可燃物な日々

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10月15日(火)

 眠い。
 会社でも眠かったので、銀行に行ったついでに、コンビニで「青汁豆乳」を買ってみたが、これが思った通り、本当に不味くて、ちょっとだけ目が覚めた。
 そして、粉末の「ウコン」をお湯にとかしてみたら、さらに目が覚めた。青汁にしても、ウコンにしても、その苦さで一瞬だけ目が覚める。

 仕事も「決算前の第一の山」を超えたので、定時にさっさと帰り、スポーツクラブに寄って、1時間ばかし運動してから、急いでシャワーを浴びて、「トリビアの泉」を観た。ガリーの息子の名前が「クワタ」だというのは有名な話だと思っていたのだが・・・・
 それよりも、ガリクソンが巨人にいたのなんて、ついこの間のことのように思えるが、その当時に生まれた子どもがもう15歳っちゅうのが「へえ〜」を通り越して「ええええ?」であった。

 私が中学生くらいのころ、うちの母は「最近の巨人は知ってる選手がいなくてつまらない」と言っていて、母が馴染みのある現役選手は王と張本くらいだったらしいが、私も中学〜大学くらいまでは、それなりにプロ野球に興味があったんだけど、そのころのスター選手は軒並み監督やコーチになっちゃったしな。
 そんな私はSMAPの仲居君が「ミヤーンの物まね」をするのが好きだったりする。

 それで思い出したが、大学生のときにサークルで「ニックネームをつけよう」という酒飲み話になり、「ミヤノはなんて呼ばれたい?」と言われたのだが、それまではずっと友達には「のんちゃん」と呼ばれていたのだが、それだと当たり前すぎるので、「うーむ」と考えて、「じゃあ、ミーヤンって呼んで」と言ったら、その場にいた半数に「ミヤーン?あの助っ人外人の?」と言われた。
 その当時でも、すでにミヤーンは過去の人だったのだが、でも皆が知っている「変な名前の外人」だったようだ。
 ちなみに、私はその当時、アンアンなんかで活躍していた出稼ぎ外人モデル「ミーアン」の切り抜きを集めていたくらいファンだったので、それにちなんだつもりだったのであるが、そう説明しても誰も聞いてくれず「そうか、ミヤーンか、いいんじゃない?」と満場一致で可決されたが、「ミヤーン」と発音しにくかったので、めでたく「ミーヤン」と呼ばれていたのであった。

 と、「トリビアの泉」を観て、個人的なトリビアまで引っ張れたので、今日はもう寝よう。
 やっと明日は天気がいいようなので、今日は沢山洗濯した。

 そういえば、昼間地震がありました。
 けっこう揺れたので、地震嫌いな人は大騒ぎしていたが、会社がある区域は地盤が緩いようで、あそこは「震度+1」くらい揺れるのである。気象庁発表の震度は3だったけど、4弱くらい揺れた気がした。
 騒いでいる約1名を除いては皆わりと冷静で、タバコ吸っていた上司は、彼女に「なんで、こんなときにタバコ吸ってられんの?」と問い詰められていたが、クララは揺れの中でも悠然とプリンを食べていた。
 ちなみに私は「さーて、いよいよ、富士山噴火かなあ?」と言って盛り上げていた。

 だってねー、どうしようもないもんなー。いざとなったら机の下に身を隠すくらいしかやりようがないんだもん。せめて非常口くらい開けに行ったほうが良かったかしら?
 次回からはそうしてみよう。なんかちゃんとやった気がしそうだし。一応、安全管理を担う総務部だし。
10月14日(火)

 ケガや腰痛で泣かされたが(と書くと、まるで一流スポーツ選手のようである)、やっとスポーツクラブ復帰。
 クラブに置いてある雑誌を読みながら、ガシガシとエアロバイクを漕いでいたのだが、映画雑誌の「PREMIERE」の「キル・ビル」特集を読んでいたら、主演女優は「ウマ・サーマン」になっていた。あれ?昔は「ユマ・サーマン」って表記じゃなかった?
 ためしに検索してみたら、やっぱ「ユマ」のほうが「ウマ」よりも2桁多くヒットしていた。
 なんか、その昔、某音楽雑誌が「和製英語なバンド名表記」を嫌ったようで、「ポリース」などと表記して、ロッキンオンにバカにされていたが、アメリカ人は「ウマ」って発音するんでしょうかね?
 でも、なんか今更、そいうことされても、なんか「馬」みたいだし、2ちゃん用語を思い出させるので、なんかなー。

 まあ、その昔、レーガンが大統領になったときに、日本のメディアは「リーガン」と表記したのだが、すぐに「レーガン」で統一されたということもあったので、こういうのってなかなかややこしいとは思うし、どっちにしろ、完璧にカタカナで表すことはできないのだが。ルーシー・ルウも、ルーだったりリューだったりするし、もっとややこしいのは、クリストファー・ランベールなのかランバートなのか?とか、日本の場合、たとえウッディ・アレンの映画の中で「これからボルジェスのインタビューなの」と言うセリフがあっても、字幕では「ボルヘス」にしないといけないし、「なるべく、その人の出身地読み」を採用するようだが、でも英語の名前でも、「DURAN DURAN」は「デュラン デュラン」「ドゥラン ドゥラン」「ジュラン ジュラン」と英米人は好き勝手に発音していた。(ちなみに本人たちは「ジュラン ジュラン」と発音していた)

 さて、昨日は眠くてとっとと寝てしまったのだが、12時に電話が鳴って目が覚めたが、私があまりにも眠そうな声を出したらしく、「ごめん、また電話する」とすぐに切られたのだが、その後、またトロトロと眠りに戻ると、今度は「キャーーーー」という女性の悲鳴で目が覚めて、「なんだろう?」とドキドキと耳を凝らした・・・じゃなくて、耳を澄ましていたのだが、シーンとしていたので、寝ぼけていたので夢だったのか、それともホントに悲鳴だったのかとうとうわからず。

 で、昨日捕獲した子供の話。
 朝、会社の前の通りを3歳くらいの女の子が歩いていた。一人で。
 別に一人で歩いていてもいいのだが、近隣はあまり住宅街ではないので、子供はあまりいないはずの地域である。ただ、近くに小さな「観光スポット」があるために、昨日のような祭日には「大きな観光スポットに行く財力のない」人たちがけっこう押し寄せるので、わりと家族連れが多くなる。

 でも、その女の子の前後左右には大人の姿がなかった。
 「迷子かな?」と思ったので、一応、こういうご時世というか、連日ニュースで「幼児連れ去り事件」などが報道されているので、こういうときに一声かけておくのが大人の義務であろうと思って、「どうして一人で歩いてるの?パパかママは?」と一声かけてみたのだが、思い切り無視された。

 まあ、たぶん、こういうご時世なので、「知らない人に声かけられても」と厳しく教育されているのであろう。でも、顔を見てみると、顔つきもしっかりているので、せめて「パパは向こうにいるの」くらい反応してもいいだろう。もしくは「はじめてのおつかいなの」とか。
 でも、なんか目つきが泳いでいて、不審なかんじがしたので、「これは親とはぐれてテンパっているのでは?」と思ったし、テンパった子供がうろうろして道路に出てしまうのも心配だったので、その子の前に立ち塞がり、ちゃんと腰を下ろして目線を同じにして「どうしたの?ここまで、誰と来たの?パパやママは?」と優しく話し掛けたつもりなのだが、全く無反応。私と目を合わせないように必死の様子。
 とほほ、信用してもらえないようだ。まあ、あっさり信用されるのも心配だけど、でも嘘でもいいから、なんか言ってよね、と思いつつ、「おうちはどこなの?」「車で来たの?それとも電車?」「今日はここに何しに来たのかな?」と、質問していたのだが、そのうち、背後に母親が現れ(どっから現れたのだろう?背後の方向の歩道はまったく無人で、角までは50メートル以上あり、その途中はオフィスビルが並んでいるだけなのだ)「○○ちゃん?」と声をかけたので、私がパっと振り向くと、子供は無表情というか、やや脅えた表情のまま、母親のほうに手を差し伸べた。
 私は慌てて「あの・・・一人で歩いているから心配で、声かけてたんですが・・・」とシドロモドロだったのだが、母親もそんな私に何も言わず、その子を連れていってしまった。

 クスン・・・・あたし、そんなに不審だったかしら・・・・・

 まあ、たぶん、あのお母さんはテクテク歩いてしまったら、角を曲がったところで娘がいないことに気がついて、慌てて戻ってきたら、娘はなんか知らないお姉さんに話し掛けられていたので、「もー、あの子ったらしょーがないわねー」ってだけだったのかもしれないけどさ。
 わりと「人相」には自信があるので、こっちがコミュニケーションとろうとしても、ああいう扱い受けると自信なくすんです。

 気を取り直して別の話題。
 いつも楽しみにしている、田崎センセーの「日々の雑感的なもの 」であるが、今日の雑感には一言だけ(で済むわきゃーないが)言いたい。

 いえ、別に「そんなの間違ってる!」とケンカ売りたいわけじゃなくて、たしかに「役所や病院も土日に営業しろ」という意見を言う人は多いのはわかっているのですが、そのたびに小さい声で反論しているのですが、いつもボコボコにされているので、そっちが正論であることは体で覚えたのでありますが、でも消極的な意見として一言。

 たしかに役所とサラリーマンの出勤日や時間がかぶるので、不便は不便なのですが、でも私が改善してほしいと思うのは、役所のほうではなくて、「役所行くって言えば、簡単に仕事が休みにできたり、それが無理でも半休とるのが当たり前の会社になってほしい」ということです。
 それよりも役所に転居届や婚姻届出すために、わざわざ有給休暇をとらなくても、「役所行くから」と言えば、たとえば電車の遅延証明みたいに「出勤扱いにしろよ、会社」と思うのです。だって、役所行くことなんて、年に何度もないじゃないですか。それに市民の義務として届け出に行くのだから、アメリカの「陪審員になったら出勤扱い」(なのか?たしかそうだと聞いた)と同じにしてくれたっていいと思うのです。
 だいたい、つい最近、私が会社を午前中だけ休んで(というかフレックスなのだが)役所に行ったのは、会社の入社書類で住民票が必要だったからなんですよ?なんでそれが勤務時間扱いにならない!

 それに営利目的で夜中まで開くようなスーパーや本屋はいいとしても、役所を年がら年中開けたら、その分、経費がかかっちゃうじゃないですか。私が勤めている会社は、365日ほとんど「休業日」の無い会社なので、電気代が異常に高い。たとえ、そのフロアに社員が一人しか出勤してなくても、トイレや給湯室の電気もつけっ放しなわけで、もちろん「節電」をうたえばいいのですが、でも、私も日曜にフロアで一人っきりのときに、「もったいない」からそうしてみたんだけど、とても寂しいので、ついつい電気つけちゃうんですよ。

 まあ、とにかく、私が求めているのは「役所や銀行や医者が土日も営業している便利な社会」ではなくて、「役所や銀行や医者に平日の勤務中でも気楽に会社を抜け出して行ける会社」なのです。
 昔勤めていた会社は、30人くらいしか社員がいなかったので、かなりその辺が「なーなー」になっていて、そもそも有給とか半休という概念がなかったので、皆気軽に「病院行くから少し遅くなります」とか言って遅刻してました。そんで、勤務中でも近所の歯科医に行くのもOKだったし、「今日はコンサートだから早めに帰るね」というのもOKだったので、他の普通の会社がそうじゃないことを知って、とても悲しくなりました。
 もちろん、小規模な会社だと、ちゃんと仕事してないとすぐにわかりますから、そういう意味で「家族的」な会社だったんですけど・・・・それに、休んだからと言って有給だ減給だとは言わないかわりに、どんなに残業しても残業手当もなかったけど。

 なので、「役所や医者の営業時間拡大」よりも、「ああ、あのユルかった会社が懐かしい」と思うのでした。
 
10月13日(月)

 ハッピーマンデーの祝日なのであるが、いくら祝日が増えようと休みが増えない我が社であった。
 なので、総務部は8人中、5人出勤していたのであるが、隣りの部署は、土曜日に出勤した人が多かったので、今日は誰もいなかった。

 仕事はそれなりにあったので、サクサクとやっていたし、ハイジに先週発覚したミスを指摘すると、その中の一件はクララのミスであったことが発覚。ハイジが依頼されたのだが、ハイジはクララに確認して営業部に連絡したらしい。「でも、なんで入金確認ができなかったのだろう・・・」と言ってみたが、ハイジは「そんなのわかりません」、クララは「・・・・・なんでだろう・・・・」といいうわけで、二人とも、それがいつの話なのかも覚えてない様子だった。
 入金確認してきた営業部の人も、けっこうオッチョコチョイなので、いったいどうしてこういうことになったのかは、「羅生門」状態になるかもしれないので、これ以上、原因究明をするのはやめておく。

 そんな感じで、ハイジに売上予想のやり方を教えたりしていたのだが、昼ご飯を買いに出ると、パラパラと雨が降ってきたので「ああ、天気予報の通りだな」と思っていたのだが、1時を過ぎると雨が激しくなってきて、風も強くなってきた。そして、しばらくして窓の外を見ると、外は真っ暗。そして、夕立のような激しい雨が、バラバラと音をたてて窓に叩きつけていた。

 「うわ〜すごいね」なんて喋っているうちに、だんだん仕事する気がなくなってきて、3時くらいに雨もすっきり上がって晴れ間が見えると、モーレツに眠くなってきて「雨もやんだし、も〜帰りて〜」
 電話も鳴らないし、客も来ないので、退屈。

 さて、6時きっかりに会社を後にして、さっさと帰ってきたのだが(アパートの入口が雨で水浸しだった)、眠気はまだ継続中。
 もう、自分ちだから、いつ寝てもいいので、もう寝ちゃおうかな。午後8時。

 ええと、なんか書き留めておくことが他にあったような。そうだ、朝、迷子っぽい子供を捕獲したんだ・・・でも迷子ではなかったらしい。詳細は気が向いたら。
10月12日(日)

 お神輿やお囃子の音で目が覚める。12時くらいだった。
 掃除洗濯しながらゴロゴロしていると(かなり誤魔化しが入っている書き方。「ゴロゴロしながら洗濯機を回し、ときどき思い出したように掃除」というのが真実に近い表現)お神輿が次々にやってくる。
 そして、境内でも派手な太鼓が鳴り響くが、これがけっこうテクノ・ビートというか、その元ネタというか、タイコというのは、世界中に広まっていし、材料や形に多少違いがあれど、それほど違いはないのだが、民族や地域によって、多少リズムの取りかたが違うので、西洋ポップス界では、自分でオリジナルのリズムを作り上げるよりも、「世界中から音源を集めて、よさそうなのをパクる」ということに長年専心してきたので・・・・って、それって、製薬会社がアマゾンの奥地を探検して植物のサンプルかき集めて「効く成分」を探したりするのに似た作業だな。

 それはいいとしても、特にテクノやハウスなどの歌唱力や演奏力などと無縁の打ち込み&サンプリング業界では、元ネタ収集の能力だけでも、けっこういい線いけるので、今までにもアフリカや南米やイスラム世界などが発掘しまくられていて、その都度「流行」があるのだけれど(ファッション業界と同じだ)、日本の「和ビート」は使い方が難しいらしくて、あまりそれで成功した曲がないような気がする。

 でも、たまに、日本的なお祭リズムを取り入れる曲もあるのだが、でもそのまんまじゃ使えないので、西洋人のアレンジが加わったりしているのだが、さっき聴こえた太鼓の音は、どっちかというと、「西洋人がサンプリングして作った和太鼓のリズム」のようであった。昔はどうだったのか知らないけど、私が知る限りでは、日本の太鼓の演奏っていうのは、「踊らせる」ものではなくて、腕を組んで眺めながら「おお、すごい迫力だ」なんていう鑑賞態度が求められる。ダンス音楽というよりは、クラシックの交響曲みたいな扱い。
 盆踊りでは、太鼓が鳴るけど、あれも炭坑節や東京音頭がレコードで流れるのの盛り上げ役ってかんじ。

 たぶん、さっき太鼓を叩いていた人は、わりと若い人で、最近流行のアフリカン・ドラム(渋谷や新宿あたりの路上でもよく叩いています)のような「単調なんだけど、エモーショナル」なものというか、ミニマルビートの魅力っていうのを知っている人だと思った。

 それに比べると、お囃子の音は、ちょっと笛が唄いすぎかなあ。ジョン・ルーリーっぽいと言えなくもないが、放っておくとどこまで行ってしまうのかわからないフリー・ジャズの音に比べると、お囃子の笛は、フラフラと彷徨ってはいるけれど、決して教室を出ない問題児のような安心感があるが、その安心感が窮屈に感じることもある。

 などと、せっかくすぐ近所でお祭りをやっているというのに、引き篭もって、流れてくる音に変な薀蓄、とも言えないシロモノなので「感想文」をちんたら綴っているのも暗いし、お腹も空いてきたので、外に出てみたが、やっぱり雑踏を通り抜ける気がしなかったので、回り道して駅前まで出て、なんか食べようとしたのだが、その途中に開店したばかりのお店があって、開店祝いで観葉植物の鉢をタダでくれるらしい。

 ちょっと足を止めると、すかさず店員がやってきて「どれでも選んでください」と言うので、じーっと眺めていたら、「店内にもございますので」というので、店内に入ってみると、そこはお店というか、葬儀屋さんであった。そんで、名前と住所等を書いてくださいと言われたので、その書類を見るとセミナーやフラワーアレンジメントの教室を開催する案内が来るらしいので、無料の鉢植え欲しさに個人情報を堂々と公開してしまいました。
 祖母の具合が不明瞭な現在、ちょっとまた葬儀屋さんが身近な存在に思えたので、パンフレットくらい送ってもらってもいいかも、と思ったのでありました。

 けっこういろんな種類の鉢植えがあったので、さんざん悩んだ末に一つ選んだのですが、この植物の名前や育て方がわからなかったので、また早速サーチ!いつもながら、インターネット万歳!であります。
 ドラセナ・サンデリアーナというのらしいです。
 カメルーン出身のようなので、やっぱし「命名:エムボマ」かしらん。でも、「三つのしもべ」の世話で手一杯なので、この子は会社に持ってこうかなと思っているのだが、家に帰って、袋から出して床に置いてみてビックリ!

 なんと、なんと、植木鉢に象の親子のプリントが!
 全部がこの模様の鉢だったのかわからないのですが、店先で見たときには全然気がつかなかったので、よろこびもひとしおです。

 おかげですっかり機嫌が良くなり、スミスかけながら、靴磨きと秋物洋服のアイロンがけをしちゃいました。
 こんな些細なことでも、家事が捗るのなら、もし、タクシーに乗ったら運転手さんが象だったりしたら、うれしくなってマンションとか買っちゃうかもしれません。(マンション購入が「家事」に入るか疑問であるが、でもどう考えても「大家事」であろう)

 「山家事」って、芝刈り(アメリカ人のお父さんが休日にやるやつじゃなくて、桃太郎のおじいさんがやるやつ)とか枝落としなんですかね?

 ところで、また話が変わりますが(そんでまた長くなる。友達との長電話のような日記を書いている今日このごろ)、先日、ベロベロに酔っ払って「せっかくだからネギを背負って闊歩してもらいたい」と掲示板に書いたところ、ついうっかり実行してしまった危篤な方(故意の変換ミス)が、いらっしゃったので、「ホッ、ホホホッー」と世界征服に一歩近づいた悪の女王のような満足感を憶えておりますが、しかし、こうして「カモネギ萌え」しているのは、絶対あたくしだけではないはずだと思って、「同好の志」を探してみたところ、やっぱりいました。

 めーりんのDGギャラリー より カモネギ

 他にも多数出てきたのでありますが、この人の描いた絵が一番私が思い描いていた「カモネギ」に近かった。
 そうそう、やっぱ縄で固定するのよね。そんで忍者の刀の背負い差しみたくなるわけよ。

 私は「カモがネギ背負ってやってきた」という言い回しを知ってから、ずっとこのような絵が頭にこびりついていて、「これを現実にやってみたい」と思っていたのです。
 一時期、「矢ガモ騒動」があり、心無い人が放った矢が刺さってしまったかわいそうなカモが連日ニュースでとりあげられたりしていましたが、そのニュースを観るたびに、「くっそ〜、矢なんて刺してる場合じゃないだろう。カモにはネギだよ、ネギ!なんでそれがわからんのか!」と怒り狂っておりました。

 上野の♪忍ぶ忍ばず〜(という枕詞が必須)忍ばすの池に行くと、池を埋め尽くす鴨さんたちの全部が「ネギを背負ってたら面白いのに・・・・」と胸に秘めた野望の実現を夢想せずにはいられません。
 しかし、矢が刺さるのと同じくらい、ネギを背負わせることもカモにとっては大迷惑なはずです。

 でも、そんなこと、悪の女王にとっては知ったこっちゃありません。101匹わんちゃんで毛皮のコート作りたかったクルエラなんとかさんと同じ心境なのです。
 それにさ、もしこの野望が実現して、上野近辺で「ネギを背負わされた可哀想なカモ」が多数出現したら、「矢ガモ」のときには「なんてひどいことをするのでしょう」と大げさに眉を八の字にして眉間にシワを寄せていたワイドショーのキャスターさんたちも、いったいどういう表情すればいいのか、かなり迷うと思うので、それを観察して楽しみたいな〜というかなり捻くれた計画なのです。

 それよりも、やっぱり、公園のベンチでボケーっとしていたら、バサバサバサっと鳥が舞い降りてきたので、ふと目をやると、それがネギを背負った鴨だったら!そんで、その鴨と目が合っちゃったりしたら!
 なんか、たとえそのときに落ち込んでいても「がんばっていれば、なんかいいこともあるかもしれない」とちょっと前向きになったりしそうだし、もしそのときに別になんの悩みもなければ、「とりあえず、宝くじを買ってみよう」くらいの気分になることでしょう。と、想像するだけで楽しいので、別に本当にやろうとは思っていないのですが・・・本当に・・・・

 などと、またお馬鹿な想像で一人遊びしていますが、最近最も「無意味な悩み」は、書店やビデオ店の前にドーンと置いてある「マトリックス・リローデッド」の等身大な広告看板を観るつけ、「うーん、おかしいなあ。どうして同じ人間なのに、私とモニカ・ベルッチはこんなに違うのだろう?」と「人類は皆平等です」という言葉の欺瞞について考えさせられるのであるが、まあ妄想ついでに、もし斧を池に落としたら池の女神様が現れて「あなたの落としたのは、金の斧ですか?銀の斧ですか?それとも鉄の斧ですか?」ときいてくれたら、「いや、落としたのはモニカ・ベルッチです」って言って捕獲して、ブラック・ジャック先生にお願いして脳移植手術してもらおーっと。

 と、考えていたのであるが、よくよく調べていみると、モニカは私より2歳下なだけ・・・・・
 「うーん、髪の色も黒で同じなのになあ」(←それがどうした)
 「スリーサイズの2/3は、そう大差ないのになあ」(←あちらは身長があるので、その補正をしなくて、そのまんまで比較すればBとHの数値はそれほど変わりないような気がするのだが、問題はWである)

 と、無意味な比較をして、玉砕していたのであるが、まあ「石」と「宝石」の差ってこういうもんなんでしょうね。「多摩川の砂利石」と「イタリアの宝石」を比べたってねえ。

 お祭りは終わって、あたりはすっかり静かになり、ガランガコンと縁日の屋台を分解する音が微かに聴こえた。また来年お会いしましょう。
 結局、縁日では何も買わなかったであるが、代わりに神社にお参りして、500円玉を賽銭箱に投げた。
 私がこの神社にお賽銭をフンパツするのは宗教的な意味ではなく「緑のメンテナンス料」のつもりである。
 ここ最近は、神社の木から大量にドングリが道に落ちていて、それを車やバイクが轢き潰すので(「挽き潰す」のほうがいいのかな)、毎朝その状況を眺めながら、

 ♪ どんぐり コロコロ どんぐり粉〜

 と、頭の中でリフレインしていると、とても楽しい気分になるのである。
10月11日(土)

 三連休なんだ、へえ〜〜〜〜〜。(どーせ、今日も月曜も出勤よっ)

 最近は土曜日出勤すると、社長室やミーティング・ルームの掃除に勤しんで、小間使い気質を発散したあとには、ゆっくり新聞を読んだり、ゆっくりネットサーフして時間潰ししていたのだが、さすがに決算が迫ってきたので、小間使い気質や「休日の濡れ落ち葉なオトーサン気質」には、出現をご遠慮いただいて、ちゃんと仕事してました。

 9月の売掛金残高を合わせてみたら、なんか全然違うので(1500万円くらい)、「あり?8月まではバッチリ合っていたのに・・・・」と遡って調べたら、少し前に6月分のが違っていたので、クララに修正を命じたのだが、それは「20万円くらい違っている」ものだったのに、クララがエクセルのサマリー拾うところを間違えていたようで、1500万円も少なくなっていたのであった。

 その原因究明に1時間もかかってしまったわい。
 あと、またハイジのミスも発覚し、それも直していたので「あいつら〜〜〜」と思ったが、こうしてミスを発見して修正する技があるから、私は彼らより多少いい給料を貰っているはずなので(でも、ハイジは私が契約社員のときに採用されているので、社員番号は彼のほうが若いので、私が「主任」になって2つスキップする前までは職能階級はハイジのほうが上だったと思われ)「まあ、しゃーねーな。こういうミスをしないような技をあいつらに叩き込むのが私のお仕事」と割り切っているのであった。

 なんてったって、私はOL生活15年超なのである。
 私が働き出したころ生まれた子どもはもう高校生よ?

 さて、昨日くらいから、うちの近所には、縁日の準備である「配線」が整っていた。「そうか、秋のお祭りか」と思いながら、今朝も出勤したのだが、そんなことすっかり忘れて、スーパーで買い物してから帰ろうとすると、400メートルくらいの道にはぎっしりと縁日が立ち並び、ちょうど夕飯どきであるので、屋台で食べ物を買う人たちで溢れかえっていて、渋滞していた。

 小さな神社のお祭りなのだが、それでも、近隣に路駐されている自転車の数の多さに「みんな遠くからもやってくるんだなあ」としみじみ。
 そして、暇そうな若者たちも集まってくるので、観察していると、とても面白いのだ。
 まだ、縁日に突入する前の人通りも少ない裏道で、私のすぐ後ろを歩いていた女の子二人組みは「甲高い声&早口」の小学生の女の子にありがちな発生で、声だけきいていても「かっわい〜」ので、こういういたいけな女子をラガーマンのごとく小脇に抱えてダッシュしてしまいたくなる「大きなお兄さん」の気持ちがちょっとだけわかる。
 しかも、幼い会話なのだが、内容はけっこうマセているので、前を歩いている「大きなお姉さん」は「もーたまらん」ってかんじだ。

 「あたし今日ちょっと風邪ぎみだから声がかすれちゃって」
 「でも、○○さんの声って、かすれてもちょっとハスキーっぽくていいな。私だともっとガラガラになっちゃう」

 これを聴いて、「こいつら、何歳くらいなんだ?」と思って、チラリと振り返ってみたが、どう見ても4年生くらい。でも、前にも、私より少し年上の上司と飲んでいたときに「男の子供は単なるガキだけど、女の子って、たとえ3歳でも女なんだよな〜 」なんて言っていたが、たしかに10歳と30歳と60歳の女性の会話を並べても、声質が違うだけで、こうしてテキストに落とすと全部同じである。

 などと、4年生女児の会話を楽しく拝聴していたのだが、片方の携帯にメールが入った。
 「あ、○○からだ・・・・えっと、『今日はどうもありがとう。○○さんってとても元気に唄うので、とても楽しかったです』・・・うわぁ、きもちわるい」

 どうやら、男子からのメールのようで、それを堂々と読み上げちゃうあたりも「女っていくつになっても」であるが、その後、二人はその男子が「いかにキモいか」について、キャピキャピと語り合っており、私はその筆まめな「キモい男子」に深く同情してしまいました。

 そのあと、縁日の通りに突入したのですが、若いカップルが「もう、こんな時間だし、なんか食べるぅ?」「でも、こういうのって、見た目だけなんだよね」「そうだよね、見た目と味が違うんだよね。でも、やっぱ食べない?」と、まったり会話していたり、あっちではすでに焼きそばを購入して、人の家の玄関先で座り込んで仲良くつついているカップルがいて、「なんだか、とっても貧乏くさいカップルだが、でも幸せそうだから許す」と思いましたし、縁日の通りにある一軒屋の玄関では、そこで連れてきた孫のためにトイレを借りた爺さんが「いつもお世話になっちゃって」と挨拶していたり(縁日開催中は、その家は知り合いの簡易トイレ所と化すのであろう)、テキ屋の兄ちゃんが、射的ゲームのルールをガキ2名に真剣に説明して「で、当たったら景品は自分で好きなのを選んでいいんだ。わかったか?」と偉そうだったんですが、説明を受けたガキ共も、「よっし、オレは絶対にこれをやるぜ」と、どうやら少ない小遣いの中で、どのアミューズメントをやるか検討中だった様子で、自分もこんな年頃のときには「お祭りだから臨時こづかい」を千円くらい貰い、それを最大限有効に使う計画を地道にたてていたっけ、「まず、お好み焼きで300円、金魚すくいで200円、水飴で・・・・」なんてさ。

 だから、縁日って、小学生にとっては学ぶところが多いんですよ。
 パッパと遣っちゃっう子もいるけど、私みたいな計画性の高かったガキは「さて、どう遣おう」ってことに頭を悩ましているうちに、帰宅時間が迫ってもお金が余ってしまったりして、結局、射的とか金魚すくいで散財ちちゃってスッカラカンな友達が「お腹すいた」というのでお好み焼きを分け合って食べたりして、後で考えると慎重派の自分は損をしたのではないか?なんて、考えたりして・・・・

 そんで、今でもそうだけど、子供のお小遣いを吸収するのが商売のテキ屋さんたちは、ガキがお得意さんだから、ガキを決して子供扱いしないんですよね。今日、観察した射的ゲームのルールを説明していた若いテキ屋の兄さんも、「だんな、こういうシステムなんすよ。どうですか?」と、歌舞伎町で大人のサラリーマンに話し掛ける客引きの兄さんのように真剣でした。
 こういう数百円の取引でちゃんと「マジ」を学んだ子供たちは、大人になって歓楽街に行ってもちゃんと通用することでしょう。

 縁日になると、ガキも多いけど、中高生の姿も多い。
 私の前をちんたら歩いていたのは、先頭を歩いているのが、ガクラン姿の高校生で、その後を私服の男の子が4人くらいでゾロゾロ歩いていた。
 ガクラン君がボスらしくて、たしかに身長が180センチ超える大柄で、顔もけっこうイケてた。坂口憲二系。
 さぞかし、おモテになるであろう。
 彼らはチンタラと縁日を冷やかしながら歩いていたのだが、神社の入口のあたりで、立ち止まってしまったので、買い物袋をぶら下げた私が追い抜こうとしたら、子分格らしい高校生が「あ、すいません」と謝ってくれた。別にぶつかったわけでもなかったのだが、私が邪魔そうに追い抜いたように見えたのだろう。邪魔に思ったわけでもなく、お姉さんはただ「イケてない君らは、このイケてるボスの後をついていけば、なんかいーことあるかな、と思ってるんでしょ?うふふ」と勝手に自分の想像の世界に没入していたので、彼らをよけそこなっただけなんであるが、イマドキの若者に「すいません」ときちんと発音してもらうと、なんだかキモチいいわね。うふ。

 などと、ツンと澄まして「ええい、てめーらウザい」と思っているようにしか見えない、君らには決して手が届かないというか、「手を伸ばす気にもならない」30代妙齢のOLお姉さんが、実は「あ、男の子たちがブラブラしてるぅ〜きゃっわいい」と思っていることを彼らは永遠に知るよしもないだろう。
 永遠に知らなくてよろしい。
 さらに、そういう若い男の子を間近で観察すると「なんだか、目の小じわが伸びるわぁ〜」と勝手に美容液扱いしていることなんて・・・・

 そういや、もうかなり前だけど、自分が30歳くらいのときに、友達に「マニアック(ラブ)に行かない?」と誘われたけど、「あそこ、いつも死ぬほど混んでるからな〜」と躊躇したら、友達が「ほら、たまには若いエキスを吸いにいかないと」
 たしかに、当時のマニアックは高校の男子ロッカーのようだった。若い男子がひしめいて「うぉぉぉぉぉ」と汗だくで踊っていたのである。

 「若いエキス」が放出された場所に行くと、なんか潤うという説は納得できたし(たしかに人間が発する水蒸気で満ちているので、ほんとうにミスト・サウナのようになったりする)、それは「鋼鉄の処女」を駆使して、処女の生き血を浴びたという某伯爵夫人が構築した理論でもあるが、でも、もっとお下劣だった私は、トーちゃんがたまに読んでた「プレジデント」を盗み読みして、「愛人とセックスしても消耗せず、逆にオーラを吸い取り若返る方法」なんてゆーのを高校生のときに読んじゃってたんで、「ああ、なんか発想がアレと同じ・・・・・」と遠い目になってしまったのでありました。

 というわけで、「お祭り」&「縁日」は若者やガキどもの小さな欲望が小さく発散される場所なので、そういう小市民の発散の場をこよなく愛している私としては、「町内会に寄付しちゃおうかな〜」と思ってしまうほど、好きなのでありました。じっくり観察すると映画3本くらいの価値あるもん。

 去年の今ごろは、祖父が入院して亡くなったので、てんてこまいだった我が家だったのであるが、今度は父方の祖母が胆石で緊急入院して手術(92歳なのに!)したそうで、経過が不明瞭だという知らせ。
 お見舞いに行こうと思って母に電話してみたら、まだ意識不明瞭なようなので、「ダメでも、大丈夫でも、もう少ししたらはっきりする」とのことでした。
10月10日(金)

 「あの事件」から一週間たち、やっと顔の痣も消えたし、手の傷もやっと塞がった。これで、来週からはスポーツクラブに復帰できると思う。
 しかし、小学生のときは鉄棒の練習でよく手の皮がベロンとなったものだが、こんなに修復に時間がかかるもんだっけ?
 年とると、傷の回復が遅くなるというのはわかるのだが、でも、それよりも「こういう傷の対処の仕方」が下手になったような気がする。

 あのころは、しょっちゅうケガ(怪我と漢字で書くと、なんとなく重症っぽいの)していたし、自分だけじゃなく、周りもそうだったので、しょっちゅう手当てしていたので「効果的な傷の治療法」を自然と身に付けていたような気がする。
 私の幼なじみは、たとえ擦り傷程度でも、あとで膿んでしまうことが多かったので、彼女がケガしたときには、ざっと消毒するだけで、バンドエードは貼らないようにしていた。出血が多い場合には、ガーゼをあてて、周りをテープで固定して工夫した。
 私は傷が膿むことは稀だったが、手に皮がベロンと剥けた場合は、ベロンとなった皮を傷につけたまま残しておき、入浴時や就寝時以外にはなるべくバンドエードをせずに傷を皮ごと乾燥させれば、ベロンとなった手の皮が傷を塞ぐので、治りが早い、ということを学んでいたのだが、幼いときにあれだけ勉強したというのに、ついうっかりバンドエードを貼ってしまったので、傷の乾きが遅く、しかもバンドエードに傷口が貼りついてしまったので、無理やり剥がそうとしたら、皮までちぎってしまったので、傷が剥き出しになり、回復が遅くなってしまったようなのである。

 さて、昨日は久々に仕事が大忙しで、顔を上げる暇もないほどガシガシ仕事していたのだが、決算も近いし、9月分の支払いがだいたい揃ったので、その資金繰りの相談や、今月の大まかな売上見込みを出すように上司があれこれ指示しはじめたので、優秀な私はすでに、この時期になると上司がそういうことやりはじめることを知っていたので、ハイジやクララに「こういうの作っておいて」とちゃんと準備してあったので、上司が「あと、○○の売上予想を出して・・・・」と言えば、「あ、それはA君に今作ってもらってます」「じゃあ、○○の未収金集計も、Aにやらせて」「あ、それは、Tさんのほうにやらせています」とテキパキ(自分比)と答えていたのだが、私は経験上、上司がなんのためにどんな数字が知りたいのか、だいたいわかっているのだが、まだ経理に配属されて半年のハイジにそれがわかるわけもなく、矢継ぎ早に「とりあえず大体の数字は」なんて聞いてくる上司に振り回され、勇み足で「こういう表にまとめました」なんて説明しようとするので、「ちょっと待って!それは、もうちょっと加工しないとダメだから、後でやりかた教えるまで待って」などと、経理課の3人はギャースカと活発にあれこれ喋っていたけれど、やっぱりそういうときでもクララは毎ペース。黙って自分の仕事を黙々とやりながら、ときどき居眠りしている。
 ほんと、ハイジとクララは性格が違いすぎて面白い。

 そんなこんなで、久々にドタバタしたので、夕方には疲れきってしまい、社長が「寿司食いに行くぞ〜」という号令をかけたので、「腹減った」とついていって、また大酒を飲んでしまったのであった。

 寿司食いながら喋っていたのだが、なんの話の流れだったか忘れたが、「交通費清算」の話になった。
 経理のすぐ上の階は、システム部のフロアで、そこには女子トイレが無いので、女子社員の姿はよく見かけるのだが、開発をしている部署に何名かいる「古参男性社員」は清算のお金を取りに来るときにしか姿を見かけることが無い。
 そして、彼らのほとんどは「何も言葉を発しない」というか「喋ろうとしない」のである。

 別に無愛想なわけでもないし、ちゃんと喋ってみると、皆さん気のいいお兄さんかオジサンなのだが、たとえば、外回りで愛想が命な営業部の社員は、経理に清算のお金をとりに来ると、「すいませ〜ん、お金とりに来ました〜」とちゃんとあっかるく言ってくれるし、中には「金くれ〜。それがないと昼飯が〜」なんてわざとクダけて来る人もいるのだが、うちの会社の主幹業務の一つである「親会社のシステムの開発」を一手に引き受ける技術者さんたちは、いつも、フラ〜〜〜と無言のままクララの背後に近づくのである。クララが小口現金の出納をしているのだ。

 それで、しばらく背後霊のようにクララの後ろにたっているのだが、「社内でも1、2を争うマイペース」のクララは、背後の怪しい気配に気がつくことは稀で、クララと向かい合わせに座っている私がそれに気がついて、笑ってしまうのだ。
 「すいません」とか「こんにちわ」とか一言言えばいいのに、それをやろうとしないのである。
 クララがお休みのときや、席を外しているときにも、無言でクララの席の前に佇んでいるので、私が「あら、こんにちわ」と声をかけると、無言でクララの席を指差す。「ああ、Tさん、今銀行に行ってるんですが・・・・ひょっとして交通費のお金?」と言うと、無言で肯いたりするのだ。

 いや、別にそれを非難しているのではないが(けっこう面白いと思っている)、でも、ちょっと喋ってくれればもっとスムーズに事が運ぶのに、なんであんなに喋らないんだろう?それが一人だけなら、その人だけが変だと思えばいいのだが、そういう傾向の人ばかりなんです、その部署。正確には「6人中、5人がそういう人」
 なので、私は「やっぱ一日の大半をコンピュータ相手っていうか、プログラマさんたちだから、プログラム言語にどっぷり浸っているので、人間語をしゃべりたがらないのだろうか?」と考えているのだが、たしかに私だって、ずっと日本語を喋っていると、とっさに英語で道を聞かれても、指差すだけが精一杯だったりするので、そう考えれば彼らがいつも無言なのも理解できる。

 でも「すいません、お金ください」って言うだけだし、そんなもんは「enterキー」押すくらいの動作だろうから、なんでそれができないのか不思議でもある。
 そういう、基本的なやりとりのルールのことを「プロトコル」って言うんだったっけ?
 「すいません、メールとりに来ました」「はい、わかりました。これですね?受け取りのサインをお願いします」「ありがとう」と、私のパソコンに入っているメーラー君はメールサーバ君とそんなご挨拶をとりかわして、メールをとってきているらしいのだ。

 そう考えて、今度、無言で佇む技術者さんたちに、「○○さんったら、何の用事か言ってくれないと、こっちは超能力者じゃないんだから、何の用なのかわかりませんよ!」と笑いながら憎まれ口叩いていないで、「経理課の現金授受のプロトコル」を書いた「仕様書」(技術者は請求書や契約書を読むのは苦手のようだが、仕様書なら読むだろうという勝手な心配り。だって、その部署の人たち、購入したソフトの代金の請求書を経理に持ってくるときも無言なんだもん。そんで、みんな請求書をヒラヒラと私のそばで振るので、「どうしたんですか?なんですかそれ?ああ、請求書ですか、はい、わかりました、支払いしておきます」と私が一人で喋って応対しているのだ)を配布しちゃおうかな。

 でも、彼らは彼らなりに独自のプロトコルを構築しているようで、意味もなく米つきバッタのようにヘコヘコ挨拶しながら経理に来れば「ああ、お金もらいに来たんだな」とわかるし、無言で手を差し出されても、やっぱり言いたいことはわかるので、別に不自由はないんですけどね。それぞれ個性的で、ほんとに面白いのです。で、そんなでも、ちゃんと結婚して子供がいたりするので、世の中不思議だ。どうやってプロポーズしたのだろうか?
 でも、たぶん、女性の顔をじっと見つめて黙っているだけで、女性のほうで「あんた、いったい何がいいたいのよ?なに?ひょっとして私のこと好きなの?」(黙ってうなずく)「で?どうすんの?結婚したいの?」(黙ってうなずく)っていうようなことをやったに違いないと想像しているのだが、どうなんでしょうね?
 まあ、私も、なんだかなんだ言って、無言で佇む彼らが何を望んでいるのか、推測することが楽しいのですけれど、なんか相手の術中にはまっているようで、なんかね。

 さて、昨日はまた飲んだくれで、今朝もダルかったが、今日の夕方までに仕上げないといけない仕事が二つもあったので、ちゃんと定時に出勤して朝からガシガシやっていた。

 昨日のフジテレビの「今日の星占い」では、「おとめ座」だか他の星座だか忘れたが、「後輩の失敗に振り回されます」というのがあったが、今日の私がまさにそれだった。

 今日は、ハイジがお休みだったのだが、そういう日に限って、ハイジにミスがいっぱい放出されたのである。

 まず、軽いジャブとして、親会社の経理から質問が一件。ハイジが担当している仕事なのだが、休みだったので私が対応。
 うちの会社は親会社の後方支援でメシを食っているのであるが、親会社が社員や客に配る印刷物の作成、管理、支店への配布も重要な仕事なのであるが、印刷物は社外に発注したり、それをうちの会社で帳合したり、うちの会社にある印刷機(昔ながらの印刷機と、コピー印刷機をとの都度使いわける)で印刷したりと、その仕組みは複雑怪奇である。
 しかも、大量印刷の場合には、一括して親会社に請求して在庫管理してあげるのだが、少量の印刷の場合には、注文された都度印刷して、その都度請求したりするのだ。しかも、親会社が在庫している印刷物を叔父会社がちょっと欲しい場合には、親会社に「おたくの在庫を叔父会社にあげました」という件数表を親会社に出して、それをもとに親会社が叔父会社に請求するのである。

 ややこしくて、いつもトラブルの種なのだが、しかも、うちの会社でそれを請け負っている部署の社員たちも、「自分が請け負っているところしか把握していない」というありがちなことになっているので、親会社に請求をあげるときにも苦労が多いのだ。
 で、先月、ハイジがその部署の社員(ハイジの1年後輩。ハイジは今年の3月までその部署にいた)で相談して、親会社に一括請求して親会社の在庫にしていた、とある印刷物のセットを、うちの会社から親と叔父に出荷件数だけを請求することに決めた。で、そのとき、親会社の印刷物在庫を管理している主任クラスの社員が夏休み中だったので、私は「彼がいないときにそんなの勝手に決めてもいいの?」と言ったのだが、ハイジは「大丈夫っすよ」と言っていたが、「でも、後でちゃんと経緯を報告しておいてね」と言っておいたのだ。

 今日になって、親会社の社員が「うちの在庫をこれだけ叔父会社に送ったという報告書だけどあ、この分は先月からおたくから叔父会社に請求することになったんじゃない?」と確認されたので、さっそくその件数表を作成した主任に「これ、先月から変わったんですよね?」と確認したら、「え?」

 彼の声がみるみるうちに(聴く聴くうちにか?)不機嫌になり、「それは、僕ではわからない。Wが仕切っているので」と言い訳をするので、「いや、たしか、先月、うちのハイジとそっちのWが相談して単価も決めてたんだけど」と私がオロオロしながら、「でも、それをYさんにちゃんと報告しないとね〜、まったく若いもんは」と「あなたは悪くないのよ」とフォローに回ってしまった。疲れた。

 ほんと、うちの会社ってこういう基本的な「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)できない人が多いから、ダメよね。と思っていたら、夕方になってまた親会社の経理から質問。

 親会社への請求書作成のための入力は私がやっているのだが、それにエクセルでデータを添付しているのである。売上入力とデータは別々に入力して、それをあわせると完璧な確認作業になるので(なにしろ、細々と明細が多く、エクセルはいつも2000行くらいになっちゃうのである)前は私一人で両方入れていたのだが、ハイジにも「うちの会社はこの請求でメシ食っているということを把握してもらいたい」という意味合いを持って、データ入力の一部をハイジに任せていた。
 ところが、昨日、データと売上伝票の金額の合計が合わなかったので、「どっちかが間違っている」と暇そうだったハイジに確認をお願いしたら、「ここが違ってました」とハイジは堂々と私のミスを指摘したので「ありがとー」と、私は請求書のほうの件数を直して、データとドンピシャにして今日親会社に持っていったのである。

 ところが、そこが「違う」と指摘された。
 あれれ?と思って、確認すると、なんだ、私がやっぱ正しくて、ハイジが入力したほうが間違っていたのに、あまりにも堂々と私の間違いを指摘したので、再度確認することなく私が自分のほうを訂正しちゃっていたのである。

 慌てて訂正して、請求書を再度出力。

 まあ、これはハイジも悪いが、私も悪かった。態度がデカいから、ついつい信用しちゃうんだよな。これがクララだったら、「ここが違うみたいんなんですけど、もう一度確認してください」と自信なさそうに言うから、ちゃんと確認するんだけど・・・・

 と、謙虚に考えていたら、今度は客先に行っていた他部署の社員から電話。
 「○○からの入金を前にA君に調べてもらったら、入金されていないというので、お客さんにそう言ったら、そんなはずはない、もう一ヶ月も前に振り込んだとおっしゃるんです」
 さっそく調べてみると、その客は8月に振り込んでくれていた。

 その客は個人のお客さんなのだが、諸般の事情により便宜上、その人が所属する、とある法人名義の得意先番号の中に入っていたので、それを知らないと、目的の得意先台帳を開けなかったのかもしれない・・・・・と、その社員には言い分けをしておいた。
 でも、私だったら、得意先台帳だけなく念のため振り込まれる通帳もざっと調べるので、そんなミスは絶対にしないのだが・・・・

 それに、ハイジも自分でよくわからなかったら、私かクララに確認してくれればいいのに・・・・・
 そして、ハイジに確認した社員も、ハイジがもっと頼りなげだったら、まだハイジは細かいことまで全部わかっているわけではないと判断できたのかもしれないが、態度がデカいハイジが堂々と「入金されてません」と言ったので、すっかり信用して、客に「入金がまだです」と言っちゃったらしい。200万円くらいなので、企業だったら「小さい金額」だが、個人の客にとってそれは一財産で、そんな大金を「まだ振り込まれてません」と言われたら、どんな穏やかな人だってムっとするでしょう。

 ああああああ〜〜〜〜やってくれたよ。
 この件に関しては「上司として」ちゃんと教育的指導しないといけないのだが、そんなこと言うとまた不機嫌になりそうで怖いなあ。
 でも、個人の客がどんな思いで200万支払っているのか、ちゃんとわかってくれるかなあ。(しかも、たぶん、その客はキャンセルになったのでお金を戻してほしいと言ったのに「あれ?まだ未入金のはずですが」と言われて、かなり不信感を持ったと想像できる)私だったら、そういう入金確認があったら、自分の目だけでは不安なので、他の人にも確認してもらうけどさ。

 まあ、どういう経緯でそんなミスになったのか、原因究明が必要である。(担当者が「9月に入金したはず」と言ったので、8月後半のところまで確認しなかった可能性もある。台帳みればわかるが、その技がなかったのが不運)

 まあ、でも、こういうときにつくづくよかったと思うのは、入金確認ができたのできないのというミスはたまにあるのだが、もちろん、やってはいけないミスではあるものの、医療ミスみたいに誰かが死んだりはしないということだ。
 私が医者で、ハイジが後輩だったら、恐ろしいことになる。
 「だって、ミヤノさん、あの大動脈塞げなんて言わなかったじゃないですか」
 なんて、憮然として言われて、「ひぃぃぃぃぃ〜、あたしが悪いのね」で、記者会見場で泣きじゃくりながら頭下げてそう。

 でも、自分の仕事のこういうミスを鑑みると、「医療の場でも起こるだろう」と同情してしまうが、ペーペーのくせに妙に自分の腕に自信のある医者を部下に持ったら、中間管理職の医者は苦労しそうよね。

 というわけで、今日の私はただでさえ忙しかったのに、ハイジにミスを背負ってあちこちに謝っていたのであるが「でも、誰も死んでないし」というので心を慰めていたのであった。
 月1万円の主任手当ては要らないので、気楽なペーペーに戻りたい。早いとこハイジに「経理課長」(現在空席というか、総務部長が兼任)になってもらって、私の尻拭いができるようになってほしい。

 で、あたしは「やだ〜、やっちゃったぁ、てへ」とか言ってゴマかしたいのである。
 なんか、ちっちゃい夢だなあ。

 ところで、昨日は寒かったけど、今日はやや暖かかった。
 会社にいると「ちょっと暑いけど、冷房かけると寒い」程度。
 今日のようんな陽気が一年中続くといいのになあ〜〜〜〜
 という贅沢なお願いで頭いっぱいであった。でも、どんなに祈っても、願っても、どうせどんどん寒くなるのだ。

 自分の力の微力さが嫌になる季節の変わり目である。

 話はまたワープするが、やっと今日グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」を読了。この人の小説、重いところが多いので、読むのにけっこう時間がかかる。
 読み終えてから、あとがきの坂村健(電脳建築家、東大教授という肩書きになっている)も読んでみたのだが、「理系マインドなSF好きはどうせ読むだろうから、文系読者に向けて」というかんじのあとがきなのだけど、でも「ハードSっぽいけど、実はそうじゃないんですよ〜」と文系読者に説明しているつもりなのかもしれないが、でも「自分はコンピュータに詳しいし、数学の知識もあるから、よ〜くわかるんですけど、それはネタバレになっちゃうからね」と、言って板村センセーがネチネチ書いていることのほうが、文系読者の私にはよくわからなかったんですけど・・・・・

 むかつく。
 あたしはあたしなりに、イーガンの世界を理解しているつもりで読んでいるのに「でも、文系の人には、ほんとうの意味ではわからないかもしれないな」なんていうような意味のことを書かれると、すっごーくムっとするのですが、だって、イーガンの小説はそういう理系基礎知識がなくたったちゃんと読めるもん。そんで、そういう技術的な部分が「けっこうちゃんとしている」のか「ちゃんとしていないのか」なんて、文系の人にとっては検証不可能などうでもいいところではないですか。

 だったら最初から、「こういうのに二の足を踏む、純文学愛好家の人も読んでみてね」っていう態度じゃなくて、理系読者に向けて「いやあ、ぼくとかわりとキング・オブ・理系なんだけど、それでも感心したね」って理系に向かって発信すればいいじゃない。
 文系のあたしだって、こういうSFの「理系整合度」は、ある程度わかるんですよ。
 イーガンのモチーフが文系にもアピールするのは、たとえばこのアンソロジーでも代表作である「しあわせの理由」でも、描かれている世界は「医療技術が進化した近未来」だけど、けっきょく「プロザック飲んでハイになっている自分って、果たして本当の自分?」という、ワイドショーでも取り上げられそうなテーマを「じゃあ、たとえば、つきつめたらこんなになると仮定してみましょう」と、じっくりと大げさに描いているから、結局何が問題なのか、その人のレベルに応じて考えられるから面白いのだ。

 それに前に出た短編集「祈りの海」に比べると、「しあわせの理由」はわりと文系でもとっつきやすい「ミステリーもの」が多い、「ハードSF」だと思って読むとわりと肩透かしを食う。

 それはいいとしても、やはり「文系の皆さんもチャレンジしてね」という態度は、なんか多くの「僕は女性の立場は理解できます」っていうような、「わかってないなら、黙ってろ」なものに通じるものがあって、結局なんだかんだ言っててめえが一番見下してるじゃねーか、と思ってしまうので勘弁してほしいと思いました。

 「女性ならではの感性」でも、女性である私にとって理解不能なものも多いけど、でも、まだ女性の私のほうが、その理解歩不能度がある程度分解できて、「女、わかんね〜」な男性に説明することができるかもしれないとは思いますので、あ「理系ならではの感性」も文系にちゃんと説明するように努力するか、それとも「どーせ男にはわからないだろうけどね」と突き放すか、どっちかにしてもらいたい。

 で、SFだろうがなんだろうが、小説として優れているかどうかは、「文系・理系」の問題ではないのです。ってことを板村せんせーが書こうとしていることはわかるのですが、だったらもうちょっと理系自慢は控えていただかないと・・・・ま、普段、あんまり自慢する機会がないんでしょーけどねー。
10月8日(水)

 日に日に寒くなってくる。
 もう、道行く人たちもすっかり秋冬ものの服に身を包んでいるのだが、私は今だに夏ものの上に薄いジャケットを羽織ってごまかしている。

 季節の変り目はいつもユーウツだ。
 タイみたいに一年中夏服で済むような国に生まれたかった。
 実は、密かに地球温暖化賛成論者なのである。東京が沖縄くらいの気候になれば、私の毎年の悩みは解消するのだ。

 資源が枯渇しているのは、新しいシーズンのお洋服だけではなくて、長年使い古した布団もかなり痩せ細って保温力が弱まっているようである。今日は西友にある本屋に寄ったのだが、エスカレーターに乗っていると、寝具売り場では毛布が大売出し中で、フッカフカのアクリル毛布がたったの1980円(消費税別)だったので、「買おうかな」と思ったのであるが、毛布を持って帰るのが面倒になってやめた。

 気温が下がると、いろいろな意味で気分も下がるので、今日も一日中なんとなく眠くて、でも仕事は溜まっていたので、ガシガシやっていたし、ハイジのご機嫌が珍しくよかったので(機嫌がよくて、やっと普通の人がちょっとダルいときと同じくらい明るくなる)、いろいろと仕事の指図しやすかったので、プラスマイナス普通の日であったのだが、それでもやっぱり「冬の支度が全然できてない自分」のダメさ加減が嫌になり、あまり食欲もなかったので、帰りはクリエでサンドイッチ食べてから帰ったのだが(会社で同僚が昼に食べなかったパンをくれたので、それをデザートにするという堅実な計画)、食べ終わってトボトボと家路につくと、すぐ前を若いサラリーマンが歩いていた。

 後ろ姿だけで「若い」と決め付けたのは、頭髪がムースでちょこっとピンピンしていたからである。それにスーツの型でなんとなく年齢がわかりますよね。
 背丈はそれほど高くもなく(170ちょいくらい)、中肉中背で、流行の髪型だけど、襟足はちゃんと刈ってあるあたりが清潔感を感じたし、スーツもちゃんと体に合っているし、袖から覗くシャツの袖の分量もほどよく、たぶん、そのセンスから推し量ると20代半ばなんだろう。会社にいる、その年代の社員たちも、みんなそんな感じだから。

 だから、そんなに珍しいもんでもなく、フツーの若いサラリーマンなのだが、なんでそんなに好意的にジロジロ上から下まで観察してしまったかというと、別にバックシャン(死語?)なわけでもなく、ただ、彼がスーパー袋をぶらさげていて、そこから長ネギがはみ出ていたからです。

 長ネギのはみ出たスーパー袋をぶら下げたスーツ姿っていうのは、なんであんなにセクシーなんだろうか?
 これってたぶん、私が特殊な趣味だからじゃないと思う。
 さあ、これを読んだモテたい諸君!明日はさっそく長ネギを買おう!

 それで、後ろからジロジロと「長ネギ・・・・たまらん」と思いながら歩いていたのだが、その先にディスカウント・ストアが格安野菜を売っている場所があって、彼はそこで立ち止まり、しばらく野菜を眺めていたので、そこで追い越してしまったのだが、すでに長ネギや他の野菜を買っているのに、さらにまだ野菜を買おうとしているその姿は、かなりソソられました。
 あれで、頬っぺたに手をあてるポーズ(スーパーの食品売り場で、なぜか皆がやってしまう)をしてくれたら最高なのに、と思ったのですが、そこまでサービスしてくれなかったので残念。

 一人暮らしの人が多い地域なので、スーパーで買い物して帰るサラリーマンなんて別に珍しくもないのですが、なんかネギの覗き具合が絶妙だったんですよね。アメリカの現代美術家で、日常的によく見かける平凡な人物をそのまま彫刻で再現しちゃう人がいたけど、今日の彼もそのまま彫刻にしたら、MOMAあたりに展示してもらえたかもしれない。

 着ているスーツはあまり高級すぎてもいけないし、安すぎてもいけないし、平凡だけどちょっとパリっとした感じに、髪型も地味すぎてもいけないし、かといって派手でもいかんけど、会社で許されるギリギリでおしゃれするような髪型という風情で、野菜を持たせると、いいですね〜。長ネギもいいけど、白菜やキャベツでもいいでしょう。キャベツは外側の葉っぱがついたやつにしてね。大根だったら葉っぱつき。ああ、うっとり。

 シュワちゃんが、とうとう知事になったようだ。
 ハリウッド俳優が知事になるのは、レーガン以来らしいが、レーガンとシュワルツネガーでは役者としての格が全然違うだろう。だって、レーガンが大統領になるまで、そんな役者いるなんて知らなかったもん。
 まあ、このまま順当に政治家として成功できるのかわからないが、もしシュワルツネガーがうっかり大統領になっちゃったら、現実と映画の区別がますますつかなくなるようで恐ろしい。
 だって、シュワルツネガーが拳を握りながら「テロリストとは断固として戦う!」なんて演説されたら、「えーと、テロリストはどの役者さんなのかな?」なんて考えちゃいそうだもの。

 そういや、昨日映画を観にいって、また「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の予告編を観た。
 レオ様はハンサムだとは思うが、どうしても好みではないので、最近全くレオ様映画を観ていないのだが(「タイタニック」もテレビでちょびっと観ただけなので、どこが泣けるのか未だにわからず。先週「ビーチ」もやっていたのだが、すっかり見忘れた。原作はわりと面白かったので、テレビでやったら観てみようと思ってたのに)、「キャッチ・ミー・・・・」では、レオ様の父親役をクリストファー・ウォーケンがやっているので、「ウォーケン様」な私としては、ウォーケン様が出てくるところだけ観たいのだが・・・・・

 というか、あの映画も実話がベースらしいので、しょーがないんだけど、レオ様が偽パイロットや偽医者やってくれるよりも、ウォーケン様が偽パイロットや偽医者やって、うれしそーに女子をはべらせて、トム・ハンクスに「ぜってー、つかまえてやる!」って言われていれば、ロードショー公開時に絶対に観にいくのに・・・・そんで、レオ様がウォーケン様の息子で「ぼくがパパを絶対に守るよ」って言ってくれるんだったら何の文句も言わないのに。

 「ギャング・オブ・ニューヨーク」も「ダニエル・デイ・ルイスを主役にしときゃあいいのに」との評判だったので、「ダニエル様」な私としては観るべきだとは思ったが、やっぱりレオ様の存在がウザすぎて、観に行けませんでした。三茶でやったら、なんとかして観にいきたい。つーか、ビデオとかDVDのプレーヤーを買うべきだろうか?買う金が無いわけでもないのだが、また「買ってもいいけど、持って帰ったり、宅配にするのが面倒」という「ぷち買い物恐怖症」の我が身が悲しい。

 というわけで、シュワちゃんは別に目障りではなかったので(「トゥルー・ライズ」とか好きだった)、「知事になっちゃうと、ターミネーターの続編はもう作れないの?」と「ターミネーター2」も「3」も観てないのに、心配したりしているのだが、かわりにレオ様を政界にプッシュして、映画界から追い出したいのですが、ネオコンの人がなんとかしてくれないかなあ。WASPじゃないからダメですか?

 自分が好きなものが大勢の一般市民に無視されているというのは、昔から慣れているのでいいのだが、自分が苦手なものが、大勢に支持されていると、なかなか辛いものがある。
 石原都知事なんかも生理的にダメなのに、多くの人は「好き」って言っているので悲しい。

 石原都知事とは何の関係もないが、今日の夕方、会社を抜け出して自分のお金を下ろしに(今朝、定期券が切れていることに気が着いた)キャッシュ・コーナーに行ったのだが、私がお金を引き出していたら、すぐ横にいたお爺さんが、シャッターの出入り口から出てきたアタッシュケースを持ってスーツ着た若い男性二人組に向かって「これ、忘れ物らしいんだよ」と声をかけていた。
 スーツの二人組みの片方が「あの、僕達、ここの店員じゃないんで・・・・」と言ったのだが、爺さんはそれでは納得せず、「でも、そっからで出てきたんだから、私よりもここの銀行より付き合いあるんだろ?だからちゃんと対応すべきだ」と大きな声で怒鳴っていた。
 スーツの男性は「あの、僕達も、普通の・・・・(客なんすけど)」と言いかけていたが、たぶん、その時間(3時半)なので、シャッター閉まる前から入っていた客なんだろうけど、爺さんの剣幕にビビって、シャッターの入口を戻ろうとしたが、でも開けてもらえないはずなので、片割れが「インターホンで呼び出せばいいんじゃない?」と言い出し、その帰りがけの人たちは、わざわざキャッシュコーナーのインターホンを呼び出してあげていた。

 爺さん、あんた、自分で気がついた忘れ物なんだから、自分でインターホンで知らせればいいじゃん!
 オバサンだったら、そういうとき「あ〜ら、そうだったの?でも、忘れ物があるの、どうすればいいのかしら?」と下手に出る技を持っている場合が多いのだが、オジサンは絶対に下手には出ずに、恫喝しはじめるので、ビビる時が多い。だから、あーゆーオジサンは嫌いなのだ。でかい声で自分の主張をまくしたてることしかしないから。

 もちろん、そんな人ばかりでもないので、「オジサン差別」する気もないのだが、でも、ああして意味不明にイバるオジサンはたまにいるので、勘弁してほしい。で、石原都知事がああいうオジサンたちの心の支えになっているような気がするので、だから嫌いなんだけどさ。
10月7日(火)

 会社お休みの日(日曜に仕事したからね)。
 日曜日の立ち仕事で、また腰に負担かかるだろうから、兼平鍼灸院に予約をとってあった。先生のご都合で、午前11時半からだったので、午後1時には治療が終わったが、これといってやりたいこともなかったので、丁度、三茶の名画座で「戦場のピアニスト」をやっていたので、タイカレーでランチをとってから観に行った。

 映画の開始時間まで時間が空いたので、ドトールでコーヒー飲もうとしたら席がいっぱいで、同じく席を探していた老人と相席したのだが、なんか話し掛けられたので、しばらく話相手になってあげた。爺さんはうれしそうに喋っていたので、良いことをした。(地道にポイントを集めているのである)

●「めぐりあう時間たち」

 という映画がカップリングで、こっちが先に始まった。平日だから空いているのだろう、と思っていたのだが、けっこう客が入っていたので驚く。客層も「暇なオバサマ主婦グループ」「定年退職して暇そうな男性」「外回りをサボっている営業マン」「学生」「午後が暇なお水風女の子」「なにやっているのか全く想像つかない長髪の中年男性」と多彩である。

 「めぐりあう時間たち」と言う映画について、全く知らなかったので、何の前知識もなく観たが、ポスターにメリル・ストリープとジュリアン・ムーアとニコール・キッドマンが並んでいたので「演技派女優の激突ものなのか?」と思っていたのだが、映画が始まると、すぐに年代の違う(20年代、50年代、2000年代)3人の女性たちが現れたので、3人は一緒の時空で演技しないという「全く別の時空に存在する3つのストーリーが絡まる話」であるらしいことがわかった。

 そんで、どうやら主軸となるのはヴァージニア・ウルフなんである。「ダロウェイ夫人」を書いているウルフが核となるのだが、私は残念ながらヴァージニア・ウルフの小説は読んだことないし、「ダロウェイ夫人」というのも題名を知っている程度。

 そして、私はわりとニコール・キッドマンが好きである。この人はけっこう「役柄に埋没してしまうタイプ」であり、何をやっても本人にしか見えないメリル・ストリープとは違うと思っているのだが、映画が始まってしばらくしても、「どれがニコールなんだ?」とわからなかったくらい、ニコールは化けていた。ヴァージニア・ウルフに。
 「頭おかしい女」やらせると右に出るものはいないとは思っていたが、あの三白眼がすごいですわ。
 あとで調べたら、これで主演女優賞のオスカーとったらしく、かなり納得。

 で、話のほうも「よくできてる」のであるが、ちょっとテーマ重すぎというか、現実と狂気の狭間を彷徨いながらヴァージニアが三白眼ギョロギョロさせて描いた物語「ダロウェイ夫人」を未来&アメリカという時空ベクトルに向けて因数分解してみたら、こんな話になりました〜なわけで、うまいんだけど、ちょっとうまさが鼻につく展開だと思った。

 才能はあるのに、フツーに生きられなくて、ロンドンから離れた田舎町での生活に縛られるヴァージニアのジレンマが、恵まれたサバービアな生活を50年代西海岸で送っているのに、家庭に縛られているようなキモチでいっぱいの主婦がなぞっていき、そういう現実を享受できない母を持った息子が辿る人生を見守る女性も、やはりなんかしっくりしない人生を送っているのだが、でもメンタル的には同じなんだけど、周りをとりかこむ社会が変わってしまったので、もはや21世紀の女性は「見えない周りの圧力」に責任を押し付けることはできないのである。

 あんまし楽しい話ではないし、観ててもちょっと辛かったのであるが、ディティールは素晴らしいものがあった。まず、メリル・ストリープの恋人が、「ホワイトハウス」の女性報道官CJ。この映画では、見せ場があまりないのだが、でも「わーい、CJとメリル・ストリープが付き合ってる」だけで充分である。個人的には。
 あと、女優さんたちの衣装がすんばらしい。ニコール演じるヴァージニアが着ている20年代風の「ウエストがゆるい服」は女心鷲づかみである。あんな可愛いカントリー風ローウエスト花柄ワンピ着ているのに、「主人公は死なないことにしたわ。で、他の人に死んでもらうの」なんてブツブツ言いながら三白眼で宙を睨まれたらもう・・・・・
 そんで、50年代の衣装もすごいし、ジュリアン・ムーアがレズ心を傾ける女友達の衣装もすごい。その女友達は、一瞬だけ屈んでくれて、胸の谷間が眩しかった。

 意図的なものだと思うけど、登場人物はわざとフェミニンな花柄の衣装を着ていたので、「やっぱ花柄着て〜〜〜」と思ったでございます。
 あと、ヴァージニアのざっくばらんにまとめた髪の毛の後れ毛が「ヘア・メイク賞」ものだったです。
 その他の女優さんも、ちゃんと髪をアップにしていても、妙に後れ毛が目立ち、それがなにを表現しているのかは存じませんが、乱れ髪の美しさをあれだけ表現した映画も珍しいと思いました。

 脇を固める男性たちも演技達者揃いで、「いい映画」だとは思いましたけど、でもやっぱ笑いの要素が全くないのが疲れたなあ。メリル・ストリープの娘役はもっと「過去の女性の苦しみなんて全く知らない超現代ッ子」くらいにして、気が抜ける設定にしてくれたほうがよかったと思うけど、でも、たぶん、うちの母親みたいな「甲斐性のある男と結婚するのが女の幸せ」が身に染みている世代が観たら考えされられる話なんだと思う。

 60年代生まれの私の世代ではすでに「たしかに、これはわかるけど、すでに問題は違うところに移ってしまったのよ」と思いそうです。

 というわけで、つまらなくはなかったが、なんか疲れてしまった。

●「戦場のピアニスト」

 こっちは、ロードショーされた当時はわりと評判良かった映画。
 ユダヤ人ピアニストの戦争体験であるという前知識はあった。

 しかし、私は勝手に「でも、普通の戦争映画というか、ユダヤ人虐待ものとは違うんだろう」と思い込んでいたのだが、それは見事に裏切られてしまったのであった。
 これは個人的趣味だとは思うが、私はホロコーストものが苦手なのである。たしかに、日本の戦争体験ものでも同じだが、「こんなに酷かったんですぅ」っていうのを広報する活動も重要だとは思うが、でも、もういいんです。そーゆーの、いっぱい観ましたから。いっぱい読みましたから・・・・それで許してもらえないんですか?

 巷の映画評によると、この映画はそういう「こういうことはもう二度とあってはいけないのです」という文部省推奨ものと違うというものが多かったのですが、でも、2時間超す長編だったのですが、ユダヤ人何人殺されましたか?たくさん、たくさん、たくさん、虫けらのように殺されました。
 昔、友達の家に遊びに行ったときに「これ、バッタバッタと人が死ぬよ」と言って「コマンドー」を見せてくれたので(彼女がアメリカに行ったときにペイTVから録画したもの)試しに「死んだ人の数」を「正」を書いて数えたのですが、途中でなにがなんだかわかりませんでしたが(「日本野鳥の会」じゃないと無理だ〜〜〜と叫びながら必死でカウント)最終的には、ほぼ100人は死んでました。

 この映画もカチカチカチとカウンター押したくなるくらい死んでました。
 すいません、すいません、すいません。私はユダヤ人殺したことないです。それに私が生まれてないときの話なので、私には全く責任が無いのですが、その私がなんでこういう映画を観るたびに反省しなくちゃいけないんですか?
 ひょっとして、私がゴキブリを踏み潰したりする行為は、これと同じだろうと責められているのですか?

 たしかに、すごく知りたいですよ。行列の中から無作為に「はい、お前とお前とお前と貴様と貴様と貴様」と抽出して、残されラッキーな人の前で、バンバンバンバンバン!と撃ち殺しちゃうキモチってなんなんだろうって。でも、そこで偶然生き残ってしまい、「今日は生き残ったけど、明日は全くわからない」という数年間に渡る壮大なロシアン・ルーレットの中で生きたユダヤ人側の心境は、映画でも小説でもテレビドラマでも書き尽くされているので、そっちはもう勘弁してくれってかんじで、本当に知りたいのは、平気でユダヤ人の後頭部や眉間に銃弾を打ち込めることができた、その時のドイツ兵のキモチなんです。
 たしかに、生き残ったピアニストの話は波乱万丈だし、家族を皆殺しにされても、それでも生きられる限りは、生きずにいられないという人間の本能をえぐった作品でしたが、でも、結局それだけなのかよ〜〜〜と、ちょっと落胆。
 実話だからしょうがないんだけど、主人公が「戦争前は成功していたピアニスト」だったという必然性があまりないんだもの。音をたててはいけない隠れ家にピアノがあって、主人公はもう何年もピアノを弾いていないので、ピアノの音に飢えているのでありますが、その描写が弱い。

 もちろん「生き抜くのだ」と決めた主人公が、隠れ家でピアノの鍵盤をただ指で空押して、頭の中で曲を展開するのはいいとしても、もし、自分だったら、「ゲシュタポが気がついてもいいもん」と思って、鍵盤を押してしまうような気がする。
 しかも、挿入される曲がなぜか異様に地味。
 クラシックの教養あふれるポランスキー監督にとっては地味でもいいのかもしれないけど、ショパンといえば「葬送行進曲」や「別れの曲」や「子犬のワルツ」や「ピアノ・ソナタ−革命」な人にとっては、主人公が数年ぶりにピアノを弾いてうっとりする曲が地味すぎやしませんか?
 つーか、そもそも、ショパンの曲なのか、他の曲なのか、わかんなかったです。ただ、主人公が「ショパンの名手」であるという設定だったので、たぶんこういうときに弾くのもショパンなんだろうな、たぶん、と推測しただけなんですけど・・・・・
 いや、別にクラシック・ファンじゃないとわからない曲を演奏しても全く構わないのでありますが、でも、世界的に有名な「あっかるい」ショパンの曲も多いと思いますので、ポランスキー監督がもしも、「ユダヤ人の悲惨だった歴史」を世界的に発信したかったのであれば、あの場で「どんな馬鹿でも聴いたことのあるショパンの超有名曲」を弾いてもらったほうが、少なくともおスギの「泣けます」という宣伝文句に騙された日本の無教養な若者にもずっしりとアピールしたと思うのですが・・・・

 わたくし、これでも、わりと「普通の人」以上にはクラシッくの素養があって、「第九」で合唱が始まる前の第三楽章は死ぬほど眠いってこと知っているという程度の教養があると自負しているのですが、「アマデウス」も「ベートーヴェン」も堪能したはずなのに、「戦場のピアニスト」はそういう生半可なクラシック好きの心をちゃんと満たしてくらなかった時点て「ダメ」だと思ったです。
 だって、こういう話だったら、「戦場のシェフ」でも「戦場のタイピスト」でも「戦場のプログラマ」でもよかったわけじゃん。「ピアニスト」にしたんだから、もっと音楽への欲求を描いてくれないと。

 まあ、それが薄らいでしまうくらい悲惨な戦争だったてことなんでしょう。
 友達のMちゃんがワルシャワ土産に買ってきてくれた絵葉書は「ワルシャワはこんなに破壊されちゃいまいしたけど、旧市街をなんとか再現してみまいした」という「ワルシャワ、使用前、使用後」なことが描かれていて、たしかに、日本で世界史の教科書を熟読したくらいでは、そういうことまではよくわかりませんが、この映画を観ると、ユダヤ人社会も壊滅的打撃を受けたけど(私は知らなかったのですが、アウシュビッツっていうのは、現ポーランドにあるようだし)、ワルシャワの街自体も、ドイツの侵攻とレジスタンスとの内線やロシア進軍でボロボロになったということがよーくわかります。

 えーと、何が言いたいのかまたわからくなってきましたが、そうそう、私個人としては、こういう「戦争体験もの」に求めるのは「自分がそうなったときにどう対処すればいいのか」というサンプルの提示なんですよ。
 「アンネの日記」が凄いのは、あれは賢い女の子が、辛い状況を乗り切るために、身近にいる洟垂れ小僧に恋心を抱くという作戦をとって「退屈な隠れ家生活を乗り切りました」という、サンプルを提示しているからではないですか。

 私が「ユダヤ人迫害もの」に求めるのはアレですよ。「病気でこんなつらい目に遭いました」っていうのより「こうして乗り切りました」っていうハウツーものを求めているのです。「戦場のピアニスト」には、それが全く無い。音楽一家に育った音楽家が戦時で楽器も失った状況にどう耐えてきたかっていう描写がほとんど無いのです。
 同じ映画でも「ベートーベン」で聴力を失ったベートーベンがピアノの上に耳を押し付けて、その振動を感じることによって音を聴くことの代用としていたシーンでは、私は泣きながら「もし、私が聴力を失ったら、クラブのスピーカーに張り付いて、重低音のバイブを楽しもう」という勉強になったので、感動したのですが、「戦場のピアニスト」には、そういう「お役立ち情報」が全くなかったのが不満。

 運がよかったのもあるだろうけど、彼がそれだけのピアニストだったので、助けてくれる人も多かったのだと思うが、でも他人が命をかけても助けたいと思うほどの芸術家だったのかどうかの描写が薄いので、説得力が少なかったのだ。

 と、文句ばかり言っているが、せっかくの平日の休日だったのに、「女性の幸せってなに?」な映画と「ユダヤ人、ほんとに大変でした」な映画の二本立てを観てしまい、「なんか、どっぷり疲れてしまった」ので、もっとイケイケな映画が観たかったと愚痴を言っているだけでありました。
10月6日(月)

●顔の傷 その後

 だんだん痣が大きく&濃くなってきた。

 鏡を見るたびに情けないキモチでいっぱいになる。
(余談であるが、鏡見て「なんか、ナイキっぽい形」と思っていたのだが、写真に撮ってみたら逆だった)

 痣の位置が、唇の下のへこんだ場所なので、最初は影と混同されそうなくらい薄かったのに、こうしてじわじわと日増しに膨張し、濃くなっていくと、気分はもう岡崎京子の「ヘルター・スケルター」の「りりこ」であるが、それよりもやっぱし楳図かずおの「洗礼」でしょう。あれ、怖かったよな〜。

 などと考えていると、小さな痣がだんだんと広がっていく恐怖感に苛まれて眠れなくなりそうだったのだが、そこは「宇宙1ポジティブ・シンキングごっこが得意」を自負する私ゆえ、ふと、昔読んだか聞いた話を思い出したのである。
 ある女性は、生まれつき目の周囲に薄い痣があり、それをずっと気にして、化粧品というかファンデーションを片っ端から試して痣を隠そうとしたのだが、今のハイテク化粧品技術ならわからないけど、当時のファンデでは、どうしても黒ずんだ色が表面に浮き出てしまい、痣を完全に隠すことができなかったそうである。
 あるとき、彼女の友人が「でも、あなたの痣って、ちょっとアイシャドーっぽいよね」と指摘して、「だったら、痣の無い反対側に似たような色のアイシャドー塗ってみれば?」とアドバイスしたので、試しにやってみたら、目元を青黒いアイシャドーで縁取った「エキゾチック美人」になったのだそうだ。

 痣や傷を隠そうとするのは難しいが(実際、あたくしも今朝はさすがにファンデーションを塗ってみたが、うっすらと痣が浮き出た)、それをわざと強調してしまうと、災い転じて福となるという好例である。

 というわけで、さっそくやってみました。(行動力抜群)

 「えくぼ」のオマケつきです。
 片方だけの痣だと、バランスが崩れて不安定な気分になっていたのですが、こうしてシンメトリーにしてみると、なぜかこれだけで心が落ち着きます。不思議。

 とりあえず、「自分で自分の顔に傷をつけてしまった」という悲しいキモチは薄れ、変わりに「超バカバカしい也」という屈折した幸福感が頭をもたげてきたので、作戦は成功したのかもしれませんが、でも、これって、なんかの顔みたい。(もしもし〜、これってそもそも・・・顔の一部なんですけど・・・・と自分で突っ込み)

 というわけで、さっそく180度回転させてみました。

 どわっはっは!
 オバQみたいでラブリー!

 すっかり図に乗って、いろいろな表情を作ってみました。
 (デジカメのレンズを自分に向けて、むにゅむにゅと唇を動かしながら撮影しまくっている姿は想像しないでください。)

 わはは・・・・かあいーじゃん!

 というわけで、ちょっとした発想の転換で人生楽しいですわい、ということの実習終わり。

 そういえば、今日は会社で別のフロアにいる女性社員が総務に書類を渡しに来たのだが、彼女が目の上に大きなバンソウコウを貼っていた、その下に覗く目蓋は重度のモノモライのように腫れあがっていたので「あ、Yさんも顔に傷作ってる!お友達だ!」と声をかけたら、そちらは医者で縫ってもらった本当の怪我だったらしい。しかも、「どうしたの?って何回も聞かれて、そのたびに、・・・・(伏字)にぶつけたって言っても、みんな、聞き間違いかと思うらしく、何度も繰り返させられるんです」とのことで、とうとう何にぶつけたのか教えてくれなかった。

 さて、話は変わるが、今朝は鍵開け当番だったので、いつもより1時間半ほど早く出社。
 鍵当番は8:45までに出勤することになっているのだが、システム部の「サーバ当番」は8時に出勤してくるので、あまり意味のない鍵当番なのであるが、早く行けば早く帰れるので、たまにはフツーの勤め人と同じ時間の出勤もいいものである。

 それでも、今朝は目覚ましよりも早く目が覚め、家を出た時間も予定より早めで、しかも、駅に着くとすぐに急行が来たので、「これは、8時半には着いちゃうな」と思ったのであるが、あざみ野駅に着いて市営地下鉄に乗り換えようとすると、「○○駅で車輌故障がありました都合で、ダイヤが乱れております」というアナウンス。

 私がいつも乗る時間はガラガラで座れる市営地下鉄も、「横浜で9時出勤」の人が集中するこの時間は、ラッシュとまでは言えないけど、けっこう混雑するのである。
 それなのに、なかなか電車が来ないので、私が長いエスカレーターを降りはじめて、ホームが視界に入ると、そこは人で溢れんばかりだった。エスカレーターはホームの先頭に近いところにあるので、いつもそのあたりは込み合うのであるが、これは尋常ではない。

 引き返したかったが、エスカレーターはどんどん降りていくわけだし、私の前にエスカレーターに乗っていた客達は、人混みをかきわけて、エスカレーターの裏側のホーム中ほどに回っているようだったが、でも、電車はすぐに入ってくる様子もないし、折り返し駅だから、降りる人の数だって多いのだ。
 そんな飽和状態のホームで立っている勇気が無いというか、「もし、すぐに電車が来なくて、人がどんどん降りてきたら、ぜったい誰かがホームから落ちるよ」と思ったので、エスカレーターを降りきると、すぐに上りのエスカレーターでUターンした。

 私の後ろの人たちはどうするのかと思ったのだが、ざっと50人に一人くらいは同じようにUターンしていたが、あとの大勢は、平然と混雑したホームに分け入って行くのだ。びっくりした。
 なんで、平気なのか理解不能。

 念のため、ホーム後ろ側にある階段からも降りてみたが、やはりいつもだったら空いているはずのそっち側も人でびっしりだったので、私は諦めて改札に戻り、そのころには「次の電車はセンター北に着きました」というアナウンスが入っていたが、それは2つ先の駅なので、電車が到着するのには5分くらいかかるだろう。その間にも、東急線から吐き出された群集がどんどん降りてくるのだ。
 なので、きっぱり諦めて、地上に戻ってミスドでコーヒー飲んで時間を潰した。
 20分くらいして、また戻ってみると、ダイヤは乱れているものの、電車は順次到着しているらしい。ホームに降りてみると、混んではいたが、それは普通の混み方で身の危険を感じるほどのものでもなく、すぐに電車が来て、客達はゾロゾロと乗り込んだけど、朝10時くらいの「ピークをかなり過ぎた山手線くらいの混み方」であった。

 いや、しかし、ほんとうにびっくりした。
 私が小心者なだけかもしれないが、それにしても大勢の人たちの鈍さというものがよくわかった。
 前に、どっかの花火大会で将棋倒し事故が起こり、多数の犠牲者が出たときに、Mちゃんとそんな話になったことがある。

 私も、将棋倒し寸前に巻き込まれて怖い思いをしたことがあったが、あのときは人の流れは「やや混み」くらいだったのに、前方にあった橋が壊れて、人の流れが止まったのを後ろから歩いてくる人達が気がつかなかったので、前後からもの凄い圧力がかかったのであるが、花火大会のときだって、歩いている人たちは前方がどんなことになっているか知る由もなく、ただ前の人の後をトロトロとついていって、それが流れているときには問題がないが、ちょっとした淀みができると大惨事になってしまうのだと思ったのであるが、私よりそういうことに勘の強い彼女の意見は厳しかった。

 歩道橋の上がどれほど混んでいるかわからなくても、道路よりも橋が細い状態が想像つけば、人混みがさらに圧縮される危険性は事前に感知できるはずである。しかも、そこに小さな子供を連れて入るというのは明らかにリスクが高い。自分だったら、子供を連れてそんなところには絶対に入らない。というようなことを言っていたので、「でも、他の人が普通に歩いているところだったら、やっぱし何も考えずに後に付いて行ってしまうと思うなあ」と思ったのだが、Mちゃんにはそういう感覚はないようで、たしかに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とは言っても、ちゃんと自己責任で左右を確認すべきだとは思う。

 その話をしたときには、「でも、やっぱり被害に遭った人には責任ないと思うけど・・・・子供連れの人のほうが帰宅を急ぐだろうし・・・・てゆーか、自分もうっかり物だから、そういうのに巻き込まれそう」と弱気に反論したのだが、今日の光景を見てMちゃんの言いたかったことがいきなりわかってしまいました。

 たしかに、あれだけ混んでいるのに、そのときには入場制限してなくて、駅の係員は客への事情説明に追われていた。もっとも私はシロートだが、あっちはプロの駅員なので、ホームの飽和状態があれ以上進めば、ホームにいる駅員が連絡して「改札で客をとめろ」と指示するだろうから、私が身の危険を感じて引き返したのは過剰反応だったのかもしれないけど、でも、引き換えした時点の私には、その混雑具合を俯瞰で眺めることができたし「この混み具合は、さらに酷くなる」と想像できたので、駅員の指示よりも自分の感覚というか「恐怖感」のほうを大事にしてUターンしたのだが、たしかに、「もし、なんかあったとき」には、ちゃんと入場制限しなかった駅員の責任になるんだろうけど、でも、どう考えたって袋小路の雑踏に果敢にというか、何も考えずに身を投じる人たち自身にも「リスク管理の甘さ」という責任があると思うのだが・・・・・

 自分がビビってUターンしているのに、皆さん前方に展開する混雑に顔をしかめながらも悠然と入っていくので本当に驚きました。「レミングの群れ」を間近で見たような心地がした。
 で、面白かったのは、超混みのホームに降りるのが嫌で、改札付近で溜まっていた人の多くが通学途中の高校生だったってこと。彼らは、「事故で電車が混んでて乗れませんでした」って言えば遅刻したってOKなので、あえて苦行をして今すぐ電車に乗る気にならなかったらしい。
 床に座り込んで、携帯メール打ちながら「空くまで待とうぜ」な彼らを見て、ホっとしてしまった。君らが正しい。
 多少会社に遅れたっていいじゃないですか。誰だって、あんな立錐の余地もないようなホームに立って電車を待ち、ぎゅうぎゅう詰めの車輌になんて、乗りたくないじゃないですか。自分に正直になろうよ。しかも、ちょっと考えればわかりそうなもんだが、あのとき最初に着いた電車に乗ると、始発の時点で飽和状態なのに、その後の駅でもさらに人が乗ったり降りたりするので、ドアの開閉に時間がかかり、電車に乗っている時間が絶対に長くなるんですよ。

 だから、そういうときには、しばらく待ったほうが絶対効率がいいんです。(自分の消耗度が減ったほうが会社にとっても、いいに決まっている)

 そういえば、前にも書いたと思うけど、「フーリガンが大暴れする」という前評判が高かった先のW杯の開催地となってしまい、スタジアムの道筋にあった我が社では、いちおう総務部長と課長が「番人」というか、なにかあったときの通報係として会社に宿直したのであるが、開催日直前に、その総務部長は夜遅くまで残業する社員が「なんか対策立ててるの?」と聞いてきたので「もし、なにかあったら、会社のことはどうでもいいから、皆さんすぐに逃げてください。僕も逃げますから。やっぱり命が一番大切です」と言い切っていたので、「そういうことを冗談まじりにでも、ちゃんと声に出して言うから、この人好きだな」と惚れ直したのである。

 だって、そういう人が上司なら、「ホームがすごい混雑していて、身の危険を感じたので遅刻しました」って言っても、ちゃんとわかってくれそうでしょ?

 まあでも、毎日ラッシュに揉まれていると、少々の混雑ではメゲなくなるんでしょうな。
 今はかなり改善されたようですが、10年前は同僚が乗り換えで利用していた北千住駅は「通勤時に日本で一番混雑する駅」だったらしく(当時の首相も見学して、その惨状に驚いたらしい)、毎朝「誰かがホームに転落してもおかしくない」という恐怖と闘っていたようです。
 身の安全を優先させたら、永遠に定時に会社に来れないので、そういう場合は仕方ないと思うのですが、でも、虚弱体質でよく貧血で倒れていた同僚は、体調が悪いと、人込みにダイブできなかったようで、わりと遅刻が多かったのですが、ユルい会社だったので見逃されていました。
 私は「倒れるまで頑張っちゃう人」よりも、そういう「諦めが早くて、自分に甘い人」のほうが好きです。てゆーか、「自分に甘い」というのは、そういうときにこそ使う手段ではないでしょうか?

 ま、結局、なんだかんだ言っても「なぜ、全部の駅に柵作らんのか!」って話になるのですけどね。
10月5日(日)

 あー、ぐだばれた。(>くたばれた>くたびれた)

 朝5時に起きて、支度して駅に向かうと、駅前の居酒屋から追い出されたまま停滞している集団がいたりして、そんで渋谷に着いてJRに乗り換えようとすると、朝帰りのボロボロな若者たちと合流することになり「わたしゃ、これから仕事だってゆーのによー」と思ったが、おやおや、先週の君はちゃっかりと朝帰り組に入っていたのではないですか?

 というわけで、7時には会場に着いて、同僚たちと合流したが、皆が「こっちは朝から仕事だってゆーのに、電車では酔っ払ってる朝帰りの人が大勢いて・・・」「若い人ってねー」と喋っていたので、よっぽど「あたしも先週はクラブでオール(いつのまにか死語扱いらしい)して朝帰りでしたのよ」と素性をバラしたくなったが、そんなことしてもなんのご利益もないので「そうだねー」と心のこもらない相槌を打っていた。

 イベントの整列係だったのだが、客が多くてさー。商売繁盛はいいんだけど、キャパ超えてましたね。最初は道順のわかりにくいところで誘導する係だったのだが、チーフがやってきて「列が長くなって収集つかないから、整列を手伝ってくれ」と指示されたので、客に行列させてるところに戻ったのだが「なにをどうしていいのかさっぱりわからない」という状態で、それでも茫然と眺めながらデタラメに客を誘導しているうちに、なんとなく流れがわかってきて、自分の立ち位置を探して、反射神経だけで誘導していたのだが、ピークの時間を過ぎたら、列が瞬時に圧縮されて短くなり、あたりはいきなりガランとなって、整列係一同「さっきまでの波はなんだったんだ?」とポカンと気が抜けてしまった。

 そして、私が落とした名札を誰かが拾ってくれたらしく、それを渡されてから初めて名札を落としたことに気がつき、ピーク時の20分間ほどはトランス状態だったことがわかった。そして一息つけたので、トイレに行ったら、ストッキングが伝染していました。ボロボロだわ。

 ボロボロといえば、唇の腫れは治まったものの、下唇の下にできた痣が拡大していて、「乱視の人が見る三日月」みたいに唇ブレているように見える。でも、とうとう誰にも指摘されなかった。それは、「誰も私の顔なんてちゃんと観察していないから」なのか、「女性の顔になんか変なところがあっても、見て見ぬふりをするのがマナー」というのが定着しているのかわからないが、口紅がはみ出ているように見えるのであれば、指摘してくれる女性もいるはずなので、そうは見えなかったってことだろう。だからなんだって話だが。

 午後1時に開放されて、帰り道には新宿も渋谷も通りがかるのだが、せっかくこの時間に繁華街を通りが買っても、買い物する気力は残っていない。でも、がんばって渋谷のロフトに寄って、「リスト・パッド」(そういう商品名だった)を買ってみました。そんで、三茶まで戻ってから昼飯を食べて、スーパーで買い物して帰宅すると、もう3時半だった。
 留守電が点滅していて、再生するとママンの声で「もしもし?いないの?出かけちゃった?」と、私が寝ていると思ったらしくしばらくネバっていたらしい。午前9時50分の電話。弟の新居に遊びに行くけど来ないか?な用件に100ルピー。

 これで、私は今年のイベントの手伝いは終わりで、あとは事務所待機ばかりになるのだが、でも、人が足りない会場があれば急遽召集される恐れもある。普段は深窓の経理のおねーさんなので、たまにはこういう活気のある場所に行くのも一興なのであるが、12月は寒いからねー。疲労と冷えのダブルパンチで脳味噌から足先までガッチガチになっちゃうんですよ。

 今日もずっと立ちっ放しだったので、ガチガチなのであるが、いつもは銭湯に行って全身を熱い湯で茹でて解凍するのであるが、まだ手の怪我が塞がってないので(手の皮がベロンとむけた。逆上がりの特訓をした小学生みたいだ)お湯につけるとさらに悪化しそうなので残念。

 全然話変わるが、先日また思いつきで書いた(私の書いていることは、その場の思いつき100%を誇っているのだが。混ざりもの無しでいいでしょ)「小間使い気質」について捕捉。(ちょっと質問されたので)
 私はボロい文化住宅の中を子供3人が汚しまくるという家庭で育ったし、親も「衣食住」に関しては最低限のレベル確保に専心していたために、「インテリア」などというものからは一千万年くらい遠いところで育ったので、「カーサ・ブルータス」の目指す世界と「現代美術」の区別がつかないし、「毎日使うものは汚れるのが運命(と書いてサダメと読む)」という哲学を叩き込まれているので、自分の部屋や台所や風呂場が多少・・・・かなり汚くても平気のへっちゃらである。
 というか、多少「生活感あふれる空間」(便利な言葉だ)に身を置いたほうが落ち着くのである。

 だから、私が専業主婦になっても、この気質は変わらないとは思うし、もし結婚してダンナさんが超きれい好きだったら、「即効離婚する」か、もしくは「別に私はあんたの召使じゃないんだから、自分でやれば?」と突き放すと思う。まあ、今の独身生活よりは、少しは相手の趣味にも合わしてやろうと多少の努力はするだろーけどさ。

 でも雇い主がきれい好きで、私がほんとうに「召使」だったらちゃんとやるわよ、というのが「小間使い気質」なのである。
 会社の家具も全部掃除するわけではないが、「客の目に触れるところ」に高い優先順位を置いているのである。だって、せっかく高い金を払って、高いオサレな家具を置いて「うちって、ハイセンスなクリエイティブ集団なんですよ〜」とアピールしているつもりなのに、その家具が手垢まみれだったら効果半減っていうか、それだったら質素に公民館に置いてあるような家具に食器を使っていたほうが「質実剛健」をアピールできると思うし、メンテナンスもラクだ。
 豪華なエントランスや応接室っていうのは、使っている自分のモチベーションをあげるためにも効果はあるが、それよりも訪れた客に先制パンチをかますという役割が大きいと思っているので、そのパンチを効果的にするためにも、「ちゃんと磨かないといかん」と思っているわけです。

 たぶん、有名ブランド店の店舗なんかは身にしみてわかっているのだろうけど、「ぴっかぴかの店舗」っていうのは非日常の世界に来る者をいざなうから、「こんな、ちんけなカバンが30万?」っていう非日常の世界に客はすんなり入っていけるはず。よくアメリカ映画に出てくる重役室なんかも、無駄にゴージャスだったりしますが、あれも、あんな重役室に通されて「当社のコンサルティング料は、ざっと100万ドルです」って言われても、セントラルパークが一望できるラグジャリーなお部屋でそんなこと言われたら、なんだか納得しちゃうから、コストかけてゴージャスなオフィスにするわけでしょ?そんで、それで100万ドルとれるのだったら、年間数万ドルの「掃除費用」かけたっていいわけですよ。

 という理屈で(あんまし理屈になってないと思うが)、私は小規模な会社で働いていると、自分で勝手に「私の年収数百万のうち、50万円くらいは、応接間のメンテナンス費用である」と考えているので、自分に暇の無いときには「ハウス・キーパー」と化して小間使い(アシスタント業務をする派遣社員)に「社長室の本棚がごちゃごちゃになっているから、整頓しておいてください」と指示したりしてましたが、現在はわりと自分自身が暇なことも多くなったので、社長室の入口のドアノブを磨いたり、傘立てを磨いたりしているわけです。

 うちの会社の社長室で100万ドルの取引が成立する可能性は低いのですが、銀行さんはよく来るので、融資を受ける際にも 「社長室がピカピカな会社」だったら、「それだけの掃除費用を負担できる余裕がその会社にはある」と銀行の担当者が思うのではないかと考えているのですよ。

 で、自分の部屋をいくらキレイにしても、それは利益を生まないので、やらないんです。
 もちろん、会社の共有スペースには興味がなくても、自分ちはピカピカにしている人もいることでしょう。でも、それは多分、自分がそのほうが心地よくて、自分が心地よいということは自分にとっては大きな利益でしょうからそれはそれでいいと思うのですが、私は自分の雇い主の周辺がきれいになって、それで商売うまくいって、それでごきげんのよくなった雇い主が、うっかり私にも高給を支払ってくれて、それで私が汚い部屋でゴロゴロとテレビ観ながら高い酒飲んでいたほうが幸せなので、そーしているだけなので、これはあくまでも趣味の問題である。

 と胸を張って言っているが、果たして、もしかしてインテリア・デザイナーかなんかと結婚しちゃって、うっかり主婦になってしまい、ダンナが自宅で仕事していて、自宅で商談したりするので、「ダンナの稼ぎは私の掃除能力にかかっている!」と思ったら、台所をピカピカにして、自家製ハーブティーや水菜のサラダや低脂肪なローストビーフ作っちゃったりするのかは疑問。

 やっぱ、仕事と家庭は分離させたいな〜
 フレンチのシェフや日本料理の板前さんが、家に帰ると奥さんの作った「インスタントラーメンにキャベツとベーコンが炒めたのが載ってるだけの簡単昼食」が一番旨い、なんて言ってるといいな〜ってかんじで、「仕事と家庭」と言うとアレだが、「非現実空間と現実空間」と言えばリベラルなかんじがするけど、私にとっては仕事というのは非現実的なものなので、「会社ではマメに掃除に勤しむ自分」も非現実なのである。バーチャルなかんじ。アバター(もエクボといわずにいられない)まとっているわけです。アバターでマトリックス。

 今日は早起きしてスーツ着て、アバターごっこしてきたわけだ。

 で、世の中にはたぶん、逆の発想の人もいるわけで、「仕事している自分が現実」だと思うと、家庭では非現実を求め、IDEEの家具を自宅用に買って、せっせと磨いている人もいるはずで、それはそれでいいと思うのだが、重要なのは、それをちゃんと自分で意識できているかどうかだと思う。
 両方とも非現実空間にしちゃう人もいるだろうし、もっと多いのは両方とも現実空間にしてしまう人もいて、それはちょっと精神的に辛いような気もする。

 そうだ、人間やっぱり「私は女優」と自分を偽ってアバターもエクボになるときが必要なんだ。
 私にとっては、それが「私は小間使い」で会社でせっせと掃除に勤しんでいるときなんだと思う。

 あまりにもアバターな自分の出現率が増えてしまうと「本当の自分探し」にハマってしまったりするようだけど、アバターをエクボくらいの出現率で押さえられるのが、「バランスのいい現代人」としての資質だと思うざんす。

 ちなみに、何の関係もございませんが、あたくしは「エクボ美人」であるのですが、誰も指摘してくれないので(てゆーか、「エクボ」=「美人」なわけでもないし、昔はよくエクボを誉められたが、それって「エクボしか」誉めるところがないという、悲しい真実に気がつかないフリをしていたのですが、最近エクボに対する言及が減ったのは、エクボ以外にも見るところが増えてきたのか、それとも・・・・あまり深く考えるのはやめよう)、自分でいいふらしています。にっこり。(エクボ出たからって、大したメリットは無いと知り尽くした人にしかできない空虚な微笑みを誰もいない自分の部屋で展開しているときの空しい擬音。単なる顔の筋肉組織の異変による「くぼみ」なんですよ。どーせ、どーせ)
10月4日(土)

●ドメスティック・バイオレンス

 昨日は泥酔状態だったのにもかかわらず、日記を書こうとしていたようだが、途中で力尽き、ふと気がついたら3時で、パソコンと電気を消してちゃんと寝巻きに着替えて寝たらしい。

 そして、朝目が覚めると、口が痛かった。
 直径1センチくらいの口内炎ができているようである。

 振り絞るように起き上がって、冷蔵庫から水を出して飲んでから、鏡を見たら「どひゃ〜〜〜〜」
 下唇が無残にも腫れあがっていたのである。ウナギ犬か、松本セイチョウかってかんじ。いかりやちょうすけとも言える。
 ドラマなんかのメイクから推測すると、殴られて口の中を切ると、こんなふうになるようだが、私は台所の床にアゴをパンチされたことになるらしい。
 「他に被害はないのか?」と自分の体をスキャン(起きぬけでボーっとしているので、痛い部分を探すのに集中力が必要であった)すると、肘にも微かな痛みが・・・・あ、すりむけてるが、それほど大事でもないようだ。ここで顔を守ったのだな。利き腕じゃない左手でガードしたので、鼻は守ったものの、左手の弱みをアゴでカバーしてしまったらしい。
 その左手も、玄関のヘリに落ちたので、親指の付け根から出血したという顛末だったようだ。(さっき帰ってきて現場検証したら、玄関のへりに血痕を発見)

 まー、しかし、鏡に映る自分の姿は「酒乱の夫に殴られた哀れな女の翌朝」そのものであったが、「酒乱」なのは夫じゃなくて、自分だってことが「酒乱の夫に殴られた哀れな女」よりもミジメさ倍増である。目が腫れぼったいのも、「ああ、なんて男と結婚してしまったのかしら、あたし・・・・」と泣きはらしたわけではなく、単なる飲みすぎが原因である。

 こんな顔で会社に行きたくなかったが、そんなことで有給をつかうのも悲しいので、がんばって出勤したが、二日酔いの倦怠感と、「ひとりドメスティック・バイオレンス」の自己嫌悪でヨレヨレで全然仕事にならなかった。
 唇の腫れは夕方にはかなり治まったが、そうなると、唇の下に打撲の際にできたと思しき小さなアザができていて、また深い悲しみに包まれたのであった。

 せっかく両親が丈夫に産んでくれたのに、傷モノにしてはアカンではないか。
 まあ、こういう事件が起こるといつも言い分けしているのだが、うちの父もしょっちゅう顔に「謎の傷」を作っていた人だったので、これはその遺伝子のせいである。という説と、もうひとつお気に入りの言い訳は、「親に暴力をふるわれて育った人は自分の子供にも同じことをする」というのを広義に解釈して「うちの父ちゃんは、いつも自分自身に暴力をふるっていたので、私も自分に同じことをする」という説である。

 こういう屁理屈を言う自分は、「かなりひんまがっているファザ・コン」だと思うのだが、娘がこうして父への歪んだ愛情を体を酷使して表現しているということを父は気づいていないはずなので、大怪我して入院したりしないようにきょーつけないとな。

 ああ、それにしても、こんな自分はやっぱりヤだから、すっぱりと変わりたいもんだ。

 と、思って「さて、どう変わりたいのだろう?」と考えてみたが、

 うーん
 うーん
 うーん・・・・・・



 酒飲んでも足がもつれない人になりたい!



 と、思いついた瞬間に、己の楽天的性格にあきれかえると同時に「自己嫌悪」を通り過ぎて、「自己愛」の世界に突入しそうになった。
 毎日「これが健康にいい」って紹介している番組やってるけど、「足がもつれない酒のつまみ」も紹介してくれないかな?

 あーあ、禁酒法時代に生まれていれば、もっと立派な人になれたかも。
 と、問題を摩り替えて、ちまちまと逃避しているのであった。

 明日はまた5時起きだ。寝ぼけて転ばないように、早寝しよっと。
10月3日(金)

 うう・・・すっかり酔っ払って帰り、家の中で転んで、手の親指から出血&口の中を切ってしまい唇が腫れてしまった。こんな、あたしのお尻触ったって面白くないと思うのだが・・・・・飲み会のとき、セクハラの話になったら、ふざけて触った人がいたので、物好きもいたもんだ・・・・・「訴えたら、100万円くらいとれますかね」とヒョーヒョーとして言っていた自分もかなりダメダメだった。

 のんだくれだ。

 うう・・・唇が痛い。
 思いっきり口の中噛んでしまた。

 人生において重要なことは「やりたいこと」よりも「やっちゃったこと」のようだ。
 ううあ・・・口の中が痛い。

10月2日(木)

 会社お休み。
 月曜日は腰痛のため休んでしまったが、今日の休みは予定通り。土日が出勤なのである。
 腰の調子がイマイチなので、久々に兼平鍼灸院にお世話になる。

 少し早めに家を出て、銀行で通帳記帳をしたり、図書館に寄ったりしてブラブラと歩いていたのだが、キンモクセイがいい香りをふりまいていて、気持ちがいい。
 今日は天気がよかったので、午前中に起きて布団を干したり、洗濯したりしていたが、ベランダに出ているだけで日に焼けそうだった。ついでに、「三つのしもべ」も水をたっぷりやって、ベランダの日当たりのいいところで日光浴させてあげた。なんだかフツーの主婦のようである。

 久々の鍼治療であったが、腰や背中がかなり軽くなったような気がした。4時には終わって買い物して帰る。今日も自炊。最近、納豆に凝っていて「これさえ食べてりゃなんとかなるだろう」と日ごろの不摂生の免罪符となっている。納豆に「畑のキャビア」こと「とんぶり」とウズラの卵を入れれば栄養バランスもバッチリだ。

 瞬間的「ヘルシー・ブーム」なのだが、「そうだ、ミスター・アンダーソンにもご相伴させよう」と思って、晩酌のビールだけでは栄養が偏るから、昨日食べた「厚揚げ」をマトリックスに入れてあげたのに・・・・・・見向きもしないよ。ミスター・アンダーソンは「大豆食品は体にいい」と洗脳されていないだけかもしれない。こうなったら豆乳でも注入しちゃろうか。

 そういえば、今日は銀行に寄るので、遠回りしたので、「タローとジローの家」の前も通ったのだが、やはりジロー(ハスキー犬)がいない。この間も、タロー(柴犬)しかいなかった。ジローはどうしたのだろう?死んだのか、逃げ出したまま戻ってこないのか。気になる。

 話は変わるが、今日久々に預金通帳を全部記帳したら、7年前、前の会社を辞めたときの預金残高をやっと超えた。あの頃は「そのうち、会社辞めて遊びまくるんだ〜」と思っていたので、地道に貯金していたのだが、2年間遊んだので定期預金をかなり崩してしまったのだが(失業手当も貰わなかったので)、5年で取り戻したようだ。
 長らく月給だけの「派遣社員生活」だったので、全然貯金できなかったのだが、最近は賞与が貰えるようになったものの、それをパーっと遣ったことがないので、ついつい地道に貯蓄してしまうようだ。バブルのときの高金利とは違うので、貯めておいても全然増えないんだけどね〜

 しかし、「なんだ、私、わりと金持ってるじゃん」と思って、スーパーに行って「今日は発泡酒じゃなくて、ビールを買おう」なんて考えるあたりが根っからの貧乏性である。
 そんで、家に帰ってから「そろそろ、秋冬物の服を買わないとな」と思い、その前に「もう着ない服」を片付けないといけないので、ボロくなったシャツを3着捨てた。あと、ひところ買い捲ったスティーブン・キングの文庫本も全部捨てた。これで、多少隙間ができたので買い物できる。

10月1日(水)

 腰の調子が悪いから、スポーツクラブ通いも少し中断だな・・・・と思っていたら、昨日の夕方から出血しはじめ「なーんだ、どっちにしろダメだ」と一安心。周期的な「スポーツクラブに不適切な体調」とイレギュラーの体調不良が同時に来るとは、とても経済的である。

 というわけで、夜はドボンと眠くなり、ドブンと寝た。

 そーいや、寝る前に久々に「プロジェクトX」を観ていたのだが、「これは、二匹目のどじょうを狙って中島みゆきを主題歌に起用した某お台場在中民放に対する嫌味か?」と多くの人が思ったであろう「こっちはドキュメンタリーなDr.コトー」であった。私は「Dr.コトー」のことを「北の国から 南の島編」と呼んでいたというのに、昨日の「プロジェクトX」は、「北の国から 南の島編」をさらにわざわざ北国でやっているというややこしいことになっていたが、でも、僻地の医者ってだいたいああいう展開になるのかな?

 せっかく赴任してきたのに患者は来なくて、地元の漁師には「おめーなんて、どーせ都会に戻ることしか考えてないんだろ」と苛められ、それでも切羽詰った急患があったので、なんとか治療すると、「今度のセンセーは違うぞ」とすぐに噂が広まり、大忙しになり、任期が終わっても帰りそびれ・・・・
 それとも、昨日紹介されてたセンセーがコトー先生のモデルなんだろうか?
 よくわからんが、中島みゆきの唄が流れると、よけいなにがなんだかわからなくなってしまったが、でも、現実の方の診療所を手伝ってた漫画好き青年が、長じてモンキー・パンチになったというオチにノックアウトされてしまいました。

 朝起きてワイドショーをつけたら、今日は大した事件がなかったらしく、「品川駅に新幹線開通」が大きくとりあげられていた。そんな大事なのかなあ。あまり新幹線に乗らないので、個人的にはどーでもいいし、品川駅は実は品川区ではなくて港区にあるという、さらにどーでもいいことを知った。
 そんでTOKIOも出演してリーダーが祝辞を思いっきり噛んでた祝賀会では、石原都知事が頑張ってた。「韓国はTGVなんてバカゲタもん採用したから・・・」とか言っていた。

 石原都知事とt.A.T.u.は同じ芸風だなと思った。

 話は変わるが、先日「天才プログラマー」の称号を頂いた人から電話があり、「いろいろやりたいことがいっぱいある」というお話しを拝聴させていただいたのであるが、「あなたは、やりたいことってあるの?」と質問され、また不機嫌になってしまった。
 夢多き人と、そういう話をするのが苦手である。
 ハゲの人が「どんな髪型にしたいですか?」って聞かれたときのような戸惑いを覚えるのだ。ほっといてくれたまえ。

 そして翌日、腰が痛くなり、会社休んでゴロゴロしていたのだが、そしたら急に掃除がしたくなった。「掃除がやりたい」と「やりたいこと」が明確になったというのに、腰が痛くて立ち上がるのも大儀である。しかし、こうして無為に横たわっていると、部屋のホコリが目に余るのはなぜなんだろう?元気なときには、「掃除なんてしなくても死なないもん」と開き直っているというのに。

 そしてさらに、「もう、すっかり秋だし、衣替えもしたいなあ」「部屋の隅に積んである本もどっさり捨てたい」「ブラウスやハンカチにアイロン掛けたい」「ああ、たまには自炊がしたいよ」と、だんだんと「やりたいこと」が増えてきてしまったのである。
 しかし、しがない「ぎっくり腰寸前」の絶対安静の身では、かなわぬ夢。
 たくさんの夢に囲まれながら、シクシクと寝転がっていたのであった。

 どうして「できない時」に限ってやりたくなるのだろうか?
 そう考えると「やりたいこと」はあんましない体質というか性格なのだが、「痩せたい」とか「足が細くなりたい」という「できない度」としては「腰痛のときの掃除」にも匹敵するような「やりたいこと」なら山ほどあるわさ。

 で、そんな無理なことじゃない「やりたいこと」があまり無いのは、やりたいことは大抵やっちゃうからだ。
 昔はよく「寝て暮らしたい」と夢見たので、実際にやってみたが、3ヶ月くらいで煮詰まり、「やっぱ文句言いつつも仕事して、たまの休日に惰眠を貪るから幸せなのだ」とわかったので、それ以来ちゃんと働いているし、ちゃんと仕事していると、そんなに暇がないので、休日は惰眠するか、たまに「あ、あれやりたい」と思いついたことを実行すると満足してしまう。

 昔からそういう性格だったので、東京タワーの展望台に上ってみたら、都庁が見えたので「あそこまで歩いてみよう」と思ってヘトヘトになって満足したりしたっけな。
 そもそも「やりたい仕事」って無いんだよな。消去法みたく今の仕事は選んだのだが、でも気に入っているのでいいのですが、接客業みたいのは向かないというか好きではないのだが、でも、学生のときに喫茶店のウェイトレスやったときには、なぜか経営者に気に入られていた。たぶん、私がギャルギャルしてなくて、大人とちゃんと話しができるところがよかったんだろう。ただ単に、その経営者は絵画を集めるのが好きだったのだが、私も絵が大好きだったので、喫茶店にかけられている絵に興味を持ったから喜んだだけだったのかもしれないけど。

 それで思い出したけど(また、どんどん話が逸れてます)、その店は常連客が多く、ある日、いつも来るお爺さんが会計して帰るときに、コートを着ようとしていたのだが、袖がもつれて腕がなかなか入らないようだったので、後ろから手を出して、コートを着るのを手伝ってあげたことがある。
 その客はいつも無表情の爺さんで、私が手伝ってあげてもニコりともせず、黙って帰っていったのだが、その後すぐに経営者(厳密に言うとオーナーの奥さんだが、実務は全て彼女が仕切っていた)が飛んできて、「今の見たわよ」と言うので、ポカンとしていたら、「ああやって、さりげなくお手伝いができるなんて、もう感激するくらい品がよかっかたわ」
 「はあ・・・・・」と生返事した。誉められたことは悪い気がしないが、でも、賢い私にはわかっていた。「そんなことで誉められても、結局、優秀な小間使いになれる資質があるってだけじゃん」

 そう、私は「小間使い」の才能を持っているのだ。
 今でも、その眩しい才能を持て余している。会社のミーティング・ルームには、輝くばかりの「IDEEの家具」が置かれていて、それは建築士のセンセーの最近の趣味なのだが、白木に妙なコーティングしてあるテーブルは、なぜか妙に「手垢がつきやすい」のである。ミーティング・ルームのお茶だしや片付けを任されている派遣社員は普通に仕事してくれているが、その家具の厄介さには気がついていないらしく、彼女が出勤してこない土曜日などに私が磨いています。だって、せっかくの「田舎から出てきたデザイン系専門学校に通う若者の憧れのIDEEの家具」なのに、手垢まみれじゃ申し訳ないじゃん。つーか、もっと手入れしやすいコーティングにしろよ、IDEE!」

 他の社員はIDEEが手入れの難しい家具であることに気がつかないようだが、小間使いの才能のある私だけが気がついてしまい、「気がついてしまった自分」を恨みながらせっせと磨いてあげているのである。もっと安っぽい家具のほうが手入れが断然ラクなのにな〜。

 自分の部屋は気が向かないと掃除しないのであるが、仕事となると小間使い気質を発揮してしまうので、会社の同僚たちは私のことを「きれい好き」だと誤解しているに違いない。

 結論。
 自宅では、腰痛のときにしか「掃除したい」と思わないが、それが職場になると、コピー機のディスプレーをせっせと磨いたりしているので、小間使いの才能がある。いずれ、事務職としては就職が難しくなる年齢になるだろうから、その時にはぜひ「家政婦」として活躍したいと思う。仕事だと思えば、かなり完璧に家事をこなせると思う。

 なにを書いているのかわからなくなってきた。えっとなんだったっけ?「やりたいこと」だったかな。「やりたいこと」よりも「できること」に重点を置く性格のようであるが、今現在、出血多量のため、脳味噌にあまり血がめぐっていないと推定されるので、いわゆる「子宮で考えている」状態なのであるが、「子宮で考える」と「将来は、優秀な住み込みお手伝いさんになれる自信がある」と断言してしまう自分がこれでいいのかという疑問もあるが、まあ、いいでしょう、ってことで。(後で、脳に血が巡ってきたところで、自分で読んで自分で笑うからいいの。ほっといてください)
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