可燃物な日々

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12月15日(月)

 昨日に引き続き、いいお天気である。
 気分上々。それに、久々に自炊してたっぷり野菜を食べたし、中国スープは真っ黒な薬膳系で滋養強壮にいいらしく、なんだかとっても元気いっぱいである。

 しかし、決算の詳細で税理士事務所から電話がかかってきて、何箇所か訂正が発生。今週金曜日に打ち合わせなのだが、それまでにまだまだ出てきそう。ちょっと、げんなりするが、昨年の日記を読んでみると、すっかり変なテンションで、一生懸命「師走の歌」を捏造している様子も昨日のことのように生々しく、「ああ、今年はなんてラクチンなの」と自分を励ます。

 こういうときには、日記を書いていて本当によかったと思う。そーいや、去年の冬は祖父が亡くなったが、今年は祖母が手術してヤバそうだったので「2年連続か?」と身構えたが(きょうみさんも毎年親戚の老人が亡くなり、3年連続喪中だったらしいし、続くときってそういうもんなんだろう)、どうやら無事退院できる予定となったらしい。やれやれである。祖母は手術跡で苦しんだことなんて忘れてしまったらしく(ノドモターなんですな)、術後に手厚く介護されたことばかり覚えているようで、我がままをたしなめられてスネると「今度はこっちが痛い。また手術する。」と言い出し、両親を困らせているらしい。元気でなによりである。

 喪中といえば、ここ数年、年賀状戦線から遠ざかっているので、去年もわざわざ「喪中につき」葉書を出さなかった。
 昔はちゃんとプリントごっこで作った年賀状を出していたのだが、どうも年末に忙しいことが多く、そんな気力が無くなり、かといって印刷だけのシンプルなやつを出すのもプライドが許さなかったので、なんとなくそのまんま。
   今の会社では、それが普通なのかどうか知らないが、「会社の人全員に出す」という人が多いが、それは多分、100名以下の人数だからできるのだろう。つい最近まで数十名だった会社だから、その時代に全員出すのは当たり前だったのだろうから、その名残なのだと思う。

 だから、毎年けっこうな枚数をいただくのだが、返事も出さない不精者であった。だって、会社の人に年賀状を出すのって、なんかつまんないんだもん。私も以前勤めていた会社では、30人くらいだったので、ほぼ全員に出していたが、それは「ついで」であり、年賀状で「現住所」の確認をするために、疎遠になった学生時代の友達にせっせと出していたのだが、もうそういう人たちとも疎遠になりすぎて、年賀状を出す気にならなくなってしまった。それに、10年くらい住所を変えてないので、また引越ししたら連絡代わりに出そうかなと思っている。

 で、喪中葉書であるが、あれもけっこう謎の習慣だよな。
 てゆーか、田舎はどうだか知らないが、都市部ではもはや「喪中」というのは、「年賀状戦線離脱」くらいしかやることがないのか?まあ、正月を祝えないというのはあるだろうけど、そもそも「祝う」というほど盛大にやらないし、もはや「年始のご挨拶」なども廃れてしまったような気がするし。
 だから、わざわざ「喪中につき」を年末までにお知らせするという行為が無粋に思えてくる。知らん顔して、年賀状を出さずにいて、受け取るだけ受け取っていればいいだけのような気がするが、「年賀状を出さない」というのがそんなに重要なことなんだろうか?

 親しい友人や知人から喪中のお知らせを受け取るのはそれなりの意味はあるが、そういう付き合いをしていない会社の人から「喪中につき」をいただいても、「あー、そうなんだお祖母さんが亡くなったのね」と思うが、別に他人の家にどんな不幸があろうと関係ないし、「ふーん」と思うだけである。変な習慣だ、まったく。

 ふと思ったが、西洋にはそういう習慣はないのかね?両親が亡くなった年でも「メリークリスマス!」とカードを送るのだろうか?でも「死の穢れ」という発想がなさそうだから、喪中という概念も薄いのかもしれない。(でも、未亡人はしばらく喪服を着たりするような気もするが)

 そうそう、私が現代の「喪中」になんとなく違和感を覚えるのは、それが「穢れ」という概念と結びついたものであるはずなのに(だから「穢れ」が落ちるまでは、祝いの席を遠慮するという発想)もはや、誰もそういう「穢れ」の概念と身近ではないのに、乱用されているのを見ると、なんとなく、「今日、生理だから外出できないの」と堂々と言っているような居心地の悪さを感じるからである。

 と難癖をつけて、自分なりに納得しているのは、「喪中につき」葉書を出すのが面倒だったので、その言い訳である。
 ものぐさなりに、あれこれヘ理屈を考えているのである。

 昨日、近所を散歩中に、パチンコ屋の客寄せで店頭に立っていたサルの着ぐるみを着たバイトさんを見て思い出したこと。
 私は「着ぐるみ」が大好きである。あの中に、学生バイトや売れない劇団の役者さんが入っていることは幼いころからわかっていたが、でも子供はみんな大好きなはずだ。昨日だって、はにかみやさんの幼い兄弟が、もじもじしながらもお父さんに背中を押されてやっと着ぐるみのおサルさんから風船を受け取っていた。

 今だに忘れなれない奇妙な「着ぐるみ」があった。
 私が小学生くらいのころ、近所の商店街では毎年秋祭りをやっていた。歩行者天国にして、近所の自衛隊の楽団がパレードしたり、営業の歌手がコンサートを開いたりした。縁日も立つので、けっこう楽しみにしていたのだが、日曜日の昼間ともなれば、その広い歩行者天国(4車線道路の県道を封鎖)を風船を持った「着ぐるみ集団」が練り歩いた。
 私はそのころ、けっこう物心ついた年齢(小4くらい?)で、すでに「着ぐるみ」なんてバカにしていた。

 なんだか短足で、股のあたりに皺が寄っているウルトラマンなんかを見て、笑っていたのだが、でも、ゴジラやエレキングなどの怪獣系の着ぐるみを見るとちょっと平常心を失い、同級生の悪がき少年たちに混じって、怪獣をキックしていじめていたりした。エレキングはしっぽを振って応戦してきたので、楽しかった。あまり、やりすぎると、怪獣の中から、「おめーら、いいかげんにしろよ」という、か弱いアルバイト君のボヤキが聞こえたりして、なにかをやりとげたような充実感があった。

 というわけで、仲間の女の子が「みやの〜、いいかげにしなよ」という教育的指導を応援と勘違いし、「よーし、次は何が歩いてくるかな?」と、着ぐるみと格闘する気満々の困った小学生女児であったが、(あのころ、少年と同じように行動するのにカタルシスを感じていた。それは、だんだんと体力的な格差が生じてくることを悟った自分の最後のあがきだったのかもしれない)その私の目の前に、変な着ぐるみが出現した。

 「キューピー人形」の着ぐるみだったのである。
 ウルトラマンや仮面ライダーや怪獣は、ウレタンな素材にビニルコーティングされているようで、テカテカしていたが、キューピーさんは、なんだか「マットな感触」であった。仮面ライダーの場合も、タイツ部分だけは「布地」であったが、キューピーさんは、全身がなんとなく「伸縮性の布地」で作られていたのである。

 そのため、撥水性が低いらしく、肌色の全身はなんとなく薄汚れていた。着古したTシャツのような雰囲気だった。
 しかも「キューピー」である。なんとなく、蹴ったり打ったりしにくい。
 そして、その凍りついた笑顔は、幼児が遠巻きにするような「怖い」オーラを放っていた。クマさんや、トラさんは年少の幼児がよく寄っていったが、キューピーさんに寄っていく幼児はいなかった。
 だから、キューピーさんっは年長の児童にも、年少の児童にも遠巻きにされていたのである。

 だって、くどいようだけど、今から思い返すと、なんだか「旧家の納戸から発見された、昔の人形」みたいな風情だったんだもの。子供が一番敬遠する存在である。魚のワタと同じで、そういうものの味わいがわかるのは大人の特権だ。

 小さな子供に囲まれたり、やや大きな悪がきにからまれたり、他の着ぐるみは大活躍していたのに、そのキューピーは一人でボツネンと歩行者天国を歩いていた。

 当時から想像力の逞しかった私は「なんで、こんなススけた着ぐるみが?」と思い、何名かのバイトの前に着ぐるみが散乱している様子を想像してしまった。
 「よーし、全員揃ったな。じゃあ、好きなのを着て準備してくれ」
 「おれ、ウルトラマンがいい!」
 「やっぱクマさんかな」
 「怪獣着てると、ガキどもが喧嘩売ってくんだよなあ」
 「ああ、しっぽの長いの振り回して怪我させたら怖いしなあ」
 「あ、これ前に着たことあるけど、動きにくかったよ」
 「これは暑かったなあ。今日の天気予報どうだった?」
 などと、バイトさんたちは思い思いに着ぐるみを選ぶに違いない。きっとそこには上下関係もあって、ベテランからいいのをとってしまうに違いない。
 だとすると、こんなムサくるしいキューピーをあてがわれた人は、かなり内気で、経験も少ないのかもしれない。

 そう考えると、寂しそうに手を振りながら歩くキューピーが可愛そうになってきた。
 さびしーくせに、笑顔なのも見ていて辛い。(キューピーだから仕方ないが)

 その、切ないほどの「ワビ」に耐えられたくなった私は、勇気を出してキューピーに寄っていき、勤めて明るい声で「わーい、キューピーだ」と握手を求めると、キューピーさんはしっかりと握手してくれた。そして、私の周りにいた他の女子にも手を差し伸べたので、友人たちも次々とキューピーと握手した。

 そしてまた、キューピーはとぼとぼと歩きだしたのであった。
 「ああ、私はとってもいいことをした」
 と自己満足に浸った10歳の夏であった。

 今でもその時の記憶が根強くて、パチンコ屋の前にたまに立つ気ぐるみが、あまり子供に相手にされていないと「私が率先して、口火を切ってやる」という衝動が沸くが、さすがに37歳の今になっても気ぐるみを構う勇気はないし、けしかける子供を連れていないのが悔やまれる。
 なので、着ぐるみが子供に囲まれていたり、蹴りをいれられているのを見ると、大変気持ちが安らぐので、よい子は着ぐるみと仲良くしてあげてね。
 育ちすぎのわが身が切ない、大きなおねーさんからのお願いでした。  
12月14日(日)

 悪天候だと、心が神経痛を起こすらしく、なんとなく不機嫌になるのだが、今日のような素晴らしい天気の日には、一日中ご機嫌で、目に付くもの全てが「すばらし〜」という能天気な人になってしまう。

 お昼ごろ起きて、布団干しながら洗濯していたのだが、空の青さに吸い込まれそうだった。あまりにも透明で雲ひとつないその空の青さは、「すがすがしい」を通りこして、太陽光線や宇宙から飛んでくる放射線がどこにも遮られず、目がチクチクするような青さだった。
 気温も暖かかったので、掃除もしつつ、「三つのしもべ」にも日光浴させてあげたりと、オレンジ・ページ推奨な日曜日に過ごし方。よっし、今日こそ自炊するぞ。

 3時ごろに図書館に行き、なぜか「ハリーポッターと賢者の石」を借りる。最近、やっと図書館の棚に置きかれるようになったので、「クリスマスはやっぱハリポタかな」と思っていたのだった。あと、ムーミンも借りる。
 お天気もいいので、三軒茶屋の商店街もほどよい雑踏で活気があった。
 三茶が好きなのは、商店街ががんばっているからである。
 私がいつも通る、茶沢通り(真っ直ぐ歩くと下北沢)の商店街は休日になると歩行者天国になり、ちょっとしたショッピング・モールになるのだ。今日も犬を連れた人がたくさん集まっていた。広々としているので、犬を連れた買い物にちょうどいい。
 私が引っ越してきた10年前までは、わりと渋い昔ながらのお店が多かったが、だんだん若者向けの店も増えてきて、今が一番バランスがとれて丁度いいかんじ。三茶は、わりと中高年から老年層の人が多く、そういう人たちが「エスニック雑貨店」などの若者向けの店で、カゴや敷物を真剣に選んでいたりするのを見ると、渋谷や青山あたりでは味わえない落ち着きを感じる。

 うーむ、自分の機嫌が最高によかったせいもあったけど、今日みたいな日は、町ゆく人たちの表情もリラックスしているし、そもそも、三茶の商店街をうろうろする人たちは、遠くからやってきたわけではなく、「ちょっと近所にお買い物」な風情なので、のんびりしているのがいいんだよな。こういう雰囲気に慣れてしまうと、渋谷や新宿の活気が「殺気」に思えてビビってしまうのだ。

 そんで、商店の人たちも、年末だからといって特に気合が入っているわけでもなく、いつものように店の前に売り出し商品を並べて、適度に張り切っている。それで、けっこう売れてるみたいなんだな。
 わりと運営が上手くいっており、違法な露天は出させないようだが、たまに敷物を広げてひっそりとフリーマーケットをしている人がいる。でも、それがあまり増えないあたりが微妙なバランス感覚だ。今日は、カゴに入った「里親募集」の犬だか猫を出している若い女性が歩道にひっそりと腰を下ろしていた。

 そんな日曜日の商店街をブラブラしつつ、「ずっとこのままでいて欲しいなあ」と思う。
 でも、老夫婦だけで経営していたような古いお店は年々減っていて、その代わりに個性的なお店が出る場合もあるのだが、先日もケーキ屋さんが閉店して、最初は改装なのかと思っていたが、あっという間に「マツキヨ」ができたのでがっかりした。
 昔からの店と、若者向けなイマドキの店と、チェーン店や大手スーパーがバランスよく配合されている時代は、あと数年で終わってしまうのかもしれない。最近になって、駅前の銀行がどんどん閉鎖して、もっと駅から離れた支店に統合されてしまった。空いたスペースにどういうお店が入るのか、心配である。

 店もそうだけど、住宅地も最近、建築中が多い。規制があるので、あまり大きなマンションが建つことはないようだが、ボロい木造住宅がいつのまにか壊されていて、3階建ての二世代住宅がデーンと建つと、ずいぶん景観が変わってくる。そういう新陳代謝はゆっくりと進んでいたのだが、最近ちょっと頻繁に目につくので、やっぱりちょっとだけ心配。
 でも、三茶が私好みに「ほどよく貧乏くさい」大きな理由の一つに、大きな団地を抱えているというのがある。昔ながらの4階建ての団地で、わりとゆったりとした間隔で建てられている。今だと、あれだけの敷地だったら、もっと大勢の人が住める巨大なマンションが何戸も建てられるであろう。

 その団地の住居者の構成はよくわからないが、多分、昔っから住んでいる人が多いのだろう。だって駅から徒歩10分で幹線道路にも面していないので、閑静な立地なのだ。よほどの理由がないと、あそこを離れる気にならないだろう。だから、あそこも多分、かなりゆっくりとしたペースで新陳代謝が進んでいるはずだ。
 多摩ニュータウンは、居住者の老化が顕著になっているようだが、三茶の場合もかなり年齢層はあがっているが、都心に近いので単身者も多く(私も含む)、そっちは結婚や転勤や卒業で流動化が激しいので、コミュニティーの一員としての自覚は全くないが、でも、古くからの定住者の比率が高いので、浮ついた感じがしないのが気に入っている。
 たとえば、下北なんかは、流動比率が高いし、地元民よりも「わざわざ他所から電車に乗ってやってくる客」が多いので、年々治安が悪化してくような気がする。

 三茶も、あと少しすると下北に近づいてしまうかもしれない。
 そういえば、スポーツクラブのサウナルームの中でよく耳にする会話で、主にオジサマ方のお気に入りの話題なのだが「三茶には、美味い店がないよな〜」というのがある。「だから、いいんじゃない!」と反論したくなる。たしかに、わざわざ遠くから訪れるような価値のある飲食店はほとんど無い。でも、そんなにレベルは高くなくても、歩いて行ける距離にあるなら十分なレベルで、いつもあまり混んでなくて、店員がすぐにこっちの顔を覚えてくれるような気さくなお店はたくさんある。そんで、値段も安い。住宅街の飲食店ってこういうもんじゃないかな?

 三茶の魅力はそういう「中の上」な店が沢山あるということだろう。一人で外食するのも全然困らないもんな。

 さて、図書館帰りに八百屋さんに寄って、野菜をしこたま買い込み、久々にタイカレーを作った。それだけだと野菜が余るので、お土産に貰った中国薬膳スープも作った。はあ、お腹いっぱい。いい一日だった。

 そういや、イチョウの葉もあらかた落ちたが、まだ3割くらいがんばっている。図書館に行く途中に保護樹木の大木が何箇所かあって、イチョウの木の下は黄金色の絨毯になっていてきれいだった。
 きれいといえば、今日の青空もすごかったが、夕暮れの美しさも格別だった。乾燥していたので、空気がクリアなのか、東の空までピンク色に染まっていた。渋谷方面が、淡いピンク色に染まっていて、絶妙なグラデーションで薄墨色と水色を足した夕暮れの空色になっていた。
 ふと、上空に光る飛行物体を発見。
 地平線ぎりぎりにあるらしい太陽光線を反射した飛行機らしい。薄墨色の青空の中をキラキラとピンクオレンジ色に光りながら、ゆっくりと移動していった。しばらく見とれてしまった。

 それから家へ帰る道は、西を目指して歩いたので、オレンジ色の見事な夕焼けがずっと鑑賞できた。

 なんか、「生きててよかった」なお天気でした。
 こういう日は犯罪件数も低かったりしないのかなあ?夕焼けに見とれて、自動車事故は増えるのかもしれないけど。
12月13日(土)

 出勤。
 何度も繰り返すが、うちの会社は定休日がなく、ただ「月に23日出勤」すればいいのである。
 だから恐ろしいことに、年末年始だけはさすがに元旦と2日は「定休日」なのだが、それは「休み」ではなく、強制的に「有給休暇」になるのだ。
 もちろん、他の休みを削って、年末年始を普通の「休み」にすることもできる。
 いったい誰が、こんな過酷なシステムを作ったのか謎だったが、うちの社長だったことが先日判明した。鬼!

 なので、うちの会社は他の会社に比べて有給消化率が異常にいいはずだ。だって、週休二日の人と同じにしようとすると、有給全部使っても足りないくらいなのだ。前にカレンダーで確認したら、週休二日で年末年始はお休みな、いわゆる「暦どおり」な会社に比べると、年間33日程度勤務日数が多くなるが、有給は多い人で年間20日+いつでもとれる長期休暇が6日間。全部消化してもまだ負けている。

 それなのに、毎日残業して、しかも有給もほとんど使わない社員が何人かいる。あんびりーばぼーである。
 私は年間30日多い出勤を「年間200時間のサービス残業」と考えている。そうすると、月十数時間ということになり、そのくらいだったら「人並みだろう」と諦めて、自分を慰めているのであった。

 さて、話は変わるが、学生時代の「世の中の謎」の一つとして「ミスター・ミニットのカウンターの中にいる人が、ミスター・ミニットに似ているのはなんでだろう?」というのがあった。ケンタッキー・フライドチキンにはカーネル・サンダースに似た店員なんていないのに、ミスター・ミニットの店員はミスター・ミニットのキャラに似ているのだ。

 いや、全員が似てるわけないと思うが、でもミスター・ミニットのすべてをチェックするのは大変難しい。ああいう店って、用があると必死で探すが、用がないといつのまにか通り過ぎてしまうからだ。
 でも、たまに思い出してチェックすると、「あ、やっぱりミスター・ミニットだ」と思ったことは何回かあるし、「ミスター・ミニットの謎」を共有する友達と買い物していたときにも「あ、ミスター・ミニットだ・・・・」「やっぱし・・・・・」なんて、アイコンタクトで頷きあったのは一度や二度ではなかったような気がする。

 「あれはきっとフランチャイズ契約するときの面接で選抜しているのだ」とか「フランチャイズをとるための講習会に髪型やメイクの講座もあるに違いない」と諸説入り乱れていた。
 というのを急に思い出したのは、急に「モ○モン教の宣教師」のことを思い出したので、そのついででした。(また例によって芋づる式記憶術を発揮)

 今でこそ首都圏近郊でも「外人」の姿は珍しくなくなったが、私が小学生くらいのころは、「外人」というのは東京の中心街では見かけたが、千葉のベッドタウンなどでは滅多に見られなかった。
 みんながいかに「外人」に疎かったというエピソードとして、小学校5年生のとき、隣のクラスに「外人」が編入してくるという噂が飛び、学年全体で大騒ぎになった。どうやらアメリカ人らしい。そのクラスの担任と私のクラスの担任の先生が仲が良かったので、その先生も「どうしよ〜外人だなんて」と興奮していた。

 ところが噂とは当てにならないもので、その「外国からの転校生」が来てみて初めてわかったのだが、彼は「外人」ではなく、ただ単に「海外赴任者の息子」であり、向こうの日本人学校に通っていたため、日本語も堪能で何の問題もなかったのだ。
 しかし「外人が来る」と期待に胸を膨らませたのもあったが、彼は目鼻立ちがちょっとバタ臭く、鼻もスラっと高い子で(ひょっとしたらちょっとだけ異国の血が混じっていたのかもしれない)、背も高く立派な体格だったので、どう見ても「ハーフの外人」にしか見えなかった。
 あれで、見かけがもっと地味だったら、見た瞬間に皆諦めたと思うのだが、そういう外見だったから、他のクラスの生徒まで集まって「わー外人だ、外人だ」と、すっかり祭り上げられてしまったのである。今にして思えばお気の毒だったが、でも遠巻きにされがちな転校生としてはかなりの厚遇だっただろう。

 昼休みになると、私もさっそく彼を襲撃したが、すでに何十人も集まっていて、「ねえ、ねえ、英語で、ありがとうって何っていうの?」と、お馬鹿な質問をしても、彼は落ち着いた口調で「Thank you」
 おおおおお!っとドヨメキが起こる。すごい、ほんとに英語じゃん?
 ネイティブ発音に生で触れるのが始めてだったので、みんなが交互に「じゃあ、魚は?」「Fish」「おおおおお!外人だ!」「じゃあ、じゃあ、学校は?」「School」「おおおおお!スクールじゃなくて、スク〜だってさ、すげえ」

 というように、2、3日は多騒ぎだったのだが、そのうちみんな飽きて、それほど構わなくなったのだが、今思い返すと、それ以外の彼の記憶が全くないのはなんでだろう?少なくとも同じ中学にあがらなかったのは確かだったのだが・・・・ひょっとすると、数ヶ月しか在籍してなくて、すぐにまた転校(っていうかお父さんの転勤)になってしまったのかも。たしか、そうだったと思う。

 それくらい「外人」に免疫の無い地域だったのだが、私が中学のときには、市で外人英語教師を雇って、市内の中学を巡回していたりしたが、それでもめったに外人なんていなかったのに(高校生くらいになると、船橋あたりではアジア系の外人労働者の姿を見かけるようになったが)、そんな田舎なベッドタウンを自転車で駆け回る二人組みが登場した。

 二人とも若い金髪のハンサムで、金髪は7:3にきっちりと清潔にまとめられており、いつもきっちりとネクタイをしていた。そして、スポーツタイプの自転車にまたがり、いつも二人で颯爽と走り抜けていったのである。
 まるで、映画の中から抜け出してきたような光景に誰もがボーぜんとした。
 しばらくして、母親の立ち話情報交換ルートから、彼らが「キリスト教の人」だということがわかった。どこかに教会スペースを借りたようだが、そこで日曜学校のような感じで英会話学校を無料で開催しているらしかった。

 それ以前も、近所にある幼稚園でもとても評判のよかったところがキリスト教系で、日曜学校を保育所代わりにしている親御さんもいたので、キリスト教に対しては免疫があったらしく、彼らの活動もわりと受け入れられていた。
 なので、当時は「英語教育」は今ほど問題ではなかったが、そろそろ海外旅行のパックツアーに出かける人も珍しくなくなってきたご時世だったし、「子供に英語習わせてもいいかも」なんていう雰囲気だった。

 たまたま、小学校のクラスメートに「毎週日曜日は、東京の教会に家族そろって礼拝に出かける」という敬虔なクリスチャン一家がいて(ちなみに彼が小学校でトップの成績だった)、親から情報を仕入れたらしく「あれはキリスト教っていうよりも、モル○ン教なんだ」と説明しはじめた。
 そんで、どうやら、モルモン教というのは、酒もタバコもご法度らしい。と言われても、小学生にとっては酒もタバコも無縁のものなので「へえ〜」ってかんじだった。

 中学生のころになっても、彼らはまだその町にいた。でも、いつのまにか人が入れ替わっているような気もしたが、でも、「金髪でハンサムな爽やか西洋人」の個体識別など誰にもできなかった。それよりも、いつ見ても、爽やかに二人で自転車をこいでいる姿だけが記憶に残った。
 中学生くらいになると、彼らに声をかけられる生徒が出てきた。しかも、彼らも宣教師として、ちゃんとマーケティングはわかっているようで(講習があるんだろうな)、私みたいな運動部の練習に明け暮れているような生徒に声をかけることはなく、授業終了後にトボトボ一人で帰宅する、いわゆる「帰宅部」で、しかも、小さな盛り場のゲーセン付近をうろうろしている「さ迷える魂」を狙ったらしく、そういう「学校では不良っぽいと言われていたが、徒党を組まない生徒」が、「エーゴ な〜らいませんかっ?」と声をかけられていたようである。

 私のクラスの孤独なつっぱり少年は「あいつら、いったいなんなんだよ!」と怒っていたが、孤独なつっぱり少女の中には彼らの美貌に心が動き、英会話教室に通うようになり、「デビッドがね」なんて自慢話をして余計、孤独に追い込まれていたりした。

 その後、高校生になると、世間の情報からなんとなく「モル○ン教」というのがわかってきたが、人気番組だった「世界まるごとハウマッチ」でブレイクしたケント・ギルバートを見て「ああ、ほんとにモル○ン教って、こういうキャラしかいないのか?」と不思議に思ったが、その後、「笑っていいとも」からケント・デリカットが出世した「ああ、こういう人もいたのね、よかった」と思った。

 大学に入学した年の夏休みに、サークルの新入生だけで合宿をして親睦しようという企画があった。丹沢のロッジを借りて、自炊して酒盛りして、なかなか楽しかったが、帰りに小田急線の向ヶ丘遊園の男の子のうちに寄ってみた。
 なんで、そういうことになったのかわからないが、とにかく、その男子の自宅に、私を含め、わりとそのサークルで中心的に活動していた女子4名が押しかけたのである。

 息子がいきなり女子を4名も連れてきたのだから、そこんちの両親もすっかりテンションがあがり、寿司をとってもてなしてくれた。わりと日本家屋風のいい家で、その男子も両親や祖父母にかこまれて大切に育てられたらしく、おっとりした子であった。だから多分、帰りの電車で「ぼくんち、向ヶ丘遊園なんだ」「なんだ、途中じゃない、じゃあ、これから遊びに行っちゃおうか?」と冗談で言ったのに「いいよ、別に」と言うので、ノリで押しかけたような気がする。
 出前の寿司でおなか一杯になると、お母様が「よかったら、近所に生田緑地があって民家園があるから、散歩してくれば?」とおっしゃったので、せっかくだから行ってみることにした。

 正午は過ぎでいたとはいえ、まだ日差しが強く、出掛けにお母様が「日傘を使いなさい」と用意してくれたが、他の子は「もうどうせ日焼けしちゃったし、いいです」と断っていたが、私はその母親の「姑な心境」を悟り、「ありがとうございます」と日傘を借りていった。この程度だったら「嫁の役割」を演じてあげてもかまわないさ。

 生田緑地に向かって歩き出すと、前方から自転車に乗った外人二人組みがやってきて、通り過ぎざまに、その男子に向かって「のっりお く〜ん!」と挨拶していた。(典夫君でした)
 典夫君もニコやかに、「どうも、どうも」と挨拶していた。
 周りの女子4名は大騒ぎである。「なに、なに、今の何?」「ずいぶん親しそうじゃない?」「のっりおく〜ん、って・・・」

   彼は照れくさそうに「いや、うちのネーちゃんがずっと彼らの英語教室に通ってて、僕も何度が一緒に行っただけなんだ」と言っていた。
 「そーいや、うちの町にもいたよ、ああいう人たち!そんで、やっぱ英語教室やってた」
 「うちの近所にもいた!そんで、やっぱし二人組みで、二人ともあんなだったよ!」
 「なになに?じゃあ、日本中に、あの二人組みが自転車で走ってるってこと?」

 モル○ン教徒が布教の一環として「英会話教室」を開くということは、すでにギャグの定番になっていたが、他所の町で実物を拝見して初めて、「自転車」「二人組み」というのが「定型」であることがわかった。そんで「金髪」「清潔な髪型」「ネクタイ」も。

 いったい日本全国で何人ああいうハンサム外人を送り込んでいるのだろう。全部集めて自転車で行進してもらったらさぞかし壮観だろう。
 でも、ほんとにあんなのばっかり日本に送り込んでいたのだろうか?だとしたら、そうとう厳密なオーディションをして「日本人が思い描くアメリカの好青年」を選んだのか、それとも厳密な研修で作りこんだのか、よくわからないが、他のアジア諸国にも同じマーケティングで臨んだのだろうか?

 最近、ああいう光景見なくなったというか、そもそも外人が珍しくなくなったので、目につかなくなったのかわからないが、でもあの後も、時々、どっかで「やっぱり金髪ネクタイ自転車二人組み・・・・」を目撃したとこがあったなあ。
 何年か前、その宗派の「一夫多妻の家庭」にカメラが入ったので、期待したのだが、家主の男性は普通のおっさんだった。まあ、日本に派遣されてたようなハンサムさんたちも、40歳過ぎればああなっていたのかもしれないけど。

 そういうわけで、自分にとって「外人」の典型といえば、彼らのことだったなあ、と懐かしく思い出したわけでございました。
12月12日(金)

 昨日はちゃんとぐっすり眠ったので、朝もきちんと目が覚めたが・・・・・寒くて布団から出られず。
 目覚ましを消すために、布団からエイヤっと飛び出して、目覚ましのボタンを押した0.5秒後には暖房のスイッチ・オンして、二度寝防止のためにテレビのスイッチ・オンして、つむじ風のように布団の中に潜る。

 そして30分くらい、布団の中でうじうじしていたのだが(ああ、ハエなんかになりたくない。ずっとこの肥溜めの中でヌクヌクしていたいと願いつつ)、8時になってワイドショーが始まり「ヤワラちゃんの結婚式@パリ」のニュースが始まると、異常に居心地が悪くなり、じっとして聞いているのが苦痛になってきたので、なんとか布団から抜け出ることができた。ヤワラちゃん、ありがとう。しばらく用は無いので、別居とか離婚のときにはまたよろしくたのんます。
 やはりワイドショーはこうじゃないと。

 そういや、もう一つ脱力ネタとして、先日、大麻所持で逮捕された九州の大学の教授が「カウンセリングを双子の弟に行かせていた」というニュースが流れ、「そ、それは、『サイファ』か?」と、昔の少女漫画(NY在住の人気モデルの主人公が実は双子なのだが、一人のように振舞って仕事も学校もこなしていたという設定)を思い出してしまった。
 でも、双子といえども、それなりの年になると、似てても異なるものになると思うので、けっこう怪しまれていたようだが、せっかくだから兄弟並べた画が欲しかった。
 ゲスト・コメンテイターの植草さんも双子なので、ぜひ兄だか弟もスタジオに連れてきてほしい。(単なる双子好きである)

●不思議君

 うちの会社に先月から出戻り社員が入ってきた。
 私が入社したころ、退職した人が、4年後にまた舞い戻ってきたのである。年齢不詳の少年のようなルックスの人だったことしか覚えていなかったが(だから、一度だけ私の上司を訪ねてきたときに、彼のことをバイトの男の子だと思ったくらい)やはり今だに学生っぽいオーラをまとっている。

 しかも、彼は総務と同じフロアに配属されたのだが、全く挨拶をしない人だった。いつのまにか来て、いつのまにかいない。いるときにも完全に気配を消して、ひたすらノートパソコンと退治している。何回か、声をかけてみたが、人間が苦手な様子だった。
 でも、ほんとかどうだか知らないが、かなりの高学歴で、英語も堪能らしく、うちの会社を辞めてからはしばらくアメリカで仕事していたらしいけど、うちの会社に何名かいる帰国子女はみんな愛想いいぞ。

 今日もずっと事務所にいたのだが、ほんとに幽霊のような不思議な存在である。
 しかも、私が帰るときには会社の玄関の脇に立っていて、立ったままノートパソコンを操作して一心不乱になんかやっていた。なんでわざわざ外でノートをいじっているのか理解不能。中のロビーにいくらでもスペースがあるのに。

 彼はあまりオフィスにいないのだが、いる間も他の社員と喋っているのを見たことがない。
 たしかに、開発系にはそういう人が何人かいるが、彼は前も営業部だったし、今度配属されたところも「気立ての良さも仕事のうち」という外部との接触が多い部署なのである。
 外に出ると、堰を切ったように営業トークをするのだろうか?まあ、ブレ−ン的な扱いなので、あれでいいんだろうけど、でも私や他の総務社員とは絶対に目を合わせようとしないもんな。

 というわけで、彼がそのうち打ち解けるものなのか、ずっとああいう不思議な人なのか、密かに注目しているのであった。別にホレたわけではありませんが、ああいうタイプの人がボソボソっと話し掛けてきたりする瞬間がけっこう好きなので。でも、そういや、クララとは経費清算の話をしていたが、ほんとに事務的な調子だったもんな。期待薄かも。

 もしかしたら、英語のほうが得意なのかもしれない(笑)。英語だったら「ハーイ!」とか急に明るかったりしたらヤだな。
 まあしかし、なんで戻ってきたのか事情を知らないのだが、彼を買っていた部長が彼が日本に戻っていることを知り、コンタクトをとったんだろうけど、あまり長続きしないほうに100円。
12月11日(木)

 昨日の夜は飲み会に参加したのだが、始まるのが遅い時間だったので、「そーら、飲むぞ!」とスパートをかけてしまったので、また飲みすぎた。
 でも、楽しゅうございました。

 そんで、飲み会が終了したのが11時過ぎだったけど、下北に寄ってサクっと一杯引っ掛けるつもりだったが、「進学相談」が思いのほか長引き、結局3時くらいまで飲んでしまった。ああ、明日仕事なのに、忙しいのに・・・・

 案の定、今朝は目覚ましが鳴っても止めるだけで精一杯で全然起き上がれない。
 ほんとは、昨日飲み会だったので、今日を休みにしようかと思ったのだが、予定表を見たら今日休む人が多くて、休めなかったので、がんばってなんとか11時前には会社にたどり着いたのだが、総務の同僚も「今日は役所に直行だったから、私も今来たばかりなんだけど・・・・誰もいなかった」

 なんと、頼みの派遣社員も体調不良でお休みだったのだ。
 おかげで、ぼんやり二日酔いをエンジョイする暇もなく、来客や電話応対に追われる。
 頭がぼやーんとしていたし、昨晩はしゃいで喋りすぎたので、ドーパミンを出し尽くしてしまったらしく、言語障害気味。つーか、まだ酒が抜けてないってかんじだった。

 しかし、支払を今日中に集計しなくてはならなかったので、ガシガシとやろうとしたが、頭の回転が異常にトロくなっているので、なにかで中断されるたびに、自分が何やっているのかわからなくなり、なかなか仕事が進まなかった。
 夕方になって、なんとかまとまったので、金額を入力したのだが、合計がどうしても合わない。
 うみゃ〜〜〜〜っと呟きながら、2回も確認したのだが、やはりどうしても合わない。
 「あきらめて、明日にするか」とも思ったが、でも悔しいのでもう一度やってみたら、全然違う金額を入力している箇所を発見。私は数字の語尾じゃなくて、末尾二桁を入れ替える癖があり、数字の順番が狂うことはよくあるのだが(だから電話の掛け間違いも多い)、そのミスは「269820」と「286530」くらい全然似てなかった。

 「頭と尻尾しか合ってねーじゃん!」
 と、びっくり。しかも、2回確認したのに発見できなかったというのもなんだったんだろう?
 テレビ番組で彼氏自慢をする女の子が「彼はキムタクに似てます」と言ってから本人が登場すると「なにが?どこが?」ということがよくあるけど、それって「269820」と「286530」の見分けがつかないのと同じなんだろうか?

 しかも、私が間違って入力した数字と正しい数字の誤差は「52500」で、それは「50000円+消費税」の金額なので、その誤差に何か意味があるのかと思っていたのだが、そういうわけでもなかった。でも、ランダムなミスから、ある程度意味のある数字が浮き出るというのも面白い。人間、壊れていると、そういうミステリー・ゾーンに入りやすくなるようだ。もちろん「52500」っていうのは、ミステリー・ゾーンとしては相当浅いけど。
 オカルト的才能が圧倒的に欠けているとは思ったが、やっぱしこの程度の人間なんだな、とがっかりしたが、でもそれで合計が合ったので、めでたく8時には終了して(11時出勤だったから、1時間残業しただけ)寒い街をトボトボと歩きながら、とぼとぼと帰った。

 師走だけあって、他の社員もそれぞれ慌しい雰囲気。
 あまり自分からは積極的に喋らないクララが珍しくボソっと「なんだかリズムが狂ってるような気がします」とボソっと言うので、「え?リズムって?」と言ったら、「ここんとこ、他の仕事(他部署の応援)が多かったので、ペースが狂っているかんじなんです」
 「あー、そうだよね。それに12月だから、しょうがないよね。みんな、そんなもんでしょう。私だって、そんなかんじだもん」
 と、二人っきりで残業していたので、おっとりと励まし合いました。

 今日の総務部は、私とクララと総務課の同僚の3名だけだったので「女の園」だったし、けっこうドタバタいろいろあったので(電話が不通になっていたりとか、「納税証明書が必要」というから、てっきり「その1」「その2」のやつだと思ったら、「自動車税」のことだったりとか)、なんとなく「3人だけでがんばっている」という気分になったので、なんだかとっても居心地がよかった。

 そーいや、離れた事務所から発送している商品の売れ行きが好調だという話は聞いていたが、今日郵便局から振込み通知書の束が届いたが、それが厚さ3センチくらいあり、「なんじゃこりゃ?」と思って開けてみたら、それが一日分の入金だった。それの入金確認をしているのは、そっちの事務所の派遣社員さんで、こりゃ大変だわと思った。
 丁度、他の用事で電話したので、彼女に「郵便局の伝票の厚さを見て、腰抜かしました。あれ、発送も大変だったでしょ?」(その人が扱っている発送はせいぜい月に100件くらいだったはず)と話を振ったら、「そうなんです〜、4000件もあって」「ええ!じゃあ、あの厚さの伝票がこれから毎日届くだ。それ、ほんとに確認作業が一苦労だよね」

 というわけで、しばし「がんばってね」「がんばります」とエールの交換をした。
 こうして、ちまちまとグルーミングし合いながら、慌しい師走を切り抜けていければいいなと思った。

 そんで、二日酔いで寝不足でボロボロなはずなのに、なんかいい方向に壊れて、妙に「いい人」をやっている自分に気がつき「君も大人になったなあ〜」と思ったが、よくよく考えると「二日酔いで不機嫌になってしまったら、酒に負けたことになる。負けてはイカン」という理屈も働いていたようだ。真性酒好きである。

 でも今日はさすがに、休肝日。お呪いの「ウコン」も飲みました。
12月9日(火)

 昨日、今日とフロアのほとんどの人が別事務所の応援に行ってしまったので、総務は私とハイジと派遣社員だけだった。
 だから、電話応対や不在の人への伝言を受けて、それを別事務所の社員に伝えて「メモ渡してください」とか「どこそこに折り返し電話するよう伝えてください」などという用事でけっこう忙しく、さらに、他に誰もいないので、飛び込みセールスの応対も全部私。
 今日は、なぜかヤ○ーのアルバイトらしき男の子が飛び込んできて、「こちらの会社の横のスペースで出店したい」と言うので、「うちの前だとダメだけど、横だったら文句言える筋合いじゃないのだが・・・」と言って、一緒にその場所を確認しに行ったら、たしかに横は横だけど、ばっちりうちの敷地内。(歩道上ですらない)
 というわけで、きっぱりお断りしましたが、そんな用件が立て続けだったので、なんだかちっとも自分の仕事が捗らなかったし、午前中は私もその別事務所(電車で20分、駅から徒歩10分)に急に書類を届けることになったので、午後になってやっと仕事にとりかかったのだが、邪魔ばかり入る。

 それでもけっこう急ぎの仕事があったので、ガシガシやっていたら、社長のところに銀行の担当者が来ていて、急に社長が「おい、うちの会社って、年にどれくらいドル使ってる?」と聞いてくるので、ぎょえええ、急にそんなこと聞かれても・・・でも、ここ1年で海外送金の件数も金額も倍増したので、「為替リスク」とも無縁ではいられない状況になりそうだったので、それを報告する資料を作成しようとしていた最中だったのである。(最中と最中は同じ字?あずきモナカの最中と・・・今はじめて気が付いた)

 その作りかけの表をどこに保管したのか忘れてしまい、社長が私のモニタを覗き込む中、「あれ、ここでもない、あれ?」と散々さ迷ったあげく、やっと、その名も「海外送金」というフォルダを最近新設したことを思い出した。はあ、焦るじゃない。
 で、だいたいの総額がわかったので、社長は「ふ〜ん」と言いながらまた銀行さんのところに戻っていった。なになに、何の話なの?

 で、銀行さんんが帰ると、社長と親会社の経理部長が(融資関係はこの人が主導)、私に資料をバサっと渡して、「銀行がこんなの売りつけに来たぞ」
 ああ、とうとう来たか、通貨オプションの話。
 すでに「金利スワップ」や「レバレッジドなんちゃら」はやっているのだが、あの銀行は、そういう「よくわからないカタカタの金融商品」を売りつけるのが好きだ。
 だから、うちの海外送金が増えているという動きも絶対に見逃さないと思っていたが、私の勘は正しかった。

 一応、そういう事態に備えて、「外貨取引の会計処理」なんていう本を買って読んでみたりしたが、「ふーむ、そうかTTSのSはセールで売りで、TTBのBはバイで買いだとは思っていたが、TTの意味なんて考えたことなかったぜ」というあたりで停止しており、それでも、貿易事務に関しては派遣のときに扱ったりしていたので、他のトーシローよりは毛が3本くらい多いだろうけど、でも、デリバティブとかさっぱりわけわからんので、多少毛は生えているが「まだらハゲ」である。いや、まだらに毛が生えていると言ったほうがいい。

 外貨取引じゃないけど、レバレッジだって、最近になって上司にバーンと書類を全部渡され、「今度からミヤノさんがやってよ」(って伝票処理だけなのだが)って言うので、「きゃ〜〜〜、これはなんなの、そもそも、レバレッジってどういう意味?」と慌てて調べたのだる。

 ヘッジだのデリバティブだの、ほんとにわけわかんないので大嫌いなのだが、しょーがないから細々と勉強中なのであるが、なんだか「金持ちとうさん」な世界で嫌だわあ。

 銀行が用意した通貨オプションの説明書のA4の紙3枚もざっと一読したところ、よくわからなかった。というか単語に馴染みがないので、「その業界では当たり前のこと」の意味がよくわからず、まるで化粧方法の説明を読む男性のような気分になる。(コンシーラーって何?化粧下地とファンデとパウダーとコントロールカラーって、それ全部顔に塗るのか?フレンチ・ネールとフレンチ・リップは何が違うのだ?)

 まあとりあえず、ドルの相場が今のままだと、わが社は得をするが、円高が進むと損するリスクがあると思うのだが、そのリスク説明が非常にわかりずらく書いてあるので笑える。
 経理部長にも「でも、今後のドル相場なんて予想がつきませんよ」と言ってみたら「まあねえ。ご参考までに、過去一番高かったときには80何円だったらしいよ」
 そういう時代があったのはよーく存じております。
 あの当時、ドルがまた120円になってしまうなんて考えもしなかった。

   考えていても、しょーがないし、どうせ上司は不在なので、いちおう参考資料として、「このまま円高が進んでしまう場合のリスク」をエクセルでガガガっとつくってみた。でも5年後どうなってるかなんてさっぱりわからないので、「楽観的」「やや悲観的」「絶望的」な3つのシナリオを作成したみた。
 親会社の経理部長は、いつも私が作った請求書のミスを瞬時に見破るので、「数」のセンスは圧倒的に優れているので、こんなもん作らなくても多分頭の中で優雅に暗算ができているだろうし、私の上司も数学は得意なので、私の予想など必要ないかもしれないが、一応私も一生懸命考えてみました、というアピール。

 しかし、やっているうちにハマってしまい。「うーむ、日銀がどれだけ円売り介入してくるかなあ」などと、いっちょまえなことを呟きながら、セコセコとやっていたら、夕方になってしまった。うがあ、こんなことやっている暇ないのに〜〜〜〜。
 慣れないことをやったので、グッタリしてしまい、1時間ほど残業して自分の仕事をやっと片付けたが、ほんとはまだ残っていたんだけど電池切れで退散。

 早くハイジにこういうのも押し付けたい。
 レバレッジとかヘッジとかスワップとかオプションとかデリバティブとかやってると、友達に自慢できるぞ〜。
 でも、前にそういう話したことがあって「私とかそういうの疎いから苦労しててさ、でもA君は経済学部卒だし、ちょっとは基本を知ってるのかな?」と様子を探ったのだが、「たしかに経済学部だけど、そういうのはやったことありません」ときっぱりとはねつけられた。いったい何が専攻だったのか聞きそびれた。マルクスとかじゃないよね?
 うちの経理は、部長が工学部中退、課長代理(私)が文学部中退で、クララは社会学らしいので、いちおうそこそこ有名大学経済学部卒の君は経理課の期待の星なのだよ、わかってるか?

 しかし、うちの会社の場合は年商もたいしたことないので、そういうデリバティブ商品に懸ける金額も大したことはないので、今日作ってみた「最悪のシナリオ」で、ドルが3年後に90円になってしまうというのでも、損は大したことなかったので「まあ、このくらいなら、我慢できるか」と思ったが、この数十倍の金額になると、損も億単位になってしまうので、もちろん利益も億単位なのだが、そんな金額を他人の金とは言え、ギャンブル感覚で動かしているとなると、30万円のコートとか、100万円の腕時計とかポーンと買うようになっちゃうだろうなあ。

 なんかねー、競馬のこと全く知らないのに、馬券買うみたいなかんじで、ちょっと不安なんだけど、でも、やっぱし馬券買わないと競馬のことなんて覚えないわけじゃん?(十数年前に馬券を買ったケリーバックの名前は今だに覚えてるもん。「これ当たったら、ほんとにケリーバック買うからな!」と意気込んでいたのだが、来なかった。ちっ)
 そもそも、時価評価会計っていうのが具体的にどうすんのもかもよくわかってないし(でも、前期の決算でそういうのがあったので、テキトーにやっちゃったけど。税務調査が入ったら、税務署の人に正しいやり方教えてもらおうと腹をくくった。「誰も教えてくれなかったので、本を読んで調べて、自分なりに解釈してやりました」と堂々と開き直ろう)、わかんないことだらけだが、この会社に来てから、わけわかんないことも全部気合で乗り切ったので、またなんとかなるだろう。

 愚痴がとまらないが、今の会社の顧問税理士はあまりアテにならないのである。
 先日も決算の打ち合わせで「IT促進税制」の解釈で、私が「これだけ税額控除になるはずです」と資料を出しても、なんか変なことで突付いてきたので、一瞬「あたし、なんか勘違いしたか?」と不安になったが(相手はプロだし)、後で調べてみたら「ほーら、ごらん、私が正しい」と、その証拠書類(国税庁や経産省の文書)をたくさんプリントアウトして、該当個所をマーカーで塗りたくってから送ってさしあげました。

 今日は昼頃は暖かかったけど、午後から急に冷えこんだ。
 「こりゃ、今年一番の寒さじゃないの?今まで顔が冷たいことなかったもん」と思ったが、天気予報ではやはり「この冬一番の冷え込みでした」と言っていた。
 ぎりぎりで、コートを購入した自分を誉めてあげたい。ダウンコートって実は初めて購入したのだが、あれだけ流行るだけあって、やっぱ暖かいね。やはり、今の「買い物マインド上昇中」を狙って、羽布団とかも買っちゃおうかな。友達が前に購入して「裸で寝られるよ!」と絶賛していたが、裸で寝る趣味はないので、別に興味がわかなかったのだが、コートの保温力を目の当たりというか、肌で感じると、「布団でこの感触だったら、いいかも」と思う。思うけど、そんなことしたら、ますます「布団の中にいる時間÷部屋にいる時間」が限りなく1に近づくようで怖い。
12月8日(月)

 土日出勤しているので、曜日感覚が朦朧としているが、実は(って告白するようなことか?)土曜日から毎日、会社帰りにデパートに寄っていた。
 あ、土曜日の日記にはちゃんと書いているわね。

 土曜日は、いつも寄っているシネコンがある港北ショッピングセンター。無印良品がデカいので、よく利用している。ユニクロもあるし、コムサ・イズムも入っているので、「店員が声をかけてこない店」は安心してウロウロできるので、映画が始まる前にけっこう歩き回っている。何にも買わないけど、ローラ・アシュレイを冷やかすもの楽しい。あそこのローラ・アシュレイも店員が寄ってこないのである。前に、二子玉川のローラ・アシュレイに入ったら、店員は寄ってこなかったけど、私が手にとるものをいちいち説明してくれるのでウザかった。
 港北ニュータウンのニューファミリーが集まる場所なので、どの店もゆったりと広くて、冷やかしに寛大というか、イケイケな感じではないのがいい。そして、土曜の夜だったので、近場で済まそうとする家族連れで混雑していたので、私のような「会社帰りの独身女性」は客として設定されていなかったようだ。

 しかし、そこでいいのが見つからなかったので、他も探してみようと、日曜日には、初めて溝口で途中下車して丸井に行ってみた。
 港北SCがのんびりしているので「郊外店ってこんなもんか?」と思っていたのだが、やはり丸井は丸井だった。
 ふら〜っと店内に入るたびに、甲高い声で「いらっしゃいませ〜」を大合唱さるので、心臓によろしくない。そんで、店員がジロジロと私を品定めするのがわかって、落ち着かないし、ちょっと立ち止まって服を見ると「それは今日入ったばかりなんですよ」という、太古の昔(丸井のバーゲンで行列が出来ていたとき)から綿々と受け継がれている「決り文句」を言う。

 そーいや、その昔は、店員のことを「ハウス・マヌカン」と呼んでいたなあ。死語になっちゃったなあ。男の店員のことは「ハウス・マヌカン・オム」って言ったんだぜ〜。ホントだってば。

 で、今でこそ、どこの店も「うちのブランドは」って感じよりも「今年の流行」を追う感じになっているので、どこを見ても似たようなもんだが、「ハウスマヌカン」だった当時は、100メートル先からでもブランド名を当てられるような、「うちのブランドのふくっ」っていうので、マヌカンさんの全身が覆われていて、その迫力というかプライドの高さは相当のもんだったが、最近はそういう意気込みを持つ店員は数少ないような気がするが、「ノルマを抱えている」という現実は当然のことながら残っているらしく、「入った客をタダでは返さん」な迫力はあった。
 もー、ほんとにどこに入っても、ぴったりマークされ、「あたしゃ、鮎かよ」と思ったくらい。あれ?鮎じゃなかったっけ。縄張り意識が強くて、サッカーで言えばゾーンディフェンスをするので、自分の陣地に入ってきた他鮎(他人)を察知すると、突付きに来るので、その習性を利用して釣するとか聞いたような気がする。

 ちょっと店内に入ると、そうやって激しく攻撃されるので、ゆっくり眺められない。で、たまに「これいいかな。ちょっと試着してみたいな」と思っても、店員さんの意気込みが怖くて、「ちょっと」じゃ済まないような気がして、試着できないのである。

 というわけで、日曜日はヘトヘトになっただけで、収穫無しで帰宅。
 デパートで買い物すると疲れるのは、普段あまり足を運ばないので、下調べができていないため、「だいたい、あの辺に私好みのものがある」という情報が皆無なので、通り魔事件の捜査でローラー作戦で聞き込みしている刑事さんのように大変なことになるのだ。
 しかも、その刑事さんを待ち構えているのは、刑事さんが来ただけでハイ・テンションになり、事件の情報をなんとか捏造しようと、あれこれ言って引き止める暇な専業主婦のおばちゃんばかりというような状況なのである。そりゃ、疲れるわさ。

 丸井で、すっかり「店員嫌い」に拍車がかかったので、店員を探しても見つからないことが多い近所の西友に寄ってリフレッシュしてしまった。勝手に試着しまくっていても、誰も寄ってこないので、心が洗われた。「ここで、いいのが見つかればいいのに。デパートの10分の1の値段だし」と心から願ったが、残念ながらピンと来るものがなかった。

 さて、今日は早番出勤だったので、5時で帰れるから、またどこかに寄ろうと作戦を立てた。あと、通勤途中にあるのは、港北の阪急と、たまプラーザの東急と、二子玉川の高島屋だ。高島屋はときどき寄るけど、他は行ったことがない。どうしよう、新規開拓してみるか。でも丸井で懲りたし、東急は多分、港北SCと同じ店揃えだろう。
 散々悩んだあげく、「こまだ〜む」なのはわかっているけど、ニコタマにしてみた。最近、改装が済んだので、新しいショップも入っているようだし。

 しかし、やっぱし高いよ。ちょっといいのだと10万以上はザラ。
 数十万の金に不自由しない身分になったが、でもやはり身についた貧乏性から脱却することができない。
 ふと、店頭に飾ってあったオレンジ色のコートに目が止まったので、吸い寄せられていたら、すかさず店員が寄ってきた。でも、なんとなく喋りに余裕のある人で、私が必死に値札を見ようとしていたら、実に上品に値札を探してくれて、「○○円ですね」と教えてくれて、私が「うーん、予算オーバーだな」と言っても、「ふふふ」と余裕のある微笑みを見せてくれたので、ついでに奥のほうまで潜入すると、とても上品な青い色のコートが目に入り、「わあ、きれいな色」というとその製品を丁寧に説明してくれたので、なんか感じがよかったからすっかりノセられてしまい、試着したのだが、着心地もよく、今どきの流行ではなく個性的でかつ上品という素晴らしさだったが、お値段も6万円超えていて「うーむ、予算が・・・・でも、こっちも着てみていいですか?」と3着くらい試着してしまった。

 どれも、とても素敵だったが、そんな高いコートを着たら緊張しそうだったので、結局買わなかったけど、いつかお金持ちになったら、ざっくりとまとめ買いしてやりますわよ。

 で、またウロウロしていたら、他の店でも「コートお探しですか?」と言われたので、「でも、なかなか予算に見合うのが・・・」と言ったら、その店員さんも感じのいい人で、さすがわニコタマであると思った。ガツガツしてないもん。
 で、なんか普通に喋っているときに私が手にとったコートが「これ、3WAYなんです」と言うので、「は?」と思ったら、別々にぶら下がっているコートが実は一着であることがわかった。一番上がウィンドブレーカーみたいな薄手のナイロン生地のコートで、インナーがダウンコートになっており、そのインナーがリバーシブルという、心ときめく複雑さ。

 思わず試着しちゃいました。羽織ったあとに「このまま上を外せるんです」とファスナーを下ろして店員さんが一番外側を脱がしてくれるのを鏡で見ていたら「わあ〜、なんか歌舞伎の着替えみたいで面白いですね」と私が呟くと「ふふふ、そうそう、早替わりみたいですよね」

 私→「歌舞伎の着替え」
 店員さん→「早替わり」

 この時点で店員さんは私に勝った。さりげなく勝ったのである。
 なので、店員さんの勝利を祝って、そのコートを買うことにした。お値段は消費税を入れて4万円ちょっと。5万円以内だと思っていたので、予算内である。それで、3種類のコートを楽しめるので、安い買い物だったといえよう。

 さて、慣れないデパートでの買い物で、かなりドーパミンが出たし、接客が一流なニコタマの店員に慣れてきたし、買い物袋をぶら下げていると、さっきまで私の姿を上下くまなく観察し「冷やかしだな」と思っていた店員たちの態度も違うだろうと思って(私を暖かく無視してくれた、KENZOのオバサン店員さんは実にプロフェッショナルで逆に気持ちよかった。でも、ちゃんと「いらっしゃいませ」と声はかけてくれたし、私がニッコリと「冷やかしっちゅうか、こういうのは美術品だと思ってます」な笑顔光線を投げかけると、やはりニッコリと「重々承知ですとも。でも、お嬢様がうっかり玉の輿に乗られたりしたら、買っていただいても構いませんのよ」な笑顔光線で返してくれた。楽しかった。ああいうデキた店員さんばかりだと、買い物も楽しい。何も買わなくても)その後も、ブラブラしちまった。

 しっかし、今をときめく「セレクト・ショップ」ちゅうのは、なんであんなに高いんですかね。「BEAMS」って言うと、なんとなく「ジーンズ・メートの親戚」をイメージしてしまう私は(物を知らなくてすいません)、マフラーひとつでも数万円するのに越し抜かしちゃいますよ。似たような物でも、ブランド・ショップのほうが断然安いんだもん。
 ザ・ギンザは、デザインが奇抜なので観光にはいいのだが、「BEAMS」とか「ユナイテッド・アローズ」は見かけよりも高級店なので怖い。

 土曜日の丸井でコムサ(イズムじゃないほうね)の店員に引っ付かれて困ったが、プリーツのスカートで素敵なのがあったんだけど「29000円」はちょっとなあ、と思ったのだが、高島屋に入っているセレクトショップを冷やかしていると、「あのスカート、安かったかも」と思えてくる。

 で、結局、本屋に寄って〆ることにしたのだが、ふと「サザビー」が入っているのが目にとまり「そういや、今使っているサザビーのリュックは相当ボロになったし」と思って寄ってみたら、リュックだけどドレッシーで且つ機能的なデザインが数点あって、店員の説明を真剣に拝聴。店員さんにも「今、背負ってるのがボロになったんで〜、でも、サザビーのリュックってボロくなっても壊れないんですよ」と言うと、向こうもなんか嬉しそうで、若い女の子だったけどちゃんとしっくりと話ができたので、何個か試着(?)したカバンの中の一つを気持ちよく買って帰った。

 これで、しばらく買い物に行かなくても済むかな。
 ああ、あと、化粧品を買わないといけないのだな。パウダーがもうなくなりそうだ。前から買っていたパウダーを扱ってたお店が三茶から撤退してしまったので、どこに行けばあるのだろう。

 なんだか買い物ハイになって書き殴ってしまった。
 デパートに行ってテンションあがってしまう自分と、今読んでいる「レナードの朝」で、パーキンソン症患者がLドーパ処方されてどんな顛末になったかの話がとても重なり、他人事と思えないのであった。
 自分の欲望と、それを受け入れてくれる受け皿のバランスがとれないと、たしかに困るよな。

12月7日(日)

 出勤。
 きょうみさんちのご子息も「算数セット」を購入されられたらしい。今だに健在だったのね。
 それで「名前を書くのが大変だった」そうだが、そういや私の時も「部品にも名前を書くように」と言われたので、両親総出で名前を書いていたような気がする。とにかく、パーツが多いので、名前を書くのも一苦労だったが、昨日書いた「点数棒」にも名前を書くのかどうかで迷っていた。
 結局書いたんだっけな?覚えてないが、一本一本ちゃんと書いていた生徒(というか親)がいた記憶はある。

 それでまた芋づる式記憶術なのだが、確かに小学生のときには何にでも名前を書かなくてはならなかったので、名前書き用のマジックペンは家庭の必需品だった。
 えっと、あれって、たしか「さくら」とか言ったよな。えっと、それはメーカー名なのか、製品名なのか・・・・芋づる式記憶術の欠点は時々このように蔓が地中でちぎれてしまうことである。

 そういうときは、グーグル様にお伺いをたてようと、さっそく検索してみたが、「さくら マジック」だと、なんだか違う雰囲気だ。

 うーむ、と色々キーワードを入れてみたが、「さくら」と言う言葉が一般的すぎるので、なかなかヒットしない。「さくら」じゃなかったっけなあ。
 そういや「?」のついたマジックインクもあったなあ。超なつかし〜
 あれって、どこの製品だったのだろう。探してみたら、なんと内田洋行の商標登録だった。へえ〜

 で、製造は「ギターペイント」の会社だって。ああ、なんだか古いお友達がたくさん登場するので、涙ちょちょ切れる。
 しかし、なかなか「さくら」の製品が見つからず、しばらくさまよったが、やっと「サクラ クレパス」という会社だとわかる。

 そして、探していた古いお友達は「サクラ マイネーム」だった。昔もこの名前だったか覚えていないが、デザインは少し変わっているけど、あの横じまは同じだ。

 しかし、「サクラ クレパス」の商品をぼんやり閲覧していると、「くれよん」や「くれぱす」も箱のデザインに見覚えがあり(多少変わっているような気もするけど)懐かしいが、すっかり忘れていたお友達発見!「クーピーペンシル」だ!

 その斬新なデザインに、すっかり夢中になり、どうしても欲しくて欲しくて、やっと買ってもらった記憶がある。

 たぶん、多くの人がそうだったと思うけど、色鉛筆でも絵の具でも、お金持ちの子は「24色」などを所有していたので、かなり羨ましかった。虹色にグラデーションさせると本当に美しかったなあ。

 私が24色の色鉛筆を手にいれたのは自力だったような気がする。高校だか大学のときのバイト代で買ったのだ。うれしくて、うれしくて、とても大事に使っていた。
 そして、大きな文房具屋のショーウィンドウに並んでいた、36色とか48色の色鉛筆(すげ〜高価だった)を眺めては幸せな気分になったものだ。「いつか、これを買ってやる」と思っていたんだけど、そんなことすっかり忘れてたなあ。

 あと、もの凄く欲しかったんだけど、高くて買えなかったのが「ホルベインの透明水彩絵の具」である。
 「サクラ絵の具」の発色もなかなかだったけど、「ホルベイン」はそれを上回る発色らしいとの噂だった。漫画家が「使っている絵の具」でまっさきに挙げていたのもホルベイン。

 だが、あまりにも憧れていたので、とうとう自分では買えなかったのだが、あるとき変なところで入手してしまった。
 CM制作会社で仕事していたときに、絵コンテの制作で急に絵の具が必要になり、すぐ隣にあった「ラピス」という文具店(現在は六本木ヒルズに入っているようだが、当時、その周辺では最もプロ御用達の文具屋で、「青山ブックセンター」と並んで麻布や表参道に事務所を持つデザイナーさんや、広告関係の会社スタッフにとって、なくてはならないお店であった)に買いにやらされた。(当時、CM制作部の使い走りだったのである)

 CMというのは、制作費がデカいし、なんてったってバブルまっさかりの時代。そんな消耗品をケチることは「悪」とみなされていたので、PM(プロダクション マネージャー。ADみたいなもん)から現金を預かった私は、「会社の金で画材をしこたま買える」という幸運にめまいがした。
 迷わずに、24色のホルベインの水彩絵の具を買い、あとは絵筆とパレットと筆洗いなどは、ざっとよさそうなものを選んで「領収書ください」と清算して終わり。気持ちよかった。大学のときにも、絵画サークルにいたので、画材を買うことはあったが、いつも「世界堂」でバーゲン品を選んだり、絵の具だってセットじゃなくて、必要なものだけをそれも安いものだけを(油彩絵の具は、色によってかなり値段が違う。アロマオイルみたいに、原材料が希少だと高い)せこせこ買っていたのだ。

 そんな高級絵の具を買っても、結局何に使ったかというと、企画屋さんが作ったプレゼン用絵コンテがちょっと華がなかたので、背景にちょちょっと彩色しただけだった。そして、ホルベインの絵の具は「そのうちまた使うだろう」と会社の棚に保管された。

 それからしばらくして、オフィスの棚を大掃除したときに、不要品をたくさん処分して、撮影で一回だけ使った買取の洋品がたくさん出てきて、「欲しい人〜〜〜」と配ったのだが、その中に「ホルベインの絵の具」も出ていた。
 他に欲しがる人もいなかったので、私の物になった。私が選んだ絵筆やパレットもついてきた。

 うれしくなって、家で久々にスケッチブックを広げて、その発色の美しさを堪能したのだが、でもホルベインの絵の具はその色自体があまりにも美しすぎて、逆に個性が無くなることに気が付いた。なんとなく、描く絵が全部「いわさき ちひろ」になっちゃうのである。あれくらい画力(線描力)があればいいのだが、なまくらなスケッチの下絵に絵の具を重ねると、自分の絵がどうのこうのよりも、発色の美しさでそれなりの絵になってしまうのだ。

 それに気が付いたので、凝った下絵はあきらめて、定規で升目をひいて、その中を塗りつぶすだけでも十分だった。
 失業中は暇だったので、カレンダーの裏に升目をひいて、その中を微妙に変化する色で埋める作業を一週間くらいやっていた。そのころは、すっかりホルベイン中毒になっていたので、毎日のように、色を塗っていたのである。びょーき。

 そのちょっと前に「色鉛筆ブーム」があったような気がする。癒し系という言葉がまだなかったが、36色の色鉛筆を眺めているだけで癒されるという人は意外と多かったらしい。
 CMの仕事をしていたときに、会社に常備されていた色見本も大好きだった。ミシン目がついていて、色指定をするときには、それを千切って貼り付けておくのだ。
 「浅黄色」などがある、「日本の色」という色見本もあって、あれも好きでよく眺めていたなあ。その後、それも、「癒し系グッズ」として売れたらしいが、わかるなあ。あれ眺めているだけで、飽きないもん。

 今でも、HTMLの色指定見本などを見ると、妙に興奮してしまう。
 そういう人は私だけではないはずだ。

 話は戻るけど、久しぶりに「クレヨン」とか「クレパス」の姿を拝見して、「ああ、でかい紙にクレヨンで思いっきり落書きしたいなあ」と思った。前にも、そんなことを思ってクレヨンを買ったことがあったのだが、あれは今、どこにしまってあるのだろう?実家かな、やっぱ。 

12月6日(土)

 出勤。朝は寒かった。でも、やっと昨日、暖房器具(ガスファンヒータ)を出したので、なんとか朝の寒さに耐えることができた。
 ファンヒータで思い出したが、先日のニュースに「ガソリンスタンドが灯油を買いに来た客にガソリンを売ってしまった」という事件が紹介されていて、コンビニの防犯ビデオに写っていた客の姿を頼りに、やっと探し当てて無事だったらしいけど、その客はすでに「点火」しちゃっていたらしい。でも、石油ファンヒータがときどきブスっバスっと変な爆発音を出すので不審に思って消していたらしいのだが、石油ファンヒータだとそんなもんで済むんですかね?

 石油ストーブだったら大惨事を起こしたかもしれないのか、それとも今時のそういう暖房器具はそれなりの対応がされているのか、それとも、たまたまそのメーカーだったから助かったのか、詳細を知りたいなあ。もし、そこのメーカーの仕様が優れていたのであれば、大々的に宣伝するだろうけどね。

 えっと、でも、夕方少し雨が降ったら、一気に空気がゆるんだのだが、帰りにデパートに寄って冬用のコートを物色。ダウンにするか、それともウールにするかで悩んでいるのだが、なかなか気に入った形に出会えず、「ああ、このまま、春になってしまうかも」と不安になる。もっと、ふんわりとしたAラインでフードがついているのがいいんだけどなあ。そうやって漠然としたイメージを先に持ってしまうと、なかなかいいのが見つからないのであった。
 そうこう言いつつ、数年前もあまりの寒さに耐え切れず、ユニクロのバーゲンで買った男物のコートを愛用していて、形は全然気に入ってなかったけど、そうなるともうどうでもよかったので、買うときは買うだろう。

 そんで、結局手ぶらで帰り、なんとなく物足りなかったので、駒澤大学で途中下車して、先日環七沿いを酔っ払ってさ迷い歩いていたとき(東横線で帰宅するときには、祐天寺で下車するのだが、あのあたりは道が入り組んでいるので、どうしてもすんなり三軒茶屋にたどり着かない。何度かチャレンジしているのだが、いつも泥酔状態なので、夜中の散歩を堪能するばかりである)発見した行列しているラーメン屋に寄ってみた。
 「せたが屋」というお店。たぶん、雑誌などでよく紹介されるのであろう、今日も8時ごろだったので、私はすぐに入れたのだが、食べ終わって店を出ると、10人くらい並んでいた。
 お魚風味のスープで、どっちかというと、あれで雑炊を作って家でテレビ観ながらすすっていたら極上の味ってかんじでだが、わざわざ駅から15分歩いて30分待って食べたいようなものでもなかった。

 でも、そのあと、家までとぼとぼと20分くらい歩いたのだが、歩道をほどよく埋めていた落葉が美しく、楽しいお散歩だった。

 掲示板で「木琴」の話が出たので、小学校のときの教材のことを思い出した。

●リコーダーの欺瞞

 低学年のときの音楽の教材は「木琴」→「ピアニカ」で、私の時代は丁度その切り替え時であったらしい。3歳下の弟は木琴を使用しなかっただろう。
 その「縦笛」ことリコーダーは、高学年になったときに買わされたのだと思う。
 しかし、そこで一つ問題があった。

 姉や兄がいたりする場合、リコーダーをお下がりで貰うことは当然のことながら許可されていたのだが、みんながそういうことすると業者は儲からないので、毎年ではないと思うがデザインを変更するのである。デザインというか、色を変えてしまうのだ。そうすると、他の生徒はモカ茶のリコーダーなのに、自分だけアイボリーということになる。
 そんなの気にしない子や、一人だけ違う色だというのがカッコいいと思える子は。堂々と色違いのリコーダーを使っていたのだが、多くの子供はそういうのを気にするので、お下がりが使えないことが多かったようである。

 ある友達は、「お兄ちゃんのときとお姉ちゃんのときも違う色で、私のときも全然違うのだった」と言っていて、兄弟3人がそれぞれ新しいのを買ったらしい。それほど高い値段でもないので、ご家庭によっては、そういう理由でなくても新しいのを買うだろうけど、でも、リコーダー業者の商売の上手さに子供心にも不信感を抱いたのであった。

 でも、よく考えてみれば、他の学校では「色の統一」はそれほど問題ではなかったかもしれない。
 私が通っていた小学校は、市の体育祭で発表する「マスゲーム」に命をかけており、そのマスゲームは、縦笛を演奏しつつ、縦笛も道具の一つとして活用するものであった。5,6年生が合同で行うのだが、その学年で色が白黒で分かれればいいのだが、たまたまどっちも「黒」なときに、「白」が混ざると目立ってしまうのである。
 いくら、そんなの気にしない子でも、先生に拡声器で「ほら、そこの白い笛のやつ!手がそろってないぞ!」などと度々指摘されると、めげてしまうようだった。

 結局、私のリコーダーはその後、妹や弟に引き継がれることがあったのだろうか?全然覚えてない。
 でも、中学になったら、今度は「アルト・リコーダー」という、一回り大きいのを買わされ、「やっぱり学校と業者は癒着している」という確信を抱いたのであった。いや、業者と文部省(当時)の癒着か?

●数の学習セット

 公立の小学校であったから、授業料はタダだったんだろうけど、学校指定の体操着はもちろん各自購入だったし、まあでも、そういうのはけっこう近所の年長者からお下がりで頂いたりしていたけど、教材に関してはリコーダーと同じでお下がりがきかないものも多かった。絵の具セットも買わされたし(別に学校で共同購入のものでなくてもかまわなかったのだが、子供はやっぱり皆と同じのお揃いの新品を欲しがる。私が学校購入の水彩セットよりも、母が所有しているもののほうが断然質がよいことに気が付いて、堂々とそれを学校に持って行くようになったのは中学生になってからだった)他にもけっこう買わされたのだと思う。

 でも、いまだに釈然としないのは、小学校入学時に任意で購入を勧められた「数の学習セット」である。
 裁縫箱のようなプラスチックの箱の中に、サイコロとか色のついた棒などが詰まっていた。子供に「数の概念」を教えるためのツールのようだった。
 小学校に入学する前にそれを手に入れたので、うれしくてうれしくて、「いったい、これで何を勉強するのだろう」とかなり期待していたのである。
 しかし、結局、ほとんど授業では使用しなかった。一回くらい、「1+1は2」を具象化するために使用したような気もするが、いったい何のためにあんな無駄なものを買わされたのか、とうとうわからなかった。

 でも、私個人はあのセットを使いまくったのである。
 トランプの箱を二周りくらい大きくしたプラスチックの箱の中に切断面が正方形で一片が2ミリくらいの、要するに乾麺みたいにきっちりと詰まった色のついた棒があったのである。3色あったので、多分、それらを「一の桁、十の桁、百の桁」の具象化とする教材だったのかもしれない。

 それは、トランプゲームの点数棒として大変重宝されたのである。
 前にもちらりと書いたが、私の幼ななじみSちゃんの兄貴は賭け事が大好きで、小学生のころから親に麻雀を仕込まれていたのだが、おっとりした彼の兄と違い、才気煥発でヤンチャな次男坊であった彼は、自分の妹(男2人の後に生まれた末っ子娘だったので、蝶よ花よと育てられ、幼少時の私のコンプレックスを眩しく照らしてくれた存在であった)と、その友達の私(おっとりした自分の妹に比べると、頭の回転がよく、負けず嫌い)にも、「賭け事の楽しさ」を教えこんだのである。

 主にプレイしていたのは、トランプを使用した「おいちょかぶ」である。「あらし!」とか専門用語が飛び交っていた。
 ゲームの開始時に、点数棒を等分するのだが、負けが込むと「借金」と言って、いっぱい点数棒を持っている誰かに借用証書を書いて借りるのである。私は100点くらい借金したけど、その後挽回して、借金に利子をつけて耳を揃えて返したときのカタルシスは今だになんとなく覚えているくらいだ。

 ポーカーとか、ブラックジャックもやったけど、やっぱし面白かったのは「おいちょかぶ」だった。親との駆け引きが重要なのである。Sちゃんの兄貴は3歳年上だったので、当然そういう腹芸は上手かったが、私も演技力では負けていなかったと思う。たとえ「ブタ」でも、けっこういい札が来ているように意味深にうなずき、でもそれを繰り返すと見破られてしまうので、札も「ブタ」だが表情も「ブタ」にしたり・・・・・と、賭け事の真髄は「引き」でなく、そういう駆け引きであるということを小学校低学年で習得してしまったのである。

 本来の目的とは違う使用をされたのか、それとも、あれこそが本来の目的だったのかよくわからないが、とにかく、Sちゃんの兄貴が中学生になって遊んでくれなくなってからも、私は自分の弟を仕込んで、相手させていた。その成果が実ったのか、弟は後年、理学部数学科に進学した。
 だから、点数棒は手垢まみれでボロボロになっていた。私が中学生になって、そういう遊びから足を洗い(一生分やったらしくて、その後、賭け事から遠ざかったままだ)、あるとき部屋の整理をしていて、その点数棒を見つけ、どうしようか迷ったのだが、そのときすでに私をあれだけ夢中にさせた点数棒に何の輝きも見出せず、あっさりと捨てたような気がする。

 というわけで、数の学習セットを十二分に活用したので、逆に思い出深いのだが(そういや、私らが真剣にゲームに興じる様子を見て親は「これは教育上どうなのかしら」とか言っていたこともあったが、「でも、この点棒は算数の教材だよ?」と言って諭したような気がする)他の人たちは一度も使わずに捨てたんだろうな。

 今でも、ああいう無意味なものを買わせることがあるのか知らないが、でも、たくさん「安っぽいもの」を買わされた恨みはちょっと残っている。でも、だんだんと、「皆と同じものじゃなきゃ」なところから脱却していって、実は親が所有している物のほうが「いいもの」だと気が付いていく過程は今から思い返すと、自分が自意識や絶対的な美意識を持つ「いい機会」であったような気がしなくもない。

 学校で買った習字セットよりも、母や祖母から借りた硯や筆のほうが断然「ものがいい」とわかったり、学校で買った裁縫セットに入っていた裁ちばさみよりも、家にあったハサミのほうが、断然切れ味がよかったもの。
 今から考えると、そういう規格品というか、「子供だからこんなんんでいい」という安い道具ではなく、ちゃんとした使いやすい道具を所持している母や祖母に尊敬の念が沸いたように思う。

 祖父が職人肌の人だったので、「道具には金を惜しむな」というポリシーだったらしく、うちの母はその経済的環境よりもかなり上の道具を持っていたような気がする。  そして、たとえ小学生であっても、裁ちばさみの感触で子供は自分ちの「レベル」を一瞬にして判断してしまうらしいので、お子様をお持ちのご家庭では、御一考あれ。
12月5日(金)

 昨日は、やっとAさん宅に赤ちゃんを拝見しに行った。病院にお見舞いに行ったときにはまだ新生児室にいたので、ガラス越しのご対面なだけだったのだ。
 前日の水曜日に、また大酒を飲んでいたので、昼ごろやっと起きだして電話してみたら「今日は実家にいる」とのことだったので、じゃあ実家に行こうかと思ったのだが「夕方には家に帰る」とのことだったので、K子さんにも電話して、5時半に駅に集合して、食材を買ってから訪問。

 まだ40日の乳児相手の毎日で、大変だとこぼしていたが、さすが「おかあさん」である。顔色もよく元気そう。
 でも、子供の世話でいっぱいいっぱいで、他に何もできないとこぼしていた。
 そして、どうやらダンナと育児の方法でもめているらしいのである。

 ダンナはフランス人であるので、私が勝手に想像するフランス人というのは「子供をディズニーランドに連れていくのなんてまっぴらごめんな人々」なのであるが、やっぱしダンナのOはそういう発言をするらしい。その昔よく「外人(当時、外人といえば西洋人のことだった)は子供と一緒の部屋に寝ないらしい」と言われていたが、Oもそういう考えのようで「子供は子供の部屋に寝かしておけ。多少泣いても放っておけ。そうすれば自然と一人で寝るようになる」というようなことを言うらしい。

 Aは、「3歳まで子供と十分に触れ合うことが、子供の成長には必要だ」と思っているし、それに実際に一日中一緒にいるので、すっかり一身同体になっているようで、片時もそばから離れたくないようだ。
 どっちが正しいとも言えないが、でもOの言う「もっと放っておけ」というのは、育児スタイルが云々というよりも、Aが子供べったりになってしまったのが気に入らないということが大きいのだろうと想像がつく。そもそも、Oは育児に難癖つけるほど育児に興味が無いのだ。(そもそも、他人というか人間に興味がないらしい)

 要するに、大変ありがちな話だが、赤ん坊もAだけが頼りというか、Aが世間との唯一の窓口なんだろうけど、ダンナも同じなのである。「赤ちゃんが二人いる」という話はよく聞くが、ここにもひとつありき。

 それでもOはけっこう他のダンナよりは手伝っているほうだと思うが、育児にくたびれると、赤ちゃんにも怒鳴り散らしたりするので、Aが「それだけはやめてほしい」と言うと、「そーせ、赤ちゃんなんて怒鳴られたってわからないわけだし、それよりも泣きやむようにしないと」と反撃してくるらしい。

 そういえば、昔読んだ本(フランス人と結婚したアメリカ人女性のエッセイ)では、フランス人は子供のしつけには厳しく、レストランなどで子供が騒いだりすることを許さないので、アメリカ人が子供をそういう公共の場で甘やかすのが理解不能らしいと書いてあった。そんなら日本人のクソガキどもを見たら卒倒するだろうと思ったのだが、それはいいとしても、私はあまり「子供の躾の国際比較」について考察したことがなく(あまり子供が騒いで迷惑だと思ったことがないので・・・・鈍感らしい)フランスの子供とアメリカの子供の違いについてはよくわからなかったのだが、ふと、「フランス人の犬の躾」を思い出し、電車やカフェの中を人間と同じように入っていく犬たちは、「日本の犬と血統が違うのだろうか?」というくらいよく躾られており、感激したものだが、ひょっとしてOが目指しているのって「犬の躾?」

 うーむ、でもたしか、犬の躾でも、生後すぐには始めないような気がしたが(情報源は「鉄腕DASH」)、どうやらOは犬を躾たこともなさそうだなあ。
 でも、Aは、子供を全く可愛がらないダンナの姿に不安を覚えているらしいし、そのままダンナがずっと子供に怒鳴っていたらどうしようと愚痴っていた。それで、「やっぱり子育ての方法も夫婦で一致させたいよ。それが理想」とは言うのはごもっともだけど、現実をあまりよく知らないくせに妙に現実的な私は「どんな円満な夫婦でもそれは無いと思うよ〜」

 「でも、両親の対応がバラバラだと子供がかわいそう」と言うが、でも、みんなそんなもんじゃないの?そんで、子供もそれに慣れていくはずだ。だって、バラバラなのは両親だけじゃなくて、世の中の他人は全員違う思考や志向や嗜好で生きているらしいと知る最初の機会が「両親と言えども別の人間」と感じるときではないだろうか。

   まあ、それにしても「家族になるのは簡単だけれども、それを維持していくことがいかに難しいか」というAの嘆きはごもっともである。
 でも、一歩引いて見てみると、やっぱし出産後のお母さんってそれほど大変そうにも思えない。本人が「もう、自分の時間なんて全然ない」とこぼすので、女友達としてはそれを鵜呑みにするし、ある程度、「明日はわが身かも」という気持ちがあるので、同情することができるが、外で働いているダンナにしてみれば「授乳が2時間おきだって、その間休めるわけだし、子供が3時間寝てくれればその間家事だってできるだろう。他は休めるわけじゃん」と思うだろう。

 産後の女性って体力的にも精神的にも一生のうちで最も強靭らしく、そのせいか、本人はすっかりヤツれた気になっているのに、なんか妙にツヤツヤしてるんだもん。
 ダンナのほうが、仕事に行っているのに、家では育児を手伝って、夜は夜鳴きでよく眠れないし、「こっちのほうが、よっぽどボロボロなのに、おまえは自分のほうが大変だと言い張る」と釈然としないのだろうな。

 と、一歩引いてみれば、そういうことなんだろうけど、当事者たちはそうもいかないから大変でしょう。ごくろうさまです。まあ、まだ二人とも新米なので、「子供のいる生活」のペースがつかめなくて戸惑っている様子がよくわかって興味深かった。

 赤ちゃんとAはやっぱしテレパシーで結ばれているようで、Aは「この子は人一倍カンが強い」と言って嘆くが、「それって母親似じゃん」
 Aもかなり「カンが強い」ので、クラブに行っても時々「いやな感じ」に怯えていたし、ひところは人見知りが強くて、「あの子怖い」などと言っていたくせに、数ヵ月後になぜか仲良しになっていたので「怖いって言ってなかった?」と突っ込んでみたら「でも、ちゃんと話してみたらいい子だった」などと言っているような人だったので、きっとご子息も立派な「人見知りさん」に成長するであろう。

 で、やはり育児に疲れ、ダンナとの喧嘩に疲れているときは、赤ちゃんもこの世の終わりのような泣き方をするらしい。「もう、尋常じゃないよ」と言っていたので「尋常ではない泣き方」に期待していたのだが、残念ながら昨日はとても大人しかった。Aも「あれ?今日は大人しいな。実家に行ってたりしたので、疲れてるのかも」と首をかしげていた。

 子供があまりにもムズがるので、医者に検診に行ったときに相談してみたら、えっと、なんだっけ「空気嚥下症」だかなんだかいう症状で、授乳のときに空気を飲み込んでしまう体質のようで、空気がお腹にたまるとムズがるらしく、それはもう少し成長して、嚥下がうまくできるようになれば自然と解決するらしい。
 ということをダンナに説明するのがひどく億劫だというのが、この夫婦の辛いところ。どっちも母国語でもなく、流暢でもない英語で会話しないといけないのである。ああ、考えるだけで疲れるわ。

 話は戻るが、ふと、過去に何回か出産直後の友達を見舞ったときにも、乳児たちは意外に大人しかったことを思い出した。それって、もしかすると、「育児ノイローゼぎりぎり」を渡っている母親が、友達と喋っているとリラックスしているのでピリピリした電波を飛ばさなくなるということもあるのかな?

 それで、母親が温和な電波を飛ばしていて、その原因はこのざわめき(女友達との止め処ないお喋り)にあるのかな?だとしたら、自分がむずかってこれを邪魔するよりは、このままにさせておいたほうが心地いい・・・・・と、赤ちゃんが、私らの発するハミングと母親の安定を感じ取って気を利かせてくれてるのかもしれない。

 「でも、それにしても、さっき授乳してからもう3時間・・・・4時間近くたっているのに」
 と、Aが言うので、
 「ふふふ、やっぱ、あたしって癒し系?ってゆーか、この間、自分自身を30時間も眠らせたわけだし、今の私には、その強力な眠り電波の余韻をまとっているのかも〜〜〜〜」
 「そうかも〜〜〜〜〜〜」

 むう。OLやっている場合ではないかも。「眠りシッター」とかになって、「むずがる赤ちゃんの隣に配置しておくと、赤ちゃんぐっすり」という仕事をすれば大成するかな。自分も寝てていいんだよね?眠るの仕事にするのって、私にとって「自分の一番好きなことを仕事にしました。てへ?」ってことになるから、日経ウーマンも取材に来るぞ。

 というわけで、期待していた「ご近所に、虐待していると勘違いされそうで心配な悲鳴のような凄まじい泣き声」はとうとう聞けず、「ヤフオクで落札したいものがあるから」と先にK子さんが帰ってからも、しばらく粘っていたのだが、普通の鳴き方しかしてくれなかった。
 「この〜、フランス男め〜、外面がいいぞ〜、女に囲まれてると態度違うんだな〜」
 と、つんつんと突付いてから帰りました。

 そうそう、電波の話を書いていたんだ。
 赤ちゃんがムズムズしはじめると、Aはそれに感応してソワソワしはじめます。つながってます。ほんと共鳴ってかんじ。でも、そこに私がいると、さっきまですやすや寝ているときには真っ白だった(ハーフだから色白っぽい)赤ちゃんの顔がだんだんと「お腹すいたから、泣こうかな」な赤い色に変化してきても、「私は「ほほ〜、だんだん赤くなってきたな。もう少し、ほら泣け」と平然としているので(赤ちゃんが発する電波を受信するシステムが皆無)、自分の発した電波がいつもだとダイレクトに跳ね返ってくるはずなのに(コウモリかよ)、私という謎の電波吸収体によって、いつものとおりに行かない赤ちゃんは「あれ?おかしいな」というか、ムズがりの炎を母親との共鳴によってバーーーっと燃やせないようで、ひゅるひゅるひゅるとトーンダウンして、ちょっと困っているようでした。

 おもしろいな、これ。
 もう少し大きくなったら、お留守番と称して、赤ちゃんと二人っきりになったらどうなるんだろうね。
 そういえば、私が生まれたころも、母の友達の中でも一番の豪快さんが遊びにきて、母が「じゃあ、子供を見ててね、ちょっと買い物してくる」と近所のスーパーに行ってから帰ってきて「泣かなかった?大人しくしてた?」と言うと、その友達は、
 「ああ、ちょっと泣いたけど、でも大丈夫だったわよ」

 と、言ったのだが、乳児の私の口いっぱいに、食パンが詰め込まれていたそうだ。
 母はびっくりしたようだが、その友達は変なことをしたという意識もなかったらしい。そんで、そんなことされた私も、あきらめて目を白黒させながら、黙って現実を受け入れていたらしい。
 ちなみに、母とその友達はいまだに仲良しで、そのグループ(高校のクラスメート)全員老後を迎えた今、月に一度のお食事会(食べ放題ランチらしい)が、いいストレス解消法になっているようで、母はその行事を他のなによりも優先しているのであった。
 私も子供のころは何回かその友人に会ったことがあるのだが、ここ十数年はご無沙汰しちょるので、きっと母の葬式とかに「その節は大変お世話になりました」とか言うことになるんだろうな。

 というわけで、母親の友人というものは、子供にとって「自分の電波を受信してくれない手ごわい相手」になるものなので、将来出世するためには乗り越えなくてはならない壁である。
 そういう崇高なミッションを持っているので、私は友達の子供とはいつも真剣に遊んであげているつもりなのだが、逆に遊ばれているというの事実である。
 Aのご子息も早く怪獣ごっこができるくらい大きくならないかな。ゴジラ役にはちょっと自信があるのよ。 
12月3日(水)

 かなり機嫌はよくなったが、やや失書症(というのがあるのか知らないが、「しつかきしょー」という語感が軽快でよろしい)に陥ったようで、昨晩も日記を書いていて「なんか、自分の書いていることが超つまんねー」という気分になり、そうなると「ピナ・バウシュが、だからなんなんだよ。つまんねー」ということになり、途中で放りなげて寝てしまった。

 リロちゃんとの「完全添い寝」はついに成功。
 どうも布団の中に異物が混入されると、無意識に排除しようとするらしいのだが、それを防ぐために、リロちゃんを壁側に置いておけばよいことに気が付いた。私は床に直接布団を敷いているのだが、片側は壁にくっつけてあるので、異物をそっちに置いておけば、無意識のうちに蹴り出そうとしても、蹴り出せないようだ。

 でも、やっぱり布団の中が狭くなるので、無意識のうちにもがいているらしく、朝起きると布団が腸ねん転を起こしていたので、リロちゃんとの添い寝はもうやめようと思う。

 話は変わるが、インドに3ヶ月いても、英語のほうが使い勝手がいいので、ヒンディー語は挨拶くらいしか覚えられなかったけど、旅行中に会う人たちや、公園で出会った子供たちが、私に向かっていつも同じ歌を歌ったので、そのフレーズだけ覚えてしまった。

 ♪ ぱいでし ぱいでし じゃななひ〜

 私は ♪よーでる〜 ゆ〜れいひ〜 というのも好きだし、「ひ〜〜〜〜」と言うのが口癖だったりするので、この「じゃななひ〜」も気に入っていたのだが、あるとき英語のできるインド人と喋っていて、「なんか、みんな私のこと見ると、この歌を歌ってくれるんだよね」と歌ってみせたら、それは当時上映中だった映画の挿入歌で、インドでは日本のテレビドラマの主題歌がヒットチャートを席巻するのと同じで、映画の挿入歌が流行歌となるらしかった。

 そして、その言葉の意味は「外人さん、行かないで〜」ということらしかった。なるほど、だから子供たちが私のそばに寄ってきて、「わー、外人だ、外人だ。♪外人さん、外人さん、行かないで〜」ということになったのだろう。
 というわけで、その映画の題名を教えてもらって、暇なときに観にいってみた。
 てっきり、その「行かないで〜」というのは女性のセリフだと思っていたのだが、金持ちの娘が海外旅行をしたときに知り合った現地の男と恋に落ち、でも帰らなくちゃ行けないくなったときに、男が「異国の人よ、行かないで〜」と唄って踊っていたのであった。

 で、話には聞いていた「てんこもりでトゥーマッチ」のインド映画であったが、ちゃんと観るのは初めてで、「ふーん、まあ普通のラブストーリーだな」と思っていたのだが、二人がすったもんだの末に結婚するところで、映画はやっと3分の1。ハリウッド映画だったら、そこで終わりなはずなのに、その後がとても長くて、私は「ぱいでしの歌」を確認したかっただけだったので、後半は退屈してしまい、しかも、前半のラブコメとはうってかわって、どシリアスな展開になってしまい、ぐったりしてしまったのであった。

 ま、でもその後もインド旅行中にインド人と喋っていると「インドの歌を知ってる?」なんて聞かれることも多かったので、そのたびに「♪ぱいでし ぱいでし」と唄ってみせると、けっこうウケたので、文字通りバカのひとつ覚え状態でそればかり繰り返していたので、他の言葉を全然覚えられなかったような気がする。

 その映画以外にも、もう一本やはりラブコメな映画を観たのだが、偶然というか必然というか、主演女優は同じ人だった。で、どっちも似たような設定で、主人公のお金持ち娘は、外国に行くと真っ赤なボディコンワンピースなどを着て闊歩しているのである。当然のことながら膝が丸見えの超ミニスカ。
 インドではスカートを履いている女性すら珍しく、ましてや膝上スカートなんて、絶対にありえないのに、映画の中でミニスカが横行しているのはなんでなんだろう?不謹慎だと思われないのか?と不思議だった。

 まあ、ミニスカ履いて外国の町を闊歩している女性という存在そのものがファンタジーなんだろうなあ。

12月2日(火)

 お天気良好。
 やはり、目が覚めたときに窓から日が差していると、気分が全然ちがう。快調、快調。
 北欧や東欧の人たちが、インドやタイでハメを外している気分がよくわかるわい。

 おかげさまで気分よく仕事できて、決算の最終作業である、恐怖の帳票出力を黙々とこなす。ただ帳票を出力するだけの何が恐怖かというと、大量に出力するとプリンタがすぐ紙詰まりするのである。だから余裕をもって出力して、たまにプリンタを休ませないといけないのだ。たぶん、ローラーが熱ですべりやすくなるためだろうと思うから。

 今日も、ビシバシ紙詰まったが、「まあ、明日でもいいし」と余裕かまして対処していたつもりだし、昨日からボチボチ隙間(フロアに人が少なくて誰もプリンタを使ってないとき)を縫って出力していたので、どこが詰まりやすいかも学習していたはずなのだが、ときどき予想外のところで噛んでいたりして、あっちこっちバタバタと開けているうりにヒートアップしてきて、「くっそぉ」とかと文字通り4文字言葉を呟きながら、黙々と(矛盾した表現)やっていたのである。

 無事出力も済んで、メデタシメデタシ。

 あまりプリンタを占領できないと、残業しないといけないかなあ、と思っていたのだが(私が入社したころ、この出力のために上司は徹夜したことがあった)、それほどてこずらなかったのは、やはり私が段取り上手だからであろう。ふぉふぉふぉふぉふぉふぉ

 というわけで、わりと早く帰れたので、帰りにスポーツクラブに寄って軽く運動した。またずいぶん間が空いてしまったので体慣らし。ずっと体慣らしで終わっているようだが、やらないよりはマシであろう。汗かくとすっきりするし。

 先日観た「トーク トゥ ハー」という映画の冒頭で、ダンスの舞台が流れたのだが、シミーズ・ドレス姿のオバサンダンサーがもがくように踊っているのを観て「はあ、なんかピナ・バウシュっぽいな」と思ったのだが、よく考えてみたら、自分はピナ・バウシュの舞台など観たことがなく、スチール写真などで知っているだけで、でもピナ・バウシュ本人が出演している映画(フェリーニの「そして船はゆく」)を観たことはあったが、あれ観たときにはダンサーで演出家だなんて知らなかったし、でも、あまりにも印象的な役者さんだったので後で調べたら、ダンサーだとわかって「ふーん」と思っていた程度であった。

 で、「トーク トゥ ハー」で使われていた舞台は、やはりピナ・バウシュだった。
 で、よく知りもしないのにピナ・バウシュだとわかった自分の勘や教養をひけらかしたいわけではなく、よく知りもしないのに、「ピナ・バウシュっぽい」とわかってしまうほど、ピナ・バウシュは唯一無二のものなんだなあ、ということに感心したのである。
 ま、そんで、自分が勝手に思い描いていた「ピナ・バウシュっぽいもの」というイメージが間違っていなかったこともわかったので、これからは自信を持って「これって、ピナ・バウシュっぽい」と発言することにしよう。

12月1日(月)

 頭の調子が少々おかしいのは、気候のせいだと思われる。
 だって、ずっと雨降ってて寒いし、ぜんぜんお日様が顔を出さないから、なんかこう気分がすっきりと向上しないのだ。
 ぷち寒冷鬱病らしい。

 12月になったのに、イチョウの木はまだ、まだらに緑色を残している。
 そして、やっぱり葉っぱのボリュームが圧倒的に少なくて、近所の寺にある大きなイチョウの木も、向こう側が透けて見えるくらいだ。いつも楽しみにしている黄金色のシャワーが見られなくて大変残念である。

 鬱っぽくなっているので、なにもかも面白くない。二日間、自分の中に閉じこもっていたので、全然ニュースも観てなかった。テレビを全然観ていなかったのだ。こういうときも珍しい。わりとダラダラつけっ放しにしているので。

 昨日も、映画を観にいってから一応感想を書こうとしたのだが、全然ノれなくて、さっさと諦めて早く寝たのだが、前日まであまりにも寝すぎていたので、なかなか寝付けず、たわむれに部屋に転がっている「リロちゃん」(フルネームは「イルカのジョーンズ リローデッド」)を抱いて寝てみることにした。
 みっちりとしたタオル地でできているので、なかなか抱き心地がよく、中身もむっちりと詰まっているので、寝返りを打ったときに寄りかかると、それなりに寄りかかり甲斐があり、「お、添い寝するのには、なかなかいーじゃん」と思ったのだが、不規則な睡眠が災いして、夜中の3時ごろ目が覚めてしまい、ふと「あれ?リロちゃんは?」と探したら、思いっきり布団の外に転がっていた。布団から追い出してしまったらしい。

 薄闇の中、白い腹を上にして転がっているイルカを観て、しばらくドヨーンとなったが、気を取り直してもう一回抱きかかえて寝てみたが、朝目が覚めると、やはり外に投げ出されていた。どよーん。

 やはり、少し太陽光線に当たらないと、この気分は治らないと思われ。
 それでも夕方、オリバー・サックスの「妻を帽子とまちがえた男」の後半を読んでいたら、かなり気分は上昇したというか、感情が戻ってきたようだ。素数で会話する双子の兄弟の話とかで、ちょっと明るくなってきた。

 がんばって、家に帰って放置してあったメールに返事を書いたら、また電池切れ。眠くなってきた。
 くどいけど、明日天気になってくれれば、もうちょっと浮上できると思う。もっと光を
 今夜はリロちゃんと完全添い寝を目指して、がんばって寝よう。
 イルカのジョーンズが助けてくれるのではないか、と密かに目論んでいるのだが、蹴飛ばして追い出しちゃダメだかんね。
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