可燃物な日々

表紙に戻る/過去の日記

ご意見・ご感想・誹謗中傷などございましたら、感情廃棄物再利用所までどうそお気軽に書き込んでください

6月30日(月)

 今朝のワイドショーで知ったのだが、「タトゥー」が「ミュージック・ステーション」をばっくれて大騒ぎだったらしいですね。
 いや〜、やるな〜、各マスコミも「なんかやらかしてくれるだろう」と期待していて、朝日新聞でも「警視庁がタトゥーを警戒」なんて記事を書いて煽っていたので、「赤の広場で無断撮影して警察にしょっぴかれた」というのを日本でもやらかしてくれるに違いないと思っていたのに、まさかマスコミ自体が迷惑蒙るとは思ってなかったのでしょうかね?
 その後の記者会見でもお詫びの一言もないし、膝は抱えるは、上の空だはと、どこの記事も批判的でしたけど、でも、そいうう報道を観て「なんてひどい子達なんだろう」と思うような人は、そもそもタトゥーのCDなんて買わないわけで、買った人、もしくはこれから買うかもしれない人にとっては単なる「笑い事」でしょう。

 あんまし、こんなことで深く考えたくもありませんが、でもワイドショーでの取り上げられ方を観ると、「ひょっとして、タトゥーの二人がお行儀よくスタジオに座って、ちゃんと唄うわ、タモリや他のアイドルたちと交流したりして、『思っていたよりも感じのいい、いい子達でした』って言いたかったのかなあ?」と勘ぐってしまいます。
 だって「生意気な口きくけど、実はいい子」っていうのが売りなタレントが日本だと多いじゃないですか。ああいうのだと思っていたのかなあ?
 たしかに、他の国ではどうだか知らないけど、日本だと売れっ子になるためには過酷なスケジュールをこなさなければならないし、「時間を守れない悪い子」は絶対にタレントになれないので、悪い子はしょーがないからシャ○に手を出して、早起きするんですよね。
 というのは冗談だとしても、でも「前代未聞です!」とテレビの中からまくしたてられても、私の脳裏には、数万人が高額のチケットを徹夜して手に入れて楽しみに待っていたに、空港で逮捕されちゃった某ボールさんの事件のほうがファンへの衝撃は大きかったと思いますけど・・・・・あのとき「やったぜ、ポール!」と思った人は少なかったと思う。

 というわけで、騒ぎを大きく報道すればすれだけ、あちらの策略に乗っかっているようで、マスコミさんたちもそのジレンマに戸惑っているのがよくわかって面白かったけど、また「とくだね」では私の一押しである大村アナが記者会見で鋭い質問をした(つもりらしい)ようですが、スタジオで「大村君とのやりとりの映像が、ビデオクリップに使われちゃったらどうする?」と言われたら、「・・・・それはそれで光栄かも」と、またスマイル。
 大村君は本当にワイドショーの申し子のような人だ。

 ところで、書いているうちに思ったが、私はナンシー関を目指しているわけでもないし、スポーツ誌をくまなくチェックしたわけでもないので、各マスコミが今回の騒動をどう書いているのかちゃんと調べたわけでもなく、新聞数誌やフジテレビのワイドショーを観ただけなんですが、被害というか迷惑蒙ったのはテレビ朝日の番組だから、他局や系列外のメディアなんかは逆に「ミュージック・ステーションなんて下らないアイドル歌謡番組を見限る気持ちもわからなくない」なんていうコメントを寄せてもいいと思うのですが、そういうのは無かったんでしょうか?

 他のメディアの不祥事なんかは、ちゃんと突っ込んでいたりするではないですか。
 今回のことだって、タトゥー側の演出ではないという発言を信じるのであれば、「こんなくだらねー番組、出てらっか」といいうのは、多くの人にとっては肯けることだと思います。というか、そもそも私が高校生のころから「外人は日本のアイドル番組のことわかってないし、そもそも生放送に慣れてないので危険」ということで、外タレだけ別スタジオで演奏させるフリして、収録された映像を流すなんて方式がとられていました。

 そりゃ、自分だってマジメにロックやってて、本国ではすごいセールスある大スターになったつもりでいるのに、外国にプロモーションに行ったら、いきなり「生放送です」ってスタジオに送り込まれて、どう考えても「子供番組の出演者」としか思えないキッズ・タレントと一緒に座りなさいって言われたら、ふてされますわよ。
 それでも「大人」だし、契約もあるから、我慢してこなしたりしますが、後でホテルの部屋でテレビを窓から放り投げたりして暴れそうです。
 昔、「笑っていいとも」にハリソン・フォードが映画の宣伝のために出演したときに「いいとも」と言えと言われて、ハリソンは不安そうに通訳にゴソゴソ言っているので、なんだろうと思ったら「それは、イメージを損ねるような言葉ではないか?」
 気が小さい奴だと言えばそうですが、でも、その気持ちはなんとなくわかります。私だって、言葉の分からない国で、知らない人から同じことされたら、「その言葉は卑猥な言葉なのではないか?」って警戒するでしょう。

 まあ、だからと言ってタトゥー擁護に回るのもリスクが大きいのかもしれませんが、こういうとき、イギリスのメディアだったら性格の悪さでは有名なタブロイド紙が「大手テレビ局がタトゥーを生出演させるなんてリスクを侵すはずはない。あれは、双方で仕組んだことだ」な〜んてまくし立てるんだろうけどなあ。日本のタブロイド紙もがんばりましょう。女性週刊誌にも一応期待しておこー。

 だって、私が高校生のことの洋楽スターがかつての「生放送歌番組」で、どんな酷い扱いを受けたか・・・・っていうのを急に思い出してしまったので・・・・そういえば、『明菜や聖子と並べて立たせるな!」とかコブシを握ってテレビにかじりついていましたっけ・・・・・

 というわけで、「タトゥーやってくれたよ!」って言う私の個人的なご意見は、単なる私怨からのものだということが、自分で書いているうちに明らかになりました。めでたし、めでたし。(今朝からずっと「なんで、好きでもないタトゥーのことがこんなに気になるんだ?」とちょびっと悩んでおりましたので、胸のつかえがとれました。しかし、これも、もしかしたら、あの胡散臭そうなマネージャーの入念なマーケティングの結果なのか?)

 そういえば、以前メールくださった方が「キュア来日署名運動」をなさっているようで、その中で、「かつてキュアーが日本のテレビで受けたひどい仕打ち」を追及してます。実はこの番組は千葉テレビという千葉のローカル局でやっていて、私もよく観てましたが、当時としては「ベスト・ヒット・USA」に並ぶくらいの「外タレがスタジオに来る貴重な番組」でしたが、たしかに「ビバ・ロック」系のノリでした。

 ロッキン・オンの渋谷陽一は、当時(連呼してますな)最も売れていた「ミュージック・ライフ」という洋楽雑誌を「敵」と定めていましたが、「ビバ・ロック」に関してはほとんど触れていなかったような記憶がありますが、要するに「偉そうなこと書いててもミーハーアイドル雑誌だろう」という「ミュージック・ライフ」に比べると「ビバ・ロック」は「ほんとうにただの洋楽版・明星」であり、実際私も好きな外タレのアップの写真欲しさにときどき買ってました。(そのころ、透明な表紙のDIYなルーズリーフのノートが流行しており、そこに挟み込む写真が必要だったんでっす)

 それで「テレジオ7」という番組は、その雑誌の購読者をターゲットにした番組であり、キュアー以外の人たちも似たりよったりの扱いを受けてたんですよね。まあ、その当時の私はそれなりに楽しんでましたけど。
 でも、私も長い間、「なんで、カルチャー・クラブはいきなり武道館クラスだったのに、キュアはさっぱり来日しないんだろう?」と思っていたのですが、MTVの普及で人気が出て、日本のお茶の間にも受け入れられてしまったカルチャー・クラブに比べると、キュアーはちょっと早すぎたんですね。

 話は変わりますが、今のように海外の映像が簡単に手に入らないので、写真やビデオクリップしか知らないでいると、歌謡番組に登場するアーチストの真の姿にびっくりしたという経験も多々あります。
 私の記憶に残る「ジャケットの写真や、宣伝写真は全部SFXだったんかい!?」だったアーチストは、かの浅田彰センセーも「脱構築的な詩だ」と絶賛したとかしなかったとかいう、「通好み」でもありましたが、なにせ、事前に出回った写真がこんなのや、こんなのばっかりだったんで、美形マニアにも人気のあった「スクリッティ・ポリッティ」のグリーンです。しかも、このルックスで「かなりの神経質」というか「あがり症」であるらしく、ライブをやらない人でもありました。そういうわけで、プロモ来日にはかなり期待していたのですが・・・・

 「夜のヒットスタジオ」には、全然違うのが出てきました。
 ・・・・・どこが神経質であがり症なんじゃい。
 売れたからって、浮かれてビール飲みすぎて太ったんじゃないの?
 というかんじの、ハンサムだけどヘラヘラした、「ロンドンの二流広告代理店でカッコだけつけているので、スーツだけはイタリア製を着ているナンパなアート・ディレクター、でも本当はシャイなんだ」という風情でした。

 ちなみに、彼はその後、私の前からは完全に姿を消しましたが、ほんとにろくに仕事しなかったようで、(そのときに、そこそこ売れて、ビッグアーチストにも曲を提供したので、その印税で田舎で暮らすのには不自由しなかったらしい)、数年前、久々に戻ってきたときには、こんなお姿になっていました。
 ロッキン・オンのインタビュー記事によると「スケボーにハマってた」そうで、私は十数年の時を超えてやっと「脱構築」というものが、かったような気分になったのです。

 単に、脱力しただけかもしれませんが・・・・・ 

 なんかまた、昔話に一人で花が咲いてしまい、くたびれた。タトゥーが灰を撒くもんだから、枯れ木に花が咲いてしまったではないですか。ワン!ワン!このまま放っておくと、ポチがまた穴を掘りそうなので、もう寝ましょう。
6月29日(日)

 梅雨の晴れ間をなんとかゲットして、布団を干して(というか、外に出す目的)お部屋の掃除。
 ところで、「ゴキブリ騒動」ですが、かなり山は超えたみたいです。大家さんがなんかやったみたいで、階段の踊り場に大量の死体が散乱していたときには「ゲゲゲ」と思いましたが、それからは明らかに出現数が減りました。でも、やはりベランダにお子様の死体が転がっていますが、前は元気に運動会をしていたのに、最近は生きているのをみかけることが少なくなったので、このまま順調に行けば「世間並み(笑)」のゴキブリ出現数になることと期待しております。

 そんで、私が飼育しているゴキちゃんですが、最初は10数匹いたのが、2日目くらいで一気に死んで、5匹になり、それからすぐに3匹になり、そのころには興味を失って、水やりも忘れていたりしたのですが、でもその3匹はちゃんと元気に生きています。でも、全然大きくならないんですけど、こんなに成長が遅いのかなあ。それともエサが足りないのかしら。

 さて、久々に無為な週末を満喫しておりますが、昨日、図書館に行って、うっかり「フェミニズム書棚」を眺めてしまい、しかもずいぶん前に出版された「叩かれる女たち」をちょびっとだけ立ち読みしてしまったりして、「これ読んで、中級者を目指す人なんているかなあ?だって、私が山形浩生ファンってことを差し引いても、なんか権威的な文章っていうか、読んでて楽しくないっていうか、悪の枢軸と定めたものは徹底的に叩きますっていう、それこそブッシュ大統領の演説に馴染まないのと同じような気分になるなあ。そもそも、ユーモア感覚に欠けてるんだよね」と思い、なんか、ひたすら怒ってる人って怖いから、自分も気をつけようと思った。

 ま、それで、さらに調子に乗って、図書館に並んでいた上野千鶴子の本の中では、わりと平易な内容のようだったし、タイトルもそのものズバリ「ザ・フェミニズム」って本を借りてみました。上野千鶴子と小倉千加子(誰?)の対談集。
 しかし、この二人の業績というか立ち位置がよくわからないので、いまいち、しっくり来ないのであるが、「夫婦別姓」についての是非について語るところで、二人の意見が一致していて「そもそも、結婚制度自体がくだらない」わけで、別姓云々についてまともに意見する気にならないという雰囲気。

 にゃるほど、フェミニストってこういう人たちなのね。なんとなくわかってきた。
 そんで、それを読みながら、斎藤美奈子の「文壇アイドル論」で上野千鶴子のことが書かれていたのを思い出して、ざっとおさらいしてみたのだが、確かにこの人は「性解放論者」であるらしい。この対談集でも「性の自由」を謳っている。

 で、思ったのだが、この「自由」って単語は使い方がとても難しい。
 「女性の自由」とか「性の自由」とか、要するに「人としての自由」ってことなんだろうけど、先日も東浩紀と大澤真幸の対談である「自由について考える」を読んでいて、この人たちの考える「自由」ってことがどういうものかよくわからなかったのだが、私がこの本から感じたのは(この人たちの他の本を読んだことがないので)、彼らのイメージする自由ってものは、空気みたいに世界を満たしていて、それが例えば「監視社会」などで「社会が何かを失っていくのではないか」というように、自由というものがだんだん減少していったり、空気みたいに汚染されていくのではないか、っていう捉え方のように思えた。
 でも大気汚染と違って「自由の汚染度」っていうのは数値では測れないわけで、それを思想的にどう表現するのか難しいみたい。

 で、上野千鶴子の発言から感じるのは、「女性は自由を奪われている」わけで、元々ゼロに近いものだからそれを増やそうというイメージ。
 そのイメージは、たとえば、女性の選挙権問題がリアルだったときにはしっくりくるだろうし、奴隷解放というのもそういうイメージだ。
 でも、その「女性の自由」を突き詰めちゃうと、結婚もしないし、子供産みたければ一人で産んで育てる、ってことになっちゃって、もちろん「全員そうなるべき」ということを言っているわけでもないだろうが、でも上野が言う「自由」を100%実現しちゃうと、人間社会は限りなく「近所の野良猫社会」に近づくな〜、ワハハ。
 たしかに猫を「自由の象徴」として崇拝する人たちは多いと思うし、日向で寝そべっている気ままな彼らを見ると私だって「次に生まれ変わるときには猫にしとこっかな」なんて思うが、でも今の人間社会であれやろうとすると、けっこう大変だ。

 で、結局、「女の自由」だけを考えていると、なんか現実味が無いのだ。結婚制度や家制度で自由を抑圧されているのは、女性だけではない。じゃあ、それを崩壊させろというなら、相続制度そのものが「元凶」になるわけで、それをとっぱらうと、共産主義になっちゃうわけだ。なるほど、だから上野は「左翼」と言われるのか。

 それに、今存在する制度って、たしかに「自由」とは相反するものが多いけど、でも、それは別に権力が押し付けたものだけでもなくて、自然発生的に起こったものが、法律として整備されたものがほとんどだと思う。結婚だって、人がパンダみたいに繁殖期以外は単独行動する本能を持っていたら出来なかったと思うし、インパラの群れに向かって「なんで他人とつるんでいるんだ、もっと自分で行きたいところに行けばいい」と言ったってねえ。

 別に上野千鶴子の言っていることがどうのではなくて、「自由」について考えているのでありました。
 そんで、人間を抑圧しているのは、結局のところ「生命」なわけだ。働くことなんて不自由だけど、仕事しないと食えないから死んじゃうし、じゃあホームレスは自由かというと、ある意味自由だけど不自由さも沢山抱えている。

 そんな「自由」のことを考えていて、私なりに出した結論は「自由ってもしかして一定?」
 自由と不自由は常に裏表セットになっているので、自由を目指すと不自由が増える。要するにプラスマイナスがゼロ。
 自由ってそういうもののような気がする。だから自由を前提にものを考えようとするとなんかチグハグになるかんじ。
 近所の野良猫も、うちのアパートで増殖しているゴキブリも実に自由に生きているが、彼らは私よりは現実的な死とも直面している。「なるべく死にたくない」ということを言葉で表現できる知恵をつけてしまった時点で、自由を売っぱらってしまったのかもしれない。

 さて、また何が言いたいのかよくわからなくなってきました。
 私の頭が悪いせいもあるけど、世の中が複雑なせいもあると思います。
 さっきもNHKの富のなんちゃらってドキュメンタリーで、発展途上国の看護師が賃金の高い先進国に流出してしまうので、途上国で人材不足が起こっているという話をやっていましたが、これを「グローバリズムが悪い」と思うか、「でも、看護師個人のことを考えたら、そうしたくなる気持ちもわかる」と個人の自由を認めるのか、なんじゃかよくわかりません。
 
6月28日(土)

 ちょっと前に「あのころの未来 星新一の予言」という本を読みはじめたのだが、読んでいるうちに「この本読むより、やはり星新一の作品を読みたいよな」と思ってしまった。

 それで「あのころの未来」は放り投げて、図書館で星新一の文庫本を探したのだが、あまり数が揃っていなかった。
 これは読みたいなら買えってことか。
 でも、星新一の本なんて買ったことないんだよね。たいてい、友達のお姉さんや親が持っていたりして、借りて読んでいたような気がする。

 そんなわけで、今日はその本を図書館に返しに行って、そういえば、「日本の図書館はショボい」なんて話があったが、でもそもそも図書館の客がショボいもんな。あそこで一日中新聞を読んでいる老人とか多いもん。
 でも私はあのショボい雰囲気がわりと好きだ。自分も無職で収入が無くて、暇だけは有り余るほどあったときには頻繁に利用していた。それに、確かに「金持ち倒産」などの「こんなもん税金で何冊も買うな!」という本も多いが、ちょっとマニアックというか学術的な本も予約をかけると、即座に世田谷区中央図書館から取り寄せてくれるので、私レベルの「知的欲求」はかなり満たしてくれた。

 私は自分がリクエストした本が、そういう中央図書館から取り寄せられると、なんだか達成感を感じるのである。「払った税金の元はとったな」と満足するのだ。
 千葉に住んでいるときには、地元の図書館でピンチョンの「V」をリクエストしてみたら、県立図書館のシール貼られたピカピカの本が届いたので嬉しかったし、世田谷区ではコードウェイナー・スミスの文庫本は中央図書館の書庫にあった。
 これは私の勝手な想像だが、そういう本を取り寄せると、私自身が「図書館勤務の公務員に仕事させたな」と思うが、図書館に従事する公務員たちも「仕事したな」という満足感を得るのではないかと思う。彼らも購入図書のことではけっこう悩むらしいし、「こういう本を図書館に置くべき」という使命感にかられても、回転する本は「ハリポタ」やミステリー小説ばかりだとヤル気なくなるらしい。(以前、都内の図書館に勤務していた知人談)

 ところで、2週間前に図書館で本を借りたら、カウンターの係員である中年男性が「ありがというございました」と言ったので驚いた。
 なんだ、なんだ「開かれた図書館を目指す」とか会議して、「お客様は神様です」って結論になったのか?
 図書館の係員に「ありがというございました」って言われても戸惑う。
 そう言われて、考えたのだが、私の中では「図書館」っていうのは自分の書斎みたいなもんだし、そこの係員は「図書館専属の召使」なわけだから、いちいち礼を言われても困る。お茶を持ってきてくれた執事が「ありがとうございます」って言ったら、お館様は戸惑っちゃうでしょう。「ありがとう」と言うのは、こっちのセリフだ。

 などと、「公務員に礼を言われる筋合いは無い」と思っていたのだが、今日は「ありがとうございました」と言ってくれなかった。先々週と同じオジサンだった。きっと不評だったに違いない。

 おっと、また話が逸れてしまった。
 それで、暇だったから久しぶりに図書館の棚をうろうろと眺めていたのですよ。特にこれといって借りたい本もなくて、最近はやや裕福なので読みたい本は買っているのだ。(世の中の人が全員私のクローンなら、図書館に自著が置かれるのを非難する人も減るであろう)
 とにかく、暇があったので、あちこちぼんやり眺めていたら、ふと「社会学」の棚にたどりつき、さらにぼんやり眺めていたら「叩かれる女たち-テクスチャル・ハラスメントとは何か」があったので、「あ、この辺は、フェミの場所なんだな」とわかった。

 そんで、パラパラと上野千鶴子の著書を開いてみたのである。
 ・・・・・・・・・。
 なんか、難しいぞ。
 難しい用語というか、カタカナの長い用語や、その解説が多くて、あまり読む気がしない。

 そんで、「叩かれる女たち」の冒頭も読んでみたが、「フェミニズムをスキーゲレンデに例えると、初心者と上級者しかいなくて、中級者がいない」という記述。
 私は今まで全く上野千鶴子の本を読んだことがなかったのだが、けっこう一般的なもんなのかと思っていたが、あれじゃかなりの「上級者」しか読めないじゃないですか。ってゆーか、あれを読むには「我こそは上級者」という思い込みがないと、手にとった瞬間に「やめた」と思ってしまいます。

 私はわりと、自分の周囲にいる読書家の友人を読書のナビゲーターにしてますが、今まで誰にもフェニミズム関係の本を薦められたことがなかったのですが、「こりゃ、たしかにつまらなそう」と納得してしまいました。
 フェミニズム関係者には、もっと中級者向けの本を書いてもらって、中級者を養成する努力をしていただきたいと思います。ってゆーか、真の上級者って、中級者や初心者をひきつけるものがあると思うんですが・・・スキーヤーの三浦さんがエベレストに登頂成功っていうニュースは、山登りを楽しむ中高年に夢と希望を与えたんだと思います。

 というわわけで、私は「フェミニズム」のことが未だにさっぱりわからないのであった。
 もちろん、性差別などに対しては、ときどき考えることがありますが、そういえば、今日、「ブロードキャスター」を観ていたら、「集団レイプする元気があっていいね」と発言してしまった議員が謝罪してましたけど、オヤジ諸君にとっては、「その元気」があるかどうかってゆーのが女性の私の想像を上回る重要な問題なんでしょうねえ。トホホ・・・・と、いう素直な感想は「オヤジ差別」なのではないか?などと考えると袋小路にはまります。

 結局、「女性だから叩かれた」ということよりも、それだけ叩かれる女性が増えたってことは社会進出する女性が増えたってことなわけだし、女性に関わらず、地位や権威や名声を得た人って常に「叩かれる」可能性を持っているわけだし、たぶん私みたいに、あまり社会的に活躍していない人は「女性だから道を塞がれた」という経験が無いので、あまり感情移入できないのではないかと思います。

 そういえば、以前、身近に「女性受けが悪い女性」がいて、それが「女を売り物にしている」というような悪評だったのですが、私はあまりそう思わなかったけど、ただ喋り方がちょっと甘えた感じだとは思いましたけど、誰に対しても甘えた感じで接してきたので「こういう喋り方の人なんだろう」と思っていたし、それほど媚びた感じもしなかったので「なんで、あんなに悪く言われるのだろう?」と不思議に思ってました。
 彼女はテレビ局の社員で、下請け制作会社であるうちの会社のスタッフや、そのさらに下請けスタッフを取りまとめるプロデューサー補佐のような仕事をしていました。ある時、その番組のスタッフルームとして使っていた事務所のアシスタント女性社員が結婚休暇をとったので、私がその代役として一週間くらい電話番をしたのですが、ちょうど年末年始にさしかかるころで、撮影スタッフが今後のスケジュールのことで打ち合わせをしていました。

 スタッフは若いADさんたちで、彼らが一生懸命ああでもない、こうでもないと話し合っているのを彼女は一歩引いた様子で見守っていて、ときおり「そうねえ〜、それはちょっと予算的にも難しいかもしれないけど、でも頑張って交渉してみるわぁ」などと言っていました。
 しばらくして、打ち合わせが終わり、さあ解散というときに、彼女は「ああ、まったく苦労するわよね〜、でも、ここのスタッフ優秀だからよかったわよぉ。ほんと、これが他の人たちだったらどうなってたかと思うと、ゾっとしちゃう」と、言いました。

 当時まだ23歳で駆け出しの会社員だった私は、そのセリフにびっくりしたというか「そうか、この人は、こうやってさらりとスタッフを持ち上げるので、スタッフに人気があるんだな」とわかりました。彼女は自分でテキパキと動くほうではなかったのですが、なんかそうやって人を動かす力を持ってました。そういうやり方が「男に媚びてる」と思われるのでしょうけど、同じことを男性がやっていたらそんなこと言われなかったか、「よいしょが上手い」という中傷だったでしょう。でも、彼女のやり方を参考にしたいと思ったのは「上にも下にもよいしょする」ということでしょう。あれは、やろうと思っても、なかなか出来ない。

 で、私は彼女のことを「仕事する能力があるんだかよくわからないが、ああしてちゃんと仕事させちゃうってことは、結果的に能力を発揮してるってことだな」と評価していたのですが(できることなら、自分でもああいう能力欲しい)、他の女性達が「女を売って仕事している」と言うので「それは違うと思うけど〜」と反発したのですが・・・・

 ウィンブルドンのアガシの試合を観ながらダラダラ書いていたが、試合が長引き、途中で寝てしまった。
6月27日(金)

●久々にハイジ登場

 ハイジ君は本当に頑張ってくれているので、ロッテンマイヤー先生はドーンと仕事を押し付け任せていたのだが、彼が担当する仕事が7月から、すこし(本当は「かなり」)リニューアルするので、その指示というか「こんな感じで進めてほしい」ということを話したら、いきなりドワワっと愚痴られた。
 その仕事の担当者たちは、年配の人が多いので(つうか、4人中3人が50歳以上)、あまり変化を好まないだろうとは思っていたが、ハイジが「こうしてほしい」と言っても、なかなか素直に頷いてくれないそうなのである。私もハイジに引き継ぐまでは、あの仕事で散々苦労したので、ハイジの言いたいことはわかる。

 だからこそ、若いし、まだよくわかっていないハイジにあれこれ指示させたほうがカドが立たないでいいかと思った。私が何か言うと身構える雰囲気だったのだ。だから、中高年男性たちは私と話するよりも、ハイジと話しているほうがリラックスして、話しやすいみたいだったし、中高年女性1名も若い男の子の相手は楽しそうだったし、ともかく「ツンとしてて怖い経理のおねーさん(ってゆーより、かなりオバサン)」よりも(てゆーか、私はただでさえ忙しかったのに、その業務をなんだかわからないままにやらされることになったので、ほんとに大変だったわけですよ)、ガムシャラ(インドの怪しい香料のようだ)にやっている新米を相手にしていたほうが、「一方的に押し付けられ感」が薄まっていいのかな、と思っていたんだけど・・・・

 しかし、ハイジは彼なりに苦戦していたようだ。
 「僕が言っても、納得してくれないんで、今度、ミヤノさんやOさん(部長)も交えてミーティングしましょうよ」
 と泣き言を言ってきた。

 私やOさんの言うことだって、さっぱり聞いてくれないだろうということは、すでにわかっているし、私はどーしてもあの人たちの仕事に対する考え方がよくわからんというか「これでいいんですか?」という不満を抱えているので、どうしても対応がぶっきらぼうになってしまうので、ハイジにやらせようとしていたんだが・・・・・でも、これ以上、ハイジだけに押し付けていると、彼のストレスが溜まる一方だろうし、なんとかせにゃいかんな〜、あ〜やだやだ。

 とりあえず、ハイジを盛り上げてやるしかないし、ハイジは愚痴を言いつつもちゃんとやる奴だと信じているのであった。
 それにつけても、自分もそうなんだろうけど、ハイジもそういう苦悩が表面に出ないというか、わりといつも渋面なので、損してるよな。(私はいつも平然としているので損だ)

●お詫びするほどのもんでもないが訂正

 23日の日記に「ホームに入ってきた電車が急ブレーキを踏んだ」と書いたが、「電車の場合はブレーキを踏みません」とのご指摘をいただいた。あまり考えたことなかったのだが、電車の場合は、ブレーキも手で操作するのだそうだ。でも警笛は足で踏むらしい。自動車と逆なんだ!。へえ〜〜〜
 そう考えると、自転車もブレーキは手で握るし、「ブレーキを踏む」のは自動車だけなのかな?
 で、ブレーキを踏まないとなると、いったいどう表現すればいいのだ?と、3秒くらい悩んだが、「ブレーキをかける」でいいのかしら。

●「風と木の詩」

 20年ほど前は、全巻所有していて、高校の部室の本棚に並べてテキトーに貸し出しているうちに(「オルフェウスの窓」や「ガラスの仮面」や「パタリロ」なども並べていたっけ)、誰かが「欲しい」というので、二束三文で売ってしまった「風と木の詩」であるので、こちらの書評を読んでいたら、懐かしさがこみ上げてきた。
 この漫画って、今だと「児童ポルノ規制」だかなんかに引っかかりそうだ。
 でも、テーマがかなりしっかりしているので、「なぜ少女はホモ漫画が好きか?」ということを考える人にとっては重要な作品だと思うし、「美少年」の性行為に「まだ、そんな心の準備できてないんですけど、でも最近よく痴漢に遭うんですぅ」という立場の少女が自己を投影しているとかなんとか、当時はそういう論評もあったような気がするが(中島梓とかね)、なんかもー忘れた。
 ってゆーか、自分自身がそういう「ホモ少女漫画」が大好きだったし、「JUNE」とか回し読みしたし、クラスでも人気のある男子たちを主人公にした「短編ホモ小説」を書いて、好事家のクラスメートの中では好評だったりしたが、いったいなんで自分が「そういうの」が大好きだったのか、全然説明できなかったし、後になってそういうのの評論が出回ったので、読んでみたりしたけど、「うーーーーむ、そうなのか?どうなのか?自分でもよくわからん」と思ったのであった。

 ま、そのことに関しては、自分が65歳くらいになって、完全に枯れたら、もう一回ゆっくり考えてみようと思っている。

 で、何が言いたかったというと、久々に「風と木の詩」という文字を見て、いきなりわかったのだ。
 ずっと、叶姉妹の姉、恭子さんを見るたびに、なんか頭蓋骨の裏側にチラつくものがあったのだが、それがなんなのか、わからなかった、というより、あまり深く考えてなかったんだが、それが「ロスマリネ」であることが判明した。
 読んだ人にしかわからないと思うが、ロスマリネっていうキャラが登場したんです。それだけです。見事な巻き毛のキャラでした。それだけです。

●エスカレーター片側通行

 掲示板にて反響があったので、ここに書きます。
 まず、私の知る範囲では、というか東京では「立ち止まる人=左側 歩く人=右側」で定着しているようですが、欧米ではその逆になっているみたいです。
 大阪は、欧米と同じなんですか?・・・・う〜ん、なぜ東京だけ「国際標準」に逆らっているのだろう。

 前になんかで読んだんですが、「日本人は、カバンを右手に持つことが多いので、空いた左手側に寄ろうとするが、欧米ではカバンを通路にさらすのを嫌うから右側に寄ろうとするのかも」という説があって、たしかに「東京流」だと、追い越し車線側にカバンが出るので、大きなカバンを持っている人が邪魔になったりします。

 これって、なんでそうなったのかホントによくわからないのですが、別に「こっち側」と指定されているわけではないんですよね。でも、たしか、恵比寿ガーデンプレイスに向かう「歩く歩道」は「立ち止まるなら左」というか「右側は歩く人のためにあけましょう」と書かれていたような気もする・・・・

 私は左右の区別を大変苦手にしているので、駅の通路などで「右側通行」などと書かれていても、一瞬どっちを歩いていいのか迷うくらいなので、右とか左を考えると、だんだん混乱してきてしまうのですが(友達の車で自宅まで送ってもらうときに「次の信号を右」とか「突き当たって左」などと言っているうちに、わけわかんなくなってきて、目が泳いでナチュラル・ハイになってしまう)でも、どっちにしろ「右側に寄れ」という固定されたルールには抵抗があります。

 私が目指していたのは「とにかく、どーせ立ち止まるんだったら前の人と同じにすれば、脇は空く」というもので、例えば左側に杖を持っている人が、エスカレーターのベルトに添えたい手が右側だったら右側で立ち止まってもいいじゃん、その後の人も右側に寄ればいいじゃん、と思うのですが、なかなかそういう柔軟な運用は難しいようです。
 世界中の人が私のクローン人間だったら、それができるんですけどね。

 それに、時々見かけますが、歩くのがやっとの老人の手を引いている人が、エスカレーターに乗って、その老人をなんとかエスカレーターのベルトにつかまらせて、自分はその後ろについて、ちゃんと「片側通行」を守っている人を見ると、「そこまでしなくても、介助が必要な人が通路を塞いでも、私は不満には思わないから!」と思いますが、そういう人に限って「ルールを遵守」しちゃうんですよね。

 こういう「暗黙のルール」でも、「仕事のやり方」でもそうなんだけど、私がどうしても理解できないのは、多くの人たちは「こう決めたらこうする」というように、「なんでそうするのか」ということをあまり考えず、ひたすらルールの遵守を追うところです。
 そういう人に向かって「右でも左でもいいんだけどさ」と言うと、「どっちかに決めてもらわないと困る」と言われて、大変困ります。

 なんでなんだろう?なんで「その時の場合によるので適宜判断せよ」っていうのはそんなに難しいことなんでしょうか?
 で、結局、「どうすべきか」という事態になっても「絶対的な正解」って無いんですよ。
 エスカレーターの片側通行にしたって、掲示板でご指摘があったとおり、それを不自由に思う人は常に存在するわけで、それが完璧な方法ではないわけです。でも「多くの人には有効であろう」ということでやっているわけで、例外は常に存在して、その例外を受け入れることも必要だと思うし、「例外」を「異常」として捉えるのでない懐の深さを常に持っているべき、というか、そうだと世の中、生活しやすいと思うのです。

 もちろん、杖をついてやっと立っている人を押しのけたり、通路を塞ぐ人をどついたりする人もいるでしょうけど、それは個々のマナーの悪さであり、「片側通行」のせいではないと思うんですけど・・・・ 

 東京みたいな常に混雑しているところでは、そういう気配りをしていかないと、自分も辛いわけです。
 たとえば、混んだ電車で奥に入ってしまい、降りようとしたら誰も他に降りる人がいないとき、「すいませ〜ん。降ります〜」と声をかければ他の乗客がササっと隙間を作ってくれると、気分良く降りることができます。
 でも、そういうこきに、絶対に動こうとしない人もいるんですよね。

 前に知人から聞いた話では、ラッシュ時の東海道線でやはり奥にいる人が降りようとして、ドア付近にいる人たちを突き飛ばすようにかきわけたので、知人もそれで迷惑し、思わず大きな声で「すいませんくらい言えよ!」と叫んでしまったそうです。(知人は女性)
 そしたら、次の駅からは降りる客が皆「すいませ〜ん」と声をかけるようになって、「その車輌の人がみんな、いい人になってしまった(笑)」
 そういう人が増えてくれると、通勤ラッシュのストレスが減ると思うんですけど、でも、電車や駅が混雑しているのは事実なんだし、それを抜本的に解消するのには多大なインフラ投資も必要ですが、ささいな気配りでそのストレスはある程度軽減できると思うのです。

6月26日(木)

 いきなり今日は調子が良かった。
 やはり昨日、ちょびっとだけでも運動したのが良かったのか?
 それと、昨日「蟻様」を思いつたのが良かったのか?

 まあ、復帰の理由はなんでもいいが、調子がよくなると、頭の狽トっぺんに花が咲いたような心地がして気分よし。
 他人はどうだか知らないが、私は「気分がよい」と、頭の上にラッパ状の花がパーーーっと開いたような気がするのである。そして、その花から電波が出て、外の世界と勝手に交信するのだ。そう表現すると「ラッパ状の花」はパラボラ・アンテナのような形状のようだが、体感的(?)には、ブラックホールの入り口というか、ホワイトホールの入り口というか、そんなかんじ(どんなかんじなんじゃ?)。

 で、なんで「蟻様」で気分がよくなったかというと、

 この蟻様
 あんな蟻様
 そんな蟻様

 というのが、ベッカム様でもなく、ブケム様でもなく「蟻」様を想像するのが楽しくて、ついつい調子に乗って、

 ひどい蟻様
 なんて蟻様

 というのも、頭の中ではけっこう楽しくて、

 とんでもない蟻様
 ただならぬ蟻様

 などと、応用しているうちにかなり血圧が上昇したらしい。

 つーわけで、今日はゴキゲンなままに会社の顧問税理士と飲んでいたので、また、すっかり酔っ払ってしまったのであった。
6月25日(水)

 調子悪いのにも慣れてきたので、一週間ぶりにスポーツクラブ。
 「サンダーバードを作った男」を読みながら、まず軽く自転車こぎ。
 しかし、いつもと同じ負荷なのに、なかなか心拍数が上がらない。やっぱなんか調子悪いというのがわかった。でも汗はかくんだけどね。

 40分ほど自転車をこいでから、あと10分くらい軽くエアロ・ステップをやったのだが、どうもノリが悪いし、軽い頭痛がしてきたので無理しないことにして、さっさとシャワー浴びて帰ってきた。
 でも、少し運動したら、頭の中の霧がやや晴れたような気もする。

 まあ、しかし、私は多分、いつもだと標準よりも「健康」なので、たまに調子悪くなるとこのアリサマ(蟻様って書くと、なんか偉そうでいい)であるが、友達には「生まれつき体調不良」という人が何人かいた。ずっと貧血がひどい子は、健康診断などでひっかかり、医者に行ったら増血剤を処方されて、飲んでみたら確かに貧血の症状はかなり改善されたそうだが、医者にも「これじゃあ、いつもフラフラするでしょう」と言われたようだが、本人曰く、

 「ずっと、そうだったから、慣れているので、そんなもんなんだと思っていた」

 それで、しばらく増血剤を飲んでいたそうだが、たしかに「フラフラ」はしなくなったが、「でも、それだけなんだよね」
 自分がクスリ無しでは、真っ直ぐシャキシャキ歩けないということはわかったが、彼女はずっとフラフラしていたので、それとマッチするフニャフニャした性格になっており、周囲も彼女のことを「なんか、ふら〜っとした不思議なかんじの人」だと認めていたので、その個性を奪われたてしまうと、逆に「真っ直ぐ歩ける自分」に違和感を持ったようで、それと「ただ、真っ直ぐ歩くために医者に通うのも面倒になった」そうで、「治るもんでもないし、だったら別に貧血でもいいや」ということで、増血剤をやめてしまったそうだ。

 何回か書いているが、別の友人も幼いころから発熱することが多く、大人になってもよく発熱していたので「38度5分くらいまでだったら平気」と言っていた。もっとも、特に用がなければ休んでいるが、コンサートの切符があるとか、珍しい食べ物が食べられる等の大事な用事があれば、出かけることができるし、それなりに楽しめるらしい。

 そうやって、自分の体質を自分のキャラクターに取り込んで、上手に付き合っている話を聞くと、えらいな〜と思う。
 身体障害を持っている人がインタビューなどで「ハンデではなく、個性だと思っている」なんて言うのと同じなんだろう。

 そういうのに比べると、ずいぶんと卑小ではあるが、私もときどき「近視でよかった」と思うことがあった。
 それは「汚いトイレ」に入ったときである。汚いのはわかるが、あまり細部までよく見えないので、視力のいい人よりもラクだと思ったのである。
 でも、あまりにも近視が進み、眼鏡では視力が出なくなったので、コンタクトレンズにしてみたら、自分の部屋がホコリだらけであることに気がついて愕然としたこともあった。そのころは、わりとマメに掃除していたつもりだったが、ホコリがよく見えないので、ただ漠然と掃除機をかけていただけだったらしい。

 全然違う話に飛ぶが、先日、久しぶりに「エスカレーターの片側通行」を無視して、真中にガンと居座るオヤジを目撃した。
 たまに、気がつかないで通路を塞ぐ人がいるが、私はそういう人が「あれ?わたしってなんか変?」と恐る恐る前後を見渡して、事態に気がつき(前を見ると自分以外は全員左側に寄っていて、後ろにはびっしり両側に人が立っていて、すぐ後ろの人が心なしか苛立った表情なのでコワい)、でもなんとなく自信なさげに、不審そうに左側にそっと寄ると、後ろから待ってましたとばかり人がゾロゾロと脇をダッシュで駆け昇って/降りて行き、「なんなのかしら、東京ってコワいわ」と怯えた表情で縮こまっていたりする様子というか顛末を観察するのがわりと好きである。

 というのも、私は日本でこの「片側通行方式」が導入されるのをずっと心待ちにしていたのである。
 特に東京の地下鉄などは、いつもエスカレーターが混雑しているので、急ぐときなどはイライラさせられた。そこの駅をよく利用する人たちは、エスカレーターの位置を把握しているので、あらかじめその付近に停まる車輌を選んで乗り、降りたら素早くエスカレーターに向かえば、上位グループはそんな人ばかりなので、皆ドドドドっと駆け昇っていくし、それにつられて後続集団もついつい駆け上ってしまったりしていたが、すぐに、それほど急いでいない人たちがエスカレーターを塞いでしまう。
 そうなると、ラッシュ時などは、ホームにも人が溢れてしまうのでなかなかエスカレーターにたどり着かなかったりしたし、「急いでいるんだったら階段使えば?」という風潮だったと思う。でも、立ち止まってゆっくり上がりたい人たちが、片側に寄ってくれて、歩きたい人たちが空いたほうを歩けば「運搬の効率が上がるのに〜〜〜」と思っていたので、自分が立ち止まりたいときには必ず前に立ち止まっている人の後ろにつくようにしていたのだが、でも一人でそんな小さな活動をしても、ちっとも世間に広まらないので悲しかったが、欧米に行ったら「私の夢」であった片側通行が見事に運営されていて感動した。

 トイレのフォーク並びも、ずっと「個室ごとに列を作るよりも、一列に並んでくれたほうが、並ぶ方も気が楽だし、行列ができているときに長時間篭るもの気が引けるから(伝染したストッキングを替えたいときとか、生理のときとか、ほんとに下痢ピーピーのときとかに冷や汗かく)一列に並べばいいのに」といつも思っていて、実際に自分がトイレに入ったときに「丁度、個室が満室」な事態になったときに、個室の前ではなくて、・・・・なんて表現すればいいのだ、とにかく洗面台が並ぶあたりの入り口に立っていると、気の効いた人は黙って後ろに並んでくれたりしたが、さっさと個室の前に行こうとする人がほとんどで、「改革」に向かって燃えていた私は「すいません、ここで並んでいるんです」と言っても、「はあ?」と、「いったいこの人何言ってんの?」という顔をされ、そうこうしているうちに、大勢の人が一斉に入ってきて、並んでいるつもりの私になんてまったく気がついてくれなくて、あれよあれよという間に沢山の行列ができて、とても悲しかった。

 しかし、時代は流れ、「ニュースステーション」でも、取り上げられたりしたあたりから、最初は「こっちのほうが合理的だし、自分にとってもメリット多し」と判断した人たちが増えてきたので、いつのまにか定着してしまったので、それは嬉しいかぎりなのだが、でも、未だに「全くそういうのがわからない人」がいるので、それはそれで面白いから注目しているわけだ。

 私の観察によると、トイレではすでに「フォーク並び」は定着しているのだが、エスカレーターに関しては圧倒的に「中高年の男性」が「邪魔者」になっているケースが多い。
 中高年女性の場合、やはり最初は塞いだりするのだが、前述の描写のように「あれ?」と途中で気がつく場合が多いのだ。
 先日、目撃した男性も、中央に立ち塞がったので、すぐ後ろに立っていた若いサラリーマンが彼を押しのけるように前に進んだ。男性は押しのけられて、一瞬左側に寄ったのだが、すぐまた中央に戻ったため、次の人がまた彼を押しのけ、次々と人が横を通って行ったのだが、それでもまだ気がつかず、人の波が去ると彼はまた中央の位置に戻った。
 それが女性だったら、ほとんどの人が後ろを振り向くのだが(まだ、誰か通りたいか確認せずにはいられないはず)、彼はとうとう後ろを振り返らなかった。

 なんで、あれほど大勢の人に押しのけられても、平然としてられるのかとても不思議だった。
 まあ、ひょっとしたら少しボケていたのかもしれない。

 で、私は片側通行という暗黙のルールをこよなく愛しているのだが、それを平然と破るツワモノのことをどうしても憎めないのであった。
6月24日(火)

 後輩のクララは体調不良でお休みだし、フロアのあちこちでコンコンと咳をしている人は多いし、とりあえず元気な人も「梅雨ってダルいね」とダレダレ。
 体調が芳しくないのは自分だけではないと思うと、少しほっとする。
 「みんな○○だ」と言う、言い回しは好きではないが、「みんな体調悪いらしい」というのはそれなりに有効だよな。

 でも、調子は悪いけど、梅雨自体はそれほど嫌いでもない。そもそも私は寒いのが苦手なので、蒸し暑いほうがまだマシなのだ。
 でも、やっぱり、頭がぼんやりするのは否めない。でも、頭がクリアでも、なんかいいことあったっけ?
 などと、思いつつ、今日は会社の人たちと酒飲みに行ってしまった。
 どうせ、ダルダルなら、酔っ払っていても同じだ。

 母からのメールによると、父がいよいよ今週いっぱいで退職するとのこと。
 すでに、常勤ではなくなっていたのだが、いよいよ、我が両親にとっても本格的な「老後」が始まるらしい。
 今のところ、老人ホームに入っている双方の母親の見舞いに明け暮れているらしいけど。

 父方の祖母は随分前からホーム暮らしだが、母方の祖母も、つい先月に急にホームに入れることになり、祖父が亡くなってから、母とその兄弟が何箇所か申し込んでいたのだが、偶然にも祖父の墓から徒歩10分くらいのホームだった。
 母によると、なかなか雑然としていて感じのいいこところらしい。(母は高級ホテルみたいな、すました雰囲気のホームはあまり好きではないようだ)

 さてと、なかなか浮上できないでいるが、こうしてしばらくはジメジメした感じが続くのであろう。
6月23日(月)

 昨晩の日曜夜の出来事。
 ダルいし眠いしで、日記も短く切り上げ、早寝しようとしていたが、ついついテレビをつけっ放しにしながら(サンダーバードが終わって、ひょうたん島もしっかり観て、そのあとに美術番組やっていたので「池袋モンパルナスなんてあったのか〜」などと感嘆しつつ、NHK第一の南米で沢木耕太郎なやつを見るわけでもなくBGMにしつつ、佐藤史生や名香智子の漫画本読みつつ、ぼんやりとしていた。かなり抜け殻状態。でも、蝉の抜け殻はもっとシャッキリしていると思う。「どうして、こんなにシャッキリと抜けられるのか」と、いつも感動して、手にとって見入ってしまうくらいだ。

 でも、蛇の抜け殻はわりとフニャモラだよね。
 小学生のころ、誰かが蛇の抜け殻(というか脱皮した跡)を発見し、誰かが「これを財布に入れておくとお金が溜まるんだって」と言い出し、小学生女児がキャーキャーと奪い合うように、抜け殻をむしっていたのだが、私はその当時から「うろこ」が苦手だったので遠慮した。
 蛇が嫌いだったのもあるが、そのころから現実的かつ冷静だった私は、「小学生の小遣いが溜まったからって・・・」と思っていたのである。そのくせ、親が作ってくれた第一勧銀(死語)の「ピンポンパン通帳」(さらに死語。を通り越してレア)に嬉々としてお年玉を全部貯金していたが。(でも、大した金額は溜まらなかった)

 という話を書きたかったのではくて、(話が逸れるのは調子が良い証拠)ともかく「抜け殻状態」であったのだが、外では緊急車輌のサイレンが鳴っていた。
 「ああ、どっかで火事なんだな」とは思っていたが、幹線道路からはやや距離があるとはいえ、サイレンの音など珍しくもなく、「ああ、どっかで火事なんだな」っていう思考も、思考として成立しないほどだった。冷蔵庫のファンが唸っても、別に意識しないのと同じ。

 でも、サイレンの音は、いつもよりやや近く感じたが、自分の身の危険を感じるような音でもなかった。
 しばらくして、いよいよ寝ようと思って、ベランダ側の窓を閉めるついでにテレビを消そうと立ち上がると、上の階の話し声が聞こえた。上の階は大家さん一家が住んでいて、高校生を頭に5人の子供(たぶん、そのうち二人は双子なんだと思う。今どき珍しい大家族だ)がいるので、たまに足音が想像しいときもあるし、廊下や階段などで子供が大声で喋っているときもあるが、普段はそれほど話し声は聞こえないので、「おや?」と思って耳を澄ました。

 店子が住むアパートにはベランダがついているが、大家さんの住む階はベランダが無いので、普段はあまり話し声が聞こえない構造なのである。それが聞こえるといことは、家族が窓辺に張り付いて喋っているのだと想像できた。そして、その会話の内容は、

 「うわ、すごいねえ」
 「たぶん、踏み切りのこっち側なんじゃない?」
 「こういうとき、高いところだとよく見えていいね」
 「でも、かなり近くない?」
 「どれどれ・・・あ、ほんとだ・・・・」
 「なんか怖いよ」

 なんだろう?みんなして、なんの話だ?
 と、ぼんやり拝聴していたのだが、ふと、サイレンがまだ鳴っていることに気がつき、「火事が見えるのか?」と気がつき、ベランダに出てみると、私の階だと隣の家で視界が塞がれてしまうが、黒煙がゆっくりと上がっているのはわかった。その上の階だと、黒煙がどの辺から上がっているのか見えるのであろう。
 煙だけしか見えないので、距離感はわからないが、わりと近いみたいだった。それに大家さん一家の会話によると「踏み切りのこっち側」ということなので、そうなると500メートルくらいしか離れていないはず。

 そう思うと、煙がとても近くに感じられ、少し恐ろしくなったが、大家さんのところの女の子がしきりに「こういうとき、高いところだといいね」と繰り返すので(それほど高くもなく、大家さんは3階に住んでいるのだが、斜面に建っている建物なので、4階くらいの効果はあるかもしれない)、煙との距離を私よりリアルに捉えている人たちが、そんなのんびりした調子というか、他人事だったし、それに、そのうちの子供もこの辺の公立小中学校に通っているはずだし(世田谷にアパートを所有する一家であるが、子沢山なのでそれほどの余裕はないと思う)、そうなると、この近辺に「友達のうち」が多く存在するはずなのに、その呑気さであるということは、それほど大きな火災ではないだろう、と冷静な私は冷静に判断して、とっとと寝てしまったのであった。

 さて、今日になって、会社に行って、昼休みに自分のメールをチェックしたら、随分久しぶりにアエラさんからメールが届いていた。先日、K子さんちに行ったときに「アエラさんは元気かね?彼氏はまた来日してるの?(彼氏は北アイルランド人)」「うん、来てるよ。ワーキング・ホリデー・ビザで」「働いているの?」「六本木ヒルズにあるアイリッシュ・パブでバイトしてるらしいよ」「カイが、ヒルズでバイト?ぎゃははははは〜〜〜そりゃ、おシャレ!」などと噂話をしていたのだが、それはいいとして、「お久しぶりです」という題のメールの内容は「三茶近辺で火事があったそうだが、大丈夫?」という、昨日の深夜に届いたメールだった。

 そういや、アエラさんは、「ミヤノさんちの近所で殺人事件があったみたいだけど大丈夫?」と、ほんとに超ご近所だった太子堂商店街で警官が殺害された事件が起こったときにも、私はただ「今日はヘリがうるさいな」と思っていただけだったでの、アエラさんのメールを読んで「すわ!事件だったんだ!」と気がついたのであった。

 つーことは、アエラさんが知っているってことは、ニュースになったような火事だったのね、とわかったので、さっそくニュースサイトを見てみたら、世田谷線の太子堂駅(私の最寄駅)のすぐ北側の住宅密集地で起こった火災で、家主の男性とその小学生お子様が亡くなったらしい。

 わー、かなり大きな火災だったんだ。と、気がつく。
 それに、亡くなった子供は、近所の小学校に通う子供だったらしい。

 ちょっと、しんみりするが、でも、詳細な住所はニュースには載っていなかったけど、その町名から察するに、私の住むアパートと火災現場は300メートルくらいしか離れていないのだ。
 300メートルと書くと、目と鼻の先のように感じるが、住宅が密集しているエリアでの300メートルって、あんなに遠いのね、と思った。「近い」とは思っていたが、それほど近いという気もしなかったのだ。

 たしかに、中学生のころまではスプリンターだった自分は(中学生のときの陸上大会では100m走が4番だった。過去の栄光と呼ぶのも微妙な成績)、100mが意外に長いことを知っているし、それが3倍になったらかなり遠いし、400メートルっていうのは短距離というよりも自分にとってはすでにペーズ配分が難しくなる「中距離」だ。

 でも、たったそんだけの距離ともいえるわけで、そんな至近距離で人が2人も死んでいたのに、「ふーん、火事か」と思っただけで、さっさと寝てしまった自分や「こういうとき、高いところだとよく見えていいね」と言っていた大家の娘は「それでいいんかい!」と、思ったが、でも、それでいいんだと思う。下手に野次馬根性を剥き出しにして、現場に駆けつけて、緊急車輌の邪魔をするよりは「ふーん、火事だ」と思っているほうが無害である、はずだ。

 昔、というか、それほど昔でもないが、まだ六本木で働いていたころ、帰るときに地下鉄を待っていたら、ホームに入ってきた電車が急ブレーキを踏んだことがあった。キーーーーーっという凄い音が鳴り響き、ホームにいる誰もが異常事態を感じた。私はとっさに「誰かがホームから飛び込んだのか?」と思って身構えた。私が電車を待っていた位置は、ホームの後ろの方だったので、「もし、人身事故だったら、さっさと改札へ逃げよう。どうせ電車はしばらく動かない。バスで帰ろう」と思っていたのだが、驚いたことに、そのときホームにいた人々の3分の1くらいの人数は「なにか事故があったと思しき方向」に向かって走りだしたのである。「なんだ、なんだ、事故か?」ってかんじに。

 自分の目の前を駆け抜けていく群集を見て「信じらんない」と思った。だって、もしかしたら、グチャグチャの轢死体をみることになるかもしれないのに・・・・・見たいわけ?
 結局、事故ではなくて、ホームにいた人の持っていたカバンが電車に接触したので、電車が急ブレーキを踏んだだけで、ホームに流れるアナウンスも「だから、白線内に下がってくださいって言ってるでしょうってば」な雰囲気だったが、駆け寄った群集も「なーんだ」とう雰囲気で拡散していった。

 私はそのときに痛感した。彼らとて、別に「グッチャグチャの死体」を観たいわけでもないはずだ。ただ、「なんか、あった」と思うと、ついつい小走りに駆け寄ってしまうだけだ。これが何の役に立つのか/たっていたのかわからないが、人間の本能なんだ」

 私は、うちのオカンに「野次馬は二次災害に遭う」と、厳しく教育された。ガス爆発に群がった群衆が、二次災害に遭い、大きな被害が出た事故がオカンの若いころにあったらしい。だから火事の現場に群がってはいけないと躾られたので、なにか大きな事故があったら、その反対側に逃げろと教育されたので、今でもその教えは守っているし、私が何か緊急救命ができるスキルがあれば別だが、まったくそういうスキルを持っていないので、私がいるだけで現場の邪魔になるはずだ、と思っている。

 これも随分前のことだが、新宿駅で、友達と京王線に乗ろうとして、JRから京王線に乗り換える地下通路を歩いていたら、目の前を歩いていた酔っ払いの中年男性が階段を踏み外して転落した。
 私と友達はなすすべもなく、転落する男性を見守ったが、彼は頭から血を流して横たわっていた。
 周囲を歩いている人たちが騒ぎだし、「誰か駅員を呼べ!」を叫ぶ人がいて、改札に向かって走る人がいた。数人が倒れる彼に向かって群がっていった。
 私は友人に向かって「誰かが駅員を呼びに言ったらしいし、うちらに治療ができるわけでもないから、行こう」と声をかえ、友達も「そうだね、私らにできることないよね。いるだけ邪魔だよね」と納得したので、2人でさっさと歩いて帰った。
 「あの人、大丈夫だったかなあ?」
 「頭打った場合は、血が出たほうが軽症だと言うから・・・」
 「でも、うちらの前歩いててくれたからよかったよね」
 「たしかに、後ろを歩いていたら、巻き込まれてたかも」
 などと、話していたが、翌日も気になってニュースを見ていたが、「新宿駅の階段で転落して死亡」という記事は見つけられなかったので、あの中年男性は無事だったのだと思う。

 でもね、やっぱり、自分の手の届く範囲で、なんかそういう事故が起きると、ついつい、「自分には何か出来ないのか?」と思っちゃうわけですよ。それを「できません」とキパッリ判断して、さっさとその場を立ち去るのはけっこう勇気がいるんですよ。だからこそ、多くの人は「野次馬」としてその場にまとわりついて、参加している自分に安堵感を持つのだと思いますが、私は「気にはなるけど、その場を立ち去る勇気」のほうを評価したいというか、自分にできる最大限のことが無関心と同じというのもなんですが、この「無関心」がけっこう難しいこともわかるので・・・・・・・

 さ、何言いたいのかわかんなくなってきたから、今日も早寝しよっと。
6月22日(日)

 木曜日に会社を休んだので、今日は替わりに出勤。
 有給休暇を使ってもいいのだが、今月は週休二日にするために、すでに2日使う予定になっているので、これ以上有給使うと後で苦労するから温存。
 まったく休みが少ない会社だから苦労するよ。
 それでも、ここ2年くらいは、有給すら満足にとれなかったのであるが、最近は世間並みの週休二日にかなり近づいているのでよしとしよう。

 でも、せっかく出勤しても、フロアはシーンと静まっているので、眠くなってしまい、お昼ご飯を食べたらさらに強烈に眠くなり、ほんとに吸い込まれるように眠かったので、机に突っ伏して寝ていた。結局、ほとんど仕事はせずに、ネットを彷徨ったり、居眠りしているだけだった。こういうのを時間の無駄遣いというのだろう。
 でも、世の中ってたぶん、こういう無駄が多いというか、こういう無駄を核に動いているのだと思う。

 それにしても眠い。やっぱ、まだ調子悪いのかなあ。
6月21日(土)

 さて、ブケム様詣でであるが、場所は苦手なイエロー。前回行ったときには、大行列にメゲてしまい、痛恨のUターン(財布に打撃)をしたのだが、今回はその教訓を生かして「早めにイン。早めにアウト」という計画。

 しかし、今回はgood lookingレーベルのメンバーである日本人DJ MAKOTOのリリース記念パーティーなので、どうやらマコト君がメインDJとなるらしい。するってえと、ブケム様のご登場はもしかしたら、深夜というか、早朝(3時とか4時とか)になってしまう恐れもある。
 しかし、だからと行って遅くに行くと、もう終わってたりするのも悔しいし、それで後悔するよりは「早めに行って後悔しよう」と決意して、電車のあるうちに乃木坂の駅から西麻布。
 金曜日の深夜だけに、西麻布交差点付近は賑わっていて、終電間近なだけに、タクシーも殺気だっていて、私が信号待ちしている横でタクシーを拾おうとしていた白人カップルさんは、乗車拒否の連発に顔をしかめていた。

 12時ちょっと過ぎにはイエローに入る。
 早く来すぎたらしく、中はまだガラガラ。
 でも、12時半くらいになると、続々と客が入ってきた。1時を過ぎると、まあまあの混雑。フロアもほど良く埋まる。とうか、イエローのフロアは狭いので、(昔、開店したときは広いと言われたもんだが)このくらいが丁度いいのだが、そうもいくまい。DJは坊主頭の日本人で、それなりに盛り上がっていたが、「でも、マコトはこんな髪型じゃなかったよなあ。でも、あまり顔覚えてないんだが、こんな顔だったっけ?」と、思っていたが、1時を過ぎても彼が回していたので、やはり彼がマコトかと思ったが、1時半になったら、小柄で華奢で長髪で眼鏡をかけた少年が現れた。「あ、こいつがマコトだ」と思い出す。

 DJ MAKOTOはイギリスでは、酒を買うのもタバコを買うのもIDカードが必要だろう。西洋人にとっては中学生にしか見えないと思うが、ブケム率いるgood lookingレーベルで活躍している、この業界ではかなり成功した日本人である。そういえば、NYのハウス界に食い込んじゃって、並み居る「デカくて、悪そうな黒人DJ」の中に咲いた一輪のリンドウのようにキョトンと混ざっていた富家サトシ君(坂本龍一にも一時は重用されて共演したりしていた)も、かなり華奢だったな。

 というわけで、1時半を回ったところで、DJがMAKOTOになる。ってゆーことは、2時間はやるわけで、やはりブケム様の登場は3時半以降か・・・・とほほ。オバサンは、いい「ご休憩所」を求めてラウンジを彷徨い、椅子を見つけてそこで仮眠をとる。
 でも、ベッカム様を一目見るためには、あのファンたちは早朝から成田空港に詰めて、いったい何時間待たされたのだろうか?それでやっと現れたと思ったら数秒しか見られなかったらしい。公開記者会見のチケットはオークションで高額だったらしいし、そんな過酷なベッカム様詣でにくらべれば、ブケム様詣ではコストパフォーマンスがかなりいいはずだ。と思って耐える。

 ときどきフロアにも戻ったが、混雑している上に、かなり盛り上がっててグチャグチャ。よし、みんなもっと暴れて早く疲れるんだ。オバサンはその間、じっくりと体力を温存してるから。
 マコト君はプレイが終わると、MCの女性(白人金髪美人。かなりパワフルだった。やはりイギリスは層が厚い。こういうのがフツーに出てくるので、日本で「本格派女性ボーカル」などと言われる人たちも並にしか思えないのである)にからかわれるようにマイクを渡され「今日は来てくれてありがとうございます」と学芸会のようなご挨拶を照れ臭そうにしていた。かわいい。
 その後に「えっと、英語でも言うように言われまして・・・・」
 スタッフも外人だし、そもそも今日は外人客が多かった。マコト君はなんと、カンペを見ながら英語でスピーチ。「サンキュー フォー カミング・・・・」とかなんとか(笑)。英語苦手らしい。

 さて、メインのマコト君が終了し、いよいよブケム様登場の前に、MCコンラッド氏が登場して、客を煽る。コンラッドは私のドラムンベース仲間内では「体育教師」の異名を持つ。いつも「イモジャー」なジャージを着て、「おらおら〜、もっと早く走らんか!そこ!歩くんじゃない!」というように、客を煽るからである。私は彼を見るたびに「ああ、首にホイッスルをぶら下げてほしい」と思ってしまう。

 でも、コンラッド氏は今日はジャージ姿ではなく、Tシャツだった。つまらん。
 なんて思っていたら、やっとブケム様登場。
 ギュウギュウだったが、がんばって前の方に行く。だって舞台が低いから後ろだと見えないんだもん。

 もう、4時近かったので、かなりくたばれていたが、前のほうで頑張る。はあ、やはりお美しい。
 まだ舞台の袖にいたマコト君となにやら話しをしていて、マコト君に向かってニッコリと笑うと、前歯が光る。
 あれ?前からあんなに前歯が光ったっけ?でも、あれは歯の輝きではなくて、金属の反射っぽい。前歯に金か銀を入れたのだろうか?それじゃ、ゴールディーじゃん。(一時はビヨークとも付き合ってたゴールディーは、その名のとおり、金の装飾品しか身につけないが、歯も全部金歯。笑うとかなり眩しい。私はロンドンに行ったときに至近距離でその黄金の笑顔を拝見したのが自慢)

 というわけで、1時間くらい「ああ、来てよかった。幸せ。ホルモンバランスが整うわぁ」と、ブケム様のお姿を堪能した。イエローで4時間も待つのはそれなりに過酷であるが、こういう世間一般的にはマイナーなアイドルを追っかけると、その程度の労力で3メートルくらいまでは近づけるのである。それに、これ以上近づきたいという気持ちもないし。どんな声だか知らないほうがいいと思っている。(ベッカム様みたいな喋りだと許せないと思うから)

 しかし、4時半を過ぎたら、相当疲れてきたし、眠くなってきた。
 まだまだ、その美しいお姿をずっと見つめていたい気持ちもあったが、でも1時間以上見つめていたし、それにいつかは終わるので、「もう帰ろう」と辛い決断をして5時前に外に出た。
 外に出ると、もうすっかり明るくて、まだ気温も上がっていなくて気持ちいい。
 あんなにくたびれていたのに、すぐに電車に乗るのがもったいなくなり、渋谷まで早朝散歩を楽しんでしまった。徒歩20分くらい。渋谷からは電車に乗って帰宅。

 汗だくだったので、シャワーを浴びてから窓を開けっ放し&FMをつけっぱなしで眠る。朝の7時近かった。
 ふと、意識が戻ったら、もう3時近かった。気温は上がったようだが、湿度が低かったので心地よく眠れたらしい。
 でも、夜遊びのツケで、全身ダルダル。

 6時くらいにやっと起き上がって、買い物に行った。

 そういえば、昨日、イエローに行く前に、テレビをつけっぱなしにしていたら、「ランダム・ハート」という映画が始まった。ハリソン・フォード主演の「中年不倫物」らしいが、ハリソン・フォード演じるNYの警察官の妻(アパレル関係)と、ニューハンプシャー州の美人女性下院議員の夫(弁護士)がマイアミ行きの飛行機に乗っていて、事故で亡くなったのだが、彼らが不倫関係だった、というお話。「なんか、花様年華みたいな話」と思って、そういうプロットをハリウッドがどう料理するのか興味が沸いたので、ついつい観てしまったのだが、これが私の想像を上回るしょーもなさで、かなり脱力した。
 ハリソン・フォードが「いるだけでセクシー」だと思える人にとっては、説得力があるのかもしれないが、私みたいにハリソン・フォードにあまり興味の無い人にとっては、美人女性議員がいきなりハリソンにヨロメく経過が全く理解不能。
 「あなたみたいな男にそんなこと言われたら、女なら誰だって・・・」
 みたいなセリフ言われてもなあ。

 そういうのはセリフではなくて、行間で語ってくれよ、と思う。
 ハリウッド映画でもそうだが、日本のテレビドラマでも、バカな脚本化は俳優の演技を信用してないというか、そもそも、そういう頭が無いのか知らないが、演技で表現させる前にセリフで説明しちゃうので、そういうのが面白くない。もちろん「セリフでなく演技や映像で」というのは、演出スタッフと脚本スタッフの間に綿密は打ち合わせが無いと成り立たないのだが、そういう意味では「ER」なんかはホントによくできてるんだよね〜。あれも、かなり見え見えの作りなのだが、でもその「見え見え」がなかなか出来ないらしい。

 映画でも小説でもドラマでも同じだが、登場人物が「今の自分の気持ち」をセリフなどで表現してしまうほどつまらないものはない。もっとも、それで効果をあげることもあるが、優れた・・・というか、真に心に迫る作品っていうのは、「行間」を視聴者や読者が自分で埋められるところが多いものだと思う。

 私はわりと「恋愛映画」みたいのは好きだけど、アメリカ映画の恋愛ものはどうも面白くないのに、テレビドラマは面白いのはなんでなんだろう?
 多分、映画の場合は、主演スターのスター性に依存しすぎなんだと思う。
6月20日(金)

 寝不足だったが、なんとか出勤。
 腹痛はなかったが、お腹がゆるい。
 やはり、「梅雨バテ」による消化器系の疲労というか、ゴキブリがなんか食中毒を引き起こす細菌を媒介しているのだろうか?

 でも、特に体調が悪いというほどでもない。

 さて、朝のワイドショー「とくだね」では、日本国民がみんなで歓迎しているらしい「ベッカム様ご来日」をかなり過剰にとりあげており、大村アナのインタビューが放映されていたが、さすがのベッカム様の「王子様オーラ」すっかりやられてしまったらしい大村アナは、あのW杯開催試合を取材したときと同じ「あんた、なんかヤバいクスリやってんじゃないの?」級の脳内麻薬物質無制限ジャンジャンバリバリ大放出笑顔をふりまいていて、「ホルモンバランスが狂いました」とまくしたてていたが、それって要するに「ベッカム様だったら、抱かれてもいいかも」ということらしい。

 大村アナの「世界で一番、今のボクが幸せ」な笑顔(と、悪口っぽく書いているが、私は彼のあの笑顔のわりとファンである)を観て、「私の体調不良の原因」をなんとなく推し量り、「私も、もっと女性ホルモンを刺激するようなことをしないとな」と思い立った。

 女性にとって、アイドルを追っかけることは健康維持にとても必要なことなのである。
 アフリカの動物たちが、暗い洞窟の中で岩を舐めるのは「ミネラル補給」の目的らしいが、テレビで観る「ベッカム様追っかけ群集」にも似たような本能が働いているように思える。

 というわけで、体調思わしくないからパスしようと思っていたが、私もアイドルの追っかけをすることにした。
 なんか子音の構成が似ているのが気に食わないが、「ブケム様」(ベッカム様と同様にfrom イングランド。でも、アフリカ原産だが)を追っかけに行ってきました。
6月19日(木)

 目が覚めて、テレビを観ながらコーヒー牛乳を飲んでいたら、腹が痛いことに気がついた。
 最初は腸の痛みというか、要するにお腹が張っているのかと思ったのだが、どうもそういうわけでもなさそうで、では子宮の痛みというか、いわゆる生理痛かと思ったのだが、それともちょっと違うような・・・・どこが痛いのかよくわからないのだが、とにかく臍の下あたりがズーンと痛いのである。

 生理痛だとしたら、もう3日目なので、こんなに痛いのは異常事態である。やはり健康診断で疑われた子宮筋腫なのであろうか?
 とりあえず、鎮痛剤を飲んでもう一度横になる。しかし、今日が不燃ゴミ収集日であることを思い出し、頑張ってゴミ出し。一週間に一度しかないので、寝坊したのならともかく、体調不良くらいではパスできない。しかし、すでに蒸し暑い外に出たら、吐き気と眩暈がして、胃液がこみ上げてきた。

 腹痛、吐き気・・・・・・生理中じゃなければ、「妊娠したのかも」と勘違いしそうな状態。(参考資料:切迫流産と格闘中のA嬢)
 その前に、身に憶えがないが・・・・・今の私が妊娠したら、きっと卵を産むだろう。ゴキ○リの・・・・・うげげげ・・・・怖い想像をしてしまった。自分の想像力の逞しさが原因でさらに具合が悪くなり、「これは今日はダメだ」と会社に「休みます」とメールを書いて、布団に包まった。
 鎮痛剤が効いたので、すぐに痛みは消えたが、ダルさはそのまま。
 「梅雨バテなのかもな」
 などと、自分を励ましつつ、テレビをぼんやり観ながらゴロゴロしていた。
 でも、そうなると今度は腰がズーンと痛くなり、寝ているのも辛い。

 午後になったら、ラジオに切り替え、久しぶりにFENを小音量で流したら、うつらうつらと浅い眠りが続いた。
 やはり少しお腹もこわしているようで、やはり腸が痛かったのかもしれない。軽い食あたりだったのかも。

 夕方になると、鎮痛剤の効き目が切れたのか、また鈍痛。
 やっぱりなんか子宮の痛みのような気がしたので、鉄分補給サプリを飲んでみた。30分くらいで痛みはきれいに消えた。やはり、月経が原因なのかも。(生理痛がひどいときには鉄分を補給すると痛みが和らぐのだ)

 やっぱ、産婦人科に行ったほうがいいのかな〜
 でも、医者嫌いというか、医者に行くのが面倒なのだ。
 産婦人科の前に、穴のあいた親知らずをなんとかしに歯医者に行くべきだろう。
 あ〜、も〜なにもかも面倒。
 早く死んでしまいたい。
 子宮ガンでも大腸ガンでもなんでもいいから、手遅れになるのを待とう。

 と、布団の中で丸くなりながら、また思いっきりネガティブなことばかり考えて、一人遊びしていたのであった。暗い。

 昼間はずっと寝ていたので、夜なかなか眠れなかった。  
6月18日(水)

 昨日は朝から出血してしまい、会社で超ダルかったが、なんとか気合で乗り切った。気合で乗り切れる程度なのである。
 しかし、仕事が終わったら、「気合」も強制終了してしまったらしく、フラフラヨロヨロ。軽い貧血気味。
 ひさびさに、猛烈に眠くなり、家につくと倒れるように寝た。

 おかげで今朝は快調。
 しかし、仕事は暇だったので、また机に溜まった書類の整理をした。ついでに金庫の中の整理もしたら、銀色の菓子の空き缶があり、中を覗くと「過去の遺産」が沢山詰まっていた。
 8年前に発行した領収書の控えとか、客から貰った「リース料」の領収書とか(なんで金庫の中にある?)、期限が過ぎた法人クレジット・カードとか(なんで保存しておく?)、ガラクタばっか。
 しかし、「高速道路の回数券」という一応「お宝」も出てきた。しかし、そんなもんがあった記憶が私には無いので、少なくとも4年間は保存されていたらしい。今ではETCを利用しているが、それ以前には営業車で出かけた社員はガス代も高速代も各自立て替えて、後で清算していたのだ。

 たぶん、「高速代の立替がバカにならない」という訴えがあって、経理で回数券を買って管理して、高速に乗る予定の社員に事前に渡していたことがあったのだろうけど、いちいち回数券を申請するのも面倒で、いつのまにか風化してしまったんだろう。

 そんな「お宝」を除いて、ほとんど全て処分。あー、すっきり。
 そーいや、マンションの権利書が出てきたのだが、「あれ?この物件ってもう売却したのでは?」と思って担当者に確認すると「それはもう要らない」とのことなので、ちょっとドキドキしながら権利書をシュレッダーした。
 私は会社の書類を処分するのが大好きだ。
 上司は「捨ててしまって後で後悔するくらいなら保存しておこう」というタイプだが、私は「もしかして、もしかすると、後で必要になるかもしれないけど、そのときはそのとき」と思っているし「もしかして」と思うスリルがたまらない。
 それに、経験的に、いくら大事な書類でも必要なときに見つからなければ「無いのと同じ」なのである。

 そんで、私は事務職OLとしては大変優秀なので、書類の重要性を見抜くことができるので、そういうときに丹念に「本当の重要書類」を探し出し(保証金の預け入れ証書とか、まだ有効な契約書など)ちゃんとファイルしておけば、後で必要になったときに「あのとき発掘して、どっかにファイルした」くらいは記憶できるのであるが、文書箱10箱くらい整理しても、そういう重要な書類に出会うのは稀である。後は全部ゴミ。

 と、気持ちよく整理整頓に勤しんでいたら、後輩が「これは、どういう仕訳すればいいんでしょうか?講演料ですか?それとも、原稿料?」と言うので、その支払伝票を見てみたら、仮払いの清算で、うちの会社の営業部で開催した顧客向けのセミナーで講演してもらった大学先生へのギャラだった。

 「あ、源泉してねーじゃん」と思って、彼女に「5万円を手取りで渡すときには、5並びにしないと」と説明。
 そっか、そういう報酬を振り込みするときには私が処理しているのだが、最近はあまり現金での支払いがなかったので、2年目の彼女にはピンと来なかったようなので、「原稿料や講演料の支払いの際には・・・・」と説明した。

 しかし、講演者3名のうち、2名は「講演料」と営業の担当者が摘要欄に書き込んでいたが、残り1名には「遠方からお越しいただいたので、お車代の名目で渡しましたが、実質は講演料です」という、わけわかんないことが書いてあったので、一応確認しておこうと、担当の営業部課長に内線した。

 「あれって、全部、源泉があることにしていいんですよね?」と言ったが、相手は「言っている意味がよくわからない」

 え?源泉のことわかってなかったの?そういえば、そういうセミナー担当は以前は別の人がやっていて、その人は一応「源泉徴収」についての知識はあったので、いつも「で、どうするんだっけ?とにかく5万円払いたいんだよ」などと確認してきたので「5並びにしてください」と答えていたのだが、どうもこの課長はそんなこと全然わからなかったらしい。

 それで、今後のこともあるので、クドクド説明したのだが、向こうは「はあ」という感じで、いかにも面倒くさそう。
 私が一通り説明し終わると「じゃあ、そうしておいてください。僕はそれで構いません」だってさ。

 あのさー、わかってんのかな?
 あたし、別に、あんたが源泉のこと知らなかったのを怒っているわけじゃないですよ。ただ、あんたは「5万円」のつもりでも、実際に会社が支払う金額は「¥55,555」になるわけで、それって「セミナーでこれだけ経費かかりました」って報告するときには重要な違いだと思うわけですよ。わかってる?

 非常にムカムカした。久々に気分が悪い。
 まあ、その課長とは前からなんとなくしっくり来なくて、というか私が一方的に苦手なのかもしれないが、向こうも多分私のことというか経理が苦手みたいで、ささいなことで何か言うと、とても身構えてくるのだ。そのくせ「金のことは全部、経理にお任せ」という態度なのである。話しても、その調子でわかってるんだか、わかってないんだか、とにかく「こっちは悪くありません」というオーラをまとって防御一方になるので、とても話にくい。

 その人のことを私も前からちょっと苦手にしていたのだが、それは多分、向こうが経理に対して少し緊張気味で、「なにかいつも文句言われる」というような雰囲気でとても構えて接してくるので、たまに些細なことで話をすると、いつもこの調子なのだ。それがあるから私もやや口調が硬くなっていたのかもしれないが、でも、別にクレームつけるつもりでもなくて「知らなかったのなら、次回から注意してください」と言いたかっただけなのに・・・・

 まあ、ともかく、誰かが自分に向かって何かを説明しているときに「言っている意味がよくわからない」って言うのはサイテーな反応だということがわかった。自分では言わないように心がけよう。(自分が嫌なことは、他人だって嫌だろう、という考え方)
 まあ、たぶん私だったら、「よくわからないんだけど、それってこういうこと?」と言って、自分がどの程度「理解できてないか」を相手に開示するか、「え?なに?源泉って何?」と言って「自分が相手の言っていることが全く理解できていないバカ」であることを開示するか、どっちかだな。

 「言っている意味がよくわからない」って言うと、「あんたの説明ではよくわからない」という雰囲気に響くし、そもそも「おっしゃっている意味がよくわかりません」って言うセリフは、身に憶えのない借金の取り立ての電話(最近はメールでのそういう詐欺が流行しているようですが)に対応するときの決り文句じゃん。

 そりゃあ、この温和な私が思わずムっとしても仕方無いわね。

 というわけで、相手の無礼さと、自分の怒りが客観視できたので、満足いたしました。
6月16日(月)

 細菌最近は虫の話ばかりになっているので、たまには「花」のお話でも。
 それも、今もっともホットなお花、「あじさい」について語りましょう。

 終末週末は、(普通じゃないことばかり書いているので、変換の順位がこんなのばっか)K子さん宅への行きも帰りも、たっぷりとお散歩してみました。あちこちでアジサイが満開で、湿気を吸って輝くばかりのブルーに染まっていて、たいへん美しゅうございました。

 アジサイの色って、土壌のペーハーで決まるという噂がありますが、あれは本当なんでしょうか?
 でも、青い花のすぐ横に赤いのが咲いていたりしするし、白いのもけっこう見かけます。
 私は圧倒的に青いのが好きで、白いのは地味すぎてあまり好きではありません。それに、白いアジサイってなんか日焼けで脱色されちゃったみたいだし。でも、白い花でもとても美しい花も多いですが、アジサイってデカいし、花の形も部分的には単純なので、白いとどうしてもヤボったくなると思います。やはり、陰影のついたあの青のほうが「深い」よなあ。

 などと考えながら、今が旬のアジサイの鑑賞に余念がなかったのですが、散歩の途中で珍しいアジサイを発見しました。
 とは言っても、基本的に花にあまり興味がないというか、あまり種類や名前を知らないので、「梅雨のアジサイは美しいわ」と思っていても、私の分類では、

 フツーのアジサイ
 フツーじゃないアジサイ

 の2種類しかないわけです。
 要するに「フツーのアジサイ」が基本で、それの中心がちょっとハゲ気味なのが「フツーじゃないアジサイ」という分類。
 どうやら「フツーじゃないアジサイ」のことを「ガクアジサイ」と言うようですが、初めて知ったわい。
 ボサっとした「フツーアジサイ」に比べると、ガクアジサイのほうが、粋というか、やや洗練されたイメージがあります。職人さんが手入れしたみたいです。もしくは、ちゃんとプードル刈にしたプードル。(プードルは刈らないと、ただのモップである)

 さて、その珍しいアジサイも一見「ガクアジサイ」なのですが、私が想定していた「基本を綺麗にカットしたやつ」とは明らかに違うものでした。ガクアジサイってゆーのは、単に花が開いている数が少ない種類なだけで、花そのものの形状は大して変わらないはずだと思い込んでいたのですが、その花は、花のひとつひとつがヤマブキみたいな形で、「アジサイは花びらが4枚が基本」という「幼稚園時代の折り紙教育」によって洗脳されているらしき私は「こういうのもアジサイなんだろうか?」と思いましたが、でもどうやらこれもちゃんとしたアジサイらしい。

 うーむ、こういうのもあるのか。全然知らなかった。知らないのは私だけなんだろうか?写真撮っておきたいな、と思ったのですが残念ながらカメラを持っていなかったので写真は撮れませんでした。
 でも、その後も、もう一回だけ同じような「変種」を目撃したので「ガーデニング・ブームだし、他と違うやつを植えたがる人がいるのだな」などと勝手に納得していたのでありました。

 K子さんちに到着して、KSさんもすぐに来たので、3人で食材の買出しに行ったときに、花屋があって、当然のことながら店頭にはアジサイの鉢植えが並んでいたので、「今日ね、ちょっと珍しいアジサイを見たんだよ」と語りながらアジサイを覗き込んでみたら、「あ・・・これだ!」

 他の二人も「へえ〜 アジサイの花って4枚だとばかり思っていたけど、こんな花っぽいのもあるんだ」と言っていたので、やはり基本に忠実なのは私だけではないことがわかりました。
 でも、こんな小さな花屋にも堂々と置いてあるくらいだから、今のトレンドは(笑)コレなのかしら?

 後で調べてみたら、どうも八重咲きと言われる種類みたいです。私が散歩中目撃したのも、この「墨田の花火」というのに似ていた。繊細かつ華やかでした。

 アジサイの写真を沢山載せていたのは「あじさい曼荼羅園」というところの紹介サイトでしたが、アジサイの種類は私の想像をはるかに上回っていたようで、「え?こんなのもあるの?」と感激します。「実物を見てみたい〜」と思いましたが、和歌山県でした・・・・・近隣の方は是非どうぞ。

 くどいようですが、今が旬のアジサイは、旬を過ぎるとボロ雑巾のような薄汚い姿をしばらく晒します。花がデカいし、しぼんでもなかなか落ちないので、醜い姿の時期が他の花よりも長いような気がします。
 近所の寺が「ぷち・紫陽花寺」で、門のあたりに通行に支障がるくらいたくさん植わっているのですが、盛りを過ぎると酷い状態になります。萎んでもなお存在感たっぷりなので、「エリザベス・テーラーみたいだな」などと思ったりします。

 そういえば、アジサイで思い出すのもなんですが、

 朝顔に つるべとられて 貰い水

 という有名な句がありますが、蛇口をひねれば水の出る時代に生まれた私には、その句の意味がさっぱりわからず、ずっと何か全然別な光景を想像していたのですが、「つるべ」というのが井戸の付属備品だとわかった瞬間に、それまで想像していたヘンチクリンな光景をすっかり喪失してしまったのでした。
 いったい、何を想像したたんだろうな〜
 たぶん、朝顔の隣に植わっていたやはり「ツル系」な植物が朝顔に絡まれちゃって、自分の「ツル」がちゃんと伸びなくなってしまったので必死に戦っていたのですが、その争いに疲れて「み、水くれ〜」と言っているとか、そんな光景を想像していたと思われる。

 「重いコンダラ」ならぬ、「ちはやぶる」シリーズ。
表紙に戻る / 過去の日記を読む