1996年のG.W.


2000年5月3日
 
 20世紀最後のゴールデン・ウィークをこうしてダラダラと過ごしていますが、記憶の片隅には、かつて黄金の限りを費やしたGWの思い出が残っています。
 その記憶に間違いはないだろうかと、当時の証拠である「手帳」を懸命な発掘により発見いたしましたので、再現してみたいと思います。

 ちなみに1996年のGWは3日が金曜日でしたので、振替休日の月曜日6日までの4連休でした。



5月2日(木曜日)

 通常通り出勤。帰宅後、急いで支度して、浅草駅に集合。栃木県の足利に向かう。
 深夜には足利駅に到着。タクシーで20分くらいの「ココファーム・ワイナリー」到着
 

 ワイナリーといえば「ワイン用のブドウを栽培しているところ」ですが、そんなとこに深夜に行ってなにするんだと思われるでしょうが、そこでテクノのイベントが開かれたのです。イギリスの有名なロックフェスティバル「グラストンベリー glastonbury]は広大な農場で開催されています。日本でもとうとう!ということで好事家(?)の期待は高まっていました。しかも出演者は当時ときめいていた「インテリジェント・テクノ」の有名どころがずらり。ミックス・マスター・モリスやスペースタイム・コンティニューム等。
 我々は張り切って出掛けました。
 しかし、悲劇が起こりました。イベントは午前3時過ぎに突如中止になってしまったのです。
 あとで、原因が推測されましたが、多分地元民の若者達が「安く振る舞われたワイン」で羽目を外し、場外で交通事故を起こしたのと、騒音に対して近隣の住民から苦情が殺到したので、警察から圧力がかかったようです。
 たしかに通常の「野外レイブ」と違って、かなりオープンなパーティだったので、未成年の客が多く。そいつらにワインを売ってしまった主催者としては苦情に対する言い逃れもできなかったのでしょう。
 とにかく、夜明け前に音は止まりました。


5月3日(金曜日)
  
 未明。友人達とどうしようかと思案していたが、客たちは次々とワイナリーを去り始め、場内も閑散としてきたので、我々も帰り支度をする。場外に出るものの、送迎バスは長蛇の列で、そのまま待っても駅までいつ着けるのかは不明。タクシー呼ぶにも電話番号がわからない。運良く、だれかが呼んだタクシーが呼んだ本人が来なくて困っていたので、それに乗せてもらって足利駅に向かう。その運転手が、田んぼの真ん中で横転した四輪駆動車を見せられ(というか、その車のおかげで迂回)事態をおもむろに把握する。
 始発の急行浅草行きで浅草へ。
 同行していた友人が疲労のためか、具合が悪くなったので、家まで送る。昼くらいに帰宅。
 いったい栃木まで何しに行ったんだろう?


5月4日(土曜日)
 
 鎌倉の海岸沿いのレストランを借り切って友人の主催するDJパーティ「アンビネット・カフェ」に出向く。
 足利に行かなかった友人を誘っていった。海辺でくつろいだり、ゆったりと音楽を聴いて昨日の疲れをいやしながら、午後を過ごす。
 夜に友人と都心へ戻り、友人の心配をよそに、新宿のリキッドルームにそのまま移動。
 FABIOのDJでドラムン・ベースを堪能。朝まで元気に踊る。


5月5日(日曜日)
 
 始発電車で帰宅。すぐ就寝。
 夕方やっと目が覚める。えらく疲れている。当たり前だ。遊びすぎ。
 
 この日は無念の足利のパーティーに出演した面々の東京公演が代官山で行われる予定だった。
 もともと、こちらは自分にとって「もし体力が余っていれば・・・」程度だったが、足利が中途半端に終わってしまったので、こちらには行かなくてはならない。
 体力を復元するために夜まで寝る。
 しかし、思ったほど回復せず、8時ごろには幻聴を体験。耳の片方だけに音楽が聴こえた。それも、テクノじゃなくて、なにやら歌詞付きのマライア・キャリーをダサくしたような曲。「もう、こんなんじゃ、今日はだめかも」と思って、立ち上がることもできずにうだうだしていたら、友人から電話。今夜の場所を教えてくれという。代官山の場所の説明は面倒で、いろいろ話しているうちに少し頭がクリアになってきたので、そのチャンスを逃さず、
11時くらいにBALL ROOM到着。
 
 素晴らしいイベントだった。足利で演奏する予定だった人達も急遽参加して、かなり内容の濃いものになった。
 いい音を聴いていたら、みるみるうちに元気になって、朝まで踊りまくる。終わったあとアーティストらと記念撮影までした。
 そのまま、アフターアワーズ(クラブが朝終わったあと、昼まで開かれるパーティー)に参加。旧山の手通りをミックス・マスター・モリスを率いて、MONSOON CAFEまで歩く。


5月6日
 
 早朝より、同レストラン最上階の半屋上スペースで極上のアンビエントを聴き、けっこう調子こいていたので、そこでもけっこう踊り、昼くらいにパーティーは終了し、友人と軽く食事してから帰った。(ほぼ12時間踊っていたことになる)
 
 とても充実したGWであった。その後、就寝して翌日から仕事。
 ・・・・・と、ここで終わるはずなのだが、手帳の記録によるとまだ先がある。


5月7日(火曜日)
 何も記載なし。普通に出勤したらしい。
5月8日(水曜日)
 就業後、西麻布YELLOWへ。HARDFLOORのライブを観に行く。12時までに終了した。
 そのまま、新宿のOTOへ行く。友達がDJしていたのだ。3時ごろ、知人宅に引揚げ宿泊させてもらった。
5月9日(木曜日)
 知人宅からそのまま出勤。
5月10日(金曜日)
 職場からいったん帰宅してから、MOON AGE@新宿AUTOMATICに行き、朝までいた。
5月11日(土曜日)
 テクノではなくてジャズ系の友人の主催するイベントにSILENT POETSがDJするというので、またOTOに遊びに行っている。当然、また朝帰り。

 ううーむ。まったく何やってたんでしょうね。
 なんでそんなに体力あったのか不思議です。当時、29歳。

 ちなみに、手帳には5月29日に腰痛(いわゆるぎっくり腰)になって、その後整体に通う日々もきちんと記録されています。
 
 そりゃあ、どっかしらおかしくなるわなあ・・・
 
 整体医に「激しい運動は控えてください」といわれたのを真摯に受け止め、
6月14日にクラスターのライブ(深夜公演)には行きましたが、実際にフロアに戻ったのは6月22日のガルニエだったようです。
 当時はそれでもかなり自制していたつもりでいたのですが、ぜんぜん「控えて」なかったんですね。

 1996年というのは私の「踊る人」としてのピークの年だったようです。
 その後も夏には「RAINBOW2000」に行っているし、とにかく毎週のようにどこかに出没していたようです。
 そんな日々ももはや過去のものになってしまいました。
 体力以前にそれだけ私を駆り立てる「音楽シーン」がなくなってしまったのです。
 また、世界的に新しい動きが現れたら、いつでも参加できるように地道にスポーツクラブで基礎体力の維持をしているというのが現状です。

  それにしても、4年前はこんな凄まじいスケジュールだったのですね。
 あのころ、ホームページ作っていたら、今とは違うものになっていたことでしょう。もっとも、こんなことやっている暇なんてなかったでしょうけど。

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