18切符 98’(後編)

 

 翌朝、目覚まし時計もないのに、いつもの朝より早く目を覚ました私は、朝風呂に入ることにした。浴室に行く途中、民宿のおじさんと朝の挨拶を交わした。浴室に入ると、すぐ正面に大きな窓がある。昨夜は真っ暗で窓の外は何も見えなかった。こちらから窓の外の景色は何も見えなくても、暗闇からは明るい浴室の中が見えるのではないかと、余計な心配をしていたが、明るくなった朝、窓の外を見てみると、あたりは草むらで民家があるわけでもなく、誰からも覗かれる心配はないだろうと思い、熱いシャワーを浴びた。体を洗いながら、また窓の外を見てみると、今度は、草むらから白い煙が出ているではないか、まさか、そこで誰かがお風呂を湧かしているわけではないたろうと思いながらも半信半疑だった。どう見ても、人っ子一人いない。では、何故煙が出ているのか、考えてみれば単純なことだ。その煙の正体は、温泉のお湯なのだ。

 

 朝風呂の後、純和風の朝食をいただいた後、お勘定を済ませて宿を後にした。玄関先で行き先をおじさんに言うと、おじさんは奥に入っていき、ゴソゴソと捜し物をして、一枚の割引券を渡してくれた。これから行くところは、小涌谷からもう一つ奥の駅にある箱根彫刻の森美術館だった。

 

美術館に入ってすぐのところにあります。白い大きな瞳から涙のように水が流れ出ていました。

 

ステンドグラスで覆われた塔があり、その屋上からぱちりっ。

 

塔の中は小さくて狭い螺旋階段になっています。階段を降りる途中で、ステンドグラスをぱちりっ。

陽の光に反射して、きれいでした。

 

 

 空は一面ブルーに晴れ渡り、手に持ったコートが邪魔でしようがなかった。彫刻の森美術館は、箱根登山鉄道の彫刻の森駅を降りて1分のところにある。小涌谷駅から彫刻の森駅は一駅で、その一駅の距離も短く、もし直線の線路であれば小涌谷駅から彫刻の森駅のホームが肉眼で見えるのではないかとさえ思う。

 

 彫刻の森美術館の敷地は、とてつもなく広大だった。野外に彫刻やオブジェが並んで立っていることは、新聞記事で知っていたけれどまさかこんなにも広いとは思っていなかった。ゴルフ場のゴルフバッグと一緒に移動するカートやプロ野球でピッチャーがブルペンからマウンドに向かうときのカートがあればいいのにと思った。5pヒールの革のロングブーツを履いていたことも後悔した。

 

 私は、どんな絵画や彫刻が素晴らしいという事を判断する目を持ち合わせていない。彫刻やオブジェを見て、ただ驚いたり、感心したり、面白いと思ったりするばかりだ。美術館や美術展には、デパートの小さな個展を含めて年に幾度か足を運ぶ。大きな美術館は展示の数も多く建築物も素晴らしいが、次々と視界に入る美術品と人だかりに気分が落ち着かなくなってしまう。この箱根の彫刻の森美術館の場合、美術品の多くが野外にあり、周辺の箱根の雄大な山々をバックにしており、美術品の1点1点がその風景に溶け込んでいる。目に映る全てのものがキャンパスなのだ。歩き疲れて足が痛くなることはあっても、精神的にはとても壮快な気分になることが出来た。

 

 計画以上に美術館で時間をとってしまった私は、箱根登山鉄道の彫刻の森駅に急いだ。前日の大井川鉄道にも驚き感動したけれど、箱根登山鉄道もまた驚きと感動の連続だった。上りは夜だったために、車窓から家々の灯りが見えないので山の中だろうとしかわからなかったが、まさに山と山の間を走っている感じなのだ。能勢電鉄に初めて乗った時「田舎道を走るなんて可愛らしい電車だ」と思ったが、全くそれとは比べ物にならない。人を見た目で判断してはいけないと言うけれど、それは電車にも言えるようだ。外観は華奢な体をしているのに、一旦走り出すと非常にパワフルになる。箱根の山々の中を疾走し山を下っていく電車から見る車窓からの景色は、圧巻だ。まるで山の緑や若葉や木々や眩しい春の日差しが私に「元気」の爆弾を投げつけてきているようだった。電車の一番前の車両で一番前の席に座った私は、ポータブルMDでカミングアウトした女性ヴォーカルのバンドの曲をBGMにして、窓の外を観察し、「元気」の爆弾を正面から受け続けた。それは、とても快感だった。

 

 小田原駅からJRに乗り換えて東京駅に着いた。次にパソ通友達との待ち合わせ場所の上野へ行った。2週間前に買った東京のガイドブックを見て私が、広い東京の街で行ってみたいと思った場所は、原宿でも渋谷でも新宿でも銀座でもなく、上野だった。若者の街、ファッションの街、高層ビル街なら大阪にもある。こんなことを書くと東京の人からは関西人の僻みのように思われるかも知れないが、東京が流行の発信基地だとは思っていない。確かに、東京は日本の首都であるし、国会も皇居も東京にある。それは仕様のないことだと思う。が、大阪から何かブームを作り出すものも多い。音楽、食べ物、ファッション、ドラマでも在阪TV局は元気に頑張っていると思う。ただ一つ気に入らないのは、出版業界が東京に集中していることだ。

 

 上野での目的地は、夏目漱石先生の旧家のつもりだった。「つもりだった。」というのは、漱石先生の旧家に行きたいとパソ通友達に話した時にすぐにそれは不可能だと教えられたからだ。とんだ笑い話というか、まるで用意されていたかのようなお土産話なのだが、ガイドブックを読んで私は夏目漱石先生の旧家が日本医大のすぐそばにあると思っていた。それが友達がガイドブックを見るとその場所にあるのは「旧家」ではなく、「旧家跡」だった。どうしようかと二人で相談した結果、折角楽しみにしていたこともあり、ガイドブックにある「旧家跡」の場所に行ってみることにした。ガイドブックの地図を頼りに、坂道を登って根津神社の前を通り過ぎて日本医大の近くまで来たが、それらしき看板も石碑も見当たらない。地図からすると日本医大を通り過ぎて横道を入ってすぐの所になっている。日本医大の角を右に曲がって、ようやく見つけた。薄っぺらな看板が立っているだけだった。この事をその夜の飲み会で初対面のパソ通友達に話すと、言うまでもなく自然と場が和んだ。

 

 漱石先生の看板を確認した後、坂道を下って東大を通り過ぎ竹久夢二美術館に行くことにした。竹久夢二美術館は弥生美術館に隣接していた。いや、正確には弥生美術館に入って二階の渡り廊下を通るとそこから竹久夢二美術館になっているのだ。弥生美術館では、鞍馬天狗展を開催していた。私にとって昔懐かしい時代劇とは鞍馬天狗よりも萬屋錦之助の子連れ狼であり、アラカンさんの鞍馬天狗のことは昔の映画を回顧するTV番組での知識ぐらいしかない。嵐寛十郎さんとそのファンの方には誠に失礼な話だが、軽いついでのつもりで鞍馬天狗展を見ることにした。古いが鮮やかなポスターや本や連載小説の新聞記事がガラスケースに几帳面に並べられていた。矢印通りに一通り展示物を見終わって、竹久夢二美術館の方へ移動した。

 

 私は当たり前のことだが、竹久夢二をリアルタイムで知らない。その時代の小説を愛読することはあっても、細やかな時代背景や当時の文化、習慣、流行となると、TVドラマや映画からの情報で知る程度で、知らないものの方が多い。竹久夢二の名をどこで初めて知ったのか、もう覚えていないが、いつだったか小さな個展で竹久夢二のきれいな着物を着た女の人の絵を見て、「なんて艶っぽい女の絵を描く人なんだろう」と思った。また、この竹久夢二美術館を訪れるまでの私の男としての竹久夢二観は、「女にだらしない人」だった。

 

 まず、入り口で竹久夢二の生い立ち、経歴を読む。そして、数々の夢二の絵が展示されている。掛け軸のような大きなものから、雑誌の表紙絵のような小さなもの、ひとつひとつに見入った。どれも柔らかく穏やかで優しい色彩で、夢二の柔和で有りながら繊細な人柄がしのばれる。当時の通信手段は手紙や葉書が主流だったこともあるだろうが、夢二はとても筆まめな人で、 ファンレターをくれた人、一人一人に返事を書いていた。その返事の手紙の宛名の中に私の実家の近くの人がいて驚いた。竹久夢二美術館の2階の小さな階段を降りて、その階段の左の1階の出口の一番近くに夢二がほんの短い間一緒に暮らした若い女性の絵や遺品が展示されてあった。ここで、夢二観「女にだらしない人」を撤回する。彼女は私が思っていたような人ではなかったし、彼女と夢二との愛は、切なく、儚いものだった。単純な不倫とかでもなく、「失楽園」でもないと思う。今の私の歳まで彼女は生きていなかった。

 

 この弥生美術館と竹久夢二美術館は、文京区の閑静な住宅街の中にある。それは芦屋のお屋敷街とは違い、玄関ポーチに可愛らしい草花が飾られたガーデニングに凝った家々で、歩道を友達と肩を並べて歩きながら植物の話題等会話が途切れることはなかった。大きな有名美術館に行くよりも、こじんまりとした竹久夢二美術館はちょっと穴場だと思った。ただ、外観もこじんまりしているために、一般の住宅かと勘違いして危うく通り過ぎそうになるので、お上りさんはガイドブックが必需品かもしれない。

 

弥生美術館

東京都文京区弥生2−4−3

竹久夢二美術館

東京都文京区弥生2−4−2

 

 竹久夢二美術館を出た後、上野の駅に向かう。どの道を歩くと近道でできるとかと話しながら不忍池の畔を歩いた。不忍池から上野駅までの道は、どこか天王寺公園を思い出させる。アスファルトの色、すれ違う地味な色の服を着たおばちゃんやおっちゃん達、池の臭い、日本の首都東京のイメージとは少し違和感があるというか、東京と言うよりは大阪の臭いがしてきそうだ。特に「大阪焼き」というお好み焼きを回転焼き器で焼いたものを売っている屋台は、大阪にはなく初めて見たが、その発想は大阪っぽいのかもしれない。パンダの人形焼きの屋台も、大阪にはないが、私の中では都会の東京らしくないもののように思えた。

 

 東京駅の銀の鈴で他のパソ通友達と待ち合わせをして近くの居酒屋で、料理よりもお喋りを肴に時間を忘れて飲んだ。その夜の宿泊先、神田の駅のすぐそばのビジネスホテルだった。このビジネスホテルの情報は、インターネットで知り予約をするときに情報源を告げると安くしてもらえるという嬉しいシステムになっていた。私の部屋はシングルでベッドと机とテレビが一台ずつとトイレがあるだけで、風呂はなかった。地下一階に大浴場があった。時間が遅いからか、女湯には、誰ひとりいなくて昨夜の箱根の温泉のように、大きな湯船に一人で悠々と浸かった。

 

翌日、時間を急ぐ必要は何もなかった。大阪に帰ってからの予定は何もない。ただ、生憎、外は雨だった。そして、天気予報ではまだこれからひどくなるらしい。傘は持ってきていない。のんびりと18切符で帰ると、大阪に着くのは夜になる。この2日間、いろんな人のお陰でとても楽しかったし昨夜もぐっすりとよく眠ったが、そろそろ自分のベッドが恋しくなった。

 

 私は雨がひどくならないうちに急いでホテルをチェックアウトして駅に向かった。東京駅についてから、このまままっすぐ東海道線の下り電車に乗るのはもったいないような気がしてきて、きびすを返して山の手線に乗ることにした。山の手線一周であれば雨に濡れることなしに東京見物ができると思った。

 

 通勤ラッシュの時間であるにも関わらず、私の乗った山の手線の車両は意外にも空いていて、乗っている間中旅行鞄を網の上に上げて椅子に座ることが出来た。乗って暫くは近くの窓が開いていて、車窓を見ることができたが、風が強くなってきてサラリーマン風の男性がその窓を閉めてしまった。それからは、窓は雨ですっかり曇ってしまい、車窓は白いボヤがかかってしまった。それでも、ボヤの隙間から東京の街を見たり、乗客を観察して、いろいろな事を考えた。1周して東京駅に戻って、お土産のお菓子を一箱と朝食にサンドイッチとジュースを買って、東海道線の下り電車に乗った。あとはまっすぐ東海道を下るだけだった。ほっとした。