可燃物な日々

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7月15日(日)

 ハリポタ新刊洋書に厚みでは負けるが、重さでは負けていないような気がする「環境危機をあおってはいけない」であるが、同じくらい厚い本だった「サンダーバードを作った男」よりも、スタスタと読み進んでいるのは、データを詳細に説明している箇所を読み飛ばしているせいだと思われる。

 「酸性雨」の章を読んで、「そういや、そーゆーの流行ったな」と懐かしく思い出すが、でも、待てよ、私の周囲で流行したのは「酸性雨」よりも「放射能雨」だったような気がする。

 「雨には放射能が含まれているから、ちゃんと傘をささないとハゲるよ」

 と小学生のとき、よくそう言われた。大人が言っていた記憶がないので、子供同士の流行だったのだろう。今考えると変な流行だが、あのころの小学生は「放射能」というものがそもそもどういうものなのかわかっていなかった。でも、ヒロシマやナガサキの原爆で多くの人を死に至らしめたのは、爆弾そのものではなく「放射能」のせいだということは知っていた。だから、なんか謎の毒物だったのである。

 たぶん、あの当時、太平洋上での核実験がニュースになっており、その影響として「放射能を含んだ雨が降る可能性もある」なんていう説があったのだろうか?そして、親達に「放射能をあびると、どうなるの?」と聞いても、親もちゃんと説明できないから「髪の毛が抜けたりする」などというアバウトな説明をしたので、「放射能雨→ハゲる」という図式になってしまったのだと思う。

 というわけで、雨が降ると、近所のガキどもは「ハゲるぞ〜」と嬉しそうに声をかけあっていた。
 でも、私は「光化学スモッグ注意報は天気予報でちゃんとやるのに、放射能雨情報なんてみたことないな」と気がついていたが、やはり髪の毛が抜けるのは嫌だったし、もしかしたら四谷怪談のお岩さんの髪の毛が抜けたのも、放射能のせいだったのかもしれないと密かに怯えていたりした。

 でも、あのころは、「ホーシャノー」とか「サンセーウ」とか「コーカガクスモッグ」とか「ミナマタビョーがスイギン」とか「ヨッカイチゼンゾク」とか「アシオドーザン」とかの「公害な単語たち」はなんとなく魅力的だった。川はドブ川になって、だんだん塞がれて暗渠になって単なる「下水道」と化し、空からは有害物質が雨とともに降り注ぎ、冷蔵庫の中は添加物でいっぱいという世界もそれほど暗黒に思わなかった。高度成長期だったというのもあるだろうけど、でも、オイルショックはさらに楽しかった。

 うちの二階の空き部屋が備蓄倉庫と化して、洗剤や石鹸やトイレットペーパーが積まれていたし、スーパーで「お一人様、1個まで」なんていう売り出しがあると、頭数を揃えるために私も動員された。そして、小学校のトイレからトイレットペーパーが消えて、各自持参して学校に行った。中にはロールで持ってきた子もいて、みんなに笑われた。

 でも、あのときは、なんか能天気というか悲壮感がなかったような気がする。みんな単なるデマだと心のどこかでわかっていたけど、その騒動に参加するのは楽しかったのかもしれない。うちの母は後年、「あれにはダマされたわよ、まったく」と笑いながら怒っていたが。

 みんな、やっぱり「世界の終わり」が好きなのかもしれない。

 さて、また出血開始なので、今日は会社でずっと眠気と闘っていた。今日こそ早寝しよう。
7月14日(月)

 「親を市中引き回し&さらし首」発言が話題になっていましたが、私はそれをニュースで知ったときに「これは、埼玉県知事への嫌味なんだろうか?」と思ったのですが、日経新聞の「春秋」でも、同じようなことが書かれていたので、「う・・・・新聞のあそこのスペース(天声人語などが居座る場所)と同じこと考えちゃったぜ」と、がっかりしてしまいました。

 でも、大物政治家による「自分と娘は別人格!」って発言と「子供の犯罪は親の責任!」っていう発言が並ぶと、なかなか味わい深いものがあった。
 世論的にはどっちが優勢かわかりませんが、「子供の犯罪は親の責任」という考え方って「無理心中の容認」と繋がるものがあるような気がします。「別人格」という考えが根強い欧米では、どんな理由があっても、自分の子供を殺すのは他人の子供を殺すのと同じくらいの罪なんだということに気がついたのは、前にアメリカだかカナダで無理心中しようとした日本人の母親に向かって「人殺し!」と叫んだり石を投げたりする群衆の映像を見たときでした。
 日本でそんな光景見たことないもん。(ニュース映像では)

 あのときはたしか、日本政府が介入して「無理心中」という「文化」を説明して情状酌量に持ち込んだらしいけど、果たしてちゃんと理解してもらえたのだろうか?私にしても、無理心中のニュースを見ても「ふ〜ん、かわいそうに」ってくらいなもんだが、「他人の子供を殺すと重罪なのに、自分の子供を殺すのは軽い刑」というのは変じゃないか?と問い詰められたら、「そういえばそうだな」と考え込んでしまう。

 そりゃ、幼児虐待の結果に自分の子供を殺してしまうのと、自分が死のうと思って「残していくとかわいそう」と先に子供を殺して、結果的に自分は死にそびれて生き残ってしまったっていうのは、殺された方にとっては同じことだが、殺した方の「動機」が違うわけで、だから殺人を犯した後に自殺した犯人は書類送検されたりするが、一家無理心中をやり遂げた人が書類送検された話を聞かないわけだし(ほんとにそうなのか知らないけど)、なんだかよくわかんないな。

 罪と罰の話は難しい。
 難しいことを考えると眠くなってくるのであった。

 ところで、話題になった少年犯罪で、私が一番気にしたのは「あーあ、これで各地の商店街や自治体がこぞって監視カメラ導入に向かうかもなあ」ということだったのだが、そういうコメントはあまり見かけないので、ちょっとさびしい。
7月13日(日)

●謎のトライアングル

 一週間くらい前に腕を虫に刺された。蚊にくわれたのと違って、ポチっとした発疹のようなものができ、それがなかなか治らない。痒いからついボリボリ掻いてしまうので、水っぽくなり、よけいに治らない。この時期、こういう虫刺されはときどき起こる。
 しかし、不思議なことに、その虫刺されは体の対称な場所にできていた。脇の下と、肘の裏(ここには何か名称が無いのか?採血のときに注射針を刺される場所)のちょうど中間地点。力こぶの頂上から横3センチくらいの場所であるが、腕の両方のほぼ同じ場所だった。

 ボリボリとかきむしりながら、「こういうのって、キリストが磔にされるとき傷ついた場所と同じところに痣ができたとか、そういう聖痕(って言葉だったかな?)っぽくないか?」と思う無信心者であったが、昨日、会社のトイレで化粧を直していたら、ふと同じような虫刺され跡が、喉にもできているのを発見した。
 男性だったら、喉仏の位置である。喉のほぼ中心。

 ふと、思いついて、腕を真っ直ぐに下げて「きをつけ」(あれ?「きょーつけ!」ってどう書くんでしょう?)の姿勢をとってみた。
 予想したとおり、喉と腕の虫刺され痕は、見事な正三角形を形成していた。
 いったいなんでだろう?虫が好む場所が、たまたまこういう場所なのか?と、しばし、その謎のトライアングルに見入っていたのでありました。

●父の退職祝い

 世間一般的な定年の年はとうに過ぎていたが、非常勤としてしばらくお仕事させてもらっていたけど、先日やっと退職した。ポストを空けないと後続が待っているからね。
 というわけで、誕生日と退職祝い(祝うものなのか疑問だが)を兼ねて、家族で会食することになった。場所は妹の希望で「カニ道楽」(母が友達を北海道ツアーでカニの食べ放題をした話をしたら、どーしてもカニが食べたくなったらしい)。時間は弟の希望で「昼ごろ」(乳児連れだからかと思いきや、夕方5時には家に戻り、ツール・ド・フランスの中継を見たいためだと後でわかった)。

 新宿の伊勢丹裏のカニ道楽には初めて入ったが、通路が入り組んでいてトイレに行くと迷子になりそう。でも、丁度いい大きさの個室で、赤ちゃんのオシメ替えや授乳もできた。やっぱ、赤ちゃん連れファミリーは個室よね。
 姪っ子Nちゃんと会うのも久々だったが、ずいぶん人間らしくなっていて、人の顔をじっと観察するようになった。でも、お嫁さんのMさん似でおっとりした赤ちゃんで、ほんとに大人しいので助かるが、それでも手近なものは片っ端から手にとるので目が離せなくなった。お気に入りは、陶器でできたカニの形の箸置で、ずっと齧っていた。もう歯が下二本生えているらしい。

 Mさんの話によると、印刷物が大好きのようで、新聞のチラシのような「派手な色の紙」をすぐ口に入れようとするらしいが、たしかに箸袋もかたっぱしから口に入れてしゃぶっていた。この年ですでに「ダイエットのコツは食物繊維」だと知っているのだろうか?派手な色のものを好むのは、「色々な色の食品をとれば自然とバランスがとれます」ってわかっているからだろうか?

 しかし、Nちゃんを抱いたうちのママンが「ほら〜この足、触ってみなさいよ〜」というので、むっちりした太ももをツンツンしたが、ほんと〜に「もち肌」でピッチピチ。誰もいないときに、そっとほっぺたを押し付けて、私の弛んだお肌に「ほら、思い出しなさいよ、これよ、これ」と喝をいれてやりたい。

 武道の道場に行っていた妹の同居人M氏も1時間ほど遅れてやってきた。彼はゲーム会社の営業。マニアックな音楽誌みたいな作りのゲーム雑誌(「CONTINUE」っていうのだった。今調べたら「クイック・ジャパン」の太田出版だった。にゃるほど〜)に自分の写真入り対談が載ったので、見せびらかしていた。ちゃんと仕事しちょるらしい。いや、彼はなかなか喋りもしっかりした人で、社会人資質としては申し分ないとは思うし、私も彼のことはけっこう気に入っているのだが、なにしろ私はゲームに疎いので、彼がいる会社が何を作っていて、どういう位置にいるのかさっぱりわからないのだ。

 でも、弟+妹+同居人M氏が集まるとゲーム話に花が咲き(前はそれに競馬話が加わっていたが、今は全員離脱)、私はわからないなりに、それを聞くのが大好きである。ちゃんと話ができる人たちが集まると、たとえその話題があまり興味のないものでも面白いんですよね。M氏の会社で作っているのは、膨大な制作費がかかるゲームではなく、1500円で売られる「シンプル」っていうやつらしく、そこでは「バカゲー」が活躍するみたいで、ある程度のセールスは確実らしい。

 「1500円だから、新作をとにかく買う人がいるんですよ。おたくですけどね」
 と言われたが、でも、それって、私にも心当たりがある。
 「音楽オタクも、レコードってそんな値段だから、とにかく10枚買って1枚当たれば御の字ってかんじで買い捲るもんね。私もそういうときあったよ。それと同じでしょ?」

 そんなかんじで、低予算ゲーム話をいろいろ拝聴しておもしろかった。今度、その会社から発売するエロゲーの主題歌をM氏が歌うとか(笑)。小さな会社ってやっぱ面白いよね。私も前に勤めていたCM制作会社で、低予算CMを作ったときに、社員の家族をかき集めてエキストラ出演させたりっていうのがあって盛り上がったけど、そういうノリみたい。

 そういうわけで、「父の退職祝い」はそっちのけで、お喋りしまくっていたが、まあ、そんなもんでしょう。
 そういえば、弟がとうとう家を買うようで、「30歳で結婚。2年後に子供が産まれて、35歳前(25年ローン・ギリギリ)でマイホーム購入」という、弟の人生設計の「標準ぶり」に、ねーちゃん、またまた感激。
 生前贈与と称して、父から少しばかりの頭金資金を貰うようだが、もってけドロボーってかんじ(笑)。
 ねーちゃんもまたお祝いはずんじゃおうかしら。家買って落ち着いたら、二人目も産んでね。

 ところで、「父のお祝い」であったはずなのに、支払いは父が担当。「あれ?いいの?いちおー、お金持ってきたんだけど」と言ったら、「後でじっくり回収する」とのことなので、お言葉に甘えてお任せした。いつも父や母に素敵なプレゼントを用意してくれる弟夫妻(というか、嫁Mさん)は、今回、父にデジカメを贈った。パソコンへの接続は妹ヨコピに任せていたが。

 食事が終わって、生前贈与の打ち合わせで喫茶店でコーヒーを飲み、弟夫妻は帰宅。
 残された、父母姉妹は「さて、どうしよう」
 妹が「そーいえば、ハリポタの新しいの出たけど、おとーさん買った?」
 父は「いや、国分寺の本屋にはなかった。でも、この間、見つけたんだけど、誰かがお祝いに買ってくれると思ってたのに・・・」
 妹は「お祝いにしようと思ったけどさ、もう買ったかと思ってたから・・・・」
 姉は「そうか、じゃあ、今から買いに行こう!」

 というわけで、南口の紀伊国屋に行って、平積みされたハリポタを買おうとしたが、なんか漬けの石みたいに分厚い本だ。「2種類あるけど、どう違うの?」「きっと英国版と米国版があるんだよ。おとーさんはどっちがいいの?」「どっちだって同じだ」「でも、なんか単語が米国版のほうが易しいっていう噂だけど」
 店員に確認してみたら「表紙が違うでけで中は同じです。子供向けと大人向けで表紙の絵が違います」

 私には、どっちが子供向けだか大人向けだか、わかりませんでした。イギリス人のセンスってわからないわぁ。

 つーわけで、姉娘&妹娘の父の退職祝いプレゼントは「ハリーポッター最新版洋書」。
 妹は「どうする?プレゼント用に包んでもらう?」と言ったが、「いいよ、過剰包装だから」と、本屋の袋のまま父に渡した。ミヤノ家の家風は「質実剛健」なのである。

 その後、妹が「竹宮恵子が『私を月に連れてって』の続編を書きはじめたらしんだよ」と言うので、「それは本当か!」とコミック売り場を散策。
 単行本は発見できなかったが(まだ出てないのか?)、妹の情報によると、「メロディーっていう雑誌にときどき掲載されているらしい」「そんな雑誌、知らないぞ!」というわけで、雑誌コーナーに行くと、あった

姉「なにこれ?陰陽師が載ってるじゃん」
妹「そうでしょ?安孫子三和、河惣益巳・・・って、LALAの作家だよね〜」
姉「川原泉、魔夜峰央・・・・花とゆめの人気作家もいるよ。あ、やっぱ白泉社だ。でも、この表紙じゃ見逃しちゃうよ」
妹「わたし、最近はヤング・ユーしか買ってない」
姉「わたしもー(笑)」
妹「メロディーの表紙も幼いけど、LALAはもっと幼くなっちゃったよ」
姉「もう、漫画なんて、高校生や大学生は読まないってことなんだろーねー(泣)。うわ、別マがこれか・・・」
妹「でも、別マは昔からこんなじゃん。変わってないよ」
姉「プチ・フラワーも月刊誌に戻っちゃって、表紙が幼くなっちゃたんだよ。でも、萩尾望都がまた連載してるよ。吉田秋生のYASHAの続編が始まった。」
妹「YASHAってちょっと途中からつまらなくなって読んでない」
姉「わたしもー」

 変な姉妹の会話が展開された。

 その後、みんなをベルギービールの「ヒューガルデン」に誘ったが、残念ながら日曜日は休業。母が「寒いから暖かいものが食べたい」と言い出したので、父の元職場の近くにあったうどん屋に入って、うどんを食べたらお腹いっぱいになった。

 ミヤノ家の次回「家族大集合」はたぶん、弟の新居お披露目。    
7月12日(土)

●ガツンと景気よくやってしまったお話

 昨日の夜、そろそろ寝ようと思って、コップを台所に片付けようとしたら、部屋と台所の間にある開き戸の枠で、足の小指を「ガツン!」してしまった。

 う・・・うぉぉぉぉ・・・・

 と低いうめき声(こういう場合、絶世の美女や美少女は、どういう声を出すことになっているのだろうか?私にはわからない)をもらしながら、なんとかコップを流しに置いてから、しびれる足を引きずりながらトイレに入った。洋式トイレなのであるが、ふと足の小指に目をやると、どうやら少し出血してしまったようだ。トイレの敷物にも小さな血痕が残っていた。うちの母がどっかで拾ってきた麻袋(穀物用)なので、血痕くらいどうってことないのだが、「もしかすると、台所の敷物も汚したかも」と思い、トイレから出てみると、案の定、象柄の敷物にも血の染みが・・・・・・しかも、でかい染みができている。

 あわてて小指を確認すると、血がどぼどぼ(おおげさ)出ているではないか!台所の床に、直径3センチくらいの血溜まり(おおげさ)が3つほどできていた。
 急いでトイレットペーパーをガーっと巻き上げ、小指をくるみ、血痕を拭いた。あー、びっくりした。小指をガツンとやると、かなり痛いのは覚悟していたが、こんなに出血したことなんてなかった。とりあえず、傷をちゃんと処置するまえに歯を磨いてしまおうと立ち上がると、うわっ、貧血だよ。

 念のため書き添えておきますと、昨日は酒飲んでませんでした。飲んでたら、もっと大惨事になっていたかもしれないが、シラフだったせいで、自分の血を見て貧血起こしてしまったらしい。もともと私は、わりと痛みに弱く、弁慶の泣き所のような弱点を強打したりすると軽い吐き気がしてしばらく動けなくなったりするのであるが、打撲のショックと流血のショックのダブルパンチでヘロヘロになってしまったらしい。我ながらまったく情けないが、でも意地でも歯を磨こうと、座ったまま歯ブラシを取り出して歯磨き粉を出して口につっこむが、手に力がはいらなくてまともに磨けない。

 歯ブラシ片手に、しばらく台所の床でうずくまっていたのだが、貧血慣れしているので(最近はそうでもないが、20代前半までは電車の中でぶっ倒れたりしていた)ふと意識がクリアになった瞬間を見逃さず、いいかげんにうがいして、台所の電気を消してから部屋に戻った。たぶん、そのままもう台所には(朝まで)戻れない予感がしたのである。
 よろよろしながらも、消毒薬を探すが、見つからない。おかしい、たしか昔買ったはずなのに・・・・でも、もう古くなったから捨ててしまったのかも・・・・そうだ、あれを「虫刺されのかゆみ止め」として流用していたときもあったので、あれで使い果たしてしまったのだろう・・・・・

 などとやっているうちに、小指を包んだトイレットペーパがみるみるうちに赤く染まっていく。それを恐る恐るはがしてみたが、中は血糊でぐちゃぐちゃで、裂傷がどの程度なのかよくわからないし、よくわかりたくもない。とりあえず、爪はちゃんとあるようだし、指がもげたわけでもないので、大した傷ではないだろう。でも、だんだん最初の打撲の痺れがひいてくると、今度はズキズキと痛んできた。
 とりあえず、傷口にティッシュを貼り付けて、小指の根元をぐっと押さえて止血してみる。しかし、貧血状態は改善せず、座っているのも辛いので、体を丸めて足を上にして小指を押さえていると、死んだコガネムシの死体のようだ。
 しばらくそうしていると、出血の勢いはなくなったようなので、バンドエードを貼って様子を見てみるが、やはりまだ血が滲んでいる。だが、ショック状態はぜんぜん良くならず、かなり脈が速くなっているようで、呼吸が苦しいし、心臓も痛いというか、これは昔よくなった「ロッカン神経痛」ってやつに近い痛みだ。

 横になっても苦しいので、小指をさらにティッシュでガードして、血が滲んでも布団を汚さないようにしてから、布団の上であっち向いたり、こっち向いたり、仰向けになったり、正座して倒れこんでみたりと、「七転八倒」していたが、なんとか心臓の痛みが落ち着いてきたのはいいが、今度はやはり小指の痛みが耐えがたく「これじゃ、寝ようにも寝れない」と思ったが、「そうだ、鎮痛剤を飲もう」と思いつき、またヨロヨロと台所に立って鎮痛剤を水で飲み込んだ。
 まだ指がズキズキ痛むので、保冷剤を冷凍庫から出して、保冷剤と一緒にタオルで足を包んだら、気分的にはかなり落ち着いてきたので、部屋の電気も消してから布団に潜り込んだ。しかし、けっこう暑かったので、木綿のベッドカバーだけ体にかけた。

 横になりながら、「こんな小さな傷で、こんなショック状態になるようじゃ、あんた、交通事故に遭ったら出血多量になる前に心臓止まっちゃうよ?」などと自分をせめていたが、「でも、こういう指先の怪我って、化膿したりするんだよね。そんで、壊疽だか壊死になっちゃって、足を切断したりして・・・・」と自分を脅したりしていたので、なかなか気が休まらなかったが、鎮痛剤が効いてきたのか、そもそも、そんなんでドタバタしていたから、1時をとうに過ぎていて眠たかったのか、いつのまにか寝ていたようだ。

 目が覚めたら寒かった。足を冷やしていたのが効きすぎたのと、ほんとうに気温が下がってたのがあいまって、気がついたらガタガタ震えていた。部屋の中はまだ薄暗かったので、時計は見なかったが5時前くらいだったのだと思う。保冷剤とタオルを足から除けてみたが、もうズキズキとした痛みはなかった。鎮痛剤のせいかもしれないが、とにかく布団を掛け直して、また眠りについた。

 今日は出勤だったので、目覚まし時計で起きたが、指はそれほど痛くなかった。そっとバンドエードを剥がしてから、傷をティッシュで押さえてみると、傷の端っこのほうでまだ軽く出血していた。鋭利な傷口ではなく、爪の生え際の皮がめくれてしまたった鈍い傷(うぉぉぉ・・・怖い。あたしは、これだから子供のころから「医者になりたい」と思ったことがない)なので、なかなか傷が塞がらないようだ。でも、バンドエードを貼り直してみても、それほど血が染みてこないので、もうほとんど大丈夫だろう。
 しかし、昨日のショック状態の余韻なのか、まだ頭がクラクラして重い。脳に血が回ってないかんじ。
 休んじゃおうかな〜と思ったのだが、クララの仕事が溜まっているのをフォローするつもりだったので、今日やらないと来週がまた地獄だ。水分補給しながら、しばらくボーっとしていたが、なんとか出勤。靴が履けないので、小指に一番負担が少なそうだったベランダ用サンダルを履いて行った。小指に力が入らないし、サンダルでも指に多少当たるので、歩みが異常に遅くなり、駅までの道が倍の距離に思えた。

 会社に着くとさっそく救急箱にある消毒薬で傷口を拭ってみた。血糊を拭いてみると、それほど恐ろしいことにもなっていなかった。爪がそれほどダメージを受けていなかったからだろう。
 でも、やはり歩くと痛いので、フロアをヘタリタリと歩いていた。今日が土曜日でよかった。

 会社帰りに薬局に寄って消毒薬を買った。めったに怪我などしないのだが、やはりあったほうが安心だ。それさえあればOKってわけでもないが、お呪い効果もあるだろう。でも、昔は怪我なんかしょっちゅうだったから、もっと平気だったんだけどなあ。友達の傷口を洗ってあげたり、目をつぶっている友達の膝に消毒薬塗ってあげたりしたもんだ。

 そういえば、K子さんは夜中に食器を洗っていたら手をザックリ切ってしまい、傷をタオルで押さえながら近所の交番に「救急病院どこですか?」と聞きに行ったそうだ。救急車呼ぶほどのものでもないが、病院がどこにあるかわからなかったので、とっさに交番に駆け込んだらしいが、血まみれのタオルを見て、おまわりさんもびっくりしていたそうだ。(刺された人が逃げこんで来たのかと思ったのかも)

 また、前の会社で使っていた内装屋さんの武勇伝を拝聴したことがあるが、電動ノコギリで腕を傷つけてしまい、ほんとに「すぷらった!」と出血してしまったので、慌ててタオルで腕の付け根をしばって止血して、車で近所の外科に行こうとしたのだが、同僚が血を見て貧血を起こしてしまいとても車を運転できるような状態ではなかったので、「どけ!」と運転席から降ろして交代して、片手で運転して病院まで行ったらしい。同僚は助手席でぐったりしていたそうだ。

 私はその話を聞いて「男の人って血に弱いですからね〜」なんて言っていたのだが、もうそんなこと言えないなあ。小指の傷くらいで貧血起こしてちゃねえ。
 K子さんにしても、内装屋さんにしても、それが「ぜったい医者に見せないといけない怪我」だとわかったから動けたのかもしれないけど。でも、昨日の私の感じじゃあ、あれでもっと大きな怪我だったら絶対に失神してたと思うけど、そうはならないのが人間の不思議なところか?

 試して見る気はないけど。
7月11日(金)

 夕方、ハイジは必死に電卓を叩いていたが、どうしても合計金額が合わなかったようで、その請求書の担当者に確認していた。しばらくして担当者がやってきて「検算してみましたけど、合ってますよ?」
 担当者が見守る中で、再度電卓を叩いていたが、横で見守られると電卓って打ちづらいんですよね。途中でコケていたので、担当者は「じゃあ、ゆっくりやってください。また合わなかったら内線してくださいね」と微笑みながら退場。

 その請求書には、50枚〜100枚の明細書がついており、それが金額が訂正してあったり、マイナス伝票だったりするので、私がその仕事をしていたときにも、一発で合計が合わないことが多かった。伝票をめくりながら電卓を打つ作業は、その昔は商業科などで真っ先に叩き込まれる技術だろうけど、私はその技を習得していないし、経理に配属されたばかりのハイジだってそうだろう。
 そもそも、OA化によって、電卓を打つ頻度は昔に比べると圧倒的に少ないのだ。だから私は電卓をたくさん叩かないといけないときには、他の方法をとっているいるのだが、ハイジのとった方法は私の度肝を抜くものだった。(ちょっと大げさ)

 「オレが読み上げるから、おまえ電卓打ってくれよ」

 と、隣にいるクララに電卓を打たせはじめた。
 おい、おい、おい・・・・・と思ったが、素直なクララは嫌な顔ひとつせず、ハイジが読み上げる数字を黙々と叩いている。
 まあ、百歩譲って、クララが暇なときだったら「仲良くお仕事してて、睦まじいわね」くらいなもんだが、クララは水曜日まで社員旅行に行っていたので、仕事がとても溜まっているのである。マイペースな彼女はそんなそぶりは見せないが、けっこうテンパっているはずである。
 まあ、しかし、伝票計算なんて数分で済むので、そんなに目くじらたてるようなもんでもないが、ハイジが延々と「2万八千六百円、千五百六十円、一万三百円・・・・・」と悠々と読み上げているのを聞いているうちにだんだんイライラしてきたが、始まってしまったもんは茶々をいれてもしょうがないので我慢していたが、途中で内線が入り、クララがそれをとって話ししているときを狙って、

 「あのさー、電卓で合わなかったら、エクセルでやればいいじゃん」

 と、ボソリと話し掛けてみた。
 そう、私の電卓技能の無能さを補っているのは「エクセル打ち」である。エクセルに、数字を縦に打ち込んで、オートサムでガっと計算して、もし合計が合わなかったら打ち込んだ数字と伝票を確認すればいい。昔勤めていた会社では、レシートみたいな紙に計算過程が印字される計算機を使っていたが、それをPCでやっちゃうわけだ。それに、エクセルでやれば、合計が合わないときも「本当はこうなるはずの数字」を入力して、引き算すれば「合わない金額」が出て、「余計な伝票」とか「ほんとはマナス伝票のはずなのに、そうなってなかった伝票」などがすぐに見つかるのである。電卓だと、そういう数字をいちいちメモ書きしないといけない。

 ・・・・と思って「教えてあげた」つもりであるが、ハイジのお返事は・・・・・

 「エクセルに打つのが面倒じゃないですか」

 電卓で打つのと、エクセルに打つのって手間は同じだと思うが・・・・・「+」の替わりに「enter」押すだけなんですが・・・・
 「教育的指導」をあっさりと却下されて、ロッテンマイヤー先生は二の句が継げなかった。

 結局、ハイジが読み上げ、クララが電卓を打ったら一発でゴメイサンであった。ハイジはそれが悔しかったらしく、しばらくあれこれ伝票をめくっていたが、やはりマイナス伝票を見落としていたことが判明し、クララに「だって、これのマイナスって一瞬わかんないよな?」と確認してもらい「そうですよね〜」と言ってもらっていた。

 いいから、人の仕事の邪魔するな〜〜〜〜〜!
   と、自分の意見が採用されなかった先生は、こんちくしょーな気分になっていたのであった。

 今日は職場でもう一つ「おい、おい、おい」な出来事があった。夕方、親会社との会議に出ていた上司が途中で戻ってきたので、「どうしたんですか?」と言うと、「あ、よかった、まだいたんだ」
 その会議は先日のイベントの責任者たちの反省会で、その後「打ち上げ」に移行することになっていた。親会社+叔父会社+子会社のうちの社員で総勢12名くらい。しかし、誰のミスかわからないが、誰も店を予約していなかったらしい。というわけで、20人くらい入る個室のある焼肉屋の電話番号を調べて至急予約せよ、という指令が下った。そこの店はいつも空いているので、楽勝かと思ったら、「個室は全て埋まっています」とのつれないお返事。

 さっそく上司の携帯に電話すると「え?あそこが満席なの?」「だって、今日は金曜日ですよ。それに、ボーナス時期じゃないですか〜〜〜」
 土日が休みではないうちの会社は「花金」感覚が薄いし、賞与の時期も、給料日もフツーの会社とズレているので、こういうことはよく起こるのだが、それにしても、6時半の時点でいきなり「これから12人」はきついよな。

 そんで、「じゃあ、いつもの蕎麦屋にするか、それともホテル内の和食屋にするか、社長に確認して、どっちかに予約いれてくれ」と言うので、社長室に行って「焼肉屋の個室がダメでした。どうしましょ?」と言うと、「じゃあ、あの和食屋でしゃぶしゃぶにするしかないだろうな」とのこと。どーしても肉が食いたいらしい。
 和食屋もいつも空いているので、なんとか席を作ってもらうことにして(個室もあるのだが、10人が限界)、「たぶん、しゃぶしゃぶにすると思います」とお店に予告しておいて、上司の携帯に電話して「予約しました。社長がしゃぶしゃぶだって言うから、お店にもそう伝えておきました」「ありがと〜」

 ところが、荷物をとりに会社に寄った上司曰く「あのあと、お店から電話があってさ、しゃぶしゃぶが4人分しか意できないんだってさ。そのかわりにステーキセットを用意してくれるらしいけど、あの店も油断してるよな〜、ちゃんと肉を仕入れておけって・・・」
 私は思わず、「それを言うなら、もっと早くに予約しておけって(笑)」
 上司はニヤっと笑うと(あの笑顔から察するに親会社の幹部のポカなんだなきっと)社長を連れてお店に向かった。

 会社帰りにプールに寄って、「ハスキー犬・ジローの小道」を通ると、ジローは凛とおすわりしていたので、近づいてなでなでしたが、今日はあまり「その気」ではないのか、なんだか「マグロ状態」だった。
 背後から人の話声が聞こえてきた。なにやら英語で喋っているので、通りがかりの外人男性2名かと思っていたら、ジローの青い目がじっと私の背後を見つめていて、近づいてくる人影を追うように、青い瞳がスーっと上から下に動いて、「もー、私がせっかく撫でているのに、あなたったら他の人を見ているのねっ」とジェラジェラしていたのだが、近づいてきた足音がふと止まって、私の視界にヌっと手が現れ、ジローの頭をゴシゴシ撫でたので、座っていた私は思わずその手の主の顔を見上げた。

 後から思えば、トレンディードラマや少女漫画の「恋のはじまり」のような構図だったが、あそこでジローを撫でる人は多いが、誰かが撫でているときに割って入る人を見たことがない。「日本人はあまりそういうことをしないが、外人さんならやりかねない」と思ったので、姿を確認したのである。
 ところが、それは日本人の若者だった。20代半ばってかんじだったが、暗いし逆光だからよくわからなかったけど、彼は不思議そうに見上げる私には目もくれず、車に子供を誘い込もうとする誘拐犯のような爽やかな笑顔をジローにふりまくと、

 「よかったね」

 と言って、さっさか立ち去って行った。
 なに、なに、なに、なに、今のなに?だって、なんか英語で大きな声でブツブツ言ってたんですよ?でも、どうやら独り言だったらしい。日本語でブツブツ言っていると「危ない人」だと思うけど、英語だとビミョーなのはなぜ?しかも、私のことは完璧に無視だった。別にそれが悔しいわけではないが、でもなんかミョーな瞬間だった。
 しかし、ジローはどうやら男が好きらしい。前も私にはそっけなくても、通りがかりのおじさんには寄っていって悔しかったことがあった。

 その昔、NYにジャズ留学をしていた知人の話を思い出す。「いい男?いるわよ。たくさん。でもね、いい男はすでにいい男と付き合ってんのよ〜〜〜〜〜」

 あ、そうだ、話は飛ぶがこれも書いておかなくちゃ。
 今日は親会社にレントゲン車が来る健康診断の日だった。午前中が女子だったが、同僚K嬢は「採血のとき、若い人よりもベテランの人のほうが上手いと思って、オバサンにやってもらったら、すっげー痛い!」と騒いでいた。クララは「あ、そのオバサン、私も去年やってもらったら、すっごく痛くて、3ヶ月くらい痛かったんです。だから今年は若い人にしました」
 うちの女子社員の血管が細すぎるのか、スタッフが下手なのかわからないが、他にも「両腕刺されても、なかなか針が入らず、具合が悪くなってしばらく横になっていた」という人がいた。

 そんな話をしていた後に、交通費の清算を受取りに来た女社員がいて、ふと彼女の腕にはバンソウコーが二箇所張り付いていたので「かわいそーに、2つも穴あけられちゃったの〜」と言ったら、「そうなんですよ〜痛かったです〜」と言うので、「でも、ずいぶん難しいところに針さしてるね。そんなとこに血管出てたっけ?」と自分の腕と見比べてみたら、

「あれ?ミヤノさん、腕に跡がないけど、健康診断行かなかったんですか?」
「だって、35歳以上はあそこで受けられないんだもん」(別の日に病院で受ける)

 しばしの沈黙のあと、彼女は「ええ?うそ!」と言ってくれたので、私は「ほほほほ。ありがとーね」とご機嫌であった。
 彼女は普段はあまり感情表現が少ない人なので「うそ!」という言葉はお世辞ではなく本心であろう。
 でも、ちょっと変わった人で、会社内では社員を認識するようであるが、一歩外に出ると誰のことも無視して通りすぎるので有名なのだ。たぶん、歩いているときの視界が「天才 柳沢教授」並なのだと推測されるが、私も何度か無視して通過されているので、本当に私の顔をちゃんと見ているのかは疑問。
7月10日(木)

 GW前に引越ししたA嬢の新居をやっと訪問。
 同行者、無職歴?年のK子嬢。

 新居は、中央林間駅から徒歩10分のところにあるらしいが、妊娠6ヶ月で安定期のはずだが、相変わらずお腹が張るようで、医者からは「なるべく安静。張りを感じたらすぐ横になること。あまりにも頻繁だったら入院を勧める」と言われているそうだが、「入院費なんて、ねーよ」という綱渡り状態ゆえに、歩みが異常にノロいA嬢と、トボトボ歩いていると、倍の時間がかかることが判明。
 「基地の飛行機騒音はうるさいし、駅からは遠いし、道は暗いし・・・・失敗した」とのこと。

 たしかに、大手不動産業者が開発した地域ではないようで、地主が農地を売っぱらっただけな住宅地特有の「歩道がない。道が真っ直ぐじゃない。道路網が整備されていなので、そんな道を車が激しく通る」状態で、せっかくの閑静な住宅街なのに、のんびり歩けなかった。
 しかも、そんな狭い道なのに一方通行ではないので、車がすれ違うときには苦労するみたいで、対向車が見えないと、スピードを出して早く通ってしまおうとするらしく、街灯の明かりも心細い夜だと本当に歩きにくい、とAもこぼしていたが、私も帰り道にそれがAの言ったとおりであることがよ〜くわかった。

 だいぶ妊婦らしくなったAだが、とにかく安静が基本だし、駅前のスーパーまで歩いて行くのも不安なわけで、ロクに買い物もできないらしい。せっかくの新居だから、いろいろ揃えたいんだろうけど、車で来てくれた友達に手伝ってもらって、やっと最低限の家財道具を揃えたらしい。
 Aの希望で親に近いところに居を構えたが、旦那はそれが面白くないらしく、ケンカが絶えないとか。
 旦那はもっと職場に近い都心に住みたかったようだし、それにAが母親を頼ろうとすることが理解不能のようだ。それが、個人主義で名高いフランス人だからなのか、単にそういう性格だからなのか、よくわからないが、「出産前後は実家に帰る」というのも面白くないらしい。

 妻が出産した日本人男性は「実家にいてくれたほうが安心だ」という人が多いし、うちの会社でも最近、奥さんが出産して、九州の実家に帰ってしまい、「夏いっぱい独身なんだ、へへへ」と、ちょっと嬉しそうだったしなあ。
 まあしかし、そういう文化や習慣の違いで意見が食い違うことも多いだろうけど、日本人同士だからってそういうのが全くないわけではないので、結局「どこの夫婦もそんなもんでしょ」という結論に落ちつくんですが(笑)

 そんなこんなで、Aの愚痴を拝聴しながら、K子さんとまた「手巻き・生春巻き」を作った。運動不足で体重が増えてしまっているAに「ローカロリーで野菜たっぷり」を食べさせようという計画。かつてはあれほど少食だったAが、一番たくさん食べていたような気がするので、やっぱり妊婦だな〜と思った。

7月9日(水)

●ハイジの夢

 月曜日のハイジは御機嫌が悪く、半径5メートルくらいに邪悪な電波をふりまいていた。こわ〜〜〜い。
 私はこういう御機嫌悪いときに本当に暗黒状態になる人が苦手なのであるが、まあ、誰だって苦手だろうけど、私がいつもしくじるのは、そういう人は放っておけばいいのに、ついつい冗談のひとつでも言って盛り上げてあげようなんて考えてしまうので、倍返しされてしまい、ふっかく傷ついてしまうのである。
 だから、ハイジにも「まあ、なんか今日は3回くらいフラれたような顔してるわね〜」と、思わず言いたくなってしまったのだが、グっと抑えた。ほんとうは、「老婆殺した翌日のラスコーリニコフみたい」だと思ったのだが、そんな冗談が通じないのはわかってますって。通じても困るが(笑)

 そして、火曜日はやや御機嫌うるわしかった。(ハイジ本人比)
 そして、「3級、受かってましたよ」と、サラっと報告してくれた。経理課に配属されたハイジの第一の目標は「簿記3級」だったのである。自分でも自信はあったようだが、やはり合格通知を貰ったのでホっとしたらしい。それもあって、やや機嫌が回復したのかもしれない。O部長にも報告していて、「よかったじゃん」と言われて、フっとニヒルに微笑んでいた。そして「もう2級の勉強にとりかかってます」と言うと、O部長も素直に「おまえ、すごいじゃん。2級とったら資格手当てを検討してあるよ」と言うので、まんざらでもない表情であった。O部長も30歳のとき経理に配属されて、簿記をとろうかと思ったらしいのだが、テキストを3ページくらい読んで嫌になってしまったらしいから、ちゃんと受けて合格することを心から褒め称えたのだろう。

 さて、今日はお休みや出張の人が多く、フロアはガランとしていた。ハイジと女性社員のKさんが喫煙スペースで会話していたのが小耳に入った。

ハイジ 「FBIって国家公務員なんですかね?試験って難しいのかな?」
K   「そ、そんなこと、いきなり私に言われたってわかんないよ!(笑)」

 私は思わず、口を出してしまった。

私   「なに?A君は、簿記の後はFBI受けるの?それはちょっと飛躍なのでは・・・・」

 ハイジはなにやら「そうじゃないんだけど・・・・」とブツブツ言っていたが、私はふと、昨日ハイジがO部長とこんな会話をしているのも小耳に挟んでいた。(いつも聞き耳たてているわけではなくて、みんながよく立ち話している喫煙所が至近距離にあるのだ)

O   「会社やるのはいいけど、なにをやるのか、どういうビジネスプランなのかがないと、ただ会社やったってねえ」
ハイジ 「けっきょく、そうなんでしょうね」

 どうやら、先日、新聞記事にもなった「資本金最低額引き下げ」に触発されて、そんなことを言い出したらしいが、そのときも私は思わず口を挟んでしまい、「A君、1円で社長になろうとしてんの?」と言ってしまい、ムっとした顔で返されたのだが、今日はハイジのご機嫌もよかったので、「ハハっ」と笑ってくれたのでつい調子に乗ってしまい・・・・

私   「ちょっと、そういえばA君、昨日は社長になりたいって言ってたじゃん。で、今日はFBIなの?」
K   (爆笑)
私   「簿記2級の次は、FBI-3級か?」
A   「そんなの・・・・無いですよ」
私   「ひょっとして、明日になったら宇宙飛行士になりたいとか言い出すわけ?」

 と、バカ話が止まらない私に向かってハイジはまた「フっ」とニヒルに笑うと、なにごともなかったように席に戻ってしまった。私はハイジのことを「変な奴」だと思っているが、あれはあれでフツーの男の子なのかもしれない。「社長」とか「FBI」とか・・・なんか映画でも観て触発されちゃったのだろうか?小学生の男の子の夢ってかんじでかわいらしといえば、かわいらしい。そういえば、その後、プリンタの設定で来たシステムの人(30歳♂)が持っていたガムテのゴミをハイジの机に貼り付けたので、ハイジはお返しに彼のお尻にそれをくっつけていて、システム君はそれをとってハイジのお尻に貼り付けて・・・・・「あんたら、小学生か?」と私が言うまで二人でイチャイチャしていた。

 でも多分、向こうは私のことを「いつも突然変なことを言い出す人だ」と呆れているに違いない。

 そう言えば、昨日は親会社の人も飲み屋にいたのだが、システム系の話になり、「類似×××がどうのこうので」という私にはよくわからない話だったので、負けず嫌いの私はついつい茶々を入れたくなり、
 「類似、類似って、その類似×××には、ひょっとしてマリオ×××っていう兄貴がいるんですか?」
 と言ってしまったら、一瞬シーンとなってしまったので「ありゃ、またやっちゃった」と思ったら、親会社の社員がやたらと受けてくれて「ミヤノちゃん、面白いね〜、オレ、そーいうギャグ好きだなあ」と言ってくれたので助かった。

 しっかし、よくわからない話が目の前で展開されているんだったら、黙って聞いているか、「むずかしくてよくわかんな〜い」とか言ってりゃいいものを酔っ払っているとはいえ、どうして、こんなつまらんギャグを飛ばすという危険を冒してまで話に参加しようとするのか、やっぱり「変な奴」なもかもしれない。 

 さて、先週土曜日から出勤が続いているので、曜日感覚がめちゃくちゃになっていますが、明日はなんとかお休み。
7月8日(火)

 月曜日は社長と飲みに行ってしまったので、日記を書いていない。
 ↓の「麻雀大会の思い出」は前日に書いた電車の話をアップしてから、また読み返してみたらなんだか暗くなってしまったので、「明るい話も書こう」と思って、そのまま書きつづけたのであった。

 火曜日もまた飲みに連れていかれてしまったので(飲みメンツが不足している)、日記書けず。
7月7日(月)

 幼いころの美しい思い出を書くつもりが、あまり上手くいかなかったので、ちょっとスネています。
 さて、では、気をとりなおして、もう一つ思い出していた思い出話を披露しましょう。

●麻雀大会の思い出

 子供のころの思い出話なのに「麻雀」っていうのもなんですが、念のため申し上げておきますと、私は麻雀ができません。「鳴きの竜」とか「スーパーズガン」などの麻雀漫画はけっこう読んでいたので、やくまん(IMEでは「きちがい」とおなじ扱いのようです)の名前はある程度押さえているし、要するに2・3・3・・・・・と牌をそろえればいいらしいということも知っているくらいです。ポンやチーの概念はトランプのセブンブリッジで習得しましたが、「裏ドラ」というが「ドラえもんとノビ太がデキている設定のやおい本」のことではないってことは知っていても、実際に何がどうなるのか知りません。

 さて、くどいようですが、私が育った地域は東京のベッド・タウンの新興住宅地であり、10年くらいの期間に一戸建てが立ち並びました。その中でも特に、我が家を含め、初期からここに移り住んできたニューファミリー(ぷっ)は、家族構成も所得も似通っていて、ほとんどの家庭にもれなく「専業主婦」がついていましたので、かなり仲良くなっていました。

 そして、その「専業主婦」の8割くらいが「麻雀好き」だったのです。今から考えると不思議ですが、私の幼なじみだったSちゃんちでも「家族麻雀」は盛んで、Sちゃんは3人兄弟の末っ子で、「一人娘」だったので除外されてましたが、上の二人の兄たちは幼いころから父母兄弟のメンツで家族麻雀ができるように教育されていました。そして、弟のA君が、親から受けついた博打心を満たすために、3歳年下の妹Sちゃんや私に、ポーカーやオイチョカブやブラックジャックを仕込んだのでありました。
 小学生のころから、博打系ゲームに精通していた彼が長じてキリスト教徒になったという噂をきいて、私と母は大笑いしちゃいましたけど。(次男坊だったA君の豪快さんな逸話は他にもたくさんある)

 とにかく、私が「新宿のしょんべん横丁に飲みに行くような女子大生」になったころでも、麻雀が打てる女子学生はけっこう珍しかったのですが、なんであのころのあの地域に麻雀好きの主婦が沢山いたのか謎ですが、沢山と言っても、幼なじみSちゃんの母親であるKさん(浅草にあった元々簪屋だったらしい老舗アクセサリー屋のお嬢様。だんなはそこの幹部候補。婿養子みたいなもん)、うちのお向かいで、よく遊んでくれた悪ガキ兄弟の母であったYさん(京都出身で、修学旅行中に知り合い文通していた東京の学生と結婚。旦那は中国との貿易会社勤務で海外出張が多かった。旦那さんは近所でも有名なハンサムさんであった)、近所の子供相手に英語塾を開いていたTさん(津田塾出身だったらしい。豪快なオバサンで近所の子供にも人気があった。だんなは某有名商社勤務。私より何歳か年長の娘が二人いた)の3人が核だったと思います。

 その3人が「麻雀大会を開こう」と言い出し、他の奥様たちには麻雀の心得がなくても、旦那連中は皆打つことができたので、参加希望者は10人を超えました。3卓は作れる人数でした。週休2日制が浸透しはじめた時期で、隔週で土曜はお休みという人も増えたころだと思いますが、私が小学生だったときに、「第一回、ご近所麻雀大会」が開催されたのでした。

 そして、なんでなのかわかりませんが、場所は我が家でした。うちの母は麻雀ができなかったので「じゃあ、せめて場所だけでも」という話になったのかもしれません。あと、我が家は越してきたのは後だったけど、平屋建ての部分が建築されたのは一番早かったらしく、そのために、元々あった部分は部屋があまり区切られていない時代の設計で、居間と食道と和室である寝室を開放するとかなり(20畳くらい)広かったのです。そして、私が小学生になる前に一階に一部屋と二階部分を増築していたので、そのお披露目の意味もあったのでしょう。

 麻雀好きの各家庭から卓が持ち込まれ、うちにも麻雀牌はあり(当時はどこの家庭にもあったのでしょうか?)コタツのテーブル板を逆さにすると緑のフエルトが敷かれた麻雀卓になりました。(私はそれでトランプゲームに興じましたが)
 ぶち抜きの居間に2卓、両親の寝室である和室に1卓設置され、我が家はあっという間に立派な「雀荘」に変身しました。

 時期は初夏か秋だったのだと思います。エアコンなんて無い家でしたし(他の家でも、あったとしても居間だけだった)、窓という窓を開け放し、家の中ではジャラジャラと牌をかき回す音が反響して、子供心にもワクワクするような猥雑な空間になりました。30歳前後のサラリーマンな旦那連中は酒やタバコをたしなみながら、日ごろあまり接触がない「ご近所との交流」に気負っているようでした。それでも、同じ世代ですから、はにかみ屋さんのご主人も麻雀卓を囲めばリラックスした表情を浮かべていました。

 びっくりしたのは、堅物だとばかり思っていたうちの父親も麻雀卓についていたことでした。私は父親が胡座をかいているところに座り込んで「おとーさん、マージャンできたんだ?」と驚いていました。父は麻雀に熱中することはありませんでしたが、将棋や囲碁などのゲームはそれなりに好きでしたので、麻雀もそういうものと同じように楽しむことはできたのでしょう。たぶん、大学時代におぼえたんだと思います。

 麻雀に興味の無い奥様方は、お酒やおつまみの支度をせっせとやっていました。そして、子供の世話をしながら、麻雀卓になっていないチャブ台に集合してたわいもない茶飲み話に興じていました。
 そして、各家の子供達は、中学生以上は親たちが集まるような場所には来ないで各家で留守番していましたが、小学生以下の子供たちは、その空間の非日常性にあてられてすっかりハイになり、私のように父親が麻雀をしているところに割って入って邪魔をしたり、みんなで仲良くご飯を食べたり、テレビを見たり、ゲームをしたりして、狭い我が家の中や庭を駆け回っていました。

 大勢の人が動き回るので、狭い我が家がなんだかすっごく広く感じたのをよく憶えています。仕切りの少ない造りだった我が家は、友達の家よりダサいと思っていたのですが、こういうふうに利用すると、その開放的な造りが有効利用され、なんだか誇らしく思えたのでありました。

 夜になってもジャラジャラと牌をかき回す音は鳴り止まず、遅い時間になると、子供たちは家に帰され、我が家の子供達も2階の部屋に布団を並べて寝かされましたが、麻雀の音は深夜まで鳴り止みませんでした。
 その後も、麻雀大会は何回か開催されましたが、他の家で開催されて、そこには小さな子供がいなかったので、私は行きませんでした。

 昭和40年代後半のニュータウンでの古きよき思い出です。
7月6日(日)

 金曜日に漫画について書いていたら、どうしてもどうしても「ポーの一族」が読み直したくなり、しかし、あれは、中高校生のときには友達のお姉さんから借り読んだし、その後、妹が萩尾望都作品集で揃えていたので、私はとうとう買わなかったのだ。
 別に買う金が無いわけではないので、オンライン書店で買おうとしたが、文庫版しか出回っていない。漫画の文庫化が流行してから、元の単行本サイズのものは増刷しなくなったのかも。くぅ〜〜〜〜、わたし、文庫の漫画って苦手なんです。

 前にも、友達の家に遊びに行ったら、彼は「日出処の天子にはまった」と言っており、文庫版を揃えていた。それをパラパラめくって「げ、細かくて読みにくい!」と思ったのである。出版業界に勤める知人の話だと、文庫化する作業はシローとが想像するよりも、かなり大変らしく、線が潰れたり、ネームも組換えたりしなければならないようで、縮小すればいいというものではないらしい。
 それでも、最初から文庫サイズの漫画を読んでいれば、そういうもんだと思うかもしれないが、何回も読み返したお気に入りの作品は、元々のサイズ(新書サイズって言うのか?)が脳みそに焼き付いているので、視線の動き方やコマとコマとの移動距離までもがすでに固定しているようで、文庫サイズで読むと細かすぎて目がシバシバするのもあるが、キングサイズのベッドで寝て育った人が、家が落ちぶれて小さなベッドで寝ることになったら、寝返りをうつたびにベッドから転落したり、ベッドのすぐ脇にある壁に頭を強打したり(広い部屋に住んでいる人は、ベッドを壁際に置かない)するだろうけど、そんな窮屈さを文庫漫画にも感じたのである。

 なので、ずっと探していた絶版になっていた作品が文庫化されたものしか、文庫を買ったことがなかった。
 「ポーの一族」は文庫以外ではもう書店に並ばないのか?でも、きっと「まんだらけ」とかに行けばセットで売っているに違いない。でも、渋谷まで行くのめんどい。そうか、きっとオークションに出回っているに違いない!

 ヤフオクで検索してみたら、2件ヒットした。それも、最初に単行本化された新書版。友達のお姉さんが揃えていたのは、これだ。表紙の絵が懐かしい。

 しかし、5冊で「300円」とか「500円」とかいう最低落札価格がついている。ずいぶんな値段だ。まあ、いきなりヤフオクの達人になっていたK子さんによると、タイム・アップぎりぎりに入札する人が多いそうだから、「残り8時間」っていうのは、まだまだ入札するのには早いのかもしれない。
 うーん、どうしよう。私はヤフオクのID持っていないので、前はA嬢にIDを借りたというか、代理で落札してもらったが、K子さんも頼めばやってくれるだろう。

 しばらく悩んでいたが(会社でね)、「でも、落札して、送金して、品物が送られてくるのには、数日かかるしな〜、あたしは今読みたいのよ、今日読みたいのよ」と思い、でもやっぱり土曜日の夜に渋谷に行くのは気がすすまなかったので、妥協案としてシモキタに行ってみることにした。下北沢ならわりとそういうのが置いてある本屋が3軒はあるので、探してみよう。そんで、無かったらあきらめて明日の日曜日に渋谷に行こう、それでもなかったらヤフオクにしよう。
 そして、その計画には「ついでに、久々に真剣勝負(と書いてガチンコと読むらーめん屋)でラーメン食べよう!」という保険もつけた。(なんて手堅い性格)

 さて、会社から帰ると、いったん家でスカートをジーパンに履き替え、スニーカーを履いてシモキタまで競歩。すでに8時を過ぎていたので、飲み食いする人たちは店の中に収まっているらしく、それほど雑踏ではなかったので快調に歩み、まず北口の駅のそばにある書店に向かう。やはり文庫しかなかった。でも、お腹も空いてきたので「他を回っても文庫しかないかもしれない。大きなサイズのが欲しければ、また後で買えばいいじゃん。今日はこれで我慢しておけ」と自分に言い聞かせ、文庫版3冊を買ってから、真剣勝負に行って「麦」まで食べてきた。私以外には日本語堪能な外人さんが一人いるだけで、彼は途中で携帯に電話が入り、英語で「今、下北沢の初めて入るラーメン屋にいるんだけど、この店はグレートだ!」と大声でまくし立てており、店を去るときにも店員に「すっごく美味しかった!また来ます!」と流暢な日本語で言っていた。

 なんか、ああして「旨い、旨い!」と大騒ぎする外人さんがちょっと羨ましくなるが、私はいつものとおり一人で黙々と食べていた。ラーメンの残り汁に麦飯を混ぜて、おじやにして、全部きれいに平らげたので、声には出さないが、私は私なりに精一杯「おいしいです。好きです。ここのラーメン食べると寿命が3日くらい伸びる気がします。へ、へ、へ、ヘルシ〜ですよね。女性好み!」というメッセージを態度で現したつもりである。
 その努力が通じたのか、ただ単に空いていたからなのかわからないが、岩のりをサービスしてくれました。ありがと。ここの岩のりは「ファイブ○ニ」より強烈に効きます。

 お腹いっぱいになり、また歩いて家まで戻り、ウィンブルドンの女子決勝をBGMに「ポーの一族」に没頭。
 ヴィーナスは調子悪かったみたいだが、どうもやっぱり姉妹対決は面白くない。ウィリアムズ姉妹は、歴代女王に比べると人気がないそうだが、「黒人だから」とか「服がセクシーすぎて品がない」とか色々原因はあるだろうけど、やはり強すぎるし、お互いがライバルというわりには、姉妹で対決するとイマイチになるので、あれが腹違いとか種違いの姉妹で、口も効かないほど仲が悪いのだったらともかく、そうじゃないのでドラマ性が薄いのだ。彼女たちには、彼女たちを上回る悪役もしくは強敵が必要である。「お蝶夫人」のような華麗な美少女がいいとは思うが、ナブラチロワのようなテニス・マシーンみたいなのがいればもっと人気あがるのに・・・・グラフがあれほど人気があったのは、ナブラチロワのおかげだろうし、その前のクリス・エバートだってナブラチロワがいなければ、あれほど人気なかったと思う。
 そうか、「お蝶夫人」みたいのが出てくれば、ウィリアムズ姉妹がナブラチロワの役割を演じられるので、もっとヒールとして際立ったのに・・・・そう考えると、ナブラチロワはお姫様キャラなライバルに恵まれていたとも言えるなあ。

 と、思いつつ、盛り上がらない表彰式をぼんやり観ていたのだが、あれ?ケント公夫人は?いないよ?なんでケント公だけなの?ケント公夫人のダサい服装を鑑賞しないと、日本の梅雨は明けないのだが・・・・・・どうしたんだろう?わたしがボンヤリしている間に死んでたりしないよなあ。

 心配になって、今日は会社でいろいろ検索してみたが、ケント公夫人の不在に言及した記事は見つからなかった。
 しょうがない、今日の男子決勝で確認しよう。

 今日は会社のイベントで出勤だったが、私の任務はイベント会場に行くことではなくて、会社待機で夕方に社に立ち寄るお客様の接客(お茶だし)であったので、夕方4時までずっとフロアに一人きりだった。眠くて死にそうだったので、眠気覚ましに、前に予告していた「はじめて一人で電車に乗ったときの思い出」を書いてみた。
 暇つぶしにダラダラと書いていたので、ずいぶん脱線して長編になってしまった。
 以下が会社で書いた文章。
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 先日、9歳の姉と1歳の弟が行方不明になったというニュースがあり、結局二人は浦安のホテルで発見されて「ディズニーランドに行こうとしたらしい」と報じられていましたが、もう9歳なんだから書置き残すとか「私たちは無事です」と電話くらいいれろよ〜と思いましたけど、新聞で読んだだけなので、実はもっと深い事情があったのかもしれません。
 だって、家出するにしたって、「1歳の弟」連れて歩くのって大変じゃないですか。まだ歩ける年齢ではないので、ベビーカーを使用するか、もしくはずっと抱えることになるので、大人にとっても乳児を連れての外出は重労働です。それに、9歳の子供が一人で電車に乗っていても目立ちませんが、その子が乳飲み子を抱えているとなれば、周囲の人も不審に思うだろうし、このニュースは結局、「事件」ではなかったので「4歳の男児が全裸で・・・・」とか「中3が友人を殺して埋めた」という派手なニュースにかき消されてしまったので、これ以上の詳細を知るすべがないのが残念です。

 この出来事になんで過剰に反応してしまうかというと、先日ふと「初めて一人で電車に乗ったとき」のことを思い出したからです。それは厳密に言うと「一人」ではなくて、弟と一緒でした。
 私はそのころ、自分が「乗り換え駅」や「行き先表示」をわりと理解できていることに気が付いて、「親がいなくても電車に乗れそう」だと思い始めていました。そして、「一人で電車に乗る」というのは、かなり胸躍る冒険と思い、母親にも「一人でおじいちゃんちに行けるかも」と申請していました。それに、小学校にあがると、男の子などは「夏休みに田舎のおばあちゃんちに一人で行った」などと自慢してましたので、たとえそれが「親が上野駅まで一緒で、そこで特急電車に乗せられたあと、到着駅では親戚が迎えに来ていた」という、要するに特急電車に一人で乗っただけだろう、と、わかっていても、やっぱり自分でも挑戦してみたい。それこそ自分が大人に近づいた証明であろう。と意気込んでいたわけです。

 その願いが適い、あるときふと母が「じゃあ、一人でおじいちゃんちに行ってみる?」と言い出しました。小学1年生のときです。ちなみに、「おじいちゃんち」というのは、東京23区内にありますので、千葉の自宅からはドア・ツー・ドアで1時間半。「帰省」というよりも「通勤」です。でも、途中で一回乗り換えがあり、しかもそのときに切符を買わないといけないので、「特急電車乗りっぱなし」よりはやや複雑なはずです。
 私はすっかり張り切って、頭の中で乗り換えのシミュレーションをしたり、行き先の確認をしたりしていましたが、母はふと思いついたように「そうだ、Sちゃんも連れていきなさい」と言いました。Sちゃん=3つ下の弟。たぶんそのとき4歳。幼稚園入園目前だったはず。私は「え〜〜〜Sちゃんも?」と思いましたが、母曰く「女の子一人だと危ないから、これでも男だし、いないよりはマシでしょう」

 男児でも「わいせつ行為」の被害者になるのがあたりまえとなった今だと通用しないでしょうけど、母はその後もよくSちゃんを私のボディーガードに任命しました。「女の子は変質者に襲われるけど、男の子は大丈夫」という思い込みがあったみたいです。
 しかし、私は弟がいつもうざくてたまりませんでした。たまたま、私の近所の遊び友達がみな末っ子で、他に小さい子を引き連れた子がいなかったので、邪魔だったのです。弟も幼稚園や小学校に入ると、自分の遊び友達ができましたが、それ以前は姉である私やその近所の子供たちが遊び相手で、近所には私と同じ年の女の子が2名いる他は、私よりも年上の男の子ばかりで、みんな気が向くとSちゃんとも遊びましたが、缶ケリしてもいつも「お豆」にしかなれないので、うっとおしくなると、仲間外れにしたので弟はそのたびにビービー泣いてました。

 今でもよく憶えてますが、私が自転車に乗れるようになると、自転車に夢中になり、友達と仲よく近所をグルグル回っていましたが、そんなときに弟が遊んでもらおうとしても、自転車に乗れないドンくさいやつなんかと一緒に遊ぶ気は全然ありませんから、「あ、Sちゃんだ!逃げろ〜〜〜」と自転車に乗って弟から遠ざかりました。弟は「おねえーぢゃ〜〜〜〜ん」と泣き叫びながら後ろを走ってついきましたが、すぐに足がもつれて転んでしまい、ビーーーー!っと泣いていましたが、冷血な姉は振り返ることもなく逃走してしまいました。

 もちろん、帰ってから母にこってり説教されましたが、「なんで私が弟の面倒みないといけないのよ」といつも鬱憤を抱えていた私はいつもそんな調子でした。母は子供のころ自分の弟をとても可愛がったようで、「なんで、あんたは弟をもっと可愛がらないの?」と言いましたが、かわいくないもんはしょーがないじゃん。別に私が頼んだから弟が生まれたわけでもないし。

 話が本題から外れまくってますが、私は弟のことも、6歳下の妹のこともずっと「うざい」と思っていたのでした。
 そして、長子として生まれてきたことをいつも嘆いていました。「おねーちゃんなんだから」と説教されるたびに、悲しくなって泣いてました。余談ではありますが、物心ついたときから「子供」に囲まれて育ったので、私は子供が大嫌いでした。うんざりしてました。ですから、大人になっても「自分は子供は嫌いだ」と信じてましたので、「子供って、かわいいな〜」と子供にちょっかい出すようになったのは、ほんとに最近のことです。
 そして今でも友達の子供が「ほら、お兄ちゃんなんだから」などと言われているのを見ると、昔の自分を思い出して胸が痛みます。

 そういうわけで、ちっとも「いいおねえちゃん」じゃなかった私の数少ない「いいおねえちゃん」としての思い出が「弟と二人だけで祖父母宅に行ったとき」なのです。

 さて、母から電車賃を貰って、いざ出発です。切符を買うところから一人でやりたかったので、駅まで見送りに来てもらわなかったような記憶があります。
 祖父母宅へ行くルートは、京成線から乗り入れている都営地下鉄浅草線で東銀座まで行ってから、営団地下鉄日比谷線に乗り換えて神谷町でした。まず、都営線に乗り入れる区間の切符が買える自動販売機を選んで切符を購入。弟は無料です。上りホームに立って電車を待ちます。京成線の上りは上野行きと都営地下鉄に乗り入れる押上行きや西馬込行きがありますし、その分岐点である高砂行きとか、青砥行きなどもあったので、同じ都心に向かうにしても、小田急線や東急線よりは、やや複雑でした。  一番簡単なのは、西馬込行きの急行電車(京成線では「特急」という名称)に乗ってしまえば東銀座まで電車を換えることなく行けますが、先に「特急上野行き」が来た場合には、それに乗って、分岐点で乗り換えたほうが早かったりします。

 そう書くと複雑そうですが、要するに最初に来た電車に乗ってしまい、後から追いついてきた急行電車に乗り換えればいいし、分岐点でも乗り換えればいいだけです。時刻表を調べれば、効率はいいのですが、あまり急いでないときにはテキトーに乗っていました。それに、小さな子供を3人も抱えていると、予定した時間にちゃんと駅まで辿り着けないことも多かったので(子持ちの方はよくおわかりだと思います)、我が家がちゃんと冊子になって「どの電車がどの電車をどこで追い抜くか」がわかる京成線の時刻表を買うようになったのは、ずいぶん後のことでした。

 そして、私と弟も、テキトーに来た電車に乗りました。乗ってりゃいいだけなんですけど、ちゃんと車内アナウンスにも耳を澄まさなければなりません。「次の駅で急行○○行きの待ち合わせをいたします」とのアナウンスで、弟に「ほら、次の駅で他の電車に乗るよ」と声をかけ、弟が電車とホームの隙間に落ちないように気を配りながら乗り換えです。  いつもは、同行している父や母が「ほら、乗り換えるよ」と私たちに声をかけてやることを自分でやらなければなりません。  子供は「自分が大人と同じに行動できる」ということに非常に満足感をおぼえますから、そのときの私も、そのトキメキで胸がいっぱいでした。

 ちなみにこれも余談ですが、当時の京成線は「通過待ち合わせ」っていうのがありませんでした。だから私は、他の私鉄に乗ったときにも「先に出る電車に乗ればいいや」と思っていて、自分の乗った各駅電車が急行が通過する駅で急行電車に追い抜かれたときには、頭が真っ白になりました。
 そのせいだけでもないと思いますが、私は小田急線が嫌いです。下北沢に住んでいるときには、井の頭線だと先に出る電車に乗ればいいのですが、小田急線は下北沢の一つ手前の東北沢で急行の通過待ちをするのです。ですから、先に出た各駅に乗ると、急行に追い越されることになるので、しかたなく急行に乗りましたが、疲れていて座りたいときには各駅に乗ったけど、東北沢でビューンと急行が通過するのを見送ると、とても悔しい気持ちになり、「急行が追い越しをするのは、せめて経堂くらいからにしてほしいよ。下北沢じゃ、近すぎるだろーが」と思っています。
 私はなぜかそのことに深くこだわっているようで、今住んでいる三軒茶屋も渋谷からだったら、先に出た電車が先に着きます。

 話はさらに逸れますが、私が千葉の実家を出て、一人暮らしを始めてから「下北沢」「三軒茶屋」といった「急行停車駅」に固執するのは、実家の最寄駅が「八千代台」というスカイライナー以外は全て停車する駅だったからかも。目の前を電車が通過していくのに耐えられないのかもしれない。そういえば、大学時代には、京王線の明大前と調布の間に住んでいる友達が多かったが、友達んちに宿泊させてもらって、昼飯食べて帰るような時間帯は電車の本数も少ない上に、いつも2本くらい目の前を通過していくので冬などは辛かったなあ。そのころよく一緒に行動していた友達はJR千葉駅が最寄駅で、総武線快速育ちでしたから、やはり「あそこの駅って全然電車が停まらないんだよ」と笑っていました。
 人間、一度身についてしまった贅沢はなかなか捨てられないものです。
 ちなみに、私は電子レンジの無い家で育ったので、未だに電子レンジがなくても平気です。エアコンも子供のころには無かったので、今でも寝るときに窓さえ開けられれば大丈夫なのですが、さすがに物騒なので熱帯夜のときにはエアコンかけて寝てますが・・・・

 さあ、ほんとうに話が明後日の方向に邁進しておりますが、天然パーマの巻き毛も愛らしく、クマのぬいぐるみのようにぽっちゃりとした4歳の弟S君と、紺のプリーツの吊スカートに白いハイソックスも愛らしく、しかもその瞳は「ほら、私って賢いのよ。しっかり物なんだから」という意欲と緊張感で燃えている7歳の私の二人組みの話に戻りましょう。

 私もかなり緊張していましたが、弟もきっとそうだったのでしょう。いつもは私の顔を見ると「ブス」とか「バカ」などの憶えたばかりの罵倒語を発声せずにはいられない子憎たらしい弟も、とてもお行儀よくしていました。ひょっとしたら、自分の命の危険を警戒していたのかもしれません。無条件で守ってくれる両親はいないのです。隣にはどう考えても信用できないハナタレ娘の姉がいるのみ。
 妻と子供たちが帰省している間、猫の世話をしていた男性の話によると、最初は「家族」がいないので不審がっていたようですが(帰宅が遅いご主人のことは他人扱い)、2日目になると「あ、なんかこの人しか餌くれる人がいないみたい」と理解したようで態度が軟化してきて、3日目くらいになると、彼が帰宅すると「にゃおぉぉぉぉん」と擦り寄ってくるようになったようです。しかし、「妻子が帰ってきたら、またオレには目もくれなくなった」らしい。
 弟も、その猫のような心境だったのかもしれません。私におとなしく手をひかれていました。

 やっと「西馬込行き急行」に乗ることができたので、しばらく乗り換えはありませんから、私は母親がやるように、弟の靴を脱がせて弟が窓に向かって座れるようにしました。大人にとっては「通勤時間程度」の旅ですが、子供にとっては長く感じるものです。私も自分がそうだったので、弟が退屈しないように気を配りました。持ってきた弟のお気に入りのヌイグルミでかまってあげたり、「げんこつやまのたぬきさん」をやったり、あやとりで遊んだりして遊んであげました。

 自分でも、なかなかうまくやっているな、と思っていたときに、ふと周囲の視線を感じました。私は今思い出しても辛いのですが、小学校低学年までは他人の目が気になって仕方がないという、神経質というか自意識の強い子供でした。かなり気難しかったらしい。でも意識はしていても、うまくできるわけでもなかったので、そのギャップにはいつも苦しめれていました。だから「子供は純粋」なんていうセリフを聞くと、不純の塊だったような当時の自分を思い出し、ムっとしてしまうのです。

 混雑する時間帯でもなかったので、周囲にはそれほどたくさん人がいたわけではなかったのですが、幼い姉弟が二人だけで仲睦まじく電車に乗っている姿は大人たちの関心を集めたらしく、好意的な視線を感じました。
 私は、その人たちの期待を裏切ってはいけないと、さらに張り切り、「ほら、Sちゃん、もうすぐ東銀座だからね。降りるよ。ほら、靴履いて」と二駅も前から準備して(もちろん、車内にある路線図と停車駅は常に照合していた)、東銀座駅で下車すると、改札を一旦出てから、営団線に乗り換えました。

 実は、ここがそのときの難所でした。私は、日比谷線の行き先表示がどうも苦手だったのです。実は京成線の行き先表示でも「西馬込」だけは、行ったことのない謎の地名でしたが、他の行き先は行ったことがあるので、「西馬込」だけが異質でしたが、日比谷線の場合は、そもそも「中目黒」からして知らない地名だし、ときどき東横線直通の「菊名」だか「日吉」行きが来たのです。京成線の上りが二股に分かれているので、日比谷線もそういうことがあるのかもしれないと思っていました。  そこで、出発前にも母に「東銀座までは大丈夫だけど、あそこからはいつも何行きに乗ってるんだっけ?」と確認すると、「たいてい中目黒行きが来るはずだけど、でも違うのが来ても大丈夫よ。どれでも神谷町に行くから」とのこと。たしかに、そう言われてみれば、東銀座で乗る電車を選んだことはなかったかもしれない・・・・・・

 今から考えると、私はわりと路線図を眺めるのが好きだったので、「地下鉄マップ」のその複雑さから、その乗り方もそうとう複雑だと考えていたのでしょう。
 ですから、東銀座で電車を待っていたら、すぐに「中目黒行き」が来たのでとてもホっとしたのを憶えてます。

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 「はじめてのおつかい」のようなほのぼの路線で書こうと思ったのに、幼少時のトラウマが噴出してしまった。

7月4日(金)

 日曜日にまた会社のイベントがあるので全員出勤体制なので、土日は出勤。
 だから今日お休みをとった。
 7月から無職になるA嬢の新居に遊びに行こうと計画したが、「晴れたら外出する予定」とのことで、「雨天のみ決行」となったが、朝目が覚めると、雨は降っていなかったので、そのまま寝なおす。

 結局、昼過ぎまで寝てしまい、「そういや、昨日の日記が途中だった」と思っても、パソコンを立ち上げる気にならず、ゴロゴロ。
 ふと、岡野玲子の「ファンシー・ダンス」に出てくる僧侶が「ロスマリネ」と呼ばれていたことを思い出し、久々に「ファンシー・ダンス」を全部読み返してしまった。この漫画は時代背景がよくわかっていたほうが面白いと思うが、私はその「時代背景」がピンポイントなのである。ってゆーか、「ニューロマ」だった、あのころを懐かしみながら、でもそうは言っても「ノータイで全身黒ずくめなら入れるPで始まるディスコ」なんてセリフがあると、それが西麻布にあった「ピカソ」だとわかるけど、実際に入ったことはなく、私がその店に足を踏み入れたのはドレス・コードも無くなった別の店になったときだった。

 しかし、やはり禅寺の修行の様子のところは今読んでも強烈に面白いな。
 私はなぜか「陰陽師」を読んでいないのだが、「岡野玲子というとファンシー・ダンスだろう」という思い込みがあるので、大ヒットした「陰陽師」の存在をなかなか認められないのである。捻くれ者だ。

 しかし、あのころの「プチ・フラワー」や「LALA」は本当に面白くて、作家も充実していたので「そこらへんの小説よりか、漫画のほうがよっぽど緻密である」と、高校生のころに思っていたので、日本の現代小説のことはバカにしくさっていた。

 話は違うが、先日「風と木の詩」のことを思い出してたので、ついでに「初めて読んだ竹宮恵子の作品」のことを思い出した。幼友達のSちゃんが、別マこと別冊マーガレットを買うことになったので、私は別コミこと別冊少女コミックを買うことにした。後に「プチ・フラワー」に執筆している作家の多くは、私が小中学生のころには別コミで描いていたのである。

 やはり強烈だったのは、萩尾望都の「ポーの一族」だった。断片的な短編が掲載されて、「連載っていうものは時系列が一定方向」という思い込みを完全に裏切ってくれた。たぶん、最初に読んだのは「一週間」という作品で、エドガーが用事があって留守にした一週間の間に、「わーい、うるさいエドガーがいないぞ〜」と張り切るアランの一週間のエピソードが綴られる短編。しかし、彼らのキャラ設定も今までの経緯もよくわからないまま読んでいたので、その不思議な雰囲気は楽しめたが、「ポーの一族」のシリーズであるということがよくわかっていなかった。
 その流れがわかったのは、漫画をたくさん持っている高校生の姉がいる子と友達になってからである。

 そして、今から考えると、「オランピア」と「笛を吹く少年」が同じ部屋に展示されてるオルセー美術館みたいな贅沢な話であるが、「ポーの一族」シリーズが不定期に掲載されていた別コミには、やはり不定期掲載の「協奏曲」シリーズが掲載されていた。夭逝した天才ピアニストを巡る人間模様を描いたシリーズである。

 私が最初に読んだのは、主要人物であった後の天才バイオリニスト・エドナンと、後に有名評論家となるボブの最初の出会いのエピソードを描いた短編だった。
 エドナンはスペイン貴族の息子であったが、家出して音楽学校の奨学生であったが、彼の美貌に魅入られたボブは彼がスペイン革命のスパイ活動をしていることを知ってしまう。そして、偶然その証拠となる場面に居合わせたので思わず写真を撮ってしまうのだが、気がついたエドナンが「それを返せ」と迫るのだが、ボブは交換条件として「ベッド」を持ち出したのであった。

   そんで、エドナンはその要求をのむのであるが、当時、小学校高学年である私には、「男同士が裸でベッドにいると、何が問題なんだろう?」と思っていた。当時の少女漫画でも、ときおりベッドシーンは出てきたので、それがキスシーンより重大であるということはなんとなく理解していたのだが、それが男同士だとどういう意味を持つのか、漠然としかわかってなかった。

 そんな感じで、私は「男女のベッドシーン」と「男同士のベッドシーン」の双方ともなんとなく漠然と捉えてきて、後になってだんだん具体的にわかってきたので、ホモとヘテロの区別を厳密につけない人に育ってしまったのである。

 自分はただの読者だったが、それでも少女漫画の絶頂期をリアルタイムの読者として過ごしたという幸福感はいまだに根強い。
 前にある漫画家が「欧州漫画家ツアー」に行ったときの話を書いていて、まだ海外旅行が高級品だったころ、憧れの欧州に行った少女漫画家たちは、必死に室内装飾などを写真に撮っていたという。「うわー、こんなドアノブ!」「この手すり見てよ!」てな具合で、私はそういう努力がどう作品に生かされたかよくわかる。彼らは貪欲に収集したそういうディティールを余すことなく作品に反映させ、読者にも「憧れの欧州」心を植え付けた。

 萩尾望都も竹宮恵子も名香智子も、そのころはヨーロッパが舞台の漫画を描いていたが、そういえば、吉田秋生が「カリフォルニア物語」を描いたときには新鮮だったな。少女漫画で「アメリカが舞台」っていうのはほとんどなかったのである。それがいきなり、アメリカのスラム街を舞台としたような作品だったので、かなり鮮烈だった。その後「エイリアン・ストリート」や「ファミリー」などの日本人が思い描く「よきアメリカ」をモチーフにした作品もヒットしたが、吉田秋生はその後も「バナナ・フィッシュ」でアメリカの暗い側面を舞台にした設定に固執していた。でも、「バナナ・フィッシュ」はやや「ハリウッド映画」っぽい設定になってしまったので、「カリフォルニア物語」のほうがずっと渋かったけど。

   アメリカっぽい少女漫画としては多田由美がその後を受け継ぎましたっけね。

 話は前後するが、竹宮恵子にしても萩尾望都にしても、あのころはヨーロッパの風景や建物の描写にすごく気負ったところがあったけど、海外旅行が一般的になるにつけ、その気負いが減ってきて、特に萩尾望都は国内ものをよく描くようになった。「イグアナの娘」なんかは、その中でも傑作のひとつだ。「イグアナの娘」と「半身」は、「純文学」と並べても全く引けをとらない傑作短編だと思う。雑誌に掲載されたときには、「この人は天才だ」とぽーっとなった。

 「すげえ」と思った漫画といえば、大友克洋が「童夢」を出したときにはびっくりしたなあ。
 あれは高校生のときで、天文部の先輩が「あれは凄い!」というので、船橋のリブロに立ち寄る機会があったときに立ち読みいたしました。(なんかしらんが誰も買ってなかったので借りることができなかった)
 立ち読みした後に、しばらく震えがきたことを今でも鮮明に覚えている。
 世の中にこんな凄い作品を描ける人がいて、その人と同じ時代を生きているということが、というか、これほどインパクトのある作品が「古典」ではなくいということがとても嬉しかった。そして、漫画大好き人間としては、漫画の描写がSFXを駆使した映画を上回ったことに、とても満足感を憶えたのであった。

7月3日(木)

 「ドクター・コトー」観ちゃいました。豪華キャスト&中島みゆき主題歌(目指せ「地上の星」!)ということから、フジテレビの力のいれようがわかりますが、それと同時に「北の国から・南国版」でもあるわけで、どーするんだろう?と単純に興味が湧いたのですが、初回はまあまあの出来。私、「医者もの」にはわりと甘いんで(笑)。
 でも、こういう漫画が原作のドラマって、やっぱ原作知らないほうが、気軽に観れますね。「動物のお医者さん」は、原作に精通しすぎていたので、ストーリーの細部が違うだけで違和感持ってしまい、イマイチ楽しめませんでした。

 もひとつ、芸能ネタとしては、サザンの「勝手にシンドバッド」が25年越しでオリコンの1位になったらしいですが、私はサザンのデビュー当時はよく憶えてますので、感慨深い。あのころ私も若かった。12歳?
 子供心にも「変な曲」でありましたし、「胸騒ぎの腰つき」というのを「紫のコシツキ」だと思っていて、その意味についても深く考えなかったのですが、とにかく歌詞は丸覚えしてました。「門前の小僧・・・」ってやつで、とにかく、あのスピードについていくことにカタルシスをおぼえていたのでした。

 その後、少し成長してから、「胸騒ぎ残しつき」だと思っていたのですが、カラオケが普及して、力試し(スズメ百まで踊り忘れてないか確認してみた)に唄ってみたら「胸騒ぎの腰つき」であることがわかって「なんじゃこりゃ」と思いました。
 ちなみに、一度、Mちゃんとカラオケ行ったときに「どの曲も最高ピッチで唄う」という企画をたて、「異邦人」なんかはピッチあげると「ゴアトランス」っぽくなるのは知っていましたが、オザケンの曲もピッチあげると息切れして達成感がありましたけど、ただでさえ息が切れる「勝手にシンドバッド」を最高ピッチで唄うと「いったいどこで息継ぎすればいいのだ〜〜〜」という古館一郎も真っ青な曲になり、ゼーゼー言いながら唄いましたが、心臓の悪い方や血圧の高い方にはお勧めしません。

 そういうわけで「勝手にシンドバッド」は好きなんですが、その他のサザンの曲には特に思い入れがなくて、レコードも買ったことないし、コンサートに行ったこともありません。ただ、「勝手にシンドバッド」の後に、桑田圭介はかなりスランプに陥っていたようで、歌番組でも「新曲は?」と言われると辛そうだったので、しばらくしてから「愛しのエリー」が大ヒットしたときには「よかったね」と思っていた記憶あり。

 さて、「動物のお医者さん」の主人公である(違うの?)ハスキー犬チョビは、漆原教授の知人の家の床下で産まれました。妊娠した母犬が家出して、そこに潜り込んで出産したらしく、知人が事態が緊迫しているとみて床板をあげたときには、母犬と他の兄弟たちはすでに息がなく、チョビだけが救出されたのでした。

 旧みやの邸(今はなき、千葉の実家)でも、やや似たような騒動がありました。
 お隣の一部上場企業重役さんの家は、一人娘はもう大学生でしたし、奥さんも日中は社交に勤しんでいたようで(よくゴルフに行っていた)、昼間は無人であることが多かったので、我が家はお中元・お歳暮シーズンになると、お隣あての荷物の預かり所として機能しておりましたが、近所のノラ猫は、その家の裏手を「いい出産場所」としていたようです。

 お隣の裏手が我が家の庭と、ボロい柵で接していました。我が家の方が先に建っていたので、ボロい金網でしたが、お隣はお金持ちですから「共同でもっといい柵をたてませんか?」という申し出もあったようですが、みやの家のほうは「これで構わないので、もし、そちらがこれが嫌でしたら、そちらだけでどうぞ」という対応をしたので、ずっとそのままでした。(「共有 」の塀はトラブルのタネになるとの判断だったのだが、隣の家は我が家の主張を別の意味に解釈したのかもしれない)

 というわけで、ボロい裏側にはあまりタッチしない隣家でありましたので、毎年のように子猫が生まれてました。そして、みやの邸が無人のとき、もしくは一見、無人のとき(病気で学校を休んだ私が、ひっそりと昼食のおじやを食べていたりするとき)には、子猫がうちの庭でじゃれて遊んでいて、とても、かわいかったのでした。

 親猫は人間に対してかなりの警戒心を持っていますが、そういうのは遺伝ではなく「教育」で培われるようで、子猫は元々警戒心を持っているわけでもなく、兄弟でじゃれあって遊んでいると、人間がすぐそばにいても気がつかなかったりします。人間もそうですが、子供ってなにかに夢中になっちゃうと周りが見えなくなってしまうのですね。
 そして、猫の親子にとって、一番の敵は「人間の子供」です。私を含めて子供達は猫を飼うつもりはなくても、子猫を捕獲したくてムズムズしておりました。

 あれは私が高校生くらいのときだったでしょうか?玄関のそばで子猫が遊んでいたのです。本能の赴くままに子猫を捕獲したくなった私は、猫を玄関のほうに追い詰めてしまいました。賢い子猫は外に散ったのですが、たまたま玄関の扉が開け放たれていて、一匹だけ玄関に入ってしまいました。そこで私は玄関のドアを締めてしまったのです。
 とっさのことで私も自分が何を目指していたのかわからなかったのですが、とにかく家の中に追い込んで、ちょっとだけ抱っこしてみたいと思っただけでした。しかし、玄関のドアをふさがれて、子猫がパニックを起こして居間のほうに駆け上がるかと思いきや・・・・・意外な展開になってしまいました。

 玄関の土間と20センチくらい高いところにある床の間に、隙間があったのです。それは外から見るとよくわからなかったので、住んでいる人間もそんな隙間があることなんて知らなかったのです。
 子猫は逃げ道を失ってパニック状態になり、ドアと反対側に駆けていったら、そこにたまたま隙間があったので、そこを抜けてしまったのでした。

 さて、それからが大変でした。しばらく玄関のドアを開け放しておいたのですが、子猫は自分がどういう経緯でここにいるのかさっぱり憶えてないわけで、そんな数センチの隙間を理解して元の道を辿って出られないのです。
 しかも、その隙間は、結局、床下に通じていたようで、しばらくすると、玄関から数メートル離れた居間の下のあたりで「ミャーミャー」と泣き始めました。

 土木作業心に溢れたうちの母が調査したところ、床下の通気性を確保するために、何箇所か穴は開いてましたが、どれも格子がはまっているので、子猫が出入りできるのは玄関のところだけのようでした。ということは、子猫が自力で脱出できる可能性はかなり低い。
 床下で猫が死ぬという事態は避けたいが、いったいどうすればいいのだろう?と、真剣な家族会議が開催され、結局「床板を上げるしかない」という結論になりました。子猫がいると思われる居間は洋室でしたが、そのすぐ隣にある和室は両親の寝室でしたが、そこなら畳だから、畳を上げれば床板が上げられるのではないか、ということになり、父親が帰ってくるとさっそく実行されました。

 あまり細部は憶えてないんだけど、とにかくなんとか床下への入り口ができました。当時、中学生で、サッカー部員だった体育会系の弟が床下に潜入して子猫を捜索しました。しかし、懐中電灯の光に怯えた子猫は、さらに奥のほうに入ってしまい、和室の押し入れと台所の間の隙間に逃げてしまいました。そういう隙間がどのように繋がっているのかよくわかりませんでしたが、もし増築した2階部分まで繋がっているとしたら、子猫の生存可能性はさらに下がりますので、あまり追い詰めるのはやめて、その夜、両親は、居間のほうに布団を敷いて寝ました。床下は開けっ放しにしておきました。

 翌朝「どうだった?」と聞くと、子猫の泣き声を聞きつけた母猫が、庭のベランダのところまで来て、子猫とニャーニャー鳴きあっていたとのことですが、親猫もどうすれば我が子を救出できるのか、なすすべもないわけで・・・・・で、どこでも熟睡できるうちの両親は、そんな猫たちの哀歌を聞きながら眠っちゃったらしいですけど。

 さて、翌日は、救出作戦もバージョンアップして、床下へどこからか探してきた板が立てかけられました。これを伝えば、子猫は脱出できます。でも、そのためには、床の上のところで母猫が鳴いて誘導しないといけません。
 そのときは夏休みだったのか、土日だったのか憶えてませんが、とにかく母だけが家にいて、母猫が警戒しないように、1階のベランダの窓は開放して、かつ、人間の気配を消さないといけません。
 ついに、母猫が意を決して家の中に入ってきて、床上からミューミャー鳴いたら、子猫がその声をききつけて渡り板を渡ってなんとか脱出できたようです。

 と、書くと簡単なことのようですが、でもひょっとしたら「床下開けっ放し」で2日間くらい過ごしたのかもしれない。子猫の体力が心配だったので、床下にミルク皿を置いたりしてました。
 子猫の鳴き声がだんだんか細くなっていったので、かなり心配しましたが、なんとか脱出してくれたのでメデタシ、メデタシでした。それに、そのときに初めて我が家の床下がどんな構造になっているのかも明らかになったのでした。
7月2日(水)

 深夜番組だったときには、とうとう観ることができなかった(ビデオ持ってないし)「トリビアの泉」をやっと観ることができたが、なんだか「ボキャブラ天国」みたいな構成だけど、深夜帯のときからこうだったんですかね?

 さて、昨日は思わず、生まれ故郷のことを思い出してしまったが、そうなると記憶が芋蔓式に地中から続々と現れるものである。私は時々、今は亡き生家(厳密に言うと1歳から住んだ家だが)の夢を見る。先日も、土曜日だか日曜日に昼まで寝ていたときに、人の声がして目が覚め、そのとき昔住んでいた家の自室で眠っている錯覚を覚えた。その部屋は2階にあったので、「なんで外の話し声がこんなに近くに聞こえるのだろう?」と不思議に思って目が覚めたら、そこは今住んでいるアパートの部屋だった。

 ちなみに、今の部屋に住み始めてから、そういう錯覚をしたり夢に見たりする場合、なぜか高校生のときの部屋なのだ。私は自宅内で数回引越ししており、って書くと、まるで寝室が10もあるような豪邸に住んでたみたいだが、実際には、小学生までは1階の親の部屋と居間のすぐ隣にあった通称「子供部屋」(後に納戸になったが、それでもしつこく「子供部屋」と呼ばれた)で過ごし、私が中学になったら、2階で納戸になっていた6畳間が私の個室になり、妹が「子供部屋」に昇格。2段ベットの下に寝ていた弟はそのまま「子供部屋」生活。(我が家は子供が見事に3年おきに産まれているので、長女の中学校入学と次女の小学校入学は同時)

 そして、私が高校に入学するとき、弟に部屋を譲り、私は和室ニ間を占領していた祖母を一間に追いやって、そこを個室にした。
 そのあと、大人になった子供との寝室の近さを嫌がった親の陰謀により、大学生と中学生の私が2階の洋室に2段ベッドで共同生活することになり、弟が和室を占領。
 だから、私はどこの部屋もそれほど長期間使用していたわけではないので、なぜ高校時代を過ごした部屋ばかり夢に出てくるのか不思議だったが、最近になってその謎がとけた。単に、部屋の構造が似ていたのである。窓のほうを頭にして寝ているのも同じだが、昔の部屋も、足のほうが廊下になっていて、祖母のためのキッチンがあった。そういう位置関係が同じなので、眠っていると、今の部屋だか昔の部屋だかわからなくなってしまうようだ。

 えっと、他にも昔の話を思い出したのだが、あまり書く元気がないので、メモというか題名だけ残しておこう。でないと、また忘れちゃって、次に思い出すのか何年後になるかわからないから。
 「麻雀大会の思い出」と「はじめて一人で電車に乗ったとき」の二本です。
7月1日(火)

 さて、7月。
 梅雨の湿気にも体が慣れたようだ。

 さて、今日のニュースでは、森・元首相の「少子化問題を考える会での、問題発言」が取りざたされていて、子供産んだ女性がちゃんとした福祉を受けられないでいるのに、子供を産まない女性がチャラチャラ遊んでいるのはけしからん、というような内容のようであった。
 私は子供産んでない女性であるので、この発言にムっとしてもいいのだが、でも、あまり腹はたたなかった。なぜなら、幼いころの母のお言葉を思い出したのである。

 私の育った地域は、自称中流サラリーマンたちが一戸建てを手に入れるために移り住んできた地域であったので、同じような世代の若い夫婦が多く、二人以上の子供のいる家庭が多かった。
 そして、どの家にも専業主婦がいたので、近所づきあいもわりと濃かった。子供がいる家庭が多いので、どうしても付き合いが深くなる。私の子供時代のテリトリーはそういう「同世代の子供がいる家」であったが、子供の年齢が上だったりすると、その家の中に入る機会はほとんどなかった。
 近所に一軒だけ、子供のいない家庭があった。そこの家は敷地が高い塀で囲まれていて、子供にとってはミステリアスな雰囲気だった。そこのご主人の顔を全然憶えていないが、そのころすでに50歳近かった奥さんのことは知っていたのは、母と一緒に買い物に出かけるような時刻に彼女も買い物に出かけたりしていたからだろう。

 社交的な母は、そのTさんにいつもニコやかに挨拶していた。Tさんは、サザエさんの漫画に出てくる、「隣人の小説家の奥様」のような、和服を着た品のいい奥様であった。私はいつも「こういう人は実在するんだ」と感心していた。
 私ははにかみ屋さんで、近所の大人に挨拶をするのを大変苦手にしていたが、母に「あいさつだけはちゃんとしろ」と厳しく言われていたのであるが、母と一緒に歩いているときに、そういう「近所の人」と出くわしても、母の影で「ヘコっ」と頭を下げるくらいのことしかできなかった。

 屈託がないはずの小学生時代もその調子だったから、思春期に突入すると「挨拶」は、ますます苦痛だった。
 母は近所の子供達を「あいさつができる度」で評価しており、「○○さんちの○○ちゃんなんて、私が庭仕事をしているときにも、わざわざ『おばさん!こんにちわ!』って声をかけてくれるのよ」などと言って、私にプレッシャーをかけたが、そんなことを言われても、私は悲しくなるばかりだった。

 えっと、挨拶が苦手だった自分を振り返るのはこれくらいにして、そのTさんであるが、うちの母曰く「Tさんちはとてもお金持ちなのよ」ご主人がどんな仕事をしているのか知らないが、それほど敷地が広い家ではなかったが、いわゆる「文化住宅」が多い地域で、その家は「純和風」の意匠のようだった。そのあたりも「サザエさん」っぽかったのであるが、さらに母は「でも、あのうちには子供がいないから、たくさん税金払ってくれてるの」

 我が家には3人の子供がいたが、全員公立の小中高等学校に入っていたので、「我が家はかなりペイしている」というか「払った税金以上に恩恵を受けている」というわけだ。そして、その税金がどこから来ているかというと、Tさんのような「金持ちだけど子供のいない家」であると。

 という大変わかり易い理屈で、うちの母は「だから、あんたの学費はTさんが払ってくれているようなもんだから、道でお会いしたらちゃんと感謝の気持ちをこめてご挨拶するのよ」と言った。
 お金だけの問題でもなく、Tさんと時々立ち話する母は、Tさんが「子供がたくさんいていいわね」ということをよく言うので、そんなTさんに近所の子供たちがもっと懐いてくれればいいのに、などと思ったのであろう。

 で、単純な私は、母の説明に大変納得がいったので、「そうか、そうだったのか」と思い、Tさんの前では精一杯「明るくて、いいお嬢さん」を演じたのである。Tさんが払った税金で、この地域の子供はこんな「いい子」に育っています、と納得してもらえれば、高い市民税も気持ち良く払っていただけるだろう、とマジで思ってました。

 そういえば、そのころ、近所のアパートに「子沢山の未婚の母」が転居してきて、ご近所の噂になっていました。大学などが近所になかったので、アパート住まいの住人は低所得者か、スナックのホステスなどが多く、そのほとんどが「流れ者」という感じで、数年で転居していきましたが、その「未婚の母」は5人くらいの子供を引き連れていたので、ちょっと目立ったのです。

 しかも、働いている気配はなく、いつも子供を遊ばせる公園などでブラブラしていました。市役所に勤める人の話では、たぶん彼女には「生活手当て」と「児童手当」が支給されており、児童手当は子供の数が増えるほど増えますから、うちの母が集めた情報と分析によると「うちのお父さんの月給の手取り金額と同じくらいの金額が支給されるらしい」とのことでした。6畳一間のアパート暮らしですから、家賃も安かったはずです。

 今考えると、森・元首相の発言を実現したような人だったんだな。

 ああいう「横並び感覚」の近い新興住宅地では、彼女のような存在は異質でしたが、でも、わりと皆面白がって観察していたかもしれない。というか、暇な専業主婦の格好の「観察対象」になっていたような気がします。
 しかも、いろいろな逸話も提供してくれて、彼女の子供も同じ小学校に通ってますし、他の子も私と同じように「貧富の差というものがこの世にあるのを知らない」というのんびりした児童ばかりだったので、一緒に遊んでいましたが、そのいう交流の中で、彼女は「飲食店の家庭」に目をつけたらしく、休みの日などは子供たちに「○○ちゃんちに遊びに行きなさい」と指示すると、子供たちは近所の寿司屋のお宅に押しかけて、「おじさんちで、ご飯食べて来なさいって言われた」と言えば、そのうちの大将だって、自分の子供と同じ年の子供達を追い返すわけにもいかず、時々寿司を振舞っていたそうです。

 そんで、母親はその間、パチンコ屋にいたとかいう噂。
 そんで、そうやってブラブラしているうちに、今度はなぜか近所の八百屋のご隠居さんと仲良くなり、そのときはそこのお嫁さんが怒って言いふらしていたそうですが、我が物顔でそのうちの居間(店の奥にある)に居座り、ミカンを剥きながらコタツでごろごろしていたりして、子供が学校に行っている時間を潰していたそうです。

 そういう話も私が直接見聞きしたわけでもなく、全部、母が集めてきた噂話として聞いたのですが、うちの母はなぜか彼女に対して嫌悪感をあまり抱かなかったようで、「面白い話」という扱いでした。だから、他の人たちはもしかしたら、もっと悪く言ってたかもしれないなあ。でも、そのうちの子供は年長の子が幼い兄弟の面倒をよく見ていたようで、そういう光景は戦後の子沢山の時代に子供だった母にとってみればノスタルジーだったようです。
 そんで、テレビで「泥の河」が放映されたときに、主人公の友達は河に停泊している小さな船に住んでおり、その子の母親はどうやら売春で生計をたてているらしいという描写がありましたが、やはり下町の川のそばで育った母は、「こういう子、友達にいたな〜、まあ親は売春はしてなかったと思うけど・・・・・」と懐かしそうでした。

 書いていて思ったが、今の政治家のオジサマたちも、うちの母と同じか、それより上の世代が多く、そういう「逞しく子供を育てていた女性達」のことを少年期には複雑な心境で眺めていたと思いますので、そのときの「甘酸っぱいきもち」を忘れられないのかもしれませんね。
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