可燃物な日々

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4月13日(木)

 昨日は書いてる途中でなにを書いているのかわからなくなったので、一日寝かしておいたのだが(読み返してみて、がっかりしたら削除しようと思った)、途中までは理解できたので残しておくことにした。だって、たかが日記だし、されど日記だから(笑)

 で、これだけは憶えているのだが、本当は違う本のことを書こうと思っていたのである。
 それが、どうしてああなってしまったのかは、自分にもわからない。

●「ジェイン・オースティンの読書会」

 という本を見つけ、ここ1年くらいで初めてジェイン・オースティン読み始めたというか、もう全部読んじゃったというか、著作が少ないので大変残念なのであるが、こんな題名の小説が「全米ベストセラー」という帯をまとって書店に鎮座しているのを見つけた喜びよコンニチワである。

 まだ50頁くらいしか読んでないのだが、ちょっと不審な訳文で、でも、もしかしたら、これってかなりの実験小説なので、これも伏線というか、意味があるのかもしれないので、先が楽しみなのだが、そう、ロッジ先生信者はこういう小説を読むと、かなり期待しちゃうのである。

 つーか、ロッジ先生は「作者を出せ!」で、ヘンリー・ジェイムズを主人公にした「伝記っぽい娯楽小説」を書いていたけど、きっと彼がこの題材で小説書いてくれたら、この10倍くらいワクワクしそうなんだが・・・・・ってまだ半分も読んでないのに、ケチつけてます。

 「全米ベストセラー」っていうのが、どの程度のことなのかわからないけど、それなりに売れたということは、やっぱジェイン・オースティンっていうのは、あちらの小説好きには必須アイテムなんですかね?
 日本では、「ブリジット・ジョーンズの日記」がジェイン・オースティンへのオマージュであるというので、やっと一般つうか、私の興味をかきたてたという程度だったが、この小説でも、登場人物の名前が注釈もなく羅列されるので、あえて日本で近いものを考えてみると、源氏物語の登場人物くらいの「一般教養」になっているのだろうか?

 しかし、私も駆け足で全作品を読んだのは、ちょっと前の話であるし、だいたい、どの話も雰囲気が同じなので、どれがどれだかわからなくなり「えーと、これは粗筋と主要登場人物だけでもおさらいしないとな」と思っていたら、ちゃんと巻末にありました。そりゃそうだ。

 でも、小説内でも話題になる「濃い脇役」というか、口やかましい独身の叔母さんとか、すげえお喋りで困った近所の老婦人であるが、読者に重要な情報を与えるとか、そういう人が確かにいた記憶はあるが、どの人がどの作品で暴れていたかまでは書いてないので「もう一度、読み無いさないといけないかしら。つーか、この小説の登場人物である、いつも全集を全部抱えて読書会に現れる人物を見習って、全集を手元に置いておいたほうがいいかしら?」なんて思ってしまいました。

 もっとも、全部で6作しか残してないので、全集抱えてやってくるのが可能なだけだし、そんで小説内で開催される読書会も毎回、取り上げる作品を決めていて、その都度、小説では主人公が変わるので、登場人物というか読書会のメンバーも6人だというのはわかるんだけどさ。

 この作家も、このアイディア思いついたときには、「私って天才!」と思っただろうなあ。

 ただ、くどいようだが、オースティンの作品をちゃんと読んでないと、この小説の主人公たちの人生が、取り上げる作品とリンクしていることがよくわからないのである。

 映画「めぐりあう時間」を観て、「こりゃ、ダロウェイ夫人読んだことないと、わからんだろう」と思って、後から読みましたが、「元ネタ」がわからなくてもそれなりに楽しめたけど、やはりちゃんと元ネタわかってる人の3分の1くらいしか楽しめないでしょう。

 で、巻末の「オースティンの6作品の簡単なあらすじ」(簡単すぎました)を読んだあとに、続くページをめくってみると、そこには「2世紀にわたる書評」が時系列で並んでいた。
 これが力作だった。
 有名作家のコメントがずらり。マーク・トウェインとか、シャーロット・ブロンテとか、EMフォースターとか。

 中でも最高だったのが、私が大好きな小説(ってゆーか、映画先に観たんだけど)「ぼくの美しい人だから」の邦題(原題は「ホワイト・パレス」っていうファーストフードの店名らしい)を作った・・・・ええと、どう説明すればいいのだろう、献辞?っていうのか、欧米の小説って、最初に引用みたいのが載ってることが多いけど、あの小説では、W・H・オーデンの詩が載ってて、その一節が「ぼくの美しい人だから」だったのである。

 そんなことはどうでもいいことだが、とにかく私はオーデンという名をそこで初めて知ったのだが、「死にゆく罪ある命だが ぼくの美しい人だから」という一節に心ひかれて、彼の作品集を図書館で探してみたのだが、どうも、詩っていうのは、訳文で読むと、よくわからんというか、訳者の詩才に依存するしかないというか、やっぱし、明治時代だかの名訳くらいしかピンと来ないというか、とにかく、英米文学は大好きであるが、詩だけはやっぱし原文わからないとなあ、と思っていたけど、どーも、やっぱし、訳文の詩集を読みきることはできない。

 そんで、がんばって原文にチャレンジすると、暗号度が高すぎて挫折。

 でも、そのオーデンのコメントも載っていて、それが笑えたのであった。
 このくらいだったら原文でも読めそう。

 以下、勝手に引用。

 ぼくが彼女にショックを受けたほど彼女を驚かせることなんて、できるわけがないさ。
 彼女と並べばジョイスも青臭くて無邪気なもんだ。
 見てるだけで落ち着かなくなる。
 イギリス中産階級の未婚女性に
 「現ナマ」が色恋をどう左右するか説明されるのは  率直に、冷静沈着に
 社会の基盤は経済なんだと暴露されるのは


 オーデンの詩って「ぼく」で翻訳されがちなんですかね?
 しかも「できるわけがないさ」ってオザケン調です(笑)
 オザケンにお願いしてみようかなあ、「オーデンの詩を翻訳しませんか?」って。
 暇そうだし(笑)

 なんか、どうやら、そういう感じらしいぞ。

 うん。この本を買ってよかったって思うよ。

 あと、この小説の出だしは、「私たちはそれぞれ、自分だけのオースティンを持っている」という一文で始まっていて、このプロローグは、けっこうまあまあなのだが、それ読んで、私は大変満足したのであった。
 なぜかというと、「私にとってのオースティン」が重複しなかったからである。

 「きゃは?」って感じである。

 そんなことで「やはり私は唯一無二の存在である」という自信を深めている場合ではないような今日このごろであるが、自己満足というのは重要である。

 日記にも、オースティン作品の感想文は書いていたと思うが、「私にとってのオースティン」は、ミステリー小説であった。
 つーか「アガサ・クリスティ」とほぼ同じ位置であった。
 主人公が最終的に誰と結婚するのか、勝手に深読みして、ほとんど自滅していたのである。

 まあ、これも「日本ではあまり知られてない」ということと、ビギナーであることが許した密かな楽しみだっただけで、欧米ではありえないことなだけかもしれない。

 話は戻るけど、オースティンの作品が200年の間に、どう評価されていたかを辿ると、その間の「世間の変化」が浮き出てくるので、やはりオースティンは偉大だなあ、と感心する。

 てゆーか、隣人の悪口っていうのは永遠に不滅なんだなあ、って思う。
 「悪口」と言うと、ネガティブな表現になってしまうが、「あいつ、きらーい。うざーい」ではなく、「これこれこういうわけで、そういうところがちょっと不愉快だったというか、でも、まあ悪い人ではないし」というのが、200年経っても「そうそう、そういうことある」と共感を呼ぶのだとしたら、私も頑張ろうではないか。何を?

 えーと、最近は、会社の話題でKさんの悪口書いてませんが、それは彼女が別フロアに行ってしまったからです。
 そんで、ときたま、書類や郵便物を届けると「あら〜〜〜〜、ありがと〜〜〜〜」と大声で歓迎されるので、頭にツーンと来るので、なるべくマスオさんを遣いに出しているのであった。
 マスオさんは、独り言は多いが、ピリピリとした自己主張しないタイプなので、たいへんよろしい。

 で、この間、ハイジの「じんましん」の話題になり、彼はまだそれで通院しているのだが、医者には「食あたりというよりは、精神的なものでしょう」と診断されたようで、M嬢が「それって、イライザの後遺症?」と突っ込んだら、ハイジは苦笑いしていた。
 なので、私が「でも、今度来たマスオさんだと、じんましん和らぐのでは?」と無難にフォローしたら、前は同じ部署だったハイジは「あいつ、AB型だから、変にマイペースなところもあるんっすよ」

 自分の歓迎会が予定されていたのに「今日は帰ります」とさっさと帰ってしまい、周囲を唖然とさせたこともあったらしい。

 マスオさんの本領はこれからじっくり観察させていただくとして、ふと「AB型」について考えてみた。
 B型には苦い思い出がたくさんあるけど、AB型はけっこう平気だったな。
 血液型占いをそれほど信じているわけでもないけど、私はO型なので「O型はB型の奴隷」というのは、けっこう当たっているような気がする。

 前に勤めていた会社で、血液型を並べてみたら、見事にその図式が浮かび上がり、「奴隷」であるO型社員が全員「やっぱし〜〜〜〜?」と絶叫しそうになった。30名くらいの小さな会社だったが、見事にA型がいなかったのである。統計的にはおかしい。A型が一番多いはずなのに・・・・トリックスター的な存在だったB型を地道にフォローするのがO型ということになっていた。A型の人はどうやら長続きしなかったらしい。30名中、A型が二人くらいしかいなかった。

 その前にも、大学のサークルの名簿作っていたときにも「なんで、OとBが多いのだ?」と不思議に思ったことがあったが・・・・

 自分はどうも、「B型主導の組織」に囚われがちらしいことに気が付いた。

 そんで、AB型っていうのは数が少ないのであるが、私の知ってるAB型は「いい人」が多かった。
 そして、「変なやつ」の場合も、自分にとっては「自傷タイプ」で、私は巻き込まれなかった。
 でも、どうやらA型はAB型に巻き込まれるらしい。

 個人的な経験から、「O型は、B型に振り回されても、まあしょうがないとあきらめるが、A型は我慢しない」「O型はAB型がマイペースでも、どうでもいいが、A型は非常に気にする」「A型とO型は、お互い辛いね、と同士だと思っている。で、どっちがより我慢しているか競い合う。たいていO型が譲る」と思っている。

 私の中の「科学マインド」は血液型占いを否定しているのですが、状況証拠があまりにもあまりなんで、断固として「非科学的だ」といえないのでございます。

 なので、あまり積極的に身近な人の血液型を確認しないようにしています。ついつい「やっぱ、B型だったか」と納得してしまうので、そんなことで納得していたら、200年後に「ジェイン・オースティンの再来」として評価してもらえないじゃあないですか(笑)

 お、今日はうまく落ちたので、ここらへんで終わりにしておこっと。 
4月12日(水)

 昨日は久々に焼酎をたくさん飲んだ。

 隣の席に座っていた人が、ベランメエ口調も愛らしい「シラフでも口が悪いが、飲むとさらなり」な上司に大したことないことを言われて、なぜかヘコんでいたので、周囲が「でも、○さん、ちゃんと人を選んで言ってるんですよ」とフォローしたのだが、「いや、そういうんじゃなくて・・・・」

 どうやら彼も相当酔っ払っていたようで、「いや、トラウマなんで・・・」とわけわかんないことを隣の私に向かって呟くので、「トラウマって?」と普通に聞き返したら、彼はボソボソと「辛かった少年時代」を告白しはじめた。

 彼の父は酒乱だったらしく、もう20年以上会ったことがないという。
 父との最後の思い出は、暴れる父を必死にはがいじめ押さえ込んだ、10歳くらいのときの修羅場の場面だったらしい。
 そして、30年以上の時が流れ、自分も父親になり、息子があの時の自分の年齢になってきたときに、息子に羽交い絞めにされた父の気持を考えるようになったのだそうだ。

 ・・・・・なんか、この話、ちゃんと聴いちゃいけないんじゃないかなあ?人に話さないようにしてたんじゃないかなあ?と思ったが(親がほんとうにどうしようもなかった人って、隠そうとするじゃない?)、向こうも酔っ払いだし、こっちも酔っ払いだから、どうせ明日になったらほとんど忘れてるだろうし、いいや、とことん聞いちゃえ。と、ずっと静かに拝聴していました。

 男性でもそういう心的外傷ってあるんですね。いや、無いはずは無いのだが、あんまし男性がそういう話を真面目に語るのに出会ったことがなかったので、ちょっと新鮮だった。
 そういや、彼は、先日、喫煙所で雑談していたときにも、無害な世間話をしていたのだが、ふと「あ、こんなこと、あんまり言いふらすもんじゃないよね」と反省していた。

 大した話ではなかった。彼の誕生日は本当は3月だったのだが、「当時はけっこういい加減だったし」と戸籍上は4月生まれになっているとか、そんな話。
 彼とはそんなに仕事で接点がないけど、ときどき話すと、そうやってポツポツと語りはじめ、けっこう内容が地味に面白いので、こっちも素直に膝を寄せることができる。
 立て続けに自己開示されてしまったが、それはたぶん、私とウマが合うとかそういうことではなく、たいていの人は彼と立ち話するのに心地よさを感じるだろうな、と思う。

 なんか、こっちの「対人バリアー」をするりと抜けてくる変な魅力があるんだよな。
 彼の息子が、彼に姿がクリソツで、前に社長宅BBQ会で、その息子がなぜか私に張り付いて離れなかったことがあった。
 デザートにアイスが配られたので、そばにいたそのご子息に「食べる?」と差し出すと、するりと私の懐に入ったので、「こりゃ、食わせろということなのか?」と思って、スプーンですくって食べさせると、黙々と食っていた。

 子供の扱いがよくわからない未婚の姉さんに、きちんとアイスを食わせてもらうとは、こいつタダモノではないな、と思ったが、あの一族と妙に波長が合うのか、それともやはり、「たぐい稀な才能を持った遺伝子」なのか、よくわからんが、でも、あそこに酒乱の遺伝子が紛れていると知って、私の物語の中に奥行きができたでございます。

 会社にそういう人が一人でもいてくれると、大変心が安らぐが、今日もこの前「バカっ」と私の血圧を上げたヤツから電話があり、「ほんとーにしょーもないお願いで心苦しいのですが」というので、「今度はなんじゃ?」と心のバリアーを30%ほど強化したら、「不動産屋に書類を全部送ってしまったので、住所がわからないんです」

 不動産屋の住所のことかと思ったら、「今度、引越すアパートの住所」であった。
 ぶわっか!

 黙っててやろうかとも思ったが、発散しないと自分が苦しかったので、彼にライバル意識を燃やしているハイジにチクっちゃった(笑)
 ハイジも「あいつ、ほんとにバッカですよね。あんなんで、なんで生きてられるのか不思議だ」と、ハイジにしては珍しく私の愚痴をきちんと受けてくれた。

 ありがとーよ。おかげでハイジとちゃんとコミュニケできたよ。
 そんで、その後で、上司が2名、そのバッカの話題になって「彼を異動させた支店の支店長から電話があって、すごくよくやってくれるって喜んでたよ」なんて話していたのを私もハイジも眉毛ひとつ動かさずに聴いていたけど、もしかしたらハイジは聞いてなかったかもしれないな。ヤツは集中しちゃうと周囲の会話が全く耳に入らないから。

 そのかわり、私の倍は処理能力があるから、ま、人はそれぞれですからね。

●読書感想文

 日記書いてて思うのは、映画を観たあとって、なぜかワーっと感想を書きたくなるんだけど、本だとその勢いがない。
 ふと思ったのは、映画っていうのは、2時間前後に圧縮されているので、なんと言うのだろうか、なんかすごく圧縮されたものがインプットされるので、それが観終わったあとに、爆発するというのか、とにかくそんな感じっぽいが、本だと、さすがに2時間や3時間で読み終えるものは少なく、インプットが圧縮の反対なので、あんまり放出しないみたい。

 その理論で言うと、飛ばし読みで1時間くらいで読んでしまった「セカチュー」なんかは、「なんじゃ、こりゃ〜〜〜〜どりゃ〜〜〜〜」と、超大味のニンニクたっぷり料理を食べた30分くらい後みたいに、「まずいモノの食った」という精神的苦痛と共に、「しかも、ガスが出てとまらない」という肉体的苦痛が加わって、「とにかく、ガス抜きせねば」と必死になるけど、美味しい料理をゆっくり3時間かけて食したときには「たいへん、おいしゅうございました」としか言いようがない。
 あとはせいぜい「コストパフォーマンスはよい」などと言うくらいか。

 なので、本に関しては、よほどなにか思いつめることがないと、なかなか日記に書かないみたいだ。
 けっこう、ポツポツとマイペースに読んでるんだけどね。

 昨日まで読んでいたのは、大森望の「特盛!SF翻訳講座」で紹介されてた、エロティック・スリラーのアンソロジー「震える血」であった。
 大森望がSFマガジンで翻訳した「SFマガジン史上もっとも卑猥な海外短編」らしい短編「お仕置き」が、別の訳者の訳で単行本に収録されてるというので、大森望の「ね?こういうと読みたくなるでしょ?」に素直にノって、買って読んでみたいのである。

 結果、今まで読んだことのある短編ホラー集の中で、いちばん、読み進みました。

 私は、30歳すぎて「恥かしながら、今さらキングの本を読んでみました」で、「わー、すいません。ベストセラー作家だというだけで、読まず嫌いというか、完全にバカにしてました」と反省し、それが、ハリポタや「ダヴィンチ・コード」などに挑戦する原動力にもなったのだが(日本のベストセラーはたしかにクズが多いが、世界的ベストセラーはその確立がかなり低い)、それで、一時期はけっこうホラーの短編集にも手をつけたのだが、どうもイマイチだった。

 だいたい、大御所のキングからして、短編がつまんないのなんのって。
 スティーブン・キングはやはり、最低でも上下巻のボリュームがないとなあ。
 つーか、短編書くなよって感じ。私が「キングとほとんど同じ」と思っている、アーヴィングなんて、短編なんて観たことないぞ?

 なので、わたくし的に納得がいく「ホラーの短編」と言ったら、小説じゃないけど、「ヒッチコック劇場」くらいだった。

 でも「震える血」はエロティック・ホラーというより、女性から見ると「エロ与太話」満載というか「血玉出るまでセクハラ」ってかんじで、別の意味で感動した。

 たぶん、こういうのに嫌悪感を感じる女性はけっこういると思う。
 前に女友達と「酔っ払いの深夜長電話バトル」で口論になったが、テーマは「渡辺淳一」であった。
 友人は、ああいうのは絶対に許せないと言うが、私は「でも、エンターテイメントとしては、かなりよくできてる」と言ってしまい、友人に言葉でボコボコにされたのであった。

 私も、女友達にそこまでボコボコに言われてまで、渡辺淳一を擁護する気にもなれなかったのであるが、でも、一部の優秀なセクハラ作家は、男の身勝手な妄想をちゃんとあざ笑うことができていて、日本でそれができるのは、渡辺淳一だと私は思っていたんだけどなあ。

 渡辺淳一が優秀なのは、「男の身勝手」と「女の破滅願望」をうまくマッチングさせたところだと思う。

 けっこう、簡単そうで難しいのです。
 「セカチュー」が、ちゃんちゃら可笑しいのは、「女の破滅願望」を「白血病」に置き換えてしまったところだ。
 けっこう、その失敗している作品は多いのです。
 なので、そこから突き抜けた渡辺淳一は偉いと思っていたのですが、「震える血」では、そこからさらに突き抜けた作品が多かったので、大変満足いたしました。

 「女は怖い」というテーマの作品にはときどき出会いますが、私が一番苦手なのは、映画監督のカラックス。
 「怖くてすいませんねー。つーか、おめーがガキなだけじゃん?」と蹴りを入れてやりたくなります。

 私がダメだと思う作品の多くは「いかに怖いか」を切々と自分なりに描写したやつで、そういうのは大抵つまらない。
 昨日の会社の飲み会の話に戻りますが「酒乱の上司と、自分の父親が重なって」という話を小説にしたようなもんです。酒飲み話では、聴き応えのある話ですが、小説にしたら2流。
 やはり、小説だったら、トラウマを抱えた部下が、上司をそこで羽交い絞めして、上司が「もっと、きつく締めて〜」とか言ってくれないと(笑)

 う、マジで想像してしまった。う・・・・・濃すぎる。

 そういのは濃すぎるから、「超セクシーな美女」とかに置き換えてるだけなんですよね。

 そう、ちゃんとわかっているセクハラ作家は、「ハゲの常務62歳」と「ハゲの部長45歳」の絡みを(わー、想像したくもないです)グラビア系美女と冴えない男の絡みに置き換えて描写するので、「会社の飲み会の、壮絶な絡みをこういう風に描くこともできるんだ」というあたりが凄いというか、
4月10日(月)

 昨日の日曜日もとうとう部屋から一歩も出なかった。
 さらに、一日中、ジャイアントコーンと柿ピーをぼりぼりと飽きることなく食っていた。
 しかも、寝転がってテレビを観ながらボリボリしていて、柿ピーやジャイコを入れた皿の置き場に困り、腹の上に置いていたのであった。

 トドとラッコとリスの可愛くない部分だけを抽出して合成たような生き物に成り果てていました。

 夜は、テレビ東京の「ソロモンの指輪」(って題名だっけ?)を観た。
 漫画家・一条ゆかりを取材していたのだ。

 有名漫画家の自宅は、ときどきテレビで取材されることがあるけど、意外と「こんなもん?」だったりする。
 一条ゆかりなんて、今まで十数億円稼いでいるはずだし、立派なセレブであるが、やっぱし「こんなもん?」だった。
 彼女がNY取材で訪問した、日本人ハープ奏者のアパートのほうがゴージャスに見えたくらい。

 実際に観るとどうなのかわからないが、日本の家って、なんであんなに貧相に写るのだろう?
 やはり、広さが足りないのと、天井の高さかなあ?

 日本の豪邸と、アメリカの中流の家がちょうど同じくらいのスケール感だったりする。
 地方の豪邸だと、もっとふんだんに空間をとれるはずなんだが、どうもなかなかふっきれないようで、西海岸やハワイなどの「豪華コンドミニアム」なんかに開放感で負けてしまっている。

 日本人は、ドーンと広いリビングにポツポツと家具が置いてあるということに不安を感じるのかもしれない。
 欧州の豪邸だと、広さよりも「いかに沢山家具を置くか」を誇示していたりするけど、あれもインフラの広さがあるからこそ、骨董品の豪華な家具をゴチャゴチャ置いてもそれなりに映えるけど、日本でそれやると、やはり圧迫感があったりする。

 そういえば、漫画家はいくら売れっ子になって巨額の収入を得ても、育ちがゴージャスじゃないので(貧しかったという人も多いし)、そういやサイバラも「6畳以上の部屋に住んだことのない人は、それより広い部屋を作っちゃだめだ」と教訓を語っていたが(仕事場として用意した6畳の畳の部屋に家族が大集合して、20畳のフローリングのリビングが無駄になったそうだ)、そーいや、クラシック音楽家は日本でもわりとちゃんと「セレブな部屋」に住んでたりする。

 クラシックで大成する人は、元々財力がある家の子が多いし、幼いころから留学していたりするので、自然と身につくんだろうなあ。

 どっちがいいかって話ではないけど、やはり有名漫画家の自慢の家をテレビで拝見すると、「成り上がりの限度」というか、どこか深層のところでブレーキかけてる感じがして、共感してしまうことが多い。

 うちの母は、けっこう社交的だったので、よく近所の茶飲み友達の家に遊びにいっていたが、「整然とした家」よりも、階段や玄関の靴箱の上なども物でびっちり埋まっている家のほうが「なんだかホっとする」と言っていた。
 最初のころは、「この家、なんでこんなに雑然としているのだろう」と驚くようだが、何度も行きたくなるのは、アイランド型キッチンの向こうでお茶をいれてくれる家よりも、居間にはコタツがあって、手が届くところにジャーポットが床に置いてあって、コタツに入ったままお茶を入れてもらえるような家だそうだ。

 そういや、私が小学生のころの友達の家も、ほんとに狭くて、コタツでおやつを食べていると、そこんちの高校生のお姉さんもコタツに入ってテレビを見ており、そのころ「第二次バレーボール・ブーム」で、男子バレーがけっこう人気があり、そこんちのお姉さんが夢中になって観ていたっけ。
 で、私らが、世良正則に書いたファンレターをお姉さんが「どれどれ」と添削してくれて、「なんか、これ、キモくない?」(今風に超訳しましたが、当時はなんて言ったんだろうか?)とか言われたり・・・・

 ところが、その家は、実はけっこう資産家で(その当時のご近所比)、そのすぐ後に、もっと広い土地を買って、その付近の平均的な一軒屋の2倍の敷地に大きな家を建てたのだ。
 当時としては画期的だった、20畳くらいある広いリビングは、そりゃあ魅力的で、小学生高学年だった私たちは、よくその家に集まってドタバタと遊んだけど、でも、4畳半の居間に家族全員が集まっていた元の家の雰囲気のほうが好きだったな。
 家が広くなったら、お姉さんたちも自室に篭るようになり、私らが騒いでいてもリビングに来てくれなくなったし。

 そういえば、昔、何回か遊びに行った友人の家は、都心からはけっこう離れていたけど、かなり豪華なマンションで、お父さんが開業医として使っている家が元々の自宅だったらしいが、たぶんバブルのころに家族の自宅用に買った物件だったのだろう。

 広いリビングがあったが、そこのソファに居座っていたら、お母さんとお姉さんが帰宅したのだが、リビングに入ってこないのに驚いた。
 キッチンにはいたのだが、こっちに来ないのだ。
 友人は若い男の子だったので、女性の友人が来てるから遠慮していたのかもしれないけど、でもなあ、と思った。

 茶くらい出せよと、思ったのだ。
 うちの親だった、絶対そうするし、急いで食事の支度くらいするだろう。
 だいたい、友人が若い男子だったので、茶を出すということもできず、私が「コーヒー飲みてえ」と騒いで、「でも、オレ、よくわかんないんです〜」というのを無理やり探させて、自分でコーヒー入れていたのである。

 そんときに、さらにビックリしたのであった。
 キッチンが不案内の息子が「コーヒーどこかなあ?」とあちこち戸棚を開けるので、「たぶん、この辺にありそう・・・」と私もあちこち開いたのだが、どの引出しにもパンパンに物がつめこまれていたのである。

 全く整理整頓がなっていなかったし、スーパーのビニル袋が、あちこちの隙間を埋めるように詰め込まれていたので、なにがどこに入っているのかさっぱりわからなかった。

 私の友人であった、そこんちの息子は、一時期は閉鎖病棟に送り込まれたくらい、10代半ばから心を病んでいたが、「ここんちの、かーちゃんも相当ヤバいぞ?」と確信した。
 目に見えるところは、それなりに無難に片付けているのだが、キッチンの棚に心の闇がぎっしり詰め込まれてるように感じたのである。

 勝手に想像して申し訳なかったが、そこんちの息子の「心の病」も、たっぷり愛情は注がれているはずなのに、なんかチグハグに甘やかされているだけで、「なんかな〜」というかんじだったのだが、たぶん、そこんちの父親はけこう母親よりも年上のようで、母親もまた「甘やかされているだけ」というか、あの母親が求めていたのは、4畳半のコタツ部屋で、みんながひしめいているような生活ではないのか?

 母のキッチンの戸棚は、びっしりと不要物で埋まっていたけど(あれで日々の家族の食事をどうやって作っているのかわからなかった。作ってなかったのかもしれない)、息子の自室もレコードや機材でびっしり埋まっていた。

 お父さんは町医者で成功した人らしいが(他の友人から、その地域ではけっこう有名な医者だときいた)、家族の心の病には無関心だったのか、あの家を一回見れば、家族が求めているのは、豪華なマンション暮らしではなく、お父さんの診療所になっている家がいくら狭くても、もっと家族の体温を感じられるような暮らしだったに違いないのだが・・・・・

 その後、親交が無いのだけど、風の噂で、あの一家が、あのマンションを引き上げたという話をきいた。あの息子も近所の大学に進学できたようだ。
 父親も年老いたので、経済的にマンション暮らしは諦めたというあたりが本当なのだと思うが、父があの母息子(娘には会ったことがなかったが、弟の話だと似たりよったりだったようで)が本当に求めるものに気が付いたからだと思いたいものである。

 
4月8日(土)

 昨日の金曜日は、なんだか朝から目の調子が悪く、「うみゅー、とうとう持病(?)の網膜はく離か?」(コンタクトの処方で眼科の診断を受けたときに、「ちょっとクリアじゃないところがありますねえ?よかったら、今度、診断受けてみてください」と営業トークされたのである)と思ったら、だんだんマジに心配になってきて、家に帰ってもパソコンを観ないで早寝してしまった。

 でも、あまりにも早く床についてしまったので、すぐに寝付けそうになかったので、子守唄にテレビをつけたら「東京タワー」をやっていたので、「わー、あのキモいセリフをおさらいしてみよう」と寝ながら音声だけ鑑賞していた。

 やはりテレビで鑑賞してみると、昼ドラよりは淡白というか、制作側としては昼ドラを作ってるつもりではないんだろうけど、でも、どう考えたって設定が昼ドラだろう。役者のランクをレベル2くらい落として、昼ドラで作り直せば、けっこうな話題作になると思う。ぜひ、ぜひ。

 今日は出勤。(木曜日は有給ではなくて、ただの代休である)
 目の調子は大丈夫だった。花粉症の季節になると、いつも調子が悪いので、花粉が化学的にではなく(抗ヒスタミンがどうの、ではないという意味)、物理的に影響しているのではないかと考えられる。要するに目に異物がたくさん入るので、視界が濁るし、目がゴロゴロして痛くなり、それが続くとすごく目が疲れて、奥のほうがズーンと重くなるのだ。軽い頭痛みたいなかんじ。

 土曜なので、ほとんど電話がなかったのだが、1件だけ、社員からの電話があった。
 異動になった社員で、うちの会社では、異動のとき転居費用や借り上げ社宅などを用意することは無いのだが(要するに営業範囲が小さい)、彼はちょっと特殊なケースで、転居費用を負担することになった。

 ただ、私の上司である総務部長もどこまで負担すべきかはまだ決めてないらしく、とりあえず敷金・礼金などの初期費用は仮出金的に会社から振り込むことにしたのである。引越し屋への支払も負担してあげるつもりかもしれないが、ふと「礼金や不動産屋への手数料はいいとしても、敷金はちょっとなあ」と思ったので、本人に「そこんとこ、どうなってるの?」と確認したのだが・・・・

 なんか、本人もよくわかっておらず、話がまとまらない。私としては、部長に「敷金を会社で払うと、会社の帳簿に敷金が残ってしまいますが・・・・ちょっと処理が面倒」(つーか、初期費用しか負担せず、家賃は本人負担なので、その部屋を出るときの敷金返金のときにまた面倒というか、そんなこと忘れてそう、というか、それまで私がこの会社にいるかなあ?っていうか)と言う前に、本人に「どうよ?」と確認をとっておきたかっただけであるが、彼が「そういう普通の話しができるような人ではない」ということを忘れていたわい。

 文章化するのは難しいが、向こうは「そんな難しいことオレに言われたってわかりませんよ〜」とギャースカと軽く逆切れしてきたのである。
 いや、私だって、今まで自宅から通っていた人を社用で引越しさせてるというなら、もっと丁寧に説明したけど、彼がずっと賃貸暮らしなのは知っていたので、敷金がどうのって話しもすんなり通ると思ったので、私が想定した返事は「そっか、敷金は最終的には自分に戻ってくるわけだから、会社で負担してもらうと、あとあと面倒かも?うーん、でも敷金費用も持ってないから、退室するまで貸してもらえると助かりますがねえ?それって可能ですか?」と言う「普通の受け答え」だったのだが・・・・・

 とにかく、彼が何を言わんとしているのか、さっぱりわからなかったので、「わかった。じゃあ、その辺のことは、部長と直接話して?私じゃ判断できないし」と匙を投げた宣言したら、向こうもちょっと我に返ったらしく、「いえ、そんなつもりじゃ」と逆キレを反省してくれたのはいいが、こいつの悪いとこは「いや、オレ、さびしがりやさんだから、ミヤノさんとちょっとお話したいなあ、と思っただけなんです」と、意味不明の言い訳してきやがるところだ。

 人の話をちゃんと聞かないで、こっちをムっとさせたあとに、そんなこと言われても、さらにムっとするだけだ。
 ほんとに、バカなんだから〜

 以下、会社で嫌いなヤツ約2名の悪口を書きまくったが、書いたら気がすんだので削除しました
4月6日(木)

 自分が休みの日に、こんなにお天気がいいのも久方ぶりだったので、張り切って布団も干して、シーツやベッドカバーも洗濯した。

 そんで、本当は昨日の会社帰りに春物の服でも買出しに行こうと思っていたのだが、雨が降っていたし「明日は休みだから、ゆっくり平日のデパートでも回ってみよう」と計画していたのであるが、「どーせ、ゴロゴロしちゃうかも」と自分に期待していなかったんだけど、さすがに「春本番」の気配は、こんな私でも外に押し出す力があったようだ。

 買おうと思っていたのは、ローラ・アシュレイのスカートで、会社帰りにシネコンに寄るときにときどき覗くのだが、今日は自宅からなので、ニコタマ高島屋の店に行った。

 ニコタマ高島屋は、ときどき寄るけど、私は「氷の城」と呼んでいる。
 住宅街に、燦然と輝く巨大デパートは、一度入ったら雪の女王に気に入られて出てこれないような雰囲気をたたえているからだ。
 なので、たまに寄るときにはピンポイントで、伊東屋だとか本屋だとかで目的を果たしたら速攻退却しているのである。

 さて、平日の午後はそんなに混んでないので、あそこが演出する「セレブ感」は充分堪能できる。中を歩いていると、ついつい背筋が伸びるのであった。
 それに、あそこの店員は、客の服装で接客態度を変えないのであるが、でも、やはりジーパン&スニーカーはやめて、会社に行くのと同じ服装で行ったし。それに、会社用の服を買うので、ちゃんとパンプス履いてたほうがいいし。
 ローラ・アシュレイで試着室に居座り、あれこれ試着して、スカート1着とシャツ2着購入。合計で2万5千円くらい。ニコタマ高島屋での買い物としては、破格である。他の店だとスカート1着でそのくらいの値段が最低レベルってかんじ。
 ほんとは、店員さんも着ていた水玉のスカートも欲しかったのだが、サイズが無くて断念。あれを買っていたら、さらにそれに合うトップも購入して5万円くらい散財できたのに・・・・

 そんで、店員さんに通路まで袋を持ってきてもらって・・・あれは他でもそうなのか知らんが、あそこのデパートでは全店共通のマニュアルらしい。店内で袋を受け取ろうとすると、先を歩くように促され、慣れないと「え?」と戸惑うが、なんのことはない、狭い店内を袋をぶら下げた店員を従えて歩き、入り口(デパートのではなく、各ショップの)のところでハイっと渡され、「ありがとうございました」と会釈されてお見送りされるのである。
 普段、MUJIやユニクロを愛用する人にとっては、理解不能の接客マニュアルだが、それがどうやらセレブ感というものらしい。
 本当のセレブは、買い物帰りに袋をぶら下げて歩かないはずなので(宅配してもらうとか、サービスカウンターにいったん集めてから駐車場まで一括で運んでもらうとか)、あれはあくまでも「セレブ感」。

 時刻は4時くらいだったが、まともに食事しないで出かけたので、「せっかくだから、なんか食べてくか」と思って、最初は「久々に糖朝で粥でも食うか」と思っていたのだが、南館の上階を締めるレストラン階を見学してみることにした。遅いランチサービスやってる店もあるかも、と思ったのである。

 今さらながら、初めて上のほうに行ってみたのだが、すごいね。
 オシャレ建築用語に詳しくないが、吹き抜け多用のアトリウムがどうのこうのって感じだ。

 ニコタマ高島屋がリニューアルした当時、「この、開放感あふれる設計が、客を閉じ込める効果を狙ってるんだろうな」と日記にも書いたような記憶があるが、昔からある銀座や新宿の有名デパートっていうのは、「外を見せない」という設計になっているけど、あれは売り場面積確保や「客を封じ込める」という意図があるのだと思うけど、そのため、しばらく中を歩いていると閉塞感を感じるので、「疲れたからお茶しようか」なんてときには、外に出たくなる。

 そうだ、丸ビルに行ったときに「イマドキはこれが主流だな」と思ったんだっけ。
 イマドキのデパートは、外光をふんだんに取り入れることにしたらしい。だから、中にいても、「オープンテラス風のカフェ」などで休憩ができるのである。

 ニコタマの場合には、銀座などに比べると、近隣にビルが密集していないので、かなり大胆に「外」を使っている。南館上階のレストラン階なんて、ほんと「これでもか、これでもか」ってかんじだ。どの店も景色が確保されてるし、テラス席を持つ店も多い。
 もちろん、デーパト最上階は眺めがいいことが多いので、窓の景色を楽しめる構造のデパートも多いんだけど、ニコタマのが凄いのは、ロビーまで景色がいいのだ。

 平日は穴場なのか、ロビーに置いてあるソファでくつろいでいる女子高生や大学生カップルが多かった。

 夜はどういう景色になるのかわからないが、都心とは違って、きらめく夜景ではないだろうけど、昼は店の場所によっては富士山ビューになるだろうし、ランチの値段はそれほどでもないし、高級レストランも多いけど、1000円〜1500円程度の「OL向けランチ」な店も多いので、お勧めかもしれない。

 私は結局、カレーうどんの店に入りました。スープカレーの店にも惹かれたのだが、それはまたそのうち。
 カレーうどんとしては、1050円というのは高価であるが、店員がお冷とメニューを持ってきたときに、「あ、大変失礼いたしました」と言うので、なんか失礼なことされた?と硬直していたら、お冷が一滴、テーブルにこぼれたので、それを丁寧にふきとっていた。

 遠くに桜が咲く小高い丘(奥沢との間あたりは、けっこう丘陵地帯だし)が眺められる、なかなかいい景色と、水を一滴たらしただけで「大変失礼いたしました」という接客で、ただのカレーうどんが下界より200円ほど高いらしい。
 ま、けっこう美味しかったんですけど。小ライスを頼んで、残った汁も全部、ライスにぐちゃぐちゃに混ぜて完食いたしました。

 30代後半OL、有給休暇で優雅に平日デパート巡り、ひとりランチ・・・・としては、やはりこの「セレブ感」に200円くらい払ってもいいような気がしてきた。

 まーた、トイレがよくできてるんだよな。
 買い物してみて、はじめてわかったよ。
 手洗いシンクの横に荷物起きあるし、カバンかけるフックもあるし、あれだと沢山買い物袋をぶら下げていても、貧乏くさい感じがしない。フツーのところだと、みんなついついベビーベッドに置いちゃうんだよね。
 欲を言えば、やっぱしパウダースペースは普通にあったほうがいいと思うんだが、そのかわりに全身が映る鏡が3つもありやがんの。

 さて、すっかり「ニコタマ高島屋」の魔法にとりこまれそうになりましたが、食事していたら時刻も5時くらいになり、デパチカに降りるとそれなりに混雑しはじめてきて、そうなると「セレブ感」は薄らいでくるのだが、「せっかくだから、デパチカで無駄使いしちゃおっかな〜」と思ったのであるが、憧れのペックのオリーブの瓶詰め2500円にするか、高級デリで2000円もするロースとビーフにするか、それとも糖朝でデザートでも食っちゃうか、と悩みましたが、それよりも、久々にデパートで買い物して疲れたので、「足裏マッサージのほうがいいか?」と考えて、ニコタマを去りました。

 そういや、せっかくだから、久々にアニエスbとかも見学しちゃった。
 昔は「定番カーディガン」とか「ボーダーシャツ」をよく買ったもんだが、ここ10年くらいはすっかり「見るだけ」の店になってしまった。
 品質のわりには高いんだけど、かわいーんだよね。
 でも、私には絶対無理なかわいさなんだよなあ。残念ながら。

 しかし、「あの頃」の店で、今だに残っているのは、アニエスくらいなんじゃないだろうか?
 あと、コムサが時流に乗ってしっかり変化して残っているくらいか。
 今でもそうなのか知らんが、アニエスは、サザビーズがやってたいて、そのときはフランスでアニエスを買うよりも、日本法人アニエスベー・サンライズがやっていた日本の製品のほうが、質もよかったし値段も安かった。
 今はちょっと、とっつき難くなっているというか、「そりゃ、私がシャルロット・ゲーンズブールだったら、このワンピ着たいわよ」と思うようなラインナップである。

 さて、三茶に戻って、足裏マッサージやってる店に行ったが、残念ながら足裏はできなくて、ボディマッサージの20分コースを受けた。

 ニコタマで買い物→ひとりランチ→マッサージ、という、とても正しい負け犬OLの優雅な休日でありました。

 やればできるじゃん(笑)

 いや、やればできるし、そのくらいの暇と財力はもてあましているのだが、やっぱし、あの快楽は変な汗かくので合わないんだよなあ。
 お酒の酔いが苦手な人がいるように、ジェットコースターが苦痛でしかない人がいるように、人によっては麻薬のように甘美なのかもしれないが、それが苦手な人もいるのである。

 よく日記にも書いているが、勤務地が都心というか、霞ヶ関のような「日本の中枢」であると、たとえ自分が勤める会社がダサくても、「ここで働いている自分」というアイデンテテーだけは妙に手堅くなる。
 私はずっと六本木で働いていたので、派遣社員として霞ヶ関近辺に通うようになり「やっぱりちゃんとしたオフィス街だと気分が違う」と思ったのであるが、あの当時は六本木といえば「歓楽街」であり、まともな企業が本拠地を構えるところではなかった。
 六本木ヒルズができてから、あそこもビジネス街としてのブランドを確立したけどね。

 で、今は自分が住んでるところよりショボイ街で働いているので、最初はすごく違和感があった。そこに通うだけで「仕事してる私」というものが維持できなかったので、とても困った。
 で、ニコタマ高島屋というものは、その中を歩いているだけで「セレブな私」を錯覚できるので、特にその魔力にとらわれているのが、「子供を持つ主婦層」である。平日からキッズコーナー混んでましたよ。

 靴がちゃんと足に合っているか測定してくれるらしいサービスのキッズ向けコーナーがあったのだが、カジュアルだけど、けっこう高そうな服を着たママたちで混雑していた。
 あの輪に入るには、「専業主婦だけど、独身OL時代と同じくらい可処分所得を持っている」じゃないと無理だろう。
 都心の一流企業でブイブイ言わせていたOLが、そこそこの高級取りのダンナをゲットして、「高級オフィス街」の代わりに闊歩するのが「ニコタマ高島屋」らしい。

 そういう「勝ち組」のために設計された、小宇宙であるが、意外と貧乏人にもフレンドリーなので、近隣の高校生たちの憩いの場になってたりして、懐が深いあたりがさすがである。
 たぶん、あの雰囲気は、日本で唯一のものだと思うので(ということは世界的にも希少?)、これからも気が向いたらフィールドワークしにいこうっと。

 少なくとも、ネズミーランドよりは敷居が低いので。
4月5日(水)

 なんか、メールが変だ。プロバイダの問題のようだけど、めったに無いことなので「私のせい?」と0.3秒くらい不安になってみた。

 昨日は久々に会社の人たちと飲んだ。異動してきた子のプチ歓迎会である。
 40代後半の上司、30代後半の私、20代後半のハイジとマスオさん(新しい子のあだ名を暫定的にこれに決定。本当は、マスオさんとアナゴさんを足して2で割ったかんじなのだが・・・・)の4人。

 あたくしは完全にオマケでした。まあ、花を添えただけ?(笑)

 上司も春から異動してきた人なので、若手の二人にいろいろ言いたいことがあったらしい。
 最初はけっこう質問攻めだった。「一人暮らしみたいだけど、家賃は?広さは?朝ご飯食べるの?自炊してる?」等々。
 主にハイジに聞いているのかと思って、私はボンヤリ聞いていたのだが(ツマミの中からコラーゲンたっぷりそうなものに狙いをつけ、せっせと口に運ぶ作業に忙しい)ハイジが質問に答えるたびに、「ミヤノさんは?」と言うのであるが、私とハイジの私生活を並べてみても、サンプリング的にはちょっとなあ。

 で、だんだん酒も回ってきたら、上司は熱く語りはじめた。
 ハイジは上司に対しては礼儀正しく接するし、彼なりにその上司に期待している雰囲気もあり、けっこうノリノリで話していた。
 私もその上司とはよく飲んだことがあるし、なかなか、さっぱりとした熱血漢なのであるが、ハイジがそれにノっている様子が面白くて、私は聞き役に徹したというか、上司の話のテーマは「これからは、君ら若手の時代だ!」であったので、私は対象から除外されていたのである。

 上司は、前から「イマドキの若い社員がよーわからん」と嘆いていたが、「日常生活の質問」はジャブだったらしく、「で、君らは、仕事というか、この会社で何がしたいの?何をもとめてるわけ?」なんて質問しまくりだった。

 若い二人の意見はほぼ同じで、「自分のためになる」ということが重視されるらしい。早い話が「資格とかとりたい」である。
 上司も苦笑していたけど、横にいた私は爆笑していた。

 でも、自分が変わり者なだけかもしれないが、みんな資格好きだよね〜。

 私なんて、資格を全く信用してないので、多くの資格は天下りの公務員を食わせるために実施しているのだと信じている。宝くじが「愚か者の税金」だとしたら、資格は「愚か者の免罪符」というあたりか?

 そりゃ、運転免許とか、ボイラー2級とかだったら、「ちゃんと時間をかけて講習受けて、試験を通った人にしか扱う権利を与えない」という意味があるし、医者だって資格があることが最低限の条件になるし、弁護士や公認会計士みたいに「超難しい」ということ=何年も勉強しないといけない、っていうものわかる。

 でもさ、資格の話題になったときに、ハイジが私に「こいつ、エフピー持ってるんだって」と言うので「えふぴぃ?」と聞きなおしたら「ファイナンシャル・プランナーですよっ」

 あ、そう・・・・・と思ったが、なんかリアクションしないといけないと思って、マスオさんに向かって、「それで、なにか自分のファイナンスでもプランニングしてたりするんでしょうか?」と聞いてみたら、マスオさんはおっとりと微笑んでいた。
 そもそも「FP」と言えば、普通は通用するらしいあたりが不愉快である。
 たぶん、あの資格が登場して、けっこう流行ったときに彼らは大学生だったので、「就職活動に有利になるように」という資格の中に入っていたのだろうなあ。

 FPとやらが、どういう資格なのかわからないけど、それなりに勉強が必要な資格らしい。講習受けて、試験に受かればOKというものではないらしい雰囲気があるから。
 でも、金融・保険系の仕事につくなら、「まあ、ちゃんとやる気あって、勉強してます」という意思表示にはなるだろうけど、それ以上のもんでもないような気がする。

 だって資産運用に「正解」ってないわけじゃん。
 そりゃ、「自分にとってのベストな運用」を目指すためには、ある程度、ルールや仕組みを理解しておいたほうがいいと思うし、保険会社の営業の口車に簡単に乗らないように勉強するのもいいだろうけど、「資格」が「目的」になっちゃうとなんかね。

 会社での仕事の会話で、ときどきトンチンカンな気分になるのは、「全ての物事に標準というかルールがあるはず」という思い込みに遭遇するときである。
 たとえば、「家賃は収入の3分の1程度が望ましい」という「標準」を求めるようなかんじ。
 そんで、もし「一人暮らし2級」という資格があるとしたら、そのテキストには「標準家賃」とか「標準平米」などが掲載されているのだろう。

 で「その収入って、額面なの手取りなの?ああ、私はちゃんと資格を持ってないからわからない。やっぱし勉強しないと」って思うかね?

 よくわかんないけど、わりと自分に自信の無い人が多いようだ。
 私は、資格なんて全然持ってないけど、妙に自信満々なので、会社会計ではよく「解釈の違い」というものが問題になるが、私は自分の解釈に絶対の自信を持っており、去年の税務調査でも、「ああ、それはたしかに、そういう解釈もあるようですが、でも、私はこう解釈いたしました」と自信満々に言ったことは全部スルーだったわい。

 「社員旅行」というのは、社員の半数以上参加しないと「福利厚生費」にならないらしいが、半数切ったからって何が悪い?
 だって、一部の社員が優遇されてるわけでもなく、参加しない人の多くは「そんなもん、行きたくもない」のである。役員が「視察旅行」と称して、経費を使っているわけでもなく、全員参加が奨励されているのだが、参加率は、よくて4割、悪くて3割である。ドタキャンが多いし。それも、やむにやまれぬドタキャンじゃなくて、最初から行くつもりもないのに申し込んで、ちょっとした打ち合わせなどが入ると簡単にキャンセルするのだ。

 税務署にも、参加率の低さを指摘されたが、「でも、行きたくないという人を無理やり行かせたくないですしね・・・・実は、私も3年ほど参加しておりません」と凄んでやりました。

 総務部としては、やはり参加率の低さは課題になっているので、その担当者は毎年のように「5割に満たないけど、大丈夫?」と確認してきます。
 「ああ、でも、申し込みの時点ではかろうじて5割になってるから、いいんじゃない?」
 「でもでも、半分以上参加しないと、なんかいけないんでしょ?」
 「まあ、まずいことはまずいが、そんなこと気にしてもしょうがないじゃん」
 「じゃあ、ダメなの?」
 「いや、それは解釈の問題だから、私は大丈夫」
 「え?でも、本当はダメなんでしょ?」
 「本当もなにも、あたしが大丈夫っていうんだから、大丈夫」
 「でも、でも〜」

 これは飲酒運転とは違うんだよ。ビール2杯飲んでも平気だから、運転しても大丈夫。って話じゃないんだけど、相手は「でも、ビール1杯でも飲酒運転で逮捕されてしまうのでは?」って真剣さで聞いてくるので、毎回丁寧に説明しているのだが、最後は「とにかく、税務署がなんか言ってきても、私がきっぱり言うし、それに税務署だって毎年調査に来るわけじゃないんだから」と言うしかない。

 話が逸れたが、「これは、とにかく福利厚生費です」「これは、こういうわけで修繕費です」というのは、税理士資格持ってるかどうかなんて関係ないんですよ。信念と演技力の勝負なんだって。

 修繕費でもやったぞ。ある時期、ビルを所有していたのだが、そこが海に近い立地だったので、購入して2年くらいで外壁がダメになった。道路に剥がれた塗料が落ちたりしたようで、その時点では事故になるようなものでもなかったが、「どうせやらないといけないし、被害が出る前に迅速に」ということで、外装を塗りなおしたら、1千万円くらいかかってしまったのである。

 そのうちの、どの程度が「資産」と「費用」なのか、そんなもんわからん。
 ただ、私はその当時、「買ったばかりのビルがもう修繕?」と「だまされた気分」に個人的に憤っていたので、税務署に「これは、修繕費にしては高額のような・・・」と、つつかれたときに「そうですよね〜〜〜〜〜?」と思いっきり膝を寄せたのである。
 そんで「私もびっくりしましたが、海風に当たる地域のようで、その近辺でも外壁の修繕頻度は他より多いらしいです。(口から出任せ)特にそのビルは鉄をあしらった外壁だったようで・・・・・・設計した人が海風まで考えてなかったんでしょうね。(口から出任せ)それで、そのときには、通行人に被害が及んでは大変だと、工事を急いだので、普通よりもやや割り高だったかも(口から出任せ)、それで、その修繕で今後どのくらい持つかも、不明なんです。もしかしたら、また5年後くらいに同じような処置をしなければいけないかと思うと・・・・・」と、まくしたてた。
 そのビルの外壁を修理するときに、その担当者が「海風のせいで、すぐサビるらしいんだよね。だから、何年もつやら」と呟いた一言をそこまで発展させただけなので、嘘はついてないんだけどさ。でも、税務署の人は、すぐに納得してくれました。

 たぶん、ハイジは、そういうのを本当はどうするか知りたいから、勉強して資格をとりたいのだと思う。

 それはそれで、「いいこと」だと思うが、「修繕費と資産の違い」を学んでも、じゃあ、それをどう解釈するかは、経験も大きいが、大事なのは「自分に自信を持つ」ことだと思う。
 幸いにも、私は、20代のころ「自信満々」の女性上司に学んだので、「ルールで不明なことがあったら、顧問契約結んでいる税理士や弁護士や労務士というプロに相談すればいい。でも、相談するときにも、最初からこっちが『こうしたいが、どうすればいいか?』と、方針を表明しておかないと、プロの皆さんは法令遵守の安全な方向に行く」というやり方を勉強させていただいた。

 何を書いているのかわからなくなってきたが、資格もいいけど、資格持ってるからって偉いわけではないことが多い。重要なのは、資格持ってる人をいかに上手く使うかである。

 結局、いくら資格を持っていようと、運転免許みたいに、ペーパードライバーになってしまったら、あまり価値はない。コンピュータの世界でも、たくさん資格があるけど、あれも部外者にはよくわからない世界で、いっぱい持ってるからといって優秀ということでもなさそうだが、転職するときには有利になるのはわかるけど・・・・

 話は戻るけど、ハイジやマスオさんが「資格をとりたい」という資格ってなんなんだろうね?
 「自分が優秀であるという証」なんだろうか?
 そんで、話を繰り返すけど、私は「優秀な先輩」というか、上司や先輩が時折見せる「優秀な仕事ぶり」を見て「あ、これはいつかは応用しよう」と学んだといか、生来の「観察好き」で自然にやっていたのだが、「資格とりたいです」という彼らは、あんまし上司の仕事振りを参考にしないようだ。

 つーか、ゴルフ接待ばっかりやってる上司でもさ、なんかトラブルがあると、なーなーで解決してくれたりするわけじゃん。変に勉強して「この場合は、これが正しいのです」って言うより、ゴルフ接待で仲良くなって「まあ、こういうわけで、ここんとこヨロシク。で、今度は絶対にリベンジしますよ。いや、あのパットは・・・・」ってやったほうが、結果的にうまくいったりするわけですよ。

 私は正直モノなので、ハイジが税理士試験の勉強しはじめたときに(現在、挫折中)、「それよりも、ゴルフすれば?」って言ったのだが、気持が通じなかった。
 企業としては、税理士資格よりも、接待ゴルフのときに自家用車でお迎えに来てくれる若手社員のほうが重宝されると思うんだけどなあ。

 でも、やっぱり「絶対的なもの」として、「資格」が欲しいらしい。
 そんで、民のそういう要求と、資格授与団体の金策がうまくバランスがとれて、「ちょっと難しい資格」は次々と誕生している。
 資格ゲットを趣味にするのはいいとして、「働くモチベーション」を資格に依存するのはちょっとなあ、と思う。

 そうやって、「労働搾取」から逃れているつもりなのかね?(マルクス主義を勉強中なのである。現在、マルクス6級くらい)
 資本家から搾取されてる分を「資格」で取りかえそうとしているのかな。(だれか、そのあたりもモデル化してみてください)
4月3日(月)

 昨日の日曜日は、いつものように精一杯ダラダラしてました。
 きっと私は、死ぬ瞬間に「うたた寝ばかりしていたが、いい人生だった。もう、うたた寝は充分したから、永遠の眠りについてもいいだろう、つーか、同じだろう」と満足していると思います。

 蕎麦のツウが、死ぬ寸前に「ああ、一度でいいから蕎麦つゆをたっぷりつけてみたかった」と言い残したという話をどっかで聞いたことがありますが、たぶん、子供のころ、うちの母が、蕎麦つゆをすぐにお代わりする子供らに向かって「だから、そのくらいツウは蕎麦つゆをちょこっとしかつけないのよ」と言ったのだと思う。
 でも、それを聞いた幼い私は「死ぬときにそんなこと言うくらいなら、好きなように食べればいいじゃん」と言い、母も別に説教する意味で言ったわけではないので「それも、そーね。いっぱいつけたほうが美味しいもんね」と言っただけだった。

 それに、母も子供らも、我が家の土日の昼食に出てくる蕎麦が、安物の乾麺であることは重々承知のスケで、とてもじゃないけど「ツユはちょっとしかつけない」なんて食べ方ができるシロモノではなかったのであった。

 さて、そんないつもの引き篭もりの日曜日であったが、夕方になると「食料買出しに行かなきゃ」とは思っていた。でも、思っているうちに、雨が降ってきたのである。
 天気予報を見ていなかったので、「にわか雨かな?」と期待したのだが、ベランダの窓を開けてみると、けっこう暴風雨っぽい。ときどき稲光もしてるし・・・・

 私は雷が鳴っているときには、極力外出を控えることにしている。
 宝くじに当たるかもしれないから、ときどき宝くじを買うが、雷にも当たるかもしれないので、なるべく外出しないのである。私の中で、それらの確率は同じくらいらしい。いや、雷のほうがかなり高いのかな?宝くじは「買わないと当たらないし」程度だけど、雷は「ぜったい自分に落ちる」と確信してるから。
 「宝くじに当たる確率」と「自分が乗った飛行機が落ちる確率」が同じくらいかもしれない。
 「宝くじ当たったら、どうしよう。絶対に黙ってられるかしら?でも、いきなりマンションなんて買うとバレそうだな。よし、5年くらいは今の生活を地道に維持してから、会社を辞めよう」などと、トラタヌ妄想しているけど、海外旅行に行く前に「帰ってこないかもしれないから、いちおう部屋をそれなりに整頓しておこう」という気分がほぼ同じかもしれない。

 さて、「雨は降ってるし、風も強いし、雷まで光ってるよ〜。やっぱ買い物やめよっかな」と思ったのであるが、どうしても食料の買出しに行かないといけなかったのである。

 それは、テレビ東京の大食い選手権を観ようと思っていたからである。「爆食女王決定戦」であった。
 昼間、ゴロゴロしていたら、番宣やってて「こ、これは観たい」と思ったのである。
 そんで、あんな番組を空腹で鑑賞するなんて、そんな「この世の地獄」があるだろうか?

 大食いとは関係ないが、その昔、会社帰りに、食事を用意せずに映画館に寄り、「エイジ・オブ・イノセンス」を観て、「じれったい恋愛模様」よりも、これでもかと出てくる豪華ディナーを俯瞰で映す映像に「ぐおおおおおお」と悶えていたのであった。
 あれ以来、すきっ腹で映画観ないように気をつけている。

 大食い番組のそれほどファンでもないのだが、うっかり観てしまった後に、パスタを茹でたら、普段の2倍も茹でてしまい、皿からはみ出るほどの大盛りになってしまったのも懐かしい失敗である。100グラムとか150グラムじゃ、全然足りないように思えたので、うっかり300グラムくらい茹でてしまったのだ。

 というわけで、雨が吹き荒れる中、近所のコンビニに向かった。靴もジーパンもぐしょぐしょだ。
 しかし、レジの子が、唇がふっくらした男の子で(タラコ唇ともいえる)、にゃーんか、かっわゆーい、と思って、ちんたらと小銭をきっちり用意する時間稼ぎをして、チラチラと鑑賞してしまったのだが、その子が、陶器のように真っ白な美肌だったのでビックリした。男の子であれだけ美肌な子も珍しい。ほんとに雪見だいふくみたいだった。
 別に、美少年っていう造作でもなかったのだが、「色白は七難隠す」を体現してました。高校生くらいだと思うけど、たぶん同級生の女子にはモテないだろうが、30歳過ぎの「しみ」と日夜戦っているオネーサンたちだったら、無意識に頬擦りしたくなるだろう。セクハラになりそうだが、性的な意味はなく、赤ん坊のあのモッチリしたふくらはぎを見ると、なんだか頬擦りして、「さあ、これを思い出すのよ!」と自分の肌に喝を入れたくなるのと同じ心境である。(前に読んだ本で、地球生命の起源の話で、粘土に触れたタンパク質が細胞を作るようになったとか、そんな説があったので、「クレイパックって、やっぱ効くのね?」と個人的に盛り上がったが、タンパク質だかアミノ酸だか知らんが、触れたものに影響受ける?というイメージだけ心に残ったのである)

 そーいや、ファンデーションのCMで、カンヌ最年少受賞俳優である子が、美人のおねーさんとゴッツンコして、「涼しい肌の人でした」とか言うのがあるが、目の前に40歳の壁が迫っている私にとっては「逆だろー」と小声でつっこむしかないのも悲しい。

 どしゃ降りにグチョグチョになりながら、食料を買出して、満腹状態で「爆食女王決定戦」を観た。
 選手が皆、ヤセているあたりが凄いというか、そういえば男性選手も痩せ型が多いよなあ。
 それに、男性選手もわりとルックスのいい子が出てきていたが、女性も「目指せ、ポスト赤坂」なのであるが、お世辞にも美人と言えなかった赤坂さんに比べると、次の女王を狙う人たちは、平均以上だ。ギャルソネは化粧落とすとどうなるかわからんが・・・・

 しかし、細身でわりと美人揃いなのに、驚くほど食うこと。
 普段の食事はどうしているのかと心配になるほどだ。
 あんなのをうっかりデートに誘ったら、客単価1万円くらいの店で、10万円くらい食われてしまいそうだ。

 一回やってみたいような気もする。
 宝くじで100万円くらい当たったら(笑)
 あの、エステティシャンの子なんかを高級フレンチレストランに連れていって、メニューを全部端から制覇してもらうとか・・・・それ眺めながら、私はちんたらとワインでも飲んでます。2本くらい(笑)
 んで、私は横から「あ、それも美味しそー、一口ちょうだい」と結果的にメニューを全部食べられる。

 高級な店では(めったに行かないが、その昔はよくゴチになった。デートではなく、業界だったので、出入りのオジサンたちの「下見」にご相伴だったらしい。私ら「雑魚」を連れていって、よい店だったら「本命」を連れていくらしい。)、最後のデザートを「好きなものを好きなだけお取りいたしますよ」(ニコっ)と言われたりするが、8種類くらい見せてもらっても、せいぜい2種類を「じゃあ、2センチづつ・・・・いや、でも、これも食べたい!」「お好きなだけどうぞ?(ニコっ)」「じゃあ、これも1センチ!」と、ついつい多く頼んでしまい、ヒーヒー言いながら「でも、別腹なはずですからっ」と無理やり完食していた。

 なんかさー、滅多にそういう店に行かなかったからかもしれないが、「お好きなだけどうぞ」とニッコリされると、「どうせ、そんなに食えんだろう」と見越されてる気がして悔しいのよね。
 そうじゃないのはわかっているのだが、「ああ、私が大食い選手権クラスなら、がっぽり食い尽くしてやれるのに」と思ったのであった。そんで、「お好きなだけどうぞ」とニッコリ微笑む、ニーサンの顔色が変わるのを見てみたかっただけ。

 なので、見かけは「どこにでもいそうな、美人風OL」な大食い女王候補を見て、「ああ、この人を連れていけば、私の夢がかなう」と思ったときに、「私の夢っていったい・・・・・」と思い起こしてみたのでありました。

 さて、今朝も天気予報を見ずに家を出たら「がーーーー、何この紫外線!」と怒り心頭。
 つーか、飲食店経営者の皆様も怒り心頭だったろう。昨日の日曜日にこの天気だったら、みんな、なにかに取り付かれたように外出して花見でもして、飲み食いしただろうよ。

 しかし、台風一過のような朝だった。
 澄み切った青空の下で、まだ頑張っている桜が映えまくりで、しかも地面まで桜の花びらに覆われて美しいこと。
 そよ風に舞う、桜の花びらは、まるで生き物のようでした。

 電車に乗って、二子玉川に近づくと「台風一過みたいということは、富士山が」と窓から眺めたら、そりゃもう、オードリー・ヘプバーンのためだけに用意されたような、純白のジェラードが鎮座しているようでしたわよ。
 異常に近くに見えたけど、でも距離はあるのはわかるけど、丹沢山脈の上からポッコリとジェラードアイスみたいに顔を出す、白銀の富士山を眺めているだけで雪ヤケしそうになりました。

4月1日(土)

 地味に出勤。
 昨日で、有給休暇の年度が切り替わったので、今日は出勤している人が多かった。

 私も、先週はカスタネットおじさんのような仕事ぶりだったので、今日は黙々と集中して仕事した。

 さて、先日、友人が「4月1日にお花見パーティーがあるよ」と教えてくれたのだが、かつての「春風」のように・・・ふと、「春風」に行ったのはいつだったのかと思って、自分の日記を振り返ってみたら、2000年4月だった。そんで、この日記を始めたのが、2000年の3月であることに気が付いた。

 そっか。もう6年経ったのか・・・・しみじみ。小学生だったら卒業じゃん(笑)

 で、てっきり「春風」のような野外パーティーでもあるのかと思ったら、目黒川沿いのカフェでやる、ラウンジ系パーティーだという。
 最近、めったに会わなくなったテクノ系の知人(「友人」と呼んでいた時期もあったけどさ)が数名DJとして名を連ねているので、久々に挨拶でもしてみようかと思ったのと、今日は暖かくて、「絶好のお花見日より。今日を逃すと後がないかも」らしいので、ついでに夜桜見物でもしようと思ったのである。

 会社を6時半ごろ出て、7時半くらいには中目黒に到着。
 駅前(というか、駅の下というのか)の雑踏にビビる。
 中目黒は、それなりに商業地域なので、「電車に乗ってわざわざ飲食に来る人」はそれなりにいるけど、こんなに混んでいることはない。やはり、みなさんの目的は「目黒川の桜並木」であろう。

 線路沿いを歩いて、川沿いに出たが、川沿いのオシャレ系飲み屋はどこも満杯。さすがに縁日のような屋台は出てなかったけど、縁日並の雑踏になっていて、川沿いの狭いスペースにシートを広げて宴会やっている人も多かった。

 桜はたしかに満開で美しかったが、人が多くて歩きにくいし、まあ、お祭り気分は楽しめるけど、私はもっと静かなお花見のほうがいいなあ。

 そんで、目当てのカフェの場所をプリントアウトした地図で確認すると、駅のそばではなく、駒沢通りを越えたあたりらしい。

 ところが、駒沢通りに近づくと、川沿いの並木は続いているのだが、桜が咲いてない!
 暗いからよくわからなかったけど、桜は桜でもソメイヨシノじゃないのかなあ?もしくは、そもそも桜ではないとか?
 花見散歩を楽しんでいたギャルたちが「なんで、こっちは咲いてないの?こんなに近いのに、この温度差ってなに?」と騒いでいたので笑ってしまった。温度差のせいじゃないって、こんな範囲で桜前線なんて移動しません。

 で、駒沢通りを越えてみると、そこにも、今風のカフェが数件並んでいたけど、やはりそこの前の並木もツボミ状態であった。数件目が目当ての店だったが、ガラス越しに覗ける店内はけっこう混んでいた。
 「知り合いいるかなあ」と、しばらく覗いてみたが、見当たらないし、それに、こんな日よりにオープンテラスでもないカフェで立ち飲みというのも味気ない。桜も見えないし。

 ま、いっか、と、あっさりと踵を返して、また駅の近くの雑踏に戻った。
 こうなったら、最初から計画していた「中目黒から、目黒川沿いに歩いて、池尻まで散歩」することにした。

 けっこうな距離があるのだが、さすがにあれだけの人を集めるだけあって、見事な桜並木である。
 雑踏も、それほどでもないのだが、みんな歩く速度がまちまちなので、自分のペースで歩けない。

 しかし、山手通りを越えたら、別世界だった。
 観光客はこっちまで来ないようです。それにお店もないし。
 目黒川沿いの桜は、池尻から山手通りまでがお勧めのようです。

 同じように見事な並木なのに、地元民しか歩いてない静かな夜桜見物ができました。

 ここ数年、私は春の桜よりも、秋の落葉寸前の桜のほうが好きになっているのであるが、それでもやはり満開の桜は美しいと思う。「日本人は桜が大好き」とテレビでは言っていたが、あの風景を見たら、インド人だってアフリカ人だって大好きになるだろう。ただし、桜の下で宴会したがるのは日本人だけかもしれないが・・・・あと、それが春の日本名物だと知って真似してる白人たちね(笑)

 私はあんまし、混んでるところで桜を鑑賞するのは好きではない。
 夜遊び三昧だったときには、朝帰りのときに鑑賞する朝日に照らされた桜並木が大好きだった。すれ違うのは犬の散歩の人たちがちらほらくらいでいい。
 前にも書いたけど、朝の桜は、鳥が花をついばんでいたりするので、それも楽しいのである。花が花の形のまま、クルクルと舞い落ちてくるのだ。

 そういう「満開の桜のある静かな風景」を鑑賞していると、いつも頭をよぎる「幼き日の思い出」がある。

 かなり「印象派」な記憶で、いつ・どこで、がさっぱり記憶にない。
 そんなに幼いときではなかったと思う。小学校の4年生くらい?

 場所は「家からそんなに遠くないけど、いつものシマではなかった公園」のように思う。
 小学校を境に「東町」と「南町」に分かれていて、私は東に住んでいたし、東と西の間には、交通量の多い県道が川のように横たわっていたので、南町に行くのは、そっちに住んでいる友人の家に遊びにいくときくらいだった。
 そっちには、あまり大きな公園がなかったし、そもそも小学生といえども女子であるから、あんまし外で遊ぶことはなかったと思う。でも、自分ちの近所の公園では、よくブランコの危険乗りで遊んだかもしれない。

 そこらへんの記憶は曖昧だが、たぶん、あの公園は南町のほうの、谷の近くだったっけなあ。
 「谷」といっても、丘と丘の間というか、昔はそこが川だったんだが、地形がそこで沈んでいて、向こうの丘は隣の市だった。あのころは、まだ向こうの丘は宅地開発されてなくて、よく原っぱで遊んだっけ。(けっこう、外で駆け回ってるじゃん)

 で、その谷のあたりに、その奥の住宅地に通じる遊歩道っぽいけど(暗渠になった川沿いだから)、ただの細い道があったんだけど、その道の入り口が小さな公園になっていたような気がする。
 ブランコと、あと遊具が一つ、二つあるくらいの、あまり使い勝手がよくない公園だったが、そこに桜の木が数本あったのだ。

 南斜面にぎっしり家が立った南町と、草原の丘が広がる入り口のその公園で、私は誰と一緒だったのだろうか?
 一人でいるはずもないので、友達と2人きりくらいだったのかも。もしくは、もっと大勢いたのだろうか?
 とにかく、憶えているのは、谷底のその小さい公園には、他にあまり人はいなくて、ときおり、買い物帰りの主婦が通るくらい。
 そして、その日は風が強く、谷間の公園の砂埃を巻き上げていた。
 そして、満開を過ぎた桜が、ものすごい勢いで散っていたのである。

 まさに「桜吹雪」だった。
 花びらが、風に乗って、顔をかすめていくのが楽しくて、しばらく桜吹雪を堪能していた。子供心にも、かなりドラマチックなシチュエーションであることがわかっていたようだ。

 ふと、「超高速で吹き飛んでいく、桜の花びらを手でキャッチできるか?」という遊びを思いついた。
 桜の風下に立ち、風がビュっと吹くのをじっと待つ。決闘してるガンマンみたいに仁王立ち。
 ザっと、風の音がすると、桜の花びらが複雑系の法則で乱れ乱れて飛んでくるのを両手で掴むのだ。

 一掴みで花びらが5枚くらい獲得できると大喜びだった。うーむ、やっぱ他の友達と「誰が一番多く、花びらを手掴みできるか」って競ってたのかもね。
 そんなんで、暗くなるまでずっとやっていたらしい。

 あのときの桜は、全部自分のもの(もしくは、自分たちのもの)だった。
 なにせ、「桜で遊んだ」というよりは、「桜に遊んでもらった」のだから。

 あれから、たぶん、30年近く経つのだが、あのときのように、桜の木と真剣に向き合ったことはなかったし、もう、これからも無いかもしれない。
 そういうチャンスはあるかもしれないが、2時間も桜と真剣に向かい合ってるなんて、もうできないもん。場所の問題じゃなくて、自分の問題。

 大人になっちゃって失ったものも大きいけど、会社付近の街路樹の桂の木が芽吹いてきたのを「わー」なんて楽しめるのは大人になってから(つーか30代後半になってから)得たものである。
 そろそろイチョウも芽吹くかなあ。あれって、マジに超かわゆいから、この日記を読んでいる危篤な皆様(わざと)も是非チェックしてみてください。
 赤ちゃんの手をみるとさあ、「きゃー、こんなにちっちゃいのに、ちゃんと爪がついてる〜、きゃっわいい〜」と騒いでしまいますが、イチョウの新芽もそんなかんじなんですってば。「きゃ〜、こんなちっちゃいのに、ちゃんとイチョウの葉〜きゃっわいい〜」って。
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