可燃物な日々

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 日本酒8合飲んだ勢いで、新しい掲示板を作りました
4月30日(月)

 ここんとこ、自分としてはけっこう活発だったし、仕事では色々ストレスもかかったので、土日は久しぶりに寝込みました。寝込んだっていうか、ただずっと寝てただけですけど。
 いつも思うが、こうしてたっぷり惰眠をむさぼれて、なおかつ、「ああ、よかった〜、すごくいい昼寝ができた。永遠に昼寝しててもいいかも」と心から思える自分はとても幸せだと思います。

 幸せといえば、金曜日はハイジの送別会でしたが、それがまた最高だったのよ。
 元はといえば、ハイジが最近べったり甘えていたM嬢に(彼女が労務担当だったので退職手続きをしてくれるということもあるのだが)、「送別会してるれるのかなあ?」と粉をふって、M嬢が総務のみんな(って言っても、私とマスオさん)に相談していて、「大勢呼んで盛大にやりたいのか、それとも総務だけでこぢんまりとやりたいのか、どっちかね?」なんて話していたのである。

 ところが、私が休んでいる間に、なぜか会場が高級天麩羅屋になっていた。
 たぶん、M嬢が部長に「送別会どうしよう」と漏らしたら、部長が「そういや、久々にあそこに行きたい」と言い出したらしい。
 その店は、うちの会社では伝説になっているような店である。
 その昔、まだこの会社を立ち上げたときには、社員が10人くらいしかいなかったので、その店で忘年会ができたらしい。しかし、徐々に社員数が増えていき、とてもその人数では収まらなかったのだが、「どうしても、あそこの店がいい」と、「入れ替え制忘年会」というのを敢行したらしい。

 そもそも忘年会で使うような店ではないし、部長だってそれ以来行ったのは「妻の両親を連れて行った」という、かなり見栄を張りたいシチュエーションだったわけで、そんな店だから気軽に接待で使うということもなかったようだ。

 私だって、業界でそれなりに美味いもん食わせてもらったけど、さすがに天麩羅は昼しか食べたことがない。夜の部は串揚げが限界だった。たまに、そこそこのフレンチやイタリアンは「新しいお店が出来たので、接待に使えるかどうか、試しに行って試食しよう」ということで連れていってもらえたけど、天麩羅はさすがにロケハンするまでもないような名店ばかりだったのか・・・・
 さて、そういうわけで、高級天麩羅だからして、送別会も「総務限定」になり、必然的にこぢんまりどころか「1人会費5000円」だったけど、その値段で高級天麩羅が食べられるというのはどう考えてもお得であろう。

 金曜日の昼食は軽めに抑えて、万全の体制で臨んだ。

 お店は、関内の馬車道にある「天濱」というお店。
 その界隈での有名店は「天七」らしいが、そこから独立した店らしい。

 店内に入ると、噂というか伝説通りに(笑)、掘りごたつ式カウンターのみ。
 12人くらい入れるみたい。
 先客は3人組が二組で、私らが6名でちょうどいいくらいだった。

 まずビールを頼むと「作りたてなんですよ」と出てきたのが「DOPPOビール」っていう岡山の地ビール。

 ミヤノさん、それだけで大感激!
 「わあ、国木田独歩ですね」と女将に言うと「ええ、それも掛けてるらしいですね」って、掛けてるってどういう意味?と思ったが、そんなのどうでもよくなるくらい、そのビールは美味かった。さすが、作りたて?

 ビールがそれほど好きではないという子も、「これは、さすがに美味しい」と絶賛していた。

 ビールだけですっかり盛り上がったが、そうこうしているうちに、タケノコの突き出しみたいのが出て、それもかなり美味く、期待がムクムクと高まっていたら、エビの頭をさっと揚げたのが・・・・塩つけて食べると最高!

 つーわけで、次々と出てくるものが、どれも最高に美味くて、もう、あたくし、ニッコニコだったらしく、横にいたハイジと同期のF君(マスオさんが仕事の都合でこれなくなったので、急遽代役)に「ミヤノさん、超うれしそうっすね」と言われたくらい。

 いやー、なんつーか、よくテレビでは高級天麩羅食べてるのを観ますが、天麩羅って見た目のインパクトはあまり無いじゃあないですか。けっこう地味っていうか。でも、最高の素材を最高の技で、ってゆーのか、ほんと、素材の旨みを油でギュっと閉じ込めた感じが、ああん、もー、また食いてーーーーーーー!(魂の叫び)

 お店の大将もゴツい外見とは裏腹に、かなり話好きの気さくな人で、細いサツマイモの天麩羅みたいのが出てきたので「これって、芋ですかね?」と言うと「ふふふ、どうぞ、召し上がってください。すぐわかりますよ」「芋にしか見えないけど・・・どれどれ、サクっ、わーーーーーーわかった〜、うんまーい!」「え?え?芋じゃないの?」「食べればわかるって、つーか、この香りが、ああ口の中にぶわーーーーっと広がって、その香りが横の人にまで伝わりそうな・・・」「え?そうなの、どれどれ、サクっ、わーーーー、わかった〜〜〜、ゴボウだああ!」「ええ?こんな太いゴボウ?」
 なーんて大騒ぎしてる私らを横目で観察しつつ「ふふふ、これは、○○ゴボウって言うんです」なんて、「してやったり」な満足顔で解説してくれました。

 さらに絶品だったのは、アナゴの天麩羅。目の前の皿に置かれたときに「これってアナゴですか?」と聞くと、大将は「まだちょっと待ってくださいね」と言って、アナゴの上に大根おろし(これも、大根おろしだけで酒が5合くらい飲めちゃうくらい美味い)をテンコ盛りして、ライムで仕上げ。

 「アナゴの天麩羅にライム?」って思ったけど、それはもう、高級フレンチの(って、よく知らんが)絶品お魚料理みたいな逸品でしたよ。
 あれは、誰でも美味しいと思うだろうけど、女性には特にウケると思う。つーか、私が日経おとなのOFF的オヤジだったら、OL釣るのに大活躍させちゃうわ。

 お食事の天茶漬けもライム風味でさっぱりしていて、もー女子(40歳ですが)の心鷲づかみでしたわよ。

 普段は酒飲みながらほとんど食事しない部長も(「オレは流動食専門」らしい。「部長が末期でスパゲティ状態になったら、いい酒持っていって点滴に混ぜてあげます」と私はいつも言っている)、「さすがにこういうのだったら食べる」と完食していたし、いつもは油モノはあまり食べられない、胃が慢性的に悪いM嬢もバクバク食べていた。

 さらに、デザートで出てきた果物が、ただの果物なんだが、聞いたことがないやつで、「へえ、そんなのあるんだ」と思ったが、名前忘れた。ええと、バカラとかポカラとか、そんな名前だったかな。カリフォルニアの果物だって言うんだけど、全く聞いたことがなかった。
 大将曰く「デザートにメロン出すのだけは嫌でね」
 いやー、拘ってますねえ。

 でも、素材や食器などに異様に拘っているわりには、肩の凝る店ではなかった。
 「きゃー、なにこれ?おいし〜」と騒ぐ、私らの相手を嬉しそうにしてくれたし。こだわりに対する自慢話はそこそこあったけど、全然嫌味じゃなかったし。「お客さんが喜んでくれると仕事のやりがいありますよ」っていう態度で、ほんと居心地のいい店であった。

 でも、1人あたり1万8千円しましたから、けっこういいお値段なので、なかなか自腹では・・・・

 でも、マスオさんが来れなかったのが残念だったので、酔った勢いで部長に「総務の忘年会はここでやりましょーよー、マスオさんにも食べさせてあげないとー」とお願いしておきました。

 横浜では一番美味いかも、と言われている店ですが、もしかしたら東京にはあのクラスの店がたくさんあるのかもしれませんが、敷居高そうだからなあ。
 いや、でも、天麩羅って、あんなに美味しいものだったとは・・・・
 フグよりも、天麩羅かもしれない。
 けっこうお野菜たっぷりだったんで、胃にも優しいし、カロリー低そう。

 まあ、しかし、「2万円あれば、あんだけ幸せに美味しい思いができるんだなあ」とわかったので、未来がまた明るくなりました。エルメスのカバン買うよりも、私は、あの天麩羅10回食べるほうを選ぶと思います。

 ところで、今日になって「あのデザートで出た果物、なんて名前だっけ?」と全然思い出せず、「ポカラ?バカラ?いや、全然そうじゃなかったような・・・・」とやっているうちに「そうだ、こういうのをギョギョームと言うんだ」と思い出した。

 玖保キリコの昔の漫画のネタである。「いまどきのこども」だったっけ?

 「パタリロ」の「黒いさんちのプリンスメロン」のネタと同じくらい、心に染み付いて離れないお気に入りの短編であるが、自分の記憶確認のため、あらすじを書いてみる。

 その町のケーキ屋さんは実直な仕事ぶりで町の住民に愛されていた。
 そのケーキ屋さんちには、ラブリー系の娘がおり、新作のケーキができると、その娘が名前をつけることになっていたのだが、「フレーズ・ド・なんちゃら」とか「なんちゃらロワイヤル」とか、ラブリーな娘が思いっきり気負ってつける複雑なカタカナ名称に、実直なケーキ職人である父は戸惑っていた。
 あるとき、父が新作のフルーツタルトを作って、娘に見せると「これは、モン・ビジューね」と彼女のセンスで命名。おフランス語で「私の宝石」という名称だが、そんなの、町の住民は誰もフランス語なんて知らんわい。

 主役級キャラの小学生が、さっそく、なんかのハレの日にそのケーキ屋に行って、新作ケーキを買ってもらった。見た目も美しく、美味しかったので、そのコは学校で「あそこの新作ケーキ、おいしかった〜」と自慢する。
 「へえ?なんて名前?」とクラスメートに聞かれ、彼女は「ええと、なんだったっけ、こんな感じのケーキで・・・・ええと、名前はたしか、ギョギョームとかそんなかんじ」

 その話を聞いたクラスメートはさっそく、お母さんに「あそこの新作ケーキが美味しいんだって」とねだり、一緒に買いにいくが、ギョギョームというケーキは見当たらない。
 実直なケーキ職人の店主に「ともだちが、新作でこういうの食べて美味しかったって言ったので」と説明したら店主は「ああ、きっとこれだ」

 そのコも翌日学校で「○○ちゃんがお勧めだったギュギョーム、食べてみたけど、ほんと美味しかった」と宣伝。
 他のコも「ギョギョームください」と店を訪れる。店主も「ああ、ギョギョームね。これのことね」

 しばらくして、そのケーキには正式に「ギョギョーム」という名札がついていた。
 ラブリー娘は「なんで、そんな変な名前に!」と不満そうだったが、父は「だって、お客さんがそう言ってくるから」とかなんとか。


 以上、とても「ありそう」な話であったので、以降、わたくし的には「わけわからん外来語名」は全て「ぎょぎょーむかっつーの」ということになった。全部、ギョギョームでいいよ。

 少女漫画といえば、最近、吉田秋生の「超能力者が出てこない現実的なシリーズ」がまとまって単行本が出た。
 「蝉時雨のやむ頃」ってやつ。近所の本屋では平積み2山になってました。

 「YASHA」をさっぱり読んでなかった私としては待望の連載だ。
 つーか、「バナナフィッシュ」とか「YASHA」のほうが世間的には認知されてる作家だが(あと「吉祥天女」?)、私はどっちかというと、こういうミニマルっぽいというか、小津っぽいというか、カーヴァーっぽいというか、それだけで最高の誉め言葉だけど、こっち系の吉田秋生が大好きだったので、ほんとに嬉しい。

 つーか、すげーぞ、4姉妹ものって、「細雪」かよ!
 谷崎先生の「細雪」は、一貫したストーリーはあっても、描かれるのは、キャラの違う姉妹それぞれの生活だったりしたが、吉田秋生もやっぱりそれを狙っている。この凛とした品性を描けるのは、萩尾望都以外では吉田秋生だけかもしれない。
 ただ、萩尾望都は、どっちかというと、自分の育ちを否定形で捉えるというか、「束縛からの解放」みたいなとラウマが売りなんであるが、吉田秋生はたぶん、とても親族に愛されて育ったことを全く否定しない人で、そのあたりでは自分と似たようなところがあるので・・・なんて言うんだろう、全く問題のない家族や一族だったけど、ときどきチラリと覗く影を見逃さなかった感じというのだろうか、そういう感覚がとても好きだ。

 この「蝉時雨のやむ頃」でも、祖母から受け継いだ鎌倉の古い家に住む姉妹は、庭になる梅を梅酒にするのなんて、あたり前のことだと思っていたのだが、末っ子の異母妹が「じぶんちで漬けた梅酒なんてはじめて!」と喜ぶのを「へえ〜」と受け止めて「うちら、けっこういいことしてんじゃん」なことに気付いたりして。

 前に友だちんちに飲みに行ったら、大量にコロッケを揚げてくれて、「わー、揚げたてのコロッケうまい」と感激した。
 友たちは「コロッケなんて別に・・・・」と言っていたが、お母さんが揚げてくれたコロッケって、ほんと、こういう味だったんだよ。すっげー美味しかったもん。もう揚げたハジから食べたもん。おかーさんが「このコロッケ、明日のお弁当にもしようとしたのに、全然残らない」と嘆いたくらい。

 大人になって、さっき書いた「極上の天麩羅」みたいなのを食べたりもしたけど、やっぱ、お母さんが作ってくれたコロッケが一番美味しいかもしれない。ミヤノさんちでは、「お母さんが家庭菜園で作った菜っ葉のおひたし」が喜ばれております。厳密に言うと「お母さんの家庭菜園での先生が作った大量なルッコラどうする?」だったりするのですが。(「このルッコラ、味濃くてうめー」とバクバク食べました)

 ええと、何の話書いてましたっけ?
 ま、ハイジは無事に、5月から他社でお仕事するようです。
 相変わらず「引越しして〜」とまくしたてて失笑かってます。
 勤務地が新宿らしいので「丸の内線なんていいんじゃない?方南町とか?」と言ったら「でも、超混んでるよ〜」と反論されましたが、京王線だって、小田急線だって超混んでますって。「まあ、井の頭線だったら、久我山あたりはけっこういいよ」と教えてあげたのに「久我山?そんな遠く?」って、もう勝手にしてくださいまし。

 今の他部署の同僚の知り合いが、不動産屋に勤めているそうで、ハイジ君に「新宿通勤至便な物件」を数件紹介してあげたそうなのですが「なんか、やっぱし、ピンとこねーなー、だったら今のままでいいかも」って、ええ、ええ、小机から地道に通ってください。だいたい、君は通勤ラッシュの経験すらロクにないんですから。

 ま、辞めた人の話は置いておいて、「うつ病で出勤できない、ほっこり課長」ですが、そっちも今週は全滅で、本人としても「しばらく休職したい」とのこと。
 でもね。
 そりゃ、私も、彼のこと、あんまし評価してないってゆーか、どっちかというと「自業自得」くらいに思ってますよ。
 でもね、こうなっちゃうと、やっぱし「ビョーキ」なわけで、もうしょーがない。

 でも、やっぱし「心のビョーキ」って、けっこう理解されないんですね。

 他部署の人、てゆーか、課長と元同じ部署だった人たちに「あの課長、今週来てないんだって?」と言われて、私も庇う気はないので「まあ、そういう病で、たぶん、このまま休職になるんだと思います」って言ったんだけど「え?それでOKなの?」って言われても。

 びっくりしたのは、その場に、2年くらい前に、長期療養で3ヶ月くらい休んだ人が「ふふ、いい会社だねえ」って言ったこと。
 彼の場合は、肝炎だかそんな理由で入院して休んだんだろうけど、それと「うつ病」のどこが違うの?と思った。

 国民病と言われるようになった「うつ病」ですが、まだまだ「さぼり病」という意識が強いようですね。
 たしかにねえ、課長の場合は、別にせっぱつまって忙しいということもなく、ただ、自分で自分を追い込んだという感じがしますけど、でも、それでキチんと血を吐ける人もいますけど、そういうわかりやすいパフォーマンスできない人は、頭痛やめまいとか、微妙な症状なわけで、でもそういう症状に見舞われたことある人ならわかると思いますが、そういう「気のせい」っていうのから脱却するのがいかに難しいか。

 課長もロクに仕事してませんが、課長以下にしか仕事してない奴らから「ええ?○○さん、来てないんだ?もう、ダメじゃん」って言われていると、部外者の私がカチンときます。
4月26日(木)

 昨日、「うちの祖母の生家は、わりと裕福だったのよ〜ん」という自慢話を書いたあと、ふと布団の中(ふとふとん現象と命名)で古い記憶が刺激されて蘇った。

 小学校の4年生だか5年生のときに、クラスの友人たちと、なぜか「父母の実家」の話になった。
 夏休みなどで親の実家に帰省した話からそうなったのか、よく覚えていないのだが、ともかく、10歳そこそこの洟垂れ小僧や娘たちが、コ生意気に「うちは、母親のほうの実家がけっこう裕福で」なんて自慢話をしはじめたのである。

 その年齢であるから「裕福」とか「資産家」という単語は使わなかっただろうし、もっと幼い言葉で会話していたと記憶しているが、印象としては、昨日の私の話と変わらなかったので、その会話を思い出したのだろう。そんで、級友たちは次々と「うちは、お母さんの家のほうがわりとお金持ちみたいだけど、お父さんちは普通」とか、「お父さんちは、先祖が大臣だったとかで・・・」とか「お母さんのほうは、元は武士の家柄だったみたい」という話を披露していた。

 まあ、今から考えると、どこの家でも祖母や祖父が「うちだって、世が世なら」って話をするので、孫が鵜呑みにしただけだろうけど、そういう話をしていたら、クラスでも成績のいい、たぶん級長だった少年がある法則を発見した。

 「どこのうちも、たいてい、お父さんちか、お母さんちの、どっちかが金持ちだったりするんだよね」

 それも、今から考えると、その級長は学年でも数人だった「中学受験組」で都内のわりと名門私立に入ったので(「わりと」というのは、開成・麻布・武蔵の「御三家」ではない次のランクということ。たぶん、御三家も受験したのであろう)、そのころもこっそり塾に通っていたはずで、社会の問題で「こういう統計が出ているが、これから導き出せる結論は」なんていうことに、他の洟垂れ小学生より長けていたというか、すぐ結論を出すクセがついていたのだろう。(わたしって、性格悪いね、ほんと)

 だって、そのときに雑談してた5人くらいの統計で、そう断言しちゃうんだもん。

 で、私が30年後にそんな小学生の雑談を思い出したのは、そのときに「え?そうなの?」と、けっこう傷ついたからだ。うちの両親の実家は、明らかにどっちも貧乏人の家だったから。
 もう少し大きくなってからは、知恵もついたので「どっちもボロ屋だったが、場所は麻布と日本橋」ということに気がつき、それをけっこう自慢話に織り込んでいたけど、小学生の頃は、あの土地柄がブランドだということに気がつかなかったのである。

 もっとも、ホントのこと言えば、麻布ではなく東麻布だったし(住所改変で出来た地名なので、ホントの麻布ではない。麻布を拡大すれば税収が上がるという味の素の穴的発想だったのかね?)、日本橋ではなく「箱崎」ってどこよ?(東京シティエアターミナルがあります)だったんだけど、それはさておき、10歳そこそこの私は、クラスで一番頭のいい男子が「両親のどっちかは、家柄がいい」という法則をぶちたてたので、激しく動揺したのであった。

 ただ、私がそこで強烈にイジけなかったのは、その新興住宅街では、我が家はそこそこのレベルだったからである。引越してきた時期が早かったので、まだ土地が安かったらしく、駅からも近かったし、敷地の広さもまあまあだった。私が小学生のころ、隣に越してきた家は、一部上場企業の重役さんちだったくらい。もちろん、そっちにはグランドピアノがあったりしたし、外観も明らかに我が家とは違ったが、土地の広さは一緒だったし、家屋の広さも同じくらいであった。

 はす向かいに住む、幼なじみの家は、たしかにお母さんが「お嬢様」だった。
 その家の九十九里や那須の別荘によく一緒に連れていってもらったものだ。
 特に九十九里の別荘というか、戦時中の疎開先であったらしい古い家には、毎年のように行っていた。そのうちの従兄弟なんかも集合していたので、子供同士ですぐ仲良くなって、大暴れしていた。
 そのオバサンの姉が、結核を病んでいて、ずっとそこで静養していたが、結局亡くなったらしく、そんなエピソードも心躍る怪談話のタネだった。
 夏になれば、一族がかわるがわる訪れるので、高校生や大学生は友人同士で滞在していたから、少し大人向けの漫画雑誌や、ちょっとエッチなグラビアのある雑誌が広い居間の片隅に積んであって、そういうのを読むのも楽しかった。ちなみに、その当時は、その別荘の風呂は「たきつけ」が必要で、そういう雑誌は大事に積んであったのである。

 幼なじみの母親である「お嬢様」の実家は、元々は浅草あたりのかんざし屋さんだったらしいが、その当時は、アクセサリー屋の老舗っぽい会社になっていた。
 なので、今から考えると「親族経営のそこそこの会社」の経営者一族だったのだろう。そこんちのお父さんは、有能な若手社員だったらしく、そこのお嬢様と結婚して、役員になっていたが、おっとりとした地味なお父さんで、近所でも評判がよく、私も大好きだった。達筆な人で、よくお習字を教えてくれたけど、実は商船大学出身のけっこうエリートだったらしい。

 話は戻るけど、その海の別荘で、「へえ、お金持ちってこういうもん?」と思った記憶がある。
 従兄弟たちが集まったということは、その母親であるオバサンたちも集合していたのだ。
 その家の実の姉妹も来ていて、経営者の跡取である長女は、さすがの風格だったと思うが、今から思えば、ちょっと美輪明宏みたいなかんじだった。
 全員が姉妹ではなく、「弟の嫁」みたいは人もいたんだと思う。私からすれば、どれが誰だかよくわからなかったのだが、その弟の嫁らしき人は、食べ物の好き嫌いが激しく「あ、これダメ」と残すような人だった。

 当時の私は「大人は好き嫌いをしない」と信じ込んでいたので(両親や祖父母以外の大人と食事したことがなかったから)、そのオバサンが、一度口にした食べ物を「あ、この味ダメ」と吐き出すのを見てびっくりした。
 あと、けっこう食卓に並んだ、近所の肉屋や魚屋から配達してもらった、アジの開きやカツを食べながら、みなさん文句ばっかり言っていた。「あそこの肉屋、前はもっといいカツ持ってこなかった?」「ほんと、なんか薄っぺらねえ」

 食べ物に文句つける人など、見たことなかったので、それもけっこうカルチャーショックだった。
 たぶん、家に戻ったあと、母に「あそこの、オバサンたち、こんなだった」と話たら、母は笑いながら「あそこの家は、社長さんちだからねえ」と言っていたような。

 なので「食べ物に片っ端からケチつけるのが、お金持ちっぽい」ということをなんとなく学習したというか、それでやっと、学校給食を「まずい、まずい」と言う級友たちが、どういう作法の元で育てられたのか理解できたのだが、貧乏人の家で育った私がなんでも美味しいと思っている横で、「このアジ貧相ね」と言われると大変不愉快であるとも思ったので、真似しませんでした。

 つーか、海辺で思いっきり遊んだ後で、大きな食卓を10人以上で囲んで食べる食事はどれも美味しかった。
 たぶん、あそこの家だと、おコメもうちよりいいのを頼んでいただろうし、その一族はその海辺の町では古株の「資産家」だったから、出入りの商人たちも、けっこういい食材を持って来ていたのだと思う。ほんと、毎年、あそこの海の家に行くのが楽しみだったもん。

 思い出は数珠繋ぎだが、あの家は、防風林が途切れたあたりにあったので、庭が砂地だった。
 縁側の下には、たくさんの蟻地獄の巣があって、蟻地獄にたくさん遊んでもらったなあ。(たくさん成仏させたという意味)

 中学生の時に行ったのが最後だったと思う。
 そのときには、部活の友だちと行ったので、あれも楽しかったなあ。

 その10年後に働いた会社で、その会社の「保養所」というか、オーナー社長の両親が住む「別荘」に行ったとき、「え?この浜なの?」とびっくりした。幼なじみの家から1キロ以内のところだったのである。
 社長の母がそこの出身で、老後をそこで過ごしていたそうだ。小さな町だから、きっと「あそこの○○さんち」と言えば、互いに知っていただろうけど、社長の両親もそのころ相当のお年で、そんな話ができるかんじではなかったし、一泊二日の慰安旅行だったので、あの別荘まで歩いて訪ねる暇がなかったことが残念であった。

 ええと、何の話をしていたのか忘れてしまいましたが、ともかく、自分ちがそれほどの資産家でなくても、友だちに別荘族がいると、同じように楽しいので、そっちのほうが気楽でしょう。
 他人の別荘に行くのは大好きです。そこの一族の雰囲気がわかるから。
 社会人になったときに行った友人の避暑地の別荘は、「親族中の不要品をここに集めただろー」な逸品でした。なんでも揃っているけど、必要なものはとうとう見つからなかった。
 ある友人は、「うちの別荘、親族中がもてあました漫画が集合していて、けっこう立派な漫画図書館になっているから、こんどおいでよ」と誘ってくれましたが、結局、行かなかったなあ。

 さて、今日も課長はダメでした。
 でも、電話で「明日は絶対に行くから」と、おっさっていて、「そういうプレッシャーがよけい、よくないのでは?」と思った。

 派遣のAさんが今日が最終日だった。
 「みなさんにとても親切にしていただいて、ほんとにうれしかったです」と置きメールを書いていったので、私も嬉しかった。「なんか、あったらメールしてもいい?」とメルアドを聞くと(優秀な人だったから、なんかあったらバイトで仕事お願いしちゃおうかという画策)、「ミクシーもやってます」とミクシー名も置いていった。
 マスオさんもミクシィな人なので「じゃ、さっそく探してみますよ」と言っていた。
 ときどき日記も書いているらしいが「でも、この会社の人が読んだら、『調子にのりやがって』と思うかも(笑)」と言っていたが、うーむ、あけっぴろげでうらやましいなあ。

 私なんて、とても会社の人に見せられませんから。
 発見されたら、クビかも・・・・っていうくらい。

 ねんのため、言い訳しておくと、最近、大酒を飲むと第二の人格が現れるようですが、でも第二の人格はけっこういい人のようです。わりと評判いい。ひょっとしたら第一の人格よりも評判いい。
 なので、ちょっと人見知りでとっつき難いけど、悪い人ではない第一の人格と、陽気な酒好きの第二の人格の影で、細々と日記に愚痴っている第三の人格は闇の部分を全部背負ってて、デトックスに必死なんですってば、と日記には書いておこう。

 あ、でもね。今日思ったんだけど、ハイジは退職しちゃったし、課長は来ないし、来てもちゃんと仕事してないしで、特に課長の後始末では、他部署の人にも迷惑かけっぱで、けっこうストレスになっているのですが、でもね、残されたメンバーは、かなりケナゲに「ここで明るく頑張らねば」という雰囲気になっていて、で、そういうときには他部署の人たちも忙しいのに頑張って手助けしてくれて、なんだかね、「あ、けっこう、いいじゃん、うちの会社」って気持が過去最高に高まっているのです。
 なんか、こういうピンチのときって、互いに「言葉で表現しよう」という機運が高まるみたいで「○○さんも大変でしょうけど」「いやいや、○○さんにこそしわ寄せが」と、声高に労っている様子も微笑ましいし、どっかのテレビ局のキャンペーンじゃないけど、こういうときこそ「ありがとう!」が連発されるらしいし、みんな大変なのわかってるから変に気持の共有があるみたいです。

 まあ、ある意味、ちょっとキモい状況なんだけど、こういうのもたまにはいいですね。

 まあ、あんまし続くと第二の犠牲者(うつ病は今や国民病だし)が出そうだから、なんとかしたいんですけどね。
4月25日(水)

 先週末は祖母の見舞いに行った。
 1年半ぶりくらいらしい。
 ここ数年は正月に車で帰省してくる弟一家が、バアサンに曾孫を見せるために車で老人ホームに行くので、それに便乗していたのだが、今年は双子の赤ん坊を抱えていたため帰省してこなかったので、「1回休み」になってしまったのである。

 そんで、「様子が変」と母が言っていたので「早めに行っておくか」と馳せ参じたのだが、全然元気であった。母は申し訳なく思ったのか、無職の妹に小遣いをやっていたが(妹がなぜか同居人まで連れてきたので、気をつかったようだ)、「姉娘にもあげないと」と思ったのか、私にまで後でくれました。「いらないよ〜」と断ったのだが、「いいから、いいから」と譲らないので「ま、いっか、そのうち、この人たちの世話で苦労する日が来るのだろうし」と受け取っておきました。

 なので、祖母は耳は遠いものの、相変わらず頭ははっきりしていて、ちゃんと会話できたのだが、会話って言っても、老人ホームでぼんやりと余生を生きているから、これといった話題もないから、そういうときには昔話に限るので、「そもそも、おばあちゃんって何人兄弟だったの?」など、大昔の話を拝聴した。

 母は、祖母の昔話をよく知っているので「姉の○○さんは美人で頭もよかったんでしょ?」とか「弟の○○は神童と呼ばれたとか」と、どっちかというと母が知っている祖母の昔話のおさらいみたいだったが・・・

 つーわけで、今さらながらわかった「ミヤノ家の歴史」での新事実っちゅーか、そもそも私はロクに知らなかったのだが・・・・・

●曾祖母 酒豪伝説

 父方の祖母は現在96歳らしい。明治最後の年生まれ。その実家がどういう家系なのか知らないが、わりと裕福だったらしい。当時でいえば、大企業の部長クラスだったのかねえ?よくわかんないけど、有名企業の下町の工場長だか、倉庫長だかの職についていたらしい。
 曽祖父は日本画家によく娘の絵を描かせていたらしい。今だと「写真屋できちんとした写真を撮る」という感覚だったのだろうか?そういう掛け軸が沢山あったそうだが、今は残っていない。曽祖父自身も書道をたしなむ趣味人であったらしい。
 その妻である曾祖母も、洋装を着こなすモダンな人だったという話は聴いたことがあるが(高校のとき、家庭科の教師が「家族でなるべく年をとった人に、昔の食生活や衣服の話をインタビューしてレポートにまとめる、という課題を出された。その教師は、そのレポートをコレクションしていたようだ。けっこういい資料になると思う)、その家というか会社の行事なのかわからないが、毎年花見宴会を開いていたらしいのだが、曾祖母はそういうときに子供を用務員さんみたいな人に預けて、宴会に参加していたらしい。それも、社員の奥さんを集めて「女性オンリーの宴会」を仕切っていたそうだ。そんで、ベロンベロンに酔っ払っていたらしい。

 ちなみに曽祖父は一滴も飲めなかったとか・・・・

●神童の遺伝子はどこに?

 祖母のすぐ下の弟は、唯一の男子だったし、6人兄弟の5番目でやっと授かった男の子だったので、そうとう可愛がられて育ったらしいが、幼児のころから、姉たちのやっている百人一首のカルタを全部とってしまうような頭のいい子だったらしい。
 そんで、戦前の教育制度だから、今とはだいぶ違うだろうけど、中学生のときに飛び級で慶応に入ってしまったそうだ。
 祖母曰く「中学っていっても、今の高校なんだけど、あの当時は、受験に受かれば大学(とは言わなかったのかも。一高とかそういう時代?)に入れて、みんな試しに受験してたけど、なかなか受からなかったんだけど、うちの弟が受けたら、あっさり受かっちゃって・・・・」

 へえ〜、その秀才だった大叔父さんって、私はずっと東大(一高)だったんだと思っていたんだけど、慶応だったんだ。
 つーか、その当時の慶応っていうのがどういうもんなのかわからんが、うちの親戚筋に慶応ボーイがいたとは!
 なんか、そっちのほうが、ハイソな感じで、笑ってしまう。
 祖母の弟が何年生まれか知らないが(私は会ったことがないので、早くに亡くなったらしい)、祖母の年齢から考えて、彼が慶応に入学したのが約80年前で、我が家系ではその後、慶応に入った人なんていないはずである。聞いたことがない。
 祖母の姉も頭のいい美人だったそうで、長野のお寺に嫁に行ったのだが、そこんちの孫が(私にとっては「はとこ」)けっこう優秀で、慶応を目指していたようだが、とうとう入れなくて、寺の跡取だったし、仏教系の大学に入ったという話はあったけど。

 妹が「そういう頭のいい人、その後いないってゆーか、全然遺伝してないね」とボソっとつぶやくので、姉としては「でも、お父さんだって、けっこういいとこまで行ったんだよ。(日比谷高校→東大2回落選)」とフォローしつつ「それに、あんたはダメだったけど、私やSちゃん(弟)は、偏差値60以上の高校に入ったし、大学だって、まあまあのところだったじゃん」と言うと、妹に「でも、その程度でしょ?」と一蹴された。まあ、その通りでございますが。

 「こうなったら、弟のとこの3人姉妹に期待しよう」ということにした。彼女らの誰かが、うっかり慶応にでも入ったら「100年ぶりの快挙」と祝おうではないか。

 しかし、神童の遺伝子は隔世遺伝で顕現する気配もないが、確実に受け継がれているものはあるようだ。それが「大酒飲み遺伝子」である。
 曽祖父は目が悪く、わりかし早く引退しちゃったらしいが(白内障の遺伝子もそういや強いね。祖母も父もわりかし早かった)、それで家計もきつくなったのかどうかもよくわからんが、ともかく、酒も飲まない堅実な曽祖父が集めた骨董品は、「元神童」だった祖母の弟が全て「売り払って飲んでしまった」らしい。ありがちな話である。

 ほんと、どっかで聞いたことのあるような話というか、私の知人にも「曽祖父はかなりの資産家だったらしいが、その息子だった祖父が全部飲んじゃった。で、ボクはその祖父にそっくりだと言われている」なんて話をしていた人がいたが、うちの父親も、その「頭はいいけど、飲んだくれで定職にもつかなかった」という父にとっては叔父に似ているのではないかと心配されたらしいが、無事に勤め上げました。週に1回だけど、まだ働いてるし。

 なので、ミヤノ家では「頭よすぎるとロクなことがない」という雰囲気があり、教育熱心ではなかったなあ。「いい大学に入った人が、ことごとく出世しない」というのは、母の実家もそうだったし。

 それよりも「手に職つけろ」と言われたけど、まあ私が女子だったということもあったが、そういえば、その元神童だった大叔父の結婚相手はなぜか看護婦さんだった。定年まで勤めたというから、飲んだくれの大叔父の替わりに生活費を稼いだのかもしれない。
 一人息子がいて、父も一人っ子だったから、年下の従兄弟をとても可愛がっていたようだったが、その従兄弟も定職に就かず結婚もせず、20年くらい前にバイク事故で亡くなっている。たぶん、当時、40代半ばくらい?
 元看護婦だったそのオバサンとも、私は会った記憶が無いのだが、私が高校生くらいのころ、なぜか毎年お年玉を送ってくれて、うちの母が「あのオバサンちには孫もいないし、年金はけっこう貰っていると思うので、甥の子供を自分の孫のように考えてくれてるんじゃない?」と言っていたっけ。お礼状出したっけな。
 夫には先立たれ、一人息子も若くして亡くなり、1人になってしまったので自分の姉妹がいる実家のそばに引越してしまったらしい。

 月曜日は久々に上司と飲んでいたのだが、すっかり酔っ払って「わたしの、曾バアサンも酒豪だったらしいので、これは遺伝です」とまくしたてていた記憶がある。
 上司と駅で別れたときには、とても元気ハツラツだったらしいが、その後、どうやって帰ったのか全く記憶がない。上司行きつけの「謎の安焼酎(銘柄不明。変なヤカンで注がれるから)をコップなみなみに注ぐ店」は、うちの社員の多くをそこの店の狭い階段で「階段落ち」させるほどの伝説の店であるが、私は階段は大丈夫だったが、トイレの場所に迷って(店の外にある)15分くらい店に戻れなかった。

 火曜日は二日酔いで亡霊状態。ちゃんと定時に出勤した自分を誉めてあげたいが、実は行きの電車の中で一瞬、吐きそうになった。

 火曜日は早寝したので、今日は元気でしたが、課長がまた今週来ません。
 しばらく休職してもらって、ゆっくり治したほうが本人のためなのでは、という雰囲気になってます。
 うつ病なんて、イマドキ珍しくもないし、友人と話していても、やはり会社にゴロゴロいるらしいし、我が社では珍しいのだが、親会社にはやはりゴロゴロいるので、そんでそういう社員を子会社である我が社に異動させると、あっさり治るケースもありました。

 そういや、今日は上司と査定面談だったのだが、別にそういう場でぶちまける不満もなく、なごやかに進行していたのだが、最後に上司が「なにか他に言いたいことある?」というので「別に・・・・」と言うと、「いやあ、もし、あるとしたら、ミヤノさんの給与が安いことかなあ・・・・と」と向こうからおっさってくれたので、そのことは私もいつか言おうと思っていたので「ええと、これは給料上げろということじゃないんですけど、なんか最近、他の人と話をしていると、私がけっこう給料貰っているかのように言われることが何度かありまして、そう誤解されてるのは不満です」とわけわからん不満をぶちまけたのだった。

 年齢も年齢だし、いちおう役職ついているので、そう思われるのだろうけど、私、30歳平社員と同じレベルの給与なんだから〜と言いふらしてほしいものだ。そっか、「誤解を招くから、課長代理なんて中途半端な役職をつけないでほしい」と訴えればよかったのか?

 まあでも、上司にその認識(年齢や役職や職能に比べれば給与かなり抑え目)があるのなら、私は別にいいんですよ。あんまし金いらないし。「給料上げてもらうより、ちゃんと人員補充してもらって、休みをちゃんととれたほうがいいです」ときっぱり言っておきました。
 この給料で、残業無しなら、別に文句はございません。その程度の仕事しかしたくないし。つーか、できたら仕事なんてしたくないんだけど、私には残念ながら食いつぶす財産が無いので・・・・・

 そっか、元神童だった大叔父も、親の財産なんてなければ、もっとまともな人生を送れたのかもしれない。

 
4月20日(金)

 少し前にママンから電話があって「お祖母さんの様子がおかしいらしい」とのことだった。「どっちのバアサン?」「お父さんのほうよ、あたしの方のはこの間も訪ねたけど元気だった」

 それで、母は「お父さんがそういうから、ちょっと心配になったんで、私も様子観に行ってみるけど、あんたも行く?」と誘ってくれたのだが、その週末は都合が悪く、ってゆーか、どうせ祖母の見舞いに行くなら実家に泊まって、祖母孝行のついでに自分の親孝行(一泊二日くらいだと、母の長話をきちんと拝聴できるのであった。長女って偉い)もしたかったから、「土日休めるときにするよ」と言っていたのであった。

 そんで、くどいようだが「よい子の長女」は母に「じゃあ、お母さんがお見舞いに行ったら、お祖母さんの様子教えてね」と言っておいたので、数日後に電話があり「看護師とも話しをしてみたけど体調は問題ないみたいだし、職員にも話しをしたら『そういや、ここんとこ食欲もないな』って平然としてるんだけど・・・・」

 母によると、やっぱし話かけても反応が薄いというか、うなずく程度はするみたいだけど、「会話」にはならなかったらしい。祖母はほぼ盲目だし、元々活発な人ではなかったので、老人ホームでもベッドに寝たきりだったり、談話室で座りっぱなしだったりするようだが、不思議と頭はクリアだったので、たまに訪ねても普通に会話できたので、「こんなの初めてよ」と母も心配そうだった。「まあ、死にそうってわけでもないけど、本格的にボケちゃったらもう誰が話し掛けても同じだろうから・・・・」と言うので、「じゃ、近日中に私も行ってみる」と話していたのであった。

 今週末はどうやら土日休めそうだったので、さっそくさっき、母に電話してみたら「いいわよ、私も行けるわよ。そーいや、Y子から連絡あった?」「いや、ないけど、これから電話してみる」

 母は妹のYにも連絡していたらしく、私と話するたびに「Yから連絡あった?」と言うのだった。

 すぐに妹のケータイに電話して「お祖母さんの話聞いてるでしょ?」と言うと「うん」
 「私、明日行こうと思ってるんだけど、Yはどうする?」
 「じゃあ、私も行こうかな。でも、どーせGWには行くだろうし、と思ってたんだけど。おねーちゃんもどうせGWには実家帰るんでしょ?」

 妹が母にも私にも連絡してこなかったのは「どーせGWだろう」と思っていたかららしいのが判明した。

 「私の会社、GWが連休になるかわからないんで、行けるうちに行っておこうと思って」
 「そうなんだ。だったらじゃあ、明日行こう。でも、私、場所よく覚えてないんだけど、おねーちゃんわかる?」
 「お母さんも行くから大丈夫だよ」
 「え?結局、そーゆーこと?」
 「あたりまえじゃん(笑)」
 「だって、私には『行けるなら1人で行け』って言ってたくせに!」
 「あーた、お母さんの娘を何年やってるんですか(笑)」
 「あの、クソババー、ムカツク!突き放したようなこと言いやがって」
 「まあまあ、いいじゃないですか、私にもそういうようなこと言ったけど、脳内変換しましたとも」

 この会話の可笑しさは他人にはわからないかもしれないが、たしかに我がママンは「私も忙しいから一緒に行けないかもしれないけど、だったら1人で都合のいいときに行けばいいし、なんだったらお姉ちゃん誘って一緒に行けば?」というような言い方をするんだけど、妹より6年も「母との付き合い」の先輩である私は、それは「できたら一緒に行きましょう」ということだと、ちゃんと翻訳することができる。

 なので、同じような内容の会話をしていても姉娘は「当然母も行くだろう。そんで娘が行くとなったら父も付いてくるかもしれないけど、母が思う存分、娘と会話できるように、ってゆーか、母のお喋りから開放されたいという本音もあって、留守番かもしれない」とわかっているので、「あ、そうだね、私だけで行けたら行ってもいいのかも」と相槌は打つが、それはただの相槌である。電話マナーで「いつもお世話になっております」と言うようなもんである。

 まあただ、母も姉と妹では相当キャラが違うので(遺伝的にはどっちも父親似なのだが、長子と末っ子という「育ちの差」がけっこう大きいので、遺伝的に母親似の中間子である弟と妹が母に対する反応が同じになってしまった)、妹に対しては「1人で勝手に行ってもいいのよ?別に私が行かなくてもいいのよ?」と強調しすぎてしまい、それを理解したくもない妹は「突き放したような言い方」と捉えてしまうのだろう。

 まあ、母にしても、姉娘は従順だが(ネズミーランドのときにはさすがに夜になったらキレたが)、妹娘は我がママばっか言うので、「一緒に出かけて楽しいのは姉娘」と思っているので、妹と二人で行く気はなく、だからこそ、「姉娘と妹娘が揃うなら、一緒に行ってもいいけど」くらいの気持だったのかもしれない。

 さて、今日は、上司も休みだったし、仕事も暇だった。
 私は夕方になると、査定シートを書き始めたが捗らず、むしょうにお腹が空いたので、お菓子置き場にある煎餅をボリボリ齧っていたが、食べれば食べるほど食欲に火がついて、「ああもー、腹は空くし、査定シートは書けないし」と独り言を言っていたら、横にいたマスオさんも同じように煎餅をポリポリしながら「オレも腹減った・・・・今日は偉い人もいないし、早く帰りて〜」

 珍しく、フロアがまったりした金曜日の夕方だった。
 派遣のエビワカちゃんも暇そうだったが、彼女は「みんなも暇なんだ」と理解したらしく、黙ってミーティングスペースの拭き掃除や給湯室を掃除してくれていた。
 彼女、見込みありそうである。
 ああいうタイプの人のほうが、うちの会社では長続きするのだ。

 査定シートに煮詰まった私は「そういや町田の銃撃事件&立てこもりはどうなった?」とテレビをつけたら、各局で放送していた。
 他の人たちも「まだ解決してないんだ」と集まってきた。
 うちの会社、町田にも事務所があるのである。「あのあたりに住んでる人、いなかったっけ?」とか話がやんわりと盛り上がる。

 「で、今、どういう状況なわけ?」と誰かが言うので、私がさっきニュースサイトで得た情報を述べた。「どうやら、立てこもっている組員の上司が携帯で説得してるらしいんだけど、犯人は『申し訳ないことをした。死んでお詫びしたい』とか言って出てこないらしっすよ」
 「ふーん」と他の人たちが、うなずいているので、「まあ、うちの会社で言えば、マスオさんが先走って、やらかして篭城しちゃったので、取締役T氏(本日出張中)が『おーい、A!なんとかしてこい!おまえ、交渉は得意だろ〜』と命令して、A部長がケータイでマスオさんに『マスオ君、みんな怒ってないから大丈夫だよ。出ておいでよ』って説得しているってかんじっすかね?」と言い直してみた。

 しーん。

 あら、私ったら、なんかマズいこと言った?

 今日は躁気味で朝から鼻歌も激しかった、ほっこり課長がニヤニヤしながら「ミヤノさん、それはちょっと、あまりいい例えでは・・・・」

 少し離れた席で、遠い目になっていたA部長も、それでやっと正気を取り戻し「・・・・いや、なんかリアルに想像しちゃったよ」と苦笑していた。

 たしかに、A部長は、そういうときにお偉方から「おめーが、なんとかしろ」と言われそうなキャラなのである。
 実際に今日も部下のミスを必死にフォローしていた最中だった。
 なので、私のナニゲなく言ったことは、けっこう「その通り」だったので、「自分には関係ない、暴力団が起こした事件」がいきなり、身近に感じられてしまったらしい。
 すんません、そーゆーつもりじゃなかったんですが、なんか天然でそーゆーのが変に上手いので、ときどき「シャレにならん」と叱られますが、ついつい、言ってしまうんですよ。悪い癖です。

 その後、しばらくして、A部長が機関銃のように無駄話を始めたので1時間くらい拝聴した。
 いや、罪滅ぼしじゃなくて、彼とはなんだか「世間話」の波長が合うので、友達と長電話しているような気分になるのだ。それに、私の知らない会社の過去の事業の失敗談なども聞けるので、けっこう有用です。

 うちの会社で過去に、とあるけっこうヒットしたソフトを開発したことがあって(最初はフロッピーで売っていたそうなのだが、そのうち有名家電PCにデフォルト採用されたこともあり、その当時は濡れ手に粟だったようだ。という話もA部長との雑談でわかった話)、それの手伝いをしていた人は、大手PCメーカーの社員であったが、アルバイトでそんなこともしていて、そのうち独立したそうだが、その後、その当時のライブドアの社員にもなったらしい。
 ホリエモンが我が世の春だったときに、その人と偶然合って「飛ぶ鳥を落とす勢いでしょ」と話をしていたのだが、システム開発系一筋の彼は、お金に無頓着だったようで、A部長曰く「そりゃ、まあ、それなりに報酬も貰ってたんだけど、昔と同じ団地に住んでたんだよ〜、なんだかホッとしたよ」
 で、その人は、ライブドアがああなったので離れたようだが、自分の会社も同時進行させていたので、そっちに戻って、また地道にやっているらしい。
 なーんていう、世間話をしていると1時間あっという間なんですよ。

 A部長と話をしていて好感が持てるのは、彼は決して人を無闇に「羨ましがらない」ということかな。
 あまり、恵まれた家庭環境で育った人ではないらしく、けっこう苦労人なのであるが、「あいつんちは資産家だから」みたいなことは決して言わない。
 ある上司が酔っ払ったときに、A氏のことを「こいつは軽そうに見えるが、実は貧乏を知ってる人間なので、だから他の奴より強い」と誉め言葉を言ったことがあって、そういうとき、A氏は嫌な顔をするが、あまり自分の暗い生い立ちについて触れられたくないのかもしれないけど、でも、A氏も酔っ払ったときに、聴いてもいないのに、勝手に私に開示してくれたじゃありませんか(笑)。それ聴いて「え、それって、あんまり人に言いたくない話なんじゃないの?」と聴いてないフリしましたけど。
 つーか、そんときの飲み会じゃなかったけど、私が「昨日はどうやって帰ったのか、全く記憶がありません」と言ったら、A氏はホッとした顔をしてたっけ。

 ほんとの苦労人は、あああるべきだと勝手に思っている。
 知人でも、母子家庭だったけど新聞配達の住み込みバイトで東京の大学出たって人がいたけど、本人からそう聴いたわけでもなく、ただ、やっぱし酔っ払ったときにうっかり自己開示しちゃったらしく、他の人から「彼、ああ見えても、けっこう苦労人だったみたい」と教えてもらった。

 そういや、先日電話があったO君なんかは、「おめーは、何の苦労もしてねーくせに」の悪い例。

 私があまり親しくなかった、O君の友人の話になり、「Kは、地元に帰ってるらしんですよ」「そうなんだ」(K君っていうのが、O君の取り巻きの中のどの人だか思い出せない。つーか、O君は自分よりダメそうな奴を集める嗜好があったようなので、みんなけっこうボーっとした大学生だったのだ)

 「あいつんち、山梨なんだけど、けっこう土地持ってるらしいんですよね」
 「・・・・・まあ、山梨の土地っていうのが、どの程度稼げるかにもよるけどね」

 そりゃ、私だって「あいつんち、青山にけっこう土地持ってるらしいんですよね」と言われたら「そりゃあ、いいね」と言うけどさ。

 「けっこう、駅前にもあるらしいんですよ」
 「山梨で駅前って言われても、それがどの程度のものか、よくわからんなあ」

 と禅問答のように、会話が彷徨っていたのだが、「あいつは山梨に土地もってるから」と、それが、とても恵まれたとことのようにO君は語るが、そういう君は、東北のそこそこの都市に持ち家持ってるんですよ?
 稼業を手伝ってるから「このまま縛っておこう」と親や兄貴が画策したのか、それとも「どうせ、家には有り余るほどの敷地があるから、次男の家も建てておこう。嫁は後から探せばいい」ということなのかわからないが、実家の敷地に一戸建て建てられてしまったらしい。

 それは、他の人から見れば「あいつは、東京ではロクに仕事できなかったが、実家に戻って稼業手伝ってて、家まで建ててもらったらしい」って話じゃないですか。
 もちろん、それが、けっこう本人には辛いことだっていうのは理解できます。
 「なんとか、この束縛から逃げ出したい」っていう気持もわかる。

 でも、世の中には、そういう束縛すら得られなかった人が大勢いるんですよ。
 それどころか、自分が義務教育のときに、満足に給食費も払えなかった親の面倒を40歳過ぎてから看るっていうほうが辛いじゃないですか。

 そういう意味では、うちの両親は、ちゃんと給食費も修学旅行積立金も払ってくれたし、大学の学費も払ってくれたので、「まあ、あたしは一緒に行けないかもしれないけど、あなたが都合のいいときに行ってみれば?」って言われたら「そんなこと言わず、一人じゃ心細いから、おかーさん、一緒に行こうよ」って素直に言えますとも。

母「あ、そう、明日なら、私も大丈夫よ。え?昼過ぎに集合?そういえば、あんた、生モノ大丈夫だったっけ?」
私「生モノって、刺身のこと?そんなの、一緒に回転寿司にも行ったことあるし、好きに決まってんじゃん」
母「国分寺の駅のそばに、ランチのちらしがおいしいとこがあるのよねえ。まあ土曜にやってるか、わからないんだけど、この間、お父さんと行ってみたら、1000円ですごく美味しかったのよ」

 妹にもさっそく「昼頃来れば、ちらし寿司をご馳走すると言っていた」と言うと、妹もカワユクないから「それは、内なの外なの?」「外(外食)らしいよ、どうも、それを食べさせたいみたいだった」

 妹は「ふーん?」と言っていましたが、「まあ、そんなに言うなら食べてやってもいいか」という態度だったので、明日は是非ともランチタイムに間に合うよう行動しないといけないようです。
 ああ、親孝行って大変ですが、それもこれも親の生きているうちのことなので頑張りましょう。

 あ、そういや、先日、ママンと話をしたときには「健康診断で癌の疑いがあって」と言うので「きゃはは、おかーさんもやっぱ胃がん?」とスルーしたら(母方の祖父母も初期胃がんで二人とも手術している)、「いや、それが肺がんの疑いで」
 「でも、前もすでに治った結核の影がって笑い話があったじゃん」
 「まあ、ちゃんと検査するけど、もし本当にそうだったら、おばさんがどうのって話しじゃないわよ」
と、話していたのだが、今日電話したところ、そんな話はなかったので、大丈夫だったのかな?

 今の両親は、「夫婦揃って、元気な老後」真っ盛りなので、どっちが欠けても困るから、あと10年くらいは「この人たち、どうしてこんな体力あるの」と戸惑わせてほしいし、父の母、母の母が健在なので、せめて、自分の親をちゃんと看とってからにしてくれないと、嫌ですからね、わたしは、両親のは覚悟しているが、祖母の葬式を仕切るのは!それは、あなたがたの責任において、ちゃんとやってください!

 って、はー、私って今のところ、親族的にはけっこう順当でしあわせです。
 誰も金に困ってないし。
 妹だって、30代半ばで「あの、クソババー」と怒鳴っていますが、世の中には娘に金の無心してくる母親なんて沢山いるんですよ。それが「あんたらが(どうせ寝坊姉妹が)、昼頃来るなら、1000円のランチご馳走してあげるのに」って言われてることは、ほんと幸せなことなんですよ。

 なので意地でも昼頃集合して、「えー、土曜日のランチは2千円だった」ということになっても、「わたしらが休日に午前中に起きるということは、とても大変なことだったんです」とプレッシャーを与えましょう。
 敵は年金の使い道がなくて、てゆーか、その年金は、妹は払ってないかもしれないけど、あたしはちゃんと納めているので、1000円のランチくらいじゃ元がとれないのです。

 さらには、「おか−さんが家庭菜園で作った菜っ葉のおひたし」じゃ、全然元がとれないのですが、あれは実際にけっこう美味しいので、私はけっこうガツガツ食って、払っている年金を少しでも還元しようとしています。団塊世代の両親が楽しそうに生活してくれえていれば、いいじゃないですか。

 妹よ。(弟は自宅の頭金出してもらったから、もういいよな)
 あの両親が死んだら、二人で残された土地を巡って、壮絶なじゃんけん大会でも繰り広げよう。
 二人で2所帯住宅にするっていうのもアリだ。
 あんたの同居人は、そこそこの会社に再就職できたので、あいつに建築費出させるのってどお?
 つーか、まだ間に合うから、あっちの跡取産んでやれよ。
4月18日(水)

 やっと「ナイト・ミュージアム」を観ることができた。
 別にものすご〜く観たかったわけでもなかったが、やはり「動くティラノの骨格標本」は大画面で鑑賞したい。けっこう動き回ってくれたので、それなりに堪能しました。映画そのものも、子供向けなのでそこそこまとまっていて、それなりに楽しめましたよ。1000円だし。悪役老人3人組が米国版スリーアミーゴスみたいでした。

 さて、昨日、日記を書いたあと「今日はけっこう活動したからもう疲れた。早く寝よう」と支度していたら電話が鳴ったので、「ママンかな?」と思って受話器をとると男性の声で「・・・・ミヤノさんのお宅でしょうか?」とか言いやがるので「こんな遅くにセールス電話?」と身構えたら、「あのお・・・お久しぶりです。Oです」

 昔の日記に時々登場していた「O君」(大学の後輩で、それほど親しいわけでもなく、実際、彼の連絡先など知らないのだが、なぜか節目節目で偶然出会う)とは別のO君である。(ややこし)
 そっちのO君は、以前よく一緒にイタリアンレストラン食べ放題企画に行っていたT君の友だち関係である。
 私が親しかったのはT君だったが、O君と彼女ともけっこう仲良くはしていたが、一緒にご飯食べに行ったりとか、飲みに行ったりはほとんどしてなかったように思う。

 でも、O君はちゃんと律儀に「実家のほうに戻ります」とか、転居するたびに連絡してくれていたのだが、ここ数年、T君とも音信不通なくらいなので、O君がその後どうしてるのかなんて知らなかった。
 たしか、大学卒業後、東京で就職できなくて、地元に戻り、そっちで手に職をつけて、それで東京で職を見つけたが、また地元に戻ったんじゃなかったかなあ?と記憶を手繰っていたら、「今は稼業を手伝っているんですが、それが、まあ、いろいろと・・・・」と愚痴り始めた。

 そうだ、そうだ。彼の実家は自営業で兄貴が跡を継いでいたはず。そんで、就職できなかったときも「だったら、稼業手伝えば?」と言われていたが「それだけは、ぜったいにヤダ」と言っていたはずだけど、いつのまにか、稼業に取り込まれてしまったらしい。

 そんで、かなり煮詰まっているらしく、愚痴がとまらなくなっていたが、そういう精神状態だから、私のことを思い出して数年ぶりに電話してくれたのかなあ?と考えつつ話を聞いていた。
 そんで、どうやら、T君の近況について私に探りいれてくるので、「私も全然会ってなくて・・・ってゆーか、O君のほうが情報もってるでしょ?」

 二人は幼なじみというか、実家が近所なのである。だから、直接顔を合わせる機会は少なくても、親やご近所からいろいろ話しは聞くであろう。
 「じゃあ、あいつが結婚したのも知りませんか?」と言うので「うん、私が会ったころは、決まった彼女はいなかったみたいだし・・・・」
 「なんか、マンション買ったらしいんですよね」
 「ふーん、そうなんだ。やっぱ、なんだかんだ言ってよく知ってるじゃん(笑)」

 話しているうちに思い出してきたのだが、O君はT君にかなりライバル意識を持っているのだ。
 だから、後になって考えてみれば、T君が実家に帰ってもO君にあえて連絡しないのは、T君の東京での成功(?)をO君は絶対に面白くないというのをわかっているからだと思う。
 成功ったって、東京の大学出て、東京で就職して、10年以上同じ会社で働いていれば、結婚してマンションくらい持てるであろう。
 しかし、そんな平凡なことが、O君にはできなかったというだけの話である。

 そういや、O君の就職活動の頃は、直接話しを聞いていなかったが、T君が「あいつもなあ」と私にこぼしたことがあったっけ。あの頃は、氷河期とは呼ばれていなかったが、バブルがハジケてけっこう厳しくなっていたときだったのに、O君は「職場が家から遠い」などの理由で、なかなか就職が決まらなかったようだ。T君は呆れていたが、「職場が遠い」というのは、その当時のO君がどこに住んでいたのか忘れたが、例えば新宿から10分くらいの京王線沿線に住んでいたとしたら「水道橋は遠い」と言っていたようで、その理屈はさっぱりわからなかったが、他にも、勤務時間や業種などを選り好みしているわりには「何がやりたいのか」がはっきりしなかった。

 結局、彼なりの「かっこいい/かっこわるい」という基準があるみたいで、そうは言っても、有名大学を出ているわけでもなく、一流企業にすんなり入れるわけでもないのはわかっているはずなのに、なんだかはっきりせず、だから周囲には「だったら、稼業手伝えば?稼業があるんだからって甘えてるんだろ、おめーはどーせ」とはっきり言われていたのである。

 彼なりの美学があるんだろうけど、きっぱり自分の意志で決めるということができない子で、だから親や兄も心配して「いいから、稼業手伝え」と押し込んだのだろうけど、本人それが嫌でしょうがないらしいけど、でも、そこから抜け出す意思もパワーも無さそうだからなあ。

 そんで、O君の中では、T君も就職に失敗したことになっていたはずなのだ。
 この話も前に日記に書いたと思うけど、私が若者に助言して、それを若者が理解してくれてちゃんとやったら、幸運にも結果が出たという数少ない自慢話である。
 最初、T君は「契約社員」というか、ほぼバイト扱いで就職したのだ。
 そのことで彼は悩んでいたので、あるとき相談に乗ったのである。
 話をよく聞くと、バイトでもぐりこめそうだった会社は、彼がまさに望んでいた職場であった。彼が大学時代から熱心にやっていた趣味を扱う出版社の雑誌編集部だったのだ。
 例えていうなら、大学時代から同人誌でロック雑誌を作っていた学生が、ロッキンオンに辛くもバイトで採用されたようなもんである。

 それのどこが悩みなのか?と思ったら、就職活動している同級生たちは「そんな、バイトなんてダメだよ」と言うらしいし、当時付き合ってた生保会社かなんかに内定出ていた彼女にも完全否定されたらしい。
 なんで周囲がそういう反応するのか、私にはさっぱりわからなかったが、もしかしたらバイトとはいえ、マスコミにひっかかった彼に嫉妬していたのかもねえ?

 なので一応社会経験があった私は(でも、まだまだヒヨっ子でしたが)、「私の意見が正しいかはわからないが」と前置きした上で、「大企業だと、正規雇用社員が正社員になる可能性は低いかもしれないが、マスコミ系は中小が多いので、バイトで使えるやつを正社員にする可能性はかなりあると思う」と説明した。そして、例え、その会社で1年で契約を切られたとしても、職歴があれば、もっといいところに転職できる可能性もある。

 私が関わっていた映像製作の世界では、そりゃ、電通だフジテレビだを目指すのであれば新卒でないと厳しいが、「プロダクション」レベルであれば、いったん中に入ってしまえば学歴など関係なく、使えるバイトはさっさと正社員にするし、そこの待遇が不満でも、きちんと仕事していてフリーの人たちなどに認められれば「あそこで募集してたから、紹介してあげるよ」なーんてのもザラであった。

 ともかくちゃんと仕事を覚えて、社内外に人脈を作ればきっと上手くいくよ。それに、君ならできるでしょう。と励ましたのだが、結局彼は私のアドバイス通りにその会社に入った。
 そしたら、どうやら、女性社員の産休の埋め合わせで雇われていたらしいが、彼がちゃんと仕事していたので、産休が明けてからも「できたら、このままいてほしい」という雰囲気になったらしい。どうやら上司が、その女性とソリが合わなかったようで、ピチピチ新卒男子の彼のことを気に入ったようだ。

 そしたら、さらに、産休明けの女子社員は、復職したらすっかり「お母さん」になってしまい、残業もできなくなったし、なによりも仕事に気持が入らなくなってしまったらしく、そうなるとT君にいてもらわないと他の人も困るということになって、だとすると年契約ではなんだからと正社員にしてもらったらしい。

 運も向いたが、彼の人柄と実力の賜物であろう。

 という、経緯のことをO君はあんまりわかってないから「なんで、あいつばかり・・・・」と未だに思っているのかもしれない、と考えつつ、さらにO君の話を聞いてると、「仕事ばっかしてるから出会いもないし」と言い始めた。親戚のおせっかいでお見合いもしてみたそうだが、なんかピンと来ないらしい。まあ、就職でもそんなだったからなあ。

 で、「うーん、ミヤノさんにこれを聞くのもちょっとと思うんですが・・・・」とブチブチ言うので、「なんなのよ」と強引に聞き出すと「Yとは連絡とってますか?」

 ・・・・・・わ、は・・・・・は・・・・本題はそれだったのか!
 時間かかりすぎだよ!
 Yちゃんは、彼の「元カノ」である。

 うーむ、たしかに、O君と別れて、っていうか、O君が地元に戻ってから、Y嬢から電話があり「なんか、暇なんで、なんかあったら誘ってください」と言ってきたことあったな。
 つーか、O君もそういうわけで、けっこう変わった人であったが、Y嬢も相当な不思議ちゃんだったからなあ、たしか、そう言うんで、私が友だちと会うときに誘ったら、Y嬢も私の友人も「ボビー命」で(プライマルのボビーね)それで一緒にライブに行ったとか聞いたのが、もう何年前の話?

 電話メモ帳を確認してみたら、携帯の番号は「040−」で始まってるし(笑)
 家電のも書いてあったので、O君にそれを伝えると「ああ、それはたぶん、友だちのアパートにいたときのだ」と言うので「そうだったっけ?」と言うと「あのころ、あの子、友だちの○○さんのオジサンが医者で、そこが持ってたアパートに住んでたんですよ」「はあ、そうだったっけ?」

 「Yも、もう結婚したっすかね?」
 「さあねえ?でも、彼女も相当変わってたからなあ」
 「でも、やっぱり、今考えると、一番気が合ったのはYだったなあ」
 「・・・・・・」
 「もしもし、聴こえてます?」

 いや、はっきりくっきり聴こえているけど、なんて返事すりゃいいのか困ってんですってば。

 「もう、そんな連絡先もわからん、昔の彼女のことなんて思い出してないで、そっちでいろいろ紹介してもらえばいいじゃない」と正論を言うしなかたったが「でも、親戚の紹介とか、友達の紹介だと、なんだか重くて・・・・田舎なんですよ」って東京だってそうだわい!

 「それに、友だちだって、いい子がいると身内で消化しちゃうから、こっちには回ってこないのですよ」って、それって、「身内扱い」されてないってこと?

 なんだか、荒れた北海に浮かぶ笹舟のような人だなあ。
 舵やマストを備える気力が無いというか、そういうのを思いつかないから、いつまでも荒れた海で「はあ、なんかいいことないっすかね?」と漂っているような。
 まあ、それでも実家がちゃんとしてるから、食うには困らないだろうし、あれはあれでいいのかもしれない。

 彼はサッカーの試合を観に、時々上京しているそうなので「じゃあ、T君の実家で連絡先聞いて、飲み会でもセッティングしてよ」と言ったら、「はあ、あいつの実家もなあ」と言うから「え?O君、T君の実家に嫌われてるの?」と言ったら「いや、あいつんちの母ちゃんがあれこれ言いふらすから」

 どうやら、自分が今、パっとしてないのを知られたくないらしい。
 田舎なんだから、そんなのとっくに知ってると思うけどなあ。それほど田舎じゃなくたって、うちのママンはとっくに引越した元地元での、私の同級生たちの近況をなぜかけっこう把握しているし。

 とりあえず、現時点では、O君の中では「勝ち組/負け組」みたいな話になっているんだろうけど、客観的に観たら勝ち負けがどうのっていうレベルの話ではありませんが(T君がヒルズ族になったと言うなら話はまた別である)、マイワールドの中でしか考えられないO君にそれを言っても無駄だし、そんな話を1時間も拝聴したので、かなり脱力しました。
4月17日(火)

 休み。
 先週6日出勤したから、埋め合わせである。

 天気悪かったけど、行きたいところがあった。
 前に三鷹の立ち寄り温泉(岩盤浴付き)に行って、「岩盤浴いーじゃん」とすっかり気に入ったので、他にもないかと探したら、ヒットしたのが、「天然温泉 いこいの湯 多摩境店」であった。

 ネットくちこみによると、週末は相当混んでるらしいので、当然のことながら平日狙いだったのだが、平日もけっこう混んでいるらしい。
 でも、今日みたいな天気だったら、もしかしたら雨降ってて露天風呂を堪能できないかもしれないから、少しは空いているかなあ、と期待して、午後は雨が降っていなかったし、天気予報でも「関東は夕方から」と言っていたので、1時過ぎには家を出た。

 事前に行きかたを調べていたのだが、「多摩境」とか「南大沢」って言われてもどこだかよくわからないし、調べてみれば「ああ、京王線の果てかあ」とわかったのだが、ネット地図を眺めてみたら「唐木田」からもそれほど離れてない。
 つーか、「多摩境から徒歩20分」で普通の人にはそれでも遠く感じるだろうけど、唐木田からは約4キロくらいあったので、普通は歩く距離ではないが「お散歩エクササイズ&温泉」というのは私には魅力的である。ただ、晴れていれば4キロなんてチョロいが、雨だとなあ・・・・・でも、「ま、いっか」と出発してしまった。

 まず、小田急線梅が丘まで軽いお散歩。20分ちょっと。小田急線に乗って、成城でまんまと「唐木田行き」が来たのでそれに乗り換える。
 思えば、ずいぶん前だが、表参道で千代田線に飛び乗ろうとしたらその電車が「唐木田行き」で、そんな路線を知らなかったので「え?それは小田急線の方?それとも我孫子とか常磐線の方なの?」と躊躇してしまい、飛び乗れなかった。

 最近はほんと、たまに山の手線内のメトロを乗り換えても、知らない行き先が増えていて、ちゃんと確認しないと乗れなかったりすることが多い。バスみたいに「○○経由」っていうのをつけてくれると助かるんだが・・・・唐木田行きだって「新百合ヶ丘経由」って書いておいてくれれば、わかりやすいんだけどな。

 そういう個人的恨みもあり、「唐木田ってどこ?」という好奇心を満足させるためにも、天候不良を押してでも唐木田で降りたかったのである。
 唐木田っていうのは、「多摩センター」の少し先でした。
 てゆーか、多摩センター自体が、ほとんど行ったことがなく(モノレールで通過したことがあるかな?)、なんかすごいところなんですねえ。
 てゆーか、多摩センターで乗客のほぼ全員が降りてしまったので「え?ここが終点?え?え?え?」と超不安になってしまった。隣の車両にかろうじて1人だけまだ座っている女性がいたので「そうだよね、まだ先に行くんだよね」と思いましたが、それでもしばらく停車していていたので「もしかして、ここで折り返し?」って、まるで海外旅行で電車乗ったときみたいな心細い気持になった。

 そして唐木田着。
 大妻女子大があるので、ちょうど3時くらいだったから傘を差した女子大生がゾロゾロと駅に向かってくるのを逆流。
 その大妻女子大の前を横切っている大きな道路をひたすら真っ直ぐ行けばいいだけなので、道順は簡単である。

 しかし、地図で見るかぎり、どう考えても「山道を切り開いて作った自動車道」だったので、ちゃんとした歩道があるか心配だったが、さすがニュータウン開発。立派な歩道がありました。
 その道で、大妻のあたりで徒歩で通っているらしき女子大生を追い抜いた後、3キロくらいの行程で1人だけすれ違いました。朝や夕方だとジョギングする人がいそうだけど。

 歩道は立派だし、両側は多摩の山が新緑で美しく、それにほとんど信号がないので、ハイキングには最高でした。あれで雨じゃなければねえ(笑)
 チャリで走るのもいいコースだ。でも、けっこうアップダウンが多いけど。徒歩だと「おお、いいエクササイズになる」という坂道でしたけど。

 大妻女子大から数百メートルのところは、企業の研修センターがあったり、巨大なショッピングセンターがあったりしたのだが、しばらくは、山の間を抜けるかんじで、そのあたりの路肩で休憩するトラックも多かった。
 でも、ほんと歩きに集中できるというか、国木田君と二人で歩くと楽しい道だった。
 晴れていたら、ほんとにあっと間の楽しい散歩だっただろう。
 トンネルを抜けると、また人影が戻ってきて、コンビニがあって、バーミヤンがあって、その交差点を曲がるとすぐに「いこいの湯」は見つかった。

 しかし「くそー、広大な駐車場が埋まってるじゃん。雨だから空いてるかと思ったけど、どうせここの客はほぼ全員自動車で来るから同じだったか」と外観からもわかったのだが、中に入ってみたら、ほんと混んでた。普通のあの手の施設の週末並だったのである。
 老人も多いが、主婦や子供連れが多い。まあ、平日700円という値段の安さもポイントなのだろう。
 しかし、施設はしっかりしているので、あれで700円は安い。
 都の開発地域みたいだったから、土地代を援助したもらったのかもしれないが、温泉採掘経費も都心に比べると安かったのか?

 露天風呂が「源泉かけっぱなし」で、オレンジ色した東京の温泉の典型であったが、屋根のある湯船にはオバチャンたちがひしめいていたのだけれども、いちばんゆったり漬かれそうな「温めのお湯」は屋根がなくて、雨に濡れながらだとあまりゆったりできない。

 でも、内湯もけっこうよかったんだけどね。
 気に入ったのは「よもぎサウナ」
 ミストサウナなんだけど、よもぎの香りのスチームで、解説によると「純韓国産の最高級よもぎを使用」ということだったけど、たしかにけっこう効きそうなかんじ。あと内湯は温泉ではないのだが、薬湯みたいのがあって、それも漢方系のが入っていて、「畳の匂い」みたいなかんじで好きだった。

 そんなわけで、中に入ったのが4時前だったが、気が着くと5時近くなっていたので、浴衣に着替えて岩盤浴に移動。
 前にやったのとずいぶん違っていた。
 まず、石がゴロゴロではなくて、フラットな石の床に寝転ぶ。
 前のは「10分ごとに休憩しろ」と説明されたが、ここのは映画館みたいに時間になると中に案内されて、時間になると全員出させる方式で、だから30分間ずっと寝転びっぱなし。さらに、前のところでは「岩盤浴のあとは、すぐに入浴しないように。2時間くらい開けるのがベスト」と言われたし、その後、情報誌の岩盤浴特集も読んでみたが、やはり「岩盤浴の後にすぐ入浴しない。岩盤浴で出た汗は化粧水効果がある」とされていたのだが、今日のところは「岩盤浴の後はすぐ入浴することをお勧めします」と張り紙してあった。

 そうか、だから入るとき岩盤浴の時間予約をしたら「次の回ですと、4時」と言われて「え?いきなり岩盤浴から始めるの?」と思ったが、ここはまず風呂でざっと汗を流してから岩盤浴して、入浴という手順が推奨されているらしい。

 ま、要するに、どうでもいいんでしょうな(笑)

 そんで、岩盤浴が開始して、最初の10分くらいは「なんだ、あんま汗でないなあ」と思っていたのだが、その後けっこう汗が出てきて、30分でちょうどいいかんじだった。
 出たあとに、カップルの男性が「オレもう、後半出たくなってきちゃったよ〜」と嘆いていて、女性も「私も〜、最後のほうは、まだ終らないか、まだかってそればっかり考えてた」と言っていたので、彼氏が「でも、前にもやったことあるんでしょ?」と言うと、彼女は「でも、前のは10分ごとに休憩だったんだけどなあ?」って言っていたので、やっぱりそっちのほうが普通なんですかね?

 でも、ここの岩盤浴は350円と激安なので、平日なのに、常に満員状態みたいです。

 けっきょく、岩盤浴終ったら、風呂に入らず出てしまった。もう6時だったので「少しでも明るいうちに」と思ったのである。
 帰りは多摩境まで歩いた。そっちも歩道は広いし、歩いている人はほとんどいないので快適なお散歩だが、やはり夜になると寒さが違う。

 京王線で、一度乗り換えたら急行が来たので、あっという間に明大前で、ラッシュ時の井の頭線で下北沢。
 すっごいお腹がすいていて、多摩境でもよっぽど「大阪回転寿司 全皿105円」って街道の店に入ろうかと思ったくいだが、結局、駅の売店でお菓子を買って、まだ空いていた電車の中でむさぼるように食べていたのだが、「さて、じゃあ、下北でなんか食べて帰ろう」と考えたが、あんまり思いつかず、「じゃあ、また山頭火でラーメンかなあ?」と思いついたら、「あ、そうだ!」

 その昔、二回くらい行ったことのあるラーメン屋があったのだが、最近ふとまた食べたくなって行ってみたら、その場所は違う店になっていたのだった。
 移転なのか閉店なのかネットで調べようとしたが、店名も思い出せなかった。
 そしたら、しばらく前に、ふだん通らない裏路地で「あ、この看板だった!」というのを見つけ、残念ながらその日は定休日だったので、「また、いつか」と思っていたのである。

 「りきまる」というお店です。前は茶沢通りの踏み切りのそばの、ほんとにカウンターだけの店でしたが、移転先はテーブル席主体でゆったり。
 豚骨なのですが、女性が喜びそうなクリーミーな感じで、今日も上司と部下みたいな二人組みの部下の女性が始めて来たみたいで「おいしい、おいしい」を連発していました。なんか、優しい味で、決してスパイシーではないのですが、薬膳ダシがとってあるようなかんじなので病み上がりのときに食べたくなるような・・・

 そーいや、下北沢のラーメンで一番好きだった「真剣勝負」が無くなってしまったが、M嬢にも教えたら「残業で疲れきったときにいいんだよねえ」と気に入っていて「あそこの店、どっかに移転してないのかなあ?ネットで調べてみてよ〜」と言われていたんだが、今ごろになってネットで調べたら、暖簾分けの元になった親のほうは、まだ営業してるらしい。「天上天下唯我独尊

 でも、この店の前、少し前のハードお散歩のとき通って「あれ?もしかしてここが真剣勝負の親店?」と思ったのだが、残念ながら営業してなかった。不定休だが、たまに休むらしい。うーん、でも、あそこまで歩くと遠いんだよねえ?それでは、次回の「お散歩エクササイズ」の目的地はあそこのラーメン屋にしてみっかね。
4月16日(月)

 「私って天才!」シリーズとして、また会社で飼育しているアマリリスが見事な花を咲かせたので、デジカメで写真撮影したのだが、デジカメをパソコンに繋いでみたら・・・シカトかよ!

 うーむ、これは多分、そこのUSB差込口(?)には、ここ最近、iPod独歩君ばかり繋げていたので、すっかりマックに洗脳され、「ソニーなんて、ダセーよ」とソニーのデジカメをシカトしているに違いない。

●名誉の負傷

 この間、スーパーで買い物して外に出たら、自転車を出そうとしていたオバサンが隣の自転車を倒してしまって困った様子だった。斜めってる場所なのに、みんな好き勝手に駐輪するから、よく将棋倒しになるのである。
 そんで、オバサンがせめて自分の自転車は倒すまいとふんばっているのも虚しく、ゆるりゆるりと今流行りの長周期波動だかなんだかみたいに、2台くらいが崩れそうになっていた。
 脊椎反射的に、それを阻止しようと駆け寄って、なんとかしようとしたが、オバサンのではない2台が知恵の輪状態に絡み合ってしまって、オバサンと二人で綱引きしたが、どうにも離れない。

 がっちり組み合っているわけでもないのだが、車輪とペダルが微妙な角度で絡んでいるようだ。
 しかし、私が親切心で手伝っているというのに、オバサンは「あらあら、困ったわねえ」と礼も言わない。
 手伝うの辞めようかと思ったが、ふと、先ほどの「転倒の瞬間」を頭の中でフラッシュバックさせてみると、私が通り掛かったのと自転車が倒れたのがほぼ同時だったので、だからそこ私も自分が倒したかのような錯覚を起こし、脊髄に信号を送ってしまったので、こういうことになっていたのであった。

 なのでそのオバサンの認識としては「最初に私が倒したが、次に向こうに触ってしまったのはこのオネーサン」ということになっているらしく、ゆえに私は「とおりすがりの親切な人」ではく「共犯者」という地位になっているのだろう。

 そこでムキになって「いえ、私は指一本触れていません」と主張するのも大人ゲないと思って、ともかく、目の前の惨状をなんとかしようと、オバサンとあれこれやっていたが、なかなか上手くいかない。
 そしたら、今度はほんとに「通りすがり」の女性が助っ人に入ってくれた。
 彼女もとっさに行動したらしく、車輪とペダルが噛んでいるところに無言で手を伸ばすので、思わず「指、気をつけて!」と叫ぶ、私とオバサンの呼吸ぴったり。

 結局、彼女の助っ人により、なんとか分離できて、私とオバサンは彼女に礼を言ってから、互いの検討を称えあい、私は家路についたのだが、ふと右手を見たら、出血してた。
 人差し指のフシを少しだけすりむいたらしいが、あのあたりはけっこう派手に出血するので、帰り道ずっと口で傷口を塞ぎながら「なんで、他人の自転車持ち上げて、私がケガせにゃあかん」と嘆いていたが、「やっぱし、私っていい人」ということで、必死に自分を納得させました。

●カレーがラーメンになった話

 この話の発端は、会社の用事で法務局に行ったときに遡る。
 会社の謄本を取りにいくのは、関内にある法務局で、馬車道(という通りの名前)を通る。
 飲食店の数が限られている我が職場周辺と違って、あのあたりはエスニック系の店も多く、「そのうち、昼時に行って、このあたりで昼食をとろう」と前から計画していたが、なかなか昼に行くことができなかった。

 先週は、「わー、新年度早々、さっそく週6日出勤かよ〜」とスネていたので、「いいや、もう、法務局でサボっちゃうもんね」と「謄本取りに行って、食事も外でしてきます」と一方的に告げて外出した。
 あの通りにはカレー屋が何軒かあり、先日、振込ソフトの設定で頭痛に見舞われたとき、それを解消してくれたのは、近所のカレースタンドのカレーであったので、それでなんとなく「カレーさえ、食ってりゃ、私は元気」と思い込んだというか、体がホントにスパイスを求めていたというか、迷わずに「あそこの一番エスニックっぽいカレー屋」と前から目をつけていたところに入った。

 時間をきちんと計画していたので、店についたのが1時ちょっと過ぎ、しかし、1階のカウンターは満席に近かった。しかも、制服姿のOLが1人でカレー食べていたりした。「こ、これは、私が知らないだけで人気店なのかも」と期待が膨らむ。

 「キャンディー・ストリート」というスリランカ・カレーの店で、あとでネットで調べてみたら、けっこう有名らしい。ランチカレー700円。5種類くらいの中から選べるのだが、私は2番目に辛いチキンカレーにしてみた。

 そしたら、それが絶品でさあ。
 スリランカ料理の店はそれほど多くないが、今まで食べた経験だと「インド料理よりパンチがないなあ」という印象だったが、この店のも確かに辛さはそれほどではないのだが、ジワっとくる旨みがあって、食べ終わってお会計したあとに、カウンターにいるスリランカ人コックたちに(みんな、なぜか人の顔をじっと見る。つーか、インド旅行経験あるので、インド系の人々には私の「平安顔」というか「仏顔」はかなりウケがいいのだ。私には彫りの深いインド美人の顔のほうが「これぞ美人」に見えるんだけどね)「すごくおいしかったです〜、また来ます〜」と愛想振り撒いてしまったほどである。

 ちなみに、先週金曜日はお天気もよく、ご機嫌も麗しかったのだ。

 絶品カレーを食べてから、謄本をとって、会社に戻ると、さっそくマスオさんに「法務局に行く途中の馬車道ってたくさんお店あるじゃない?」と話かけた。マスオさんも「ああ、そうっすね」
 「で、前から食べてみたいと思ってた、スリランカ・カレー屋さんに入ってみたけど、もお、それがほんと美味しくて〜〜〜」
 「へえ?いいなあ」
 「でしょ?だから、今度、法務局に用があったらねえ・・・・・・絶対、私が行くからねっ!」

 マスオさんはキョトンとしていたが、後ろにいた派遣のAさんとエビワカちゃん(仮称)が大爆笑したので、「へ?なんか可笑しいこと言った?」と問いただすと「だって、普通だったら・・・・」とゲラゲラ笑っている。
 あ、そうか、普通は「今日、入った店がとっても美味しかったから、今度マスオさんに教えてあげるから行ってみてよ」と言うべきところだったな。

 「いや、チキンのが美味しかったから、今度は別のも食べてみたくなって・・・」と私が頭をポリポリしながら言うと、マスオさんも納得してれて「ああ、他のメニューも食べたいほど、美味しかったんですか」と興味を持ったようだ。

 つーわけで、久々に食いしん坊魂が暴走したので、ネットでその店の評判をチェックしてみたら、どうやら同名の店が目黒にあり、どうやら目黒のほうが二号店らしい。
 「えー、目黒なら散歩コースじゃん」と思って、日曜日の午後、さっそく国木田君と一緒に目黒まで長い散歩に出たのである。
 久々に代官山を通過したな。
 あそこには何の用もないから、ヒルサイドテラスの階段を使って脚のストレッチだけしました。(クリスマス・カンパニーの前でアキレス腱伸ばしていた変な女性を目撃した人がいたら、それは私です)

 三茶から2時間かからずに目黒到着。開店まで時間があったから、ドトールで読書して時間をつぶし、「いざ、スリランカ・カレー」と権の助坂沿いにある「キャンディ・ストリート目黒店」を目指したら、すぐに見つかって・・・・・あれ?閉まってる?

 がっかり。
 つーか、日曜日に営業しているのかどうか、ちゃんと確認もしてなかったのだ。
 あとで調べたら、定休日は日曜でした。
 あのあたりは、日曜休むエスニック店多いってことを忘れていたよ。

 帰りはバスで帰ろうという計画だったが、せっかく目黒まではるばる歩いてきたのだから、駅周辺に目ぼしい店がないか探してみたら、路地裏に流行ってそうなラーメン屋があった。
 しかも「蒙古ラーメン」ってなんじゃ?
 つーか、テレビで取材されていたような気がする。

 メニューを見ると激辛系らしいし、「じゃあ、ここにしてみっか」と店内に入ると、日曜の6時だっていうのに広い店内すでに満席で、5人くらい並んでいた。店内に貼られたポスターによると、V6のグルメ番組で「激辛ラーメン1位」に選ばれたらしい。

 それのどこが「蒙古」なのかわからないが、ラーメンに麻婆豆腐であえた野菜がたっぷり盛られているのが、看板メニューの「蒙古タンメン」であった。私でもギリギリの辛さ。通はセットでミニ麻婆丼を頼むそうで、実際、ほとんど人がそのオーダーであったが、麺だけでもけっこうボリュームあるので中高年にはキツそうです。ニンニクたっぷりだし。

 まあでも、食べながら、岩盤浴したくらい汗かいたよ。
 あれは、真夏に食べると、相当涼しくなると思う。
 私も10歳若かったら、けっこう病みつきになっていたかも。

 最近は、ラーメンに辛さはあんまし求めてないからなあ。でも、やっぱしタイ料理点に入ると「一番辛いのはどれだろう」って一皿くらいは激辛をいれたくなる。

 というわけで、スリランカ・カレーを食べるつもりが、謎の激辛「蒙古ラーメン」を食べてしまいました。蒙古はあんまし辛くないと思う。つーか、モンゴル料理レストランで驚くのは「野菜が入ってるメニューが全くない」ということだったりする。たぶん、モンゴル人は「肉と野菜」っていう概念を持ってないのだと思う。野菜の栄養素は「草を食べている羊」から摂取していることになっているのだろう。強いていえば、肉よりも家畜の乳が「野菜ジュース」みたいなもんのような気がする。

 遊牧民は長年そういう食生活を送っているので、それでもいいんだろうけど、どっちかというと草食系にできている日本人には「羊肉ばっかで、よく早死にしないなあ」と思えるというか「ヘルシーって複雑な概念なんだな」というか・・・・・

 それにしても、激辛はいいとしても、そうとう量のニンニクを摂取したので「これはちょっと汗で排出したいなあ」と思って、ひさびさに近所の銭湯のサウナに入りました。
 帰ってみると、母とM嬢から留守電が入っていて、母とは先週も電話で話していて「私の父方の祖母の頭の様子が少し変」っていうので、母が観にいってみたのだが、あれだけの半寝たきり生活が長くても、不思議と全くボケを感じさせなかった祖母が、珍しくボケボケというか、なんか言うと反応があるのだが、うなずくくらいしかしないらしい。近日中に私も見舞いに行く予定。

 M嬢は、候補がやっと二つに絞れたみたいで、内装入ってキレいなほうに申し子みしていたら、審査に通って、でも、それも無職だったかダメ元というか、そうなってみると彼女の「本命」は、古くて難ありまくりだけど、けっこう広い物件で、たぶん、キレなほうが審査で落とされたら、迷わず古いほうに決められたんだろうけど、なぜか通ってしまったので(その前に申し込んだ人が審査落ちしたというのを聞いていたらしい)、また頭が真っ白になってしまったようだ。

 物件話もしたんだけど、後半は「田中君VSダルビッシュの試合だったら、超観て〜」というプロ野球話になり、午前2時まで盛り上がってしまった。

 おかげで今日は寝不足で不機嫌だったのだが、また課長が休んじゃったよ。
 また、微妙な空気が流れる。
 で、今までの経験から言うと、課長は最初は他人を納得させる理由で休むのだが、それが二日、三日と続くのだが、今回はどうなるだろう?

 微妙な空気といえば、先日、三茶の商店街を歩いていたら、小学校2年生くらいの男子が母親に向かって「おかーさん、もっとちゃんと、空気読めよ〜」と説教していたので、後ろで笑いこらえるのが大変でした。

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