手前で歩みをゆるめたり、立ち止まってくれる。少し、申し訳ないような気がした。

 

 今回の旅行でお世話になった人、大鉄のおじさんや民宿のおじさんはもちろんのこと、席を詰めて座って私の座るスペースをあけてくれたおばちゃん、網棚に旅行鞄をのせるのを手伝ってくれた二十歳くらいのアベック、旅の情報を提供してくれたmail友達のみんな、ありがとう。初めての出会いで、淋しいけれどもう二度と逢うことのない人もいるだろう。でも、みんな再会したい人達。電車で向かい合わせに座っただけの人なんて、また逢える確率は低いだろうと思う。いや、もしかすると、いつかまた、18切符で旅行していたら、同じ電車で逢うこともあるかもしれない。

 

 私はPrologueの一番最初に「人は非日常を求めて旅をするのだろうか」と書いた。毎日毎日、時間に追われ、拘束され、時間が自分を追い越していくような気さえして来る時がある。長期の休日の春休みは、そんな日常からの解放だった。、もし旅行をしていなかったとしても、「休日」、それだけで本当は非日常的な出来事なのだ。今回の旅行で、私は非日常を存分に味わった。「ありがとう」を言いたい人が沢山いる。それはそれで、楽しい経験、きれいな想い出が沢山できて良かったのだが、今、私はふと気づいたことがある。今回の旅行で私がお世話になった人達は、私にとっては非日常的な人達であり、それらの沢山の小さな親切は決して小さいものではなく、とてもとても大きな親切を受けたと思っている。でも、どうだろうか。日常、私は心にバリアを張って小さな親切を見逃したり、困っている人の横を通り過ぎていなかっただろうか。私にとって、今回の旅行で親切にしてもらった人達は非日常的な人達であったが、その人達からすると、私は非日常的な人でもなんでもなく、日常的な人だったのではないだろうか。親切とか思いやりが非日常的な事になっていた私の心は、なんて恥ずかしい心なんだろう。

 

 もう少し、仕事が落ち着いたら、またどこかに旅行に行きたいと思う。18切符は販売期間が決まっているので、今度はバイクで行こうかと思う。月曜日に本屋さんに行くつもりにしているので、その時に必ず地図を買おう。