可燃物な日々

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7月31日(水)

 こう暑いと、部屋でパソコンの電源つける気にもならないので、日記もさぼり気味。
 今日もお休み。
 つうか、これで夏休みは終ったのだ。ハハハハハハ(ヤケクソ笑い)
 しかも夏休みじゃなくて、ただの「振り替え休日」だっていうのがいいっすね。

 というわけで、またがんばって昼までフテ寝して、3時過ぎのやや紫外線が弱くなったと思われるころに外出。
 今日は、世田谷美術館に「ミロ展」を観に行った。
 
 空いててよかった。穴場だ。デカい絵も思いっきり引きで鑑賞できた。休日はどうなっているか知らんけど。
 大きな絵をゆったりと遠くから眺めると気分いい。

 帰りは用賀まで鬼瓦の道(?正式名知らないが、なんちゃらプロムナードとかいう普通の名前だと思う)をノロノロ歩いて、用賀タワーの「すずや」でとんかつ茶漬け食べて帰宅。

 シャワー浴びてから、用賀の本屋で見つけて思わず買っちゃった「シャンペンシャワー」を読みながら、ビール飲んでゴロゴロしてた。
 いやあ、名作というか迷作である。
 何年か前というか、前のW杯のころ、サッカーにあまり興味のない友人が突然「あの漫画がまた読みたい」と言い出したのがこれだった。「日出処の天子」や「綿の国星」や「エイリアン・ストリート」のヒットで飛ぶ鳥を落とす勢いだったLALAに連載されていた変な漫画である。
 作者の「かわみなみ」さんも、この文庫版のあとがきで「今考えると、なんで当時の少女漫画でサッカーものが許されたのだろうか?」と書いているくらい、当時はサッカーなど人気がなかった。(少女の間では)たぶん、少年誌では「キャプテン翼」などが流行ったので、そういう土壌はあったが、少年誌で流行っている題材を少女誌にそのまま持っていけるわけもない。
 
 しかも、この漫画は、南米が舞台なのである。少女漫画で、南米の小国のプロサッカーチームの選手が主人公だなんて・・・・・とても変だった。
 作者は当時からサッカーファンだったので、メキシコのW杯を観戦に行っているだけあって、「予選でのホームとアウェイでも戦い」というエピソードも入れているが、私はこの漫画でその概念を知りましたが、その意味がちゃんとわかるようになったのは、Jリーグができたときでした。

 でも、サッカーを題材にしているが、この漫画はれっきとしたギャグ漫画である。かなり変なギャグばかりだったが、今読んでも充分笑えた。

 などと、大昔の漫画を堪能していたら電話。
 久々の母上であった。
 この間、格安ツアーで妹と台湾に行ってきたらしいが、機内でやっていたアニメが「字幕が中国語だったから読めなかったんだけど・・・・それでも、泣けてきた」ということで、今度日本でも公開されるから観に行こうという用件。そういう普通の用事なら親切に相手するいい娘なのである。
 その後。「故宮博物館」について話してたら、母は「やっぱり、北京のほうに行きたい。あっちのほうが沢山あるんでしょ?」と抜かすので、「実は私もそう思っていて・・・・というか、故宮博物館というのは、故宮に隣接しているのだとばかり思っていたんだけど、お宝はみんな台北に持ってちゃったの!」と説明したら、驚いていた。つーか、ガイド付きで周ったんなら、ちゃんと説明してたと思うんだけどなあ・・・・

 まあ、いいが、そんなこんなで長電話になったが、最後に母が「お父さんとも話しする?」と言うので、「え、別にお父さんと話すことは特にない」と言ったのだが、いつのまにか父に代わっていた。そんで、「この間の○○君の件はその後どうなった?」

 ・・・・・・ちっ、本題はこっちだったか・・・・ずるいよタッグ組んで。
 お父さんの部下といつ見合いしたのかも忘れたよ。
 でも、母が乗り移ったかのように(密かに洗脳されていたのかもしれない)、父の小言は続く。

 娘はキれそうになるのを我慢して、「今、仕事が忙しくってそれどころじゃないよ」と愚痴で反撃しまくった。
 なにしろ、明日から、グループ会社を一つ吸収する準備に入ることになっていて、そこの帳簿も私が受け持つことになるのだが、それがいったいどのくらいの分量だか年商いくらだかも知らされていないのである。でも、今の状態でさらに仕事が増えると、忙しいというよりも記憶容量がすでに破綻しているので、かなりヤバい状態なのだ。

 という愚痴を父に投げたら、「だったらちゃんと人を雇えばいいじゃないか」という、彼女や妻の愚痴を聞く際の最も悪いお手本を父が披露してくれたので、笑いそうになった。



7月30日(火)

 出勤。休みの後なので調子出ず。ちんたら仕事する。こんなにチンタラしてられるのも今のうちだけなのだ。



7月29日(月)

 休みがちゃんととれていないので、休暇消化のため今日はお休み。3連休は久々なので嬉しい。
 なんとか午前中に起きることができたので、近所でブランチを食してから幕張に行く。
 2時間ほどかけて恐竜博を見てまわり、また東京に戻って、まだ夕方だったのでついでに東急文化村でルネ・マグリット展まで観てしまった。マグリットの絵をこんなにまとめて観たのは初めてだった。変な絵ばっかである。題名と絵が全然合ってない。繊細なのに変態というか、わけわかんないが、わざとやっているようでもあるので、インテリのお遊びのような絵も沢山あるが(シュールレアリズムにありがちな、真面目に観る人をからかっているような)、それでもときどきその計算が過剰にすべりすぎて一周してしまったかのような、「ほんとにイっちゃってる」絵もあるわけで、ほんとに変な画家。

 歩き回って疲ればした。
 恐竜博では写真取り捲ったので、時間があったらちゃんとまとめます。でも、モデルさんたち、やたらめったらデカかったので、ちゃんとフレームに納まらなかったのであった。
 そんで、覚悟はしていたが、お子様が多く、子供慣れしてない私はやや「子供酔い」してしまったのでありました。夏休みとはいえ、平日だったらかまだマシだったのかもしれないが。

なんかこの写真だと、お化け屋敷に行ったみたいだ。
歌舞伎の見栄のポーズみたいだと思って撮影したのだが・・・



7月28日(日)

 今日は涼しかったらしくて、昼まで惰眠できた。
 起きて窓を開けてみると、たしかに涼しい風が入ってきた。
 窓を開け放したまま、またゴロゴロする。
 掃除でもしようかなっと思いながら、さらにゴロゴロする。
 夕方になったら、かなり涼しくなったのか、いつのまにか昼寝していたのだが、「朝寝坊」と「昼寝」の境目がはっきりしないぞ。

 薄暗くなってから、お腹も空いてきたので、外出してサミットのそばにある長崎ちゃんぽん屋でチャーハンを注文したら・・・・・ものすごい量だった。チャーハンを注文したのは初めてだったので知らなかったが、この店は「半チャン」が普通サイズらしいのだ。しかも、食べ始めたらすぐに、ラーメンどんぶりがやってきたので「?」と思ったら、「スープです」
 豪快だ・・・・

 私の後から入ってきた男の子は、「チャーハン大盛り」と言っていたが、食べきれたのだろうか?私は「普通盛り」をなんとか五分の四くらい食べたが、帰りにお隣の進行状況を確認したが、まだ半分も処理できていなかった。がんばれ〜

 つうわけで、脳にチャーハンが詰まっているような心地ですが、今日も地球に優しくするために、がんばってナマケました。(今度からこう言うことにした)

 そういえば、Iちゃんが通っているスポーツクラブに、外人と日本人女性のカップルがいて、あまりにもイチャイチャするので、おばさん軍団が職員にクレームを入れたので、以前よりもイチャイチャしなくなったようです。
 でも、A&Oのイチャイチャぶりも相当のものなので、日本では未だに「公共の場所では」という考え方があるようですが、西洋人の彼らにしてみれば当たり前のことらしいので、「なんでダメなのかわからん」というのが正直なところなんでしょう。

 文化の違いとして容認するのか、郷に入っては郷に従えとするのか、微妙です。
 たとえば、宗教施設を観光する際に「ノースリーブに短パンは禁止」というのは、相手の宗教を重んじて皆大人しく従うでしょうけど、「人前でいちゃいちゃすべきではない」というのは、何のためなのかよくわからないし、そもそも「ノースリーブに短パン」は多くの国ではフォーマルではありませんが、人前でチュッチュするのがフォーマルでもOKな国も多いわけです。まあ、チューするくらいじゃ今時誰も文句言ったりしないだろうから、そのスポーツクラブのカップルはかなり度を越していちゃついていたのだと思いますけど、先日、外人さんたちともそんな話になって、メキシコ人女性と結婚することになった日本人男性が、メキシコのご両親にご挨拶に行ったのですが、その後、彼女の両親が「あの男と結婚するのはやめておけ」と言ったそうです。
 なぜなら、「あの男はおまえに触ろうともしない。おまえのことを本当に好きではないのだ」

 日本だと、ご両親に「お嬢さんをください」と挨拶に行った席で、ベタベタしたりしませんが、向こうでは「ほ〜らほら、こんなに僕たち愛し合ってんですよ〜」と表現するのが当たり前なのでしょう。
 逆にメキシコ人男性が、日本人女性と結婚するためご両親に挨拶しにいって、めいっぱいイチャイチャしたら、お父さんが失神してしまいそうです。

 そうだ、娘がアメリカ人などを連れてきて「私たち結婚します」と言って、目の前でブチューとかしはじめたら、すかさずクジラ料理を出して反撃するっていうのはどうでしょう。「日本では娘が親の目の前で接吻するのは良くないことだが、クジラを食べるのはかまわない」とかなんとか。ああ、破談になりそう・・・・というか単なる嫌がらせですね。

 なんだか、外人彼氏と環境保護がごっちゃになって、しかもチャーハン大盛りも混ざって、わけわかんなくなってきました。他人から影響を受けやすいなあ。繊細で感受性が強いと苦労するわ。わっはっは。

 そういえば、やっぱりメタモルに行くことになったようだ。いつのまにかチケットが手元にあった(笑)
 天気がいいとよいのだが。

 さて、夏休みのイベントと言えば、恐竜博にも行きたいのだが、朝起きられるかどうかが問題だ。



7月27日(土)

 ベロベロ状態で寝たのが朝の4時近かったはずなのに、目が覚めたらまだ8時だった。がっでむ!(と今更英語モード。昨日は「長島監督みたいな喋り」とS君に言われたくらい英語ダメでした。)
 エアコン入れて、また寝なおすが、やはり熟睡できない。だから夏って嫌いよ。惰眠の敵。
 それでも、うつらうつらと寝ていたら、電話が鳴ったのでとったら「荻原さんのお宅ですか?」「ちがいます」
 荻原さん宛ての電話が最近多い。電話番号は合っているのだ。荻原さんが自分の電話番号を書き間違えたのか、わざと嘘を書いたのがたまたま私の電話番号だったのかもしれない。

 2時すぎにやっと起き出す。
 シャワーを浴びてから、昨日の分の日記をちんたら書いていたら、Aに頼まれていたことを思い出し、知人の行政書士に「フランス人のビザ延長なんとかならないでしょうか?」というメールを書いたりしていて、メールチェックしたら、アエラさんから「今日のC君は、朝からウォッカ飲んでごきげんで、今はお昼寝タイム」というおノロケなのか、なんだかよくわからないメールが来たが、「ちっ、二日酔い気味の私は、IRAに負けている」と意味不明のことを考えつつ、支度して外出。

 久々にIちゃんから電話があって、「応募したら当たったんで行かない?」と誘われて、スパイラルでやっている名嘉睦稔(ナカボクネン)の個展でのイベントに誘われたのである。そんな人全然知らなかったのだが、Iちゃんとはたまに電話するくらいでめったに会わないので、お誘いに応じたのだ。
 イベントは9時からなので、6時に集合してご飯を食べた。

 Iちゃんは、3ヶ月くらい前に派遣の仕事を辞めてから、しばらくブラブラしているらしい。やはりパラサイト・シングルなのだが、「でも、毎朝8時ころには親に叩き起こされる」とのこと。
 前から「最近は沖縄にはまっている」と言っていたが、「ナチュラル志向」は年々強まっているみたいで、坂本龍一のエコエコ・トークショーなどにもマジで参加しているので、そういうのが性に合わない私としてはなるべくその手の話題は避けたいのであるが、今回会って話してみても、

 「野口健の活動のボランティアやったんだ。」
 「だ、誰それ?知らない・・・・」
 「ヒマラヤのゴミ問題やってる人。ネスカフェのCMにも出てたよ」
 「ああ、なんかそういう活動があるのは知ってるけど・・・・」

 Iちゃんの今の関心ごとは「ゴミ問題」らしい。ゴミ問題、奥が深いので、私はあまり真剣に考えたくない。せいぜい、缶ビールの空き缶を区のリサイクル回収に出しているくらいである。牛乳パックのリサイクルには参加してません。メンドーだから。

 Iちゃんの話にちょっと違和感を持ったのは、「最近、自然について考えちゃうんだよ」という話の「自然」というのが具体的にはなんなのか私にはよくわからないからである。どうやら、Iちゃんの言う「自然」とは「人間および人間が作ったもの以外」という括りみたいだ。
 私は環境保護には関心が薄いほうだが、どうも「自然=いいもの」「人間=わるいもの」という雰囲気になじめないのだ。
 まあ、Iちゃんはそこまではイっていないようだが、それでも「またどうせ働かなくちゃいけないけど、今の気分ではオフィスで平然と働けない」と言っていて、「金のためならなんでもあり」という企業のあり方に疑問を持っちゃっているようである。

 まあ、私も、「ゴミ拾いボランティア」を悪く言うつもりはないので、そこにすがるのは危険だと思うだけだけど、「この間、公園を散歩してたら、カラスに襲われて、子育ての最中だったんだよね。そのとき、思ったんだ、カラスも必死で生きているんだって・・・・今までそんなこと考えもしなかった」と言われると、え?そうなの?私はいっつもそんなことばかり考えてるんだけど、みんなは考えてないの?と思ってしまった。

 そんなかんじで、なんとなくIちゃんの話に納得できるようなできないようなと思いつつ、イベントに向かった。
 ボクネンさんの話はなかなか面白かった。
 彼の絵に触発されて、ユニットが結成されたというティンガーラのボーカルのつぐみさんも司会者(J-WAVEのナビゲーター)も、ボクネンさんの話を「すごいです。感動します」というスタンスで捉えていたが、けっこう彼はフツーのことをフツーに語っているだけだと思った。

 自分で描いた絵だが、後になって見ると「へえ、いい絵だなあ」と思ったりするそうである。絵はそこにあるものをそのときに切り取っただけで、描いた後は自分からは離れて独立してしまうものだと言っていた。
 ご立派な芸術家ではないが、私もこの日記など、自分の書いた文章は書いているときには確かに自分が書いているのだが、後で読むと「ふーん」と思うし、時には自分が書いたのに自分でウケていたりする。「書いている自分」と「読んでいる自分」が分離しているのがおもしろいのだ。話している自分もよく分離しているようで、後になって「あのときあなたはこう言っていた」と言われても全然記憶になかったりするが、それは相手の勘違いの可能性もあるのだが、こういう日記の場合は「へえ、私、こんなこと力説しちょるわ」と驚いても、他の人が書いているはずもないので、「わたし、そんなこと言ってない」ということにはならないのでなかなか面白い。

 そして、司会者が「今の都市についてはどう思いますか?」と質問したら、「こういうと失礼になるかもしれませんが、東京とか、出来の悪いアリ塚かな・・・と思います」
 人間も自然であるし、その人間が作ったものだって自然のものである、ということを言いたいらしかった。ただ、アリはもっと上手に気温調整できる巣を作っているのに、都市はそういう面では「出来が悪い」が、もっと研究すれば心地よい「アリ塚」が作れるのではないか、という考え方であった。
 そのご意見には大いに賛同する。
 「人工」と「天然」って区別が難しいというか、よく食べ物でも「100%天然素材使用」というものがあるが、よく考えると意味不明である。

 この人は、「沖縄文化を描くヒーリング系」として人気があるようだが、都市と田舎(というか自然)を単純に分けない考えに共感を覚えた。
 都市=ストレス 自然=癒し
 という分け方が私にはどうも苦手である。

 自然は癒しを与えてくれるが、同時に大きなストレスもあるので、だからこそ人はそれを加工して、ストレスの少ない環境を作ろうとしたのだと思う。たしかに東京は人工的になりすぎたし、人も多すぎるので、住み難くなってはいるが、それでも田舎から出てくる人が後を絶たないのはそれなりの「居心地のよさ」があるからだと思う。
 それを単純に「沖縄はすばらしいが東京はダメ」と言い切ることが私にはできない。

 先日、どっかのテレビで九州で成功している温泉を取り上げていた。黒川温泉だったかな?入湯手形で有名らしい。
 そこの仕掛け人みたいなおじさんが登場していたが、彼のモットーは「都会でストレスを抱えた人を癒す、ほんとに田舎っぽい空間を作る」ということで、田舎の人たちが普通に「都会人をもてなそう」と思うと、ついついシティホテルみたいな施設を作ってしまうところをわざと「田舎っぽさ」を過剰に意識してはじめて都会人が「わあ、田舎だー」と喜ぶということであった。

 田舎の人だって普通に生活向上を求めると、囲炉裏の代わりにシステムキッチン、五右衛門風呂の代わりにユニットバス、と都会と同じような便利さを追い求めるが、「田舎を売って商売しよう」と思えば、あえてその不便さを打ち出すことはできるし、都会人が喜ぶような「田舎の風景」を作るためにせっせと植樹したりしているのだ。
 「田舎の風景」は今ではディズニーランドと同じく「テーマパーク」志向がないと維持できないのである。

 ゴミ問題にしても、先日やはりテレビを観てショックだったのは、とある地方の市場のような八百屋では、野菜は東京のスーパーと同じように「トレイにパックされて」並んでいた。「近隣の農家が野菜を持ち寄る市場」であったが、パックしたほうが、レジ打ちがラクだし人件費も節約できるのであろう。
 料理をしようと食材を買い込むと、ゴミが大量に出てうんざりするが、それは東京ローカルな問題ではないのだな、と思った。

 東京でも未だに「パック売り」していない八百屋も多い。でも、私なんかは八百屋さんに「これください」と言うのがすでにめんどくさいので、近所にスーパーがあれば、黙って買えるパック包装された野菜を買うほうがラクである。
 うちの母が言っていたが、「スーパーで買い物すると、一言も言葉を喋らないくてもいいときがある。それがストレスになるから、たまには商店街で買い物する」そうだが、私もときどきは「すいませーん、これください」と言いたい気分のときもあるので、商店で買ったりするけど、でも、それよりもやはりスーパーのほうがおおむねストレスが少ないのだ。

 都会はストレスが多いと言われるけど、たしかに満員電車や渋谷の交差点では「なんとかしてくれよ、もー」と思うが、欲しいものが欲しいときに手に入るコンビニ生活や、どんな格好していて悪い噂を立てられることもなく(隣近所に知り合いがいない)、男連れ込んでも後ろ指をさされない、という生活は、「田舎で感じるストレス」からの解放であるので、「田んぼもない、川はふさがれている」という「自然を失った」代償としてはけっこういい線言っているのではないだろうか?

 そういえば、Iちゃんの話によると、そういう環境保護団体の一種に「なまけもの会」というものがあるそうで、「たまには、なまけもののように、あまり動かない生活をすることが環境保護につながる」という発想みたいだったが、なまけるのにそんなご大層なこと考えないと、なまけられないのだろうか?私なんか、ほっとくとずっとなまけているので、がんばらないとなまけられない人たちを気の毒に思ってしまう。



7月26日(金)

 アエラさんの彼氏が5月くらいからずっと日本に来ているそうなので、「そのうち見せてよ」と言っていたら、「今度の金曜日なら空いている」というわけで、集合することになった。

 まず集合場所に現れたのがアエラさん。そして彼氏のアイルランド人K君が登場。坊主頭の痩せ型青年。青い目がギョロっと光る。坊主頭か・・・Aの彼氏も坊主だから、お揃いだわ・・・・・坊主が上手に・・・・じゃなくて、和尚が2・・・・・・か?
 そして、私と挨拶を交わすと、すぐさまアエラさんに機関銃のように「今日の出来事」を話しだす。自分の話が終ると「で、君は今日はどうだった?」

 出た〜!私が大の苦手とするこの「今日の出来事報告会」。しかし、アエラさんはそれが別に苦手でもないようで、楽しそうに喋っていたので、「なにげないことだけど、人には向き不向きというものがある」と思った。
 Aたちが遅れて来ることになったので、先にアイリッシュ・パブのシャムロックを目指すが、なんと閉店中。改装中にしては何の張り紙もなかったので、どうも閉店したのではないか?いい店だったのに・・・・・

 あてが外れてどうしようと思っていたら、Aたちがやっと来たので、5人で「給料日後の金曜日の新宿」の雑踏をうろうろと移動する。手をつないで歩く、2カップルに挟まれてフラフラ歩く私・・・・・(羨ましいのではなくて、「暑いのに大変だな」と思ったりしている。本当。・・・・・本当だってば!)

 そしたら、前方から見知った顔がやってきたので声をかけたらすごく驚いていた。「これから友達と飲みに行くんだけどよかったら行く?」と言ったら付いて来たが、偶然捕獲したS君も坊主頭なのである・・・・・・うう、坊主が3人揃うと、どうなるのだろうか?教えて三平師匠!

 1時間ほどさまよって、かなり駅から離れたところでやっと居酒屋に入ることができた。喉が渇いていたのでビールがすすむ。
 アイルランド人だと聞いていたK君は、「北アイルランド人」であることが判明した。
 来日したタイミングが悪かったので、アエラさんが住むアパートの大家さんが彼を「フーリガンだ」と思ってしまったそうだが、本人曰く「オレはフーリガンではなくて、テロリストだ」そうである。
 実際、アエラさんの自転車を乗り回して壊したり、押し入れの戸にかかとで穴を開けたり・・・・・と破壊活動に勤しんでいるようである。
 見た目が若いので、イギリスでもタバコを買うときにIDカード提示させられたりするそうだ。日本人が海外に行くと、よくそういう目に遭うが、外人でもそういう人いるのね、と笑っていたが、彼の知り合いのアメリカ人は、40歳過ぎているのにIDカードを求められるそうなのである。40歳すぎても10代に見える西洋人ってどんななんだろう?見てみたい。

 ところで、Aの彼氏であるO君に突然「Aはいい妻になるかな?」と質問されたので、「わからない」と笑いながら答えたら、「あ、なんかはぐらかしている」と言われたので、「いや、いや、そうじゃなくて、ちょっとまってよ、別にちゃんと答えたくないわけじゃなくて、まだ頭が英語に切り替わってないだけよ」と言い訳してから、しばらく白目むいて考えてから、「If you really want to know it, TRY IT !」と言ったら、ウけた。

 なんでそんなこと聞いてきたのかな?と思ったが、後で「二人は今日は何してたの?」と聞いたら、Aが、「イミグレ・・・・・」おお、そうか、そろそろビザ問題が具体的になったのか、と詳しく聞いたら、やはり通常では延長できないようで、Oが働いている職場でもビザ取得のサポートはしてくれないらしいし、そうなると結婚するしかないらしいのだが、当然のことながらAの両親(というか主にお母さんだと思うけど)は反対しているそうで、「でも、結婚するにしても時間の猶予はないので、考えているヒマがない」ということらしい。

 そんなこともあったので、「日本人は外人と結婚するというと親が反対するよね」という話になり、O君にしてもK君にしても「うちの親はそんなこと言わない」と言っていたし、K君にいたっては、「日本人のガールフレンド訪ねてくる」と母親に言ったら、よろこんで餞別までくれたらしい。

 でも、その場では言えなかったが(英語力がないから)、Aの親が反対しているのは、彼がフランス人だという理由だけではないと思う。
 ちゃんとした職も無いし、これからちゃんと稼ぐ保証もないというのが大きな理由だろうし、それでも相手が日本語を話せれば、「○○さん、うちの娘を不幸にしたりしないでしょうね」と直接話すこともできるだろうけど、そういう話し合いもちゃんとできないまま、「でも、彼のビザが切れちゃうから」と言われても心配なだけだろう。はっきし言って私が親だったら反対します。
 しかも、Aだってまだ自活できてない「パラサイトシングル」なわけだし、結婚するにしても、まず一緒に住む部屋も探さないといけないだろうし、一緒に住んだらアラが見えるので、それでも好きなのか先はわからないし。

 というわけで、人生に「山アリ谷アリ」を求めるA嬢の苦難の道のりはつづく。

 11時すぎに飲み会は解散して、S君がバーで飲みたいというのでお付き合い。結局、カクテルを3杯くらい飲んで2時過ぎまで居座ってしまった。
 タクシーに乗って帰ろうとしたが、かなりヨッパラっていて、真っ直ぐ歩けない状態。とりあえず、甲州街道まで出たのだが、「パークタワーを目指して歩こう」とか言って、歩き出す。
 記憶が断片的だが、「パークタワーは強火・中火・弱火だ!」とか言っていたような気がする。そんで「私はそのことをずっと訴えつづけているのだが、誰も納得してくれない」と泣きごとを言っていたような気がする。(あそこは東京ガスの跡地なんですぅ)
 そんなこんなで、結局、幡ヶ谷の下北沢へのタクシーの抜け道入り口まで歩き、さすがに疲れてきたのでやっとタクシーに乗った。そこからだとうちまで2000円もかからなかったが、おねーさん太っ腹なので(文字通り、腹まわりには自信がある)S君に2000円渡して降りた。

 「あなたのお散歩に付き合えるような、健脚な男ってなかなかいないわよ」とS君に言われたようなかすかな記憶アリ。



7月25日(木)

 研修報告書は言われなくてもちゃんと書いていた。だって、モニターなんだから、ちゃんと感想文書かないとね。
 そしたら、昨日になって上司が「書いた報告書を公開してもいい?」というので、「はあ、いいですよ」と返事。「公開」の意味がよくわからなかったのだが、モニター社員の報告書で今後の研修計画を検討するのだから、部長クラスに読ませるのかと思っていた。

 ところがそれから1時間くらいして、「今後参加される方も、ちゃんと報告書出すように」というメールが来て、「お手本」として私の報告書が2本添付されていた。「受けた研修のいいところも悪いところも隠すことなく書いてあって、なかなかよく書けていると思います」と、上司の添削つき。
 「公開」ってこういことだったのか・・・・。でも、けっこう具体的にどんなことやるのか書いてあるし、それに「○つの習慣」に関してはなるべく押えてはいるものの、「妻も子もいない平社員には向かない」ということははっきり書いてあるので、「これから受ける予定の人が、気構えちゃうじゃん」と思ったが、やはり、今日になって「あれ、行くの気が重いよ〜」と同僚が言っていたので、せっかく私が「彼女が行ってから、悪口大会やろう」と謙虚に構えていたのに無駄になった。

 上司の思惑はよくわからないが、多分、私がそれなりに分量のあるレポートを書いて、しかもちゃんと「この研修を他の社員に受けさせるべきか。受けさせるとしたらどういう立場の社員か」というポイントを外さなかったから「みんなこのポイントを忘れないように」ということなんだろう。それはいいとして、調子こいて長文書いちゃったので、後から研修を受ける他の社員にプレッシャーとならないように祈る。
 みなさん量より質を重んじましょう。要するに、そんなに大勢の目に触れると思って書かなかったので、だったらもうちょっと推敲して書けばよかったと後悔しているだけである。

 でも、他にライバルはいなかった(まだ実際に受講した人は少ない)とはいえ「お手本」のようにされたのはちょっと嬉しかった。どのくらい嬉しかったかというと、小学校のときの作文を先生がほめてくれて、クラス全員の前で読み上げてくれたときくらい。「うれしいことはうれしいが、これがクラス1ってことは皆よっぽど作文が苦手なのね」という複雑な心境とも言える。

 そういえば、先日やっと「文章読本さん江」を読んだのだが、そこには、自分の小学生時代のことを思い起こさせる興味深いことが書かれていた。
 私が小学生だったときには「作文」は「国語」に含まれていたが、もっと昔には「綴り方」という独立した科目があったらしい。そこにはいろいろな思惑がからんでいたようだが、「綴り方」が繁栄した時代には、「生活綴り方」というジャンルが発生したという。
 要するに、「子供らしい素直な視点で身の回りのことを書き綴る」というものが流行したそうなのである。そして、そういう児童作文集がベストセラーに踊り出たこともあったようだ。

 私の脳裏に甦ったのは、「かあちゃんしぐのいやだ」という本のことである。(「しぐ」は「死ぬ」の方言らしい)

 私は当時、作文はまあまあ得意であった。三つ子の魂百までというが、今と同じで、身近なことをそのまんまダラダラ書くのに苦痛を感じなかった。原稿用紙10枚くらいはあっという間に埋めたので、1枚書くのがやっとの子が多いなかでは秀でていたようである。読書感想文はあまり好きではなかったが(課題図書が説教臭いものが多いので、苦手だった)、それでも適当に先生ウケするようなことは書けた。

 だが、逆に私が苦手としたのは「詩」であった。
 今から考えると、なんで小学生に詩を書かせようとしたのだろう?
 少なくとも私は「詩」というものがなんなのか定義できなかった。そして、子供心にも「これは文章よりも難しい」と思っていた。
 生徒の中には長文よりも詩を得意とする子もいたが、なんだか気取ったものが多かったように記憶している。流行したのは、なにが起源か知らないが「もしも、私が鳥だったら」とかいう「もしも・・・・だったら」シリーズである。女生徒に人気があって量産されていたが、

 もしも私に羽があったら
 鳥のように空を飛べるのに
 遠い国にもあそびにいけるのに
 ちょうちょのようにお花畑の上をとべるのに
 もしも私に羽があったら

 などというのを書く気分にはなれなかったが、かと言ってじゃあ、なに書けばいいんだよ。と悩んでいたのであった。

 詩を書く宿題で煮詰まっていたら、うちの母が「詩っていうのは、そんなに気取って書くもんではなくて、もっとありのままに書くものだ」とかなんとか言って読んでくれたのがこの「かあちゃんしぐのいやだ」であった。母の娘時代の愛読書だったらしい。貧しい家庭の子が「生活のありのまま」を綴った作文を本にしたもののようであった。他にももう一冊あって、どっちがどっちだか憶えてないが・・・・えっとそうだ「にあんちゃん」だ。どちらも標準語ではないところがポイントである。(そのあたりの詳細は「文章読本さん江」にも書かれていた)「にあんちゃん」とは「2番目の兄さん」のことである。

 どっちだか忘れたが、詩も書いてあったので、母が「こういうのが詩ってものよ」というか、たぶん「こういうのが子供らしい詩なのよ」と自信満々に紹介していれた詩というのが

 みみかき

 かあちゃんがみみかきしてくれた
 耳の中がこそばゆくなって
 ちんちんがきゅっとなった

 ・・・・・・とかいうような感じのシロモノであった。ほんとはもっと長かったが、小学生の私には「え?ちんちん?」と思えた。「素直に子供らしく純粋に」と言われても、平気で「ちんちん」などと言えるようになったのは、それから十数年以上してからである。当時は女子生徒がそんな詩を書いたら、ぜったいにからかわれるか、運が悪ければ「ちんちん女」として卒業するまでいじめられたであろう。

 母も別に私に「ちんちん」と書けといっているわけではなくて、「飾らずにありのまま書け」ということを説明したかったようだが、それが何を根拠にしていたか「文章読本さん江」を読んでよ〜くわかった。長年の謎(というか、ずっと忘れていたんだが)が解けましたありがたや。

 ところで、その「ありのままの生活綴り方」では、高度成長期の自称中流家庭で育った私がイマイチ乗らないことを悟った賢い我が母は、「まあ、こういうのもあるけど、詩ってほんとにいろいろあるのよ」とやはりお気に入りの詩集というか「日本名作詩集」みたいな「ベスト盤」を取り出してきた。
 そこに並んでいたのは・・・・・

 いちめんの菜の花
 いちめんの菜の花
 いちめんの菜の花
 ・・・・・・
 以下同じ
 (この詩の見た目そのものが菜の花畑を表しているといわれても、子供にはそんな高度な感性は無い)

 っていうのとか、

 てふてふがいっぴきダッタン海峡をとんでいった

 というのが正確かどうかわからないが、(「わたっていった」が正しいらしい)やはり、子供心には「え?それで終わり?そんなんじゃ先生許してくれないよ〜」としか思えない「名作」であった。

 母は「詩っていうのはだからどんなふうに書いてもいいのよ」と教えてくれたが、私は見事に混乱して何も書けなくなり、泣きそうになったのであった。

 そのときのトラウマのためか、未だに詩は苦手だ。詩集というのも買ったことがない。教科書に載っていた谷川俊太郎の詩がやっと許せる程度だった。
 でも、そういう学校教育の弊害なのかよくわからないが、私の身近では「男性からラブレターをもらったが、なぜか詩が書いてあった」という事件が何回かあって、皆で怖がったが、逆に「女性に詩を書いたが、なぜかフラれた」という話も何回か聞いていて、「それはやってはいけないことの上位入選事項だって教えてあげたほうがいいかしら」と悩んだが、一度だけ勇気を出して「詩はやめたほうがいいよ」と言ったら「なんで?なんでいけないんだ?」と噛み付かれたので、その後面倒なので意見するのはやめた。詩が好きな女の子もいると思うのでがんばってください。  

 ええと、また話が逸れたが、あの当時、私がいつも思っていたのは、「子供ってそんなに純真でも素朴でもないよ」ということで、今のほうがよっぽど純粋で素直で素朴である。

 母に図書館で借りてきた童話を読んでもらうときに、私がよく質問したのは「なんで、ガチョウなのに喋るの?」ということだった。人間の女の子とガチョウが一緒に遊んでいるのに納得がいかなかったのである。
 また、小学校2年生のときの教科書に「アヒルのおばさん」と農場の家畜たち「だけ」しか出てこない擬人化された童話が載っていたのだが、「さあ、これを読んでみなさんはどう思いましたか?」と先生が言ったら、みな口々に「犬や猫やアヒルが喋ってて変だと思う」と言った。子供のほうが現実的である。そして、大人の多くは「なぜ、犬やガチョウが喋るのか?」とその必然性を説明できなかった。(そのころ、私は幼少時よりの母の読み聞かせの成果から「動物が喋るのが児童文学界のルール」であると学んでいたので、そうした先生と生徒のやりとりを興味深く観察していたイヤな子供であった)

 30歳すぎても「ごんぎつね〜〜っ!」「シャーロットぉぉぉぉぉっ!」と感激している大人の私のほうが「素朴で純粋」だとするのか、「キツネはしゃべりません」と断言する子供のほうが「大人の約束事に騙されない純粋な心をもっている」とするのか、微妙ですけど。

 そういえば「いっぬの〜おまわりさん」という歌は大好きだったが、そんなもんいないと言ったら、「警察犬」がいると大人に反論されたようなかすかな記憶がある。というわけで、私はかなり最近まで「カバ園長」というのはほんとにカバがやっているのだと思っていた。

 全然関係ないけど、「犬のおまわりさん」の「♪いっぬっの〜」のところはなんだか自然と力むので楽しいです。
 井上陽水が久々にアルバムを出したそうだが、陽水の詩のつけ方って、「♪いっぬっの〜」のあの感覚を50過ぎても維持できているという点で凄いと思う。
 今朝の「目覚ましテレビ」でも「♪風あざみ〜」という歌詞は先に「これだ」と思いついたものの、「こんなアザミあるのかな?まあ、カゼアザミくらいあるだろう」と思って調べもせず録音したら「やっぱりなかった(笑)」ということだったが、陽水みたいに、意味よりも、音の快楽を重視する人もあまり他にはいない。
 ♪ホォテルはリバーサーィ と ♪いっぬっの〜おまわりさん を一緒にすると熱烈中年ファンに叱られるのだろうか?でも、おんなじ快感があると思うだけです。 



7月24日(水)

 プールでガシガシ泳いだら疲れた。



7月23日(火)

 やっと自分のペースを取り戻せたようで、バリバリと仕事を片付けた。やはり仕事をする上では「主体性」を持ってしまったり「重要なことを優先させる」などと意気込んでしまうと、なかなか効率よくこなせないのである。反射神経を駆使しないとできませんよ。
 機械的に物事をやっているような状態をコリン・ウィルソンは「ロボット状態」と言っていたような気がしたが(「至高体験」だったかな?)、そういう無意識で行動している時間があってこそ、「ああ、クモがエレベーターに!」という些細なことが感動的だったりするわけで、いつもいつも意識的でいると疲れますよね。子供はわりとそういうピュアな心で生きているようで、私もかすかにそんな記憶がありますが、あれはかなりエネルギーを使うのだ。バタバタと走りつづける子供と同じように走り回ると、大人は死ぬ、と説いたのは伊藤愛子(好きな漫画家だったのだが、最近見かけない。どうしているのでしょうか?)であったが、大人は子供と同じようには走り回れないのである。だからこそ、ときどき「ダッシュしたいぜ」なときに、50メートルくらいダッシュしてゼーゼーいいながら「走ったぜ」と充実感をおぼえるのでしょう。

 感動する瞬間というのも、人によって違うから面白いと思うのです。
 先のW杯でも、フジテレビの朝のワイドショーが追っかけ取材していた「イングランド・サポのワトソン君」が何に感激していたかというと、「新幹線の座席」でした。あの、クルリと回転する座席です。「わーすげー。国に帰ったら友達に見せないと」と写真に撮ってました。
 たしかに、ヨーロッパを旅行してあんな座席を見たことがありません。ユーロに乗ったときには、座席が車両の真中を中心にお向かいに並んでいて、進行方向と逆になってしまう座席があることに衝撃を受けました。でも、ガラガラだったから勝手に進行方向の席に移りましたけど。「座席の向きは固定されている」ということが当たり前の土地から来たら、新幹線がホームに入って客を降ろすと、自動操作で「ガコーン」と座席の向きが変わるあの光景を見たら腰を抜かすことでしょう。日本人の私だって「すげえ」と感激しましたからね。

 昔、新聞のコラムで、いろいろな街が紹介されていて、その回は「お花茶屋」でした。私は京成線沿線育ちなので、その駅名に馴染んでいて、その由来を考えたことがなかったのですが、「茶屋が3軒あったから三軒茶屋」というのと同じように、「昔、お花という店員がいたのか?」とかいう内容でしたが、その由来は忘れてしまったのですが、そのコラムを書いた人が、踏み切りで電車の通過を待っていたら、「お花のような気立てのいい踏み切りだった」と感激したそうです。

 上り電車が通過しても、ラッシュ時などはすぐに反対方向の電車も来るので踏み切りが開かないことがありますが、そのときに、踏み切りの「カンカンカン」という音のピッチが速くなったそうなのです。「あ、電車が通りすぎた。もう渡れるかな」と思った人に「まだよ、まだよ、まだなのよ」と告げるかのように「カンカンカンカンカンカン」と鳴り渡る踏み切り・・・・・・

 え?それって普通じゃん?
 と、京成線が「世界の真中」(窪塚君が出演しているカードのCMより借用)を遠る電車だった私は思いました。
 京成線の踏み切りは、全部その「カンカンカンカンカン」方式だったのです。
 あれを当たり前だと思っている人にとっては「ケっ、うるせーんだよ。わかってるよ。お願いだから、けたたましく鳴るな。くぐりぬけたりしないって」と思う音ですが、小田急線のようにどんなに「開かずの踏み切り」でも、同じ音で鳴る「気の利かない」踏み切りに馴染んだ人には「気立てのいい」踏み切りだったのでしょう。

 そのように、「つまらない日常」の中にも、ときどき「お、すごい」というものに出会う可能性はたくさんあります。てっとり早く「へえ〜」と感激するためには、旅に出るのも効果的ですが、それほどの距離を移動しなくても、身近でそういうものに出会える機会は多いはずです。
 そして、そういう「小さな感激」に出会うために、「かわりばえのしない日常」をきちんとこなしておきましょう。

 と、自分に語りかけ、明日も仕事はがんばるのだ。明日で完全に「通常スケジュール」に戻す予定。 



7月22日(月)

 今日、会社で、上の階にある部署に用事があったので、エレベーターに乗ったら、かわいいお客さんといっしょになりました。小さなクモです。あの小さなクモのことをわたしは「ピョンピョングモ」と呼んでいます。ぴょんぴょんと飛ぶからです。家の中が好きみたいで、ときどき会社や家で見つけます。でも、会社で見つけるほうが多いです。会社のほうが好きなのかもしれません。

 わたしとクモはいっしょに七階まで行きました。クモはドアが開くと「ピョン」と飛びはねてわたしより先に外に出ました。お客さんが先に出るのが正しい会社のマナーなので、わたしはうれしくなりました。
 7階の人にたのまれていた書類を渡すと、わたしは「ティッシュないですか?」ときいて、ティッシュをもらいました。そしてすぐにエレベーターの前にもどると、クモはピョンピョンとはねてました。

 もしかしたら、クモはうちの会社になにか用事があったのかもしれませんが、わたしはクモが大事なお客さんだと思っていますが、他の人はそう思わないかもしれないので、ティッシュでクモを捕まえようとしました。でも、ピョンピョンはねるのでつかまえるのがむずかしかった。やっとつかまえたと思って、立ち上がると、わたしがそっとつかんだティッシュから抜け出して、ピョンと飛び降りてしまいます。

 クモは1センチもないほど小さいので、立っているわたしの手から飛び降りたら、わたしがクモだとしたら、高いビルから飛びおりているのと同じです。

 「すごいなあ。高いビルもひとっとびってほんとだなあ」

 と感心してしまいましたが、よく考えてみると、高いビルをひとっとびするのは「スーパーマン」でした。
 しばらくは、すごいスピードで逃げるスパイダーマンとそれを追っかける悪人のような大活劇をくりひろげていましたが、やっとつかまえました。階段のおどりばにある窓から逃がそうと思って、階段をおりていたら、また逃げてしまいました。ピョンピョンと階段をはねていました。わたしは階段にへばりつきながらおっかけました。会社の他の人にみつからなくてよかったです。

 やっとまたつかまえて、階段の窓から外に投げました。クモは風にのってふんわりと下のほうにおりていきました。

 というわけで、クモと戯れられるくらいに回復しました。

 ご機嫌なので、一句詠んじゃいます。

 都ー会の小ぶりなビルの踊り場で
 われを忘れて
 蜘蛛とたわむる

 「都ー会」は「とーかい」と読んでください。これを書いてみて「泣きぬれて」という5文字の威力に改めて感心しました。なんと申しましょうか、音楽のソナタ形式で言うところの「アレグロ」なんですね。たった5文字でカラヤンが20分くらいブンブン指揮棒振ったのよりもアレグロしていると思う。やっぱり真似はできないや。

 「燃え尽き症候群」から立ち直れていないらしいT嬢から、また未練たらしいメールが来た。
 前回「美男ランキング」をそのまま掲載しても特にクレームはなかったので(読んでないだけかもしれないが)、また掲載させていただきます。リンクを貼ってわかりやすくしてみよう。

 「スターウォーズW杯版」

 ●ルーク・スカイウォーカー=マイケル・オーウェン
 ●ハン・ソロ=フィーゴ
 ●チューバッカ=オリバー・カーン
 ●ジャバ・ザ・ハットブラッター会長
 ●C3PO=ナイアル・クイン
 ●R2D2=ロビー・キーン

※エピソード1
 ●ジャージャー・ビンクスロナウジーニョ(激似)
 ●ボス・ナスマラドーナさん(現在)

 誰でも頭に思い浮かぶようなキャラはめんどうなのでリンク貼りませんでした。「チューバッカ=オリバー・カーン」などというのは「そのまんま」です。
 ジャバ・ザ・ハットがとっさに思い浮かばなかったので検索してしまいましたが、写真見つけたら、爆笑。似てる〜〜〜
 C3P0とR2D2に関してはT嬢がアイルランド・サポーターであるということを念頭に置かないといけません。普通の人には「なんで?」というセレクトですが、実際に試合を観た人には「あのコンビは!」と思わせるものがあったのでしょう。二人が並んだ写真が発見できませんでしたが、この写真の17番がクインで10番がキーンなんですよね。

 そういえば、ボス・ナスにされているマラドーナさんですが、「俊輔はマラドーナになれる」という記事を見て、俊輔は体質的にあんなに太れないのでは?と思った人は私だけではないと思います。

 ところで。コリーナさんには役がつかないのでしょうか?こんなのになっちゃうのかな。(でも、ベッカムも「こんなの系」になりそうだな)なんかもっといい役ないんでしょうか?あったような気がするんだけどなあ・・・他の映画かなあ。「王様と私」じゃ、そのまんまだし・・・・「刑事コジャック」じゃもっとそのまんまだし・・・・



7月21日(日)

 10時には目が覚めてしまったが、休日は昼頃まで寝る習慣を持っているので冷房のスイッチを入れて昼まで頑張るが、やはり夏は惰眠を貪るのにはあまり適してないようで、思うような惰眠ができない。
 しょうがないから、無理やり起きて、まず布団を干しながら洗濯をして、掃除もする。冷房無しでそういう家事をすると汗がだらだら流れてくるが、汗をかくとたいしたことしてなくても「何か大きな仕事を成し遂げた気分」が得られるので好きである。

 まあまあ満足いく程度に部屋が片付いたので、冷房をかけて少し読書しながら、また「あれの悪口」を書き始める。相当な量を書きなぐったので、かなり気分も落ち着いてきた。「洗脳された人を逆洗脳するのには、洗脳に要した時間と同じ時間がかかる」という話を聞いたことがあるような気がするが、そんな気分。21時間も精神的苦痛を受けた精神的傷を癒すためには、おなじだけの時間を費やさないと癒せないのであろう。やーれやれ。

 気分が落ち着いてきた理由の一つに、昨日「敵の聖典」を購入してわかったのだが、あの本は普通の人には読めないだろう。ちなみに私が想定する「普通の人」とは自分である。一応、それなりにプライドはあるので「中の上」くらいだと思っているが、まあそんなもんだろう。
 読めないだろうと思うのは、分厚い本だし、漢字も多いからである。会社にも買った人はいたが、その人は「最初だけちょっと読んでやめた」と言っていた。

 これで「お友達」が発見できなかった理由がわかった。最初の10ページくらい我慢して読んだけど、「うわあ、読みづらいなあ」と思ったお友達はそこで脱落していたのである。あのセミナーでも「本を読んだことのある人」と講師が聞いていたが、1割くらいしかいなかった。「どーしても気の合わない奴は1割」というのは、まあまあの数字だろう。その1割にしても「読んだけどピンと来なかったから」わざわざ出席した人もいただろう。ざっと読んでみて「う、説教くさい」と思わなかったのかは疑問だが、世の中謙虚な人が多いらしい。

 でも、世の中こういう「成功」とか「金儲け」とか「幸福」に関する本が後を絶たないが、みんなそんなに欲深いのか不思議になる。最も不思議なのは「ラクして金が儲かる」に騙される人が多いということだ。「ラクして金は儲からない」ということを皆わかっているはずなのに、「でも、世の中、ラクして金を儲けている人はいるはずだ」と信じていて、「自分もそうなれる可能性はある」という理屈になるのだろうか?「ラクして金を儲けた人」はたとえそれがほんとでも、そのノウハウを人に教えたりしないだろう。マツタケの生える場所を教えてくれないように。(友人の祖父はその秘密を抱えたまま亡くなってしまったので、「おじいちゃんが死んだら、マツタケが食べられなくなった」そうである)

 うちの会社では、「旅行積立金の還付」や「年末調整金の還付」は現金で支給されている。社員の要望と総務部長の願いが合致しているためである。(妻帯者って大変なんですね。たしかに、年末調整還付金の正確な金額を割り出せるような奥さんはなかなかいないだろう。私だってそんな面倒なことしたくないもん。それに奥さん方はそれをわかっているので多少抜いても見逃しているようだ)
 現金の用意ができると、「経理までとりにいらしてください」とメールを流す。そうすると、1分以内に来る人がいるのだ。別に先着順何名様というバーゲンの目玉でもあるまいし、外に借金とりが来ていて睨んでいるわけでもないだろう。
 私の個人的な美学だと、そういうときにはわざと悠然と構えて、メール配信後2時間以上たってから、「経理に用があったから、ついでにあのお金も貰いに来た」という演技をするだろう。その日のうちにもらえればいいのである。慌てる必要はないし、がっついているようでかっこ悪いと思ってしまうのだが、皆さん大変素直に「金、金くれ!」と押し寄せてくるので、「ほお、金儲けの本を買うやましさを感じないという土壌はこういうところにあるのだな」と観察してしまう。

 私は勝手に「ヌード写真集を買う人のほうが、金儲け本を買う人よりも高尚」だと思っていたのだが、「欲望に貴賎なし」ということなんだろうか?

 明日はまた早起きしなければならない。なかなか規則正しい生活にならないので、ミニマル人間としては苦労するのである。もうちょっとの辛抱だ。がんばろー



7月20日(土)

 鮨食ってからワインも飲んで、けっこう酔っ払い、「満腹だし眠くなってきた」というかんじで帰宅したのだが、なんか寝るタイミングを外したようで、なかなか寝付けない。「寝られないときには、無理しても焦るだけだ」と思ってテレビをつけたら、NHKでまたBSでやっている「デジスタ」を再放送していた。
 前にもこの番組で、立花ハジメを久々に観たような気がしたが、今回まじまじと見ていたら、「なんで、こんなに田代まさしとクリソツなんだ?」ということに気がつく。試しに並べてみてもらいたい。そう思って観ていると、声まで似ているように思えてきた。うう、ハジメちゃんったら、それも「アート」なんですか?(泣)

 でも、しっかりと半ズボン履いていて、「あんた何歳よ?」とも思った。(私よりもかなり年上のはずである。なにしろ高校時代からの憧れの人であるからして・・・・10歳以上は上のはず・・・・つうことは50近いはずだ。もしくはもう超えているのかもしれない。気になるから調べてみましょう。1951年生まれ!51歳におなりですか!)しかも、似合っているところが恐ろしい。カジ・ヒデキにもオーバー50で半ズボン目指してがんばってほしい。

 昨日休んだから今日は出勤。私以外には経理の新人の女の子しか出勤してなかった。二人でのんびりと仕事していたら、午後になって、隣の部署の私の苦手な部長が出社してきた。「休もうと思ったんだけど、そーもいかなくてさあ」とか得意げに語っていたが、この人は「かまってほしいオーラ」を発散するので苦手なのである。新人嬢はおっとりしているので、優雅にお相手しているので、彼女にお任せする。というか、彼女はかなりナチュラルにマイペースなので、相手しているようで、うまくほったらかすという技術を持っているので安心。

 しかし、話し掛けてくるだけならまだ我慢するけど、いきなりその部長はCDを掛けだす。ときどきヘッドホンで聴いているのは知っているが、どんなものを聴いているのか知らなかったのだが、ケミストリー聴いてたんすか?「若者文化に理解のある45歳」ならまだしも、たぶんほんとにこういうの大好きなんだろうな。永遠の「テニス・サークルの先輩」ってかんじなのである。私の視線外に生息していることには文句を言わないが、「永遠の先輩」が目の前をうろちょろされると「うざい」と思うのはしょうがないだろう。ゴキブリは絶滅しないだろうけど、自分の目に入る範囲にはいて欲しくないのと同じである。(機嫌悪いから、表現がきつくなっちゃうわ。人間余裕がないときはダメですね)

 最初、かなり大きな音量でかけたので、びっくりしたが、本人も少し気になったみたいで、かなりボリュームは下げてくれた。そして、下げたあと、私たちの机の側にいて、「このくらいの音量なら大丈夫でしょ?」とお伺いに来た。

 私に出世欲があれば、「え?さっきくらいの音でよかったのに。私もケミストリー大好きですぅ」くらい言っただろうけど、疲れているので、そんな気分には到底なれない。
 「ああ、そうですね、これくらいなら気になりませんね」(←うう、ちょっと率直すぎたかしらん)

 部長は、2秒ほど沈黙したあと、「家では音楽聴かないの?」と言った。

 「よく聴くけど、こーゆーのは聴かないよ」「よく聴くけど、隣近所に迷惑にならないような音量で聴いてるよ」とは、さすがに言わなかった。
 「私、デジタル系が好きなんです。YMO世代ですから」(ジャズやボッサやクラシックも聴くが、そういう相手を喜ばせるような情報は隠す)

 「ふーん、ハウスにテクノにユーロってかんじ?」

 こういうこと言うから、嫌いなのよ。微妙に詳しいのよね。

 「ユーロは嫌いです」

 と言うのが精一杯だった。でも、「デジタル系って、エピック・トランスにハード・ハウスにエレクトロってかんじ?」などと言われていたら射殺していたかもしれないから、「ユーロ」あたりで済んでよかった。っつうか、

 しまった!
 ユーロってなんですかぁ?
 ヨーロッパのお金でしたっけぇ?
 と答えるべきだった!

 と、今更ながら後悔する。

 いや、別にケミストリーが屑だとは言わない。なかなか楽曲としてはよく出来てるし、録音も金かかっているのはわかる。だが、「僕の好きな音楽だし、すごく人気がある」というだけで、会社で流してしまうその無神経さが気に障るだけだ。
 前の同僚だったギャルはそういうことよくわかっていて、というか、一応うちの会社は「音楽かけるの禁止」なのである。好き嫌いがあるし、雑音だと思う人もいるというのが理由。でも、誰もいないときに掛けるのは構わないし、ギャルも自分にしか聴こえないような微音でかけるくらいの良識を持っていた。あまりにも小さな音で土曜日出勤のときに掛けていたので、「もうちょっと大きくしてもいいよ」と言ったこともある。私しかいないんだから、大丈夫だよ。そんな小さな音のほうがかえって気になってしまう。

 私も「自分の好きな音楽が多くの人には雑音にしか聴こえない」ということを知っているので、他の人に無理強いする気はない。
 そんなことをするのは、車の窓を開放して大音量のヒップホップを垂れ流すような「なんちゃって理由無き反抗」と同じだと思うのだが、いい大人が平然とやるのは信じられない。ただ、そういのはちょっとした心配りでどうにでもなる。「ちょっと眠いから、音楽かけてもいいかなあ」と断ってもらえれば、「ダメです」と言うことはない。ただ、流れてきた音楽が自分の趣味ではなかったら「あちゃー」と思うだろうけど、「タバコ吸ってもいいですか?」と断られたのと何も言わず吸いはじめたのとでは、隣にいる非喫煙者の心情が全く違ってくるのと一緒だろう。

 あと、やはり私は「世界で1000万部売れた」とか「日本で100万部売れた」ということがイコール「だから素晴らしい」と思えないのである。これは、自分の趣味がいつも「少数派」であったために、経験的に学んだことであるのだが、そういう思いをしたことがない人は多いんですかね?皆そんなに素直なんだろうか?

 と、疲労が抜けないのと寝不足が重なって、今日も機嫌が悪かった。

 帰りに乗換駅にあるブックオフに寄って、やっと「不機嫌の原因」である聖典を発見。950円もしたが、しょーがない。旅行積み立て金が戻ってきたので(社員旅行不参加のため。天引きされてたお金だから嬉しくもないが)、そのくらいの金は惜しまない。これでじっくり敵を知ることができる。と、思って、帰りの電車でパラパラと捲ってみたら、この本の「読者」として想定されているらしい「素晴らしい社会的成功を収めたにもかかわらず、悩み多き人々」のコメントがズラーっと並んでいて、それ見た瞬間、また奈落の底に落とされる。

 「いくら頑張ってもダイエットが成功しない」
 「周りの人が自分をどう思っているのか気になってしょうがない」
 「結婚生活が味気なくなってしまった」

 はいはいはいはい。皆そうですよね〜
 こういう悩みが多いから、占い稼業が成り立つのよねえ、というのはいいとしても、

 「高校生の息子が犯行的で、ついに酒や麻薬に走ってしまい、私の言うことなんか聞いてくれない。どうすればいいのだろうか?」

 ・・・・・すいません。「35歳の娘が反抗的でちっとも結婚してくれない。私の言うことなんか聞いてくれない。どうすればいいのだろうか?」と、うちの母親もコヴィー博士に悩みを告白したりしてないだろうか、心配になってきた。

 でも、やっぱり私はこの本の読者にはなれない人らしい。
 だったら、それでいいのだが、でも、3日間そういうのを無理やり聞かされてしまったので、相当めげてしまったのは事実である。数時間だったら我慢できたようなものでも、毎日7時間×3日間であるからして、そのダメージは自分でも驚くほど深かった。こんなことになるのがわかっていたら、一日目の午前中でブッチすればよかったと、今更ながら後悔しているのである。

 そして、怒りに任せてダーっと悪口書いているが、それがどうも感情的に過ぎるのがまた悲しい。丁度、最近は斎藤美奈子の著作を読み漁っているので、「バカにするのなら、せめてこのくらい突き放したいものだ」と思うが、なかなかああいうふうには出来ない。できたら、斎藤氏に「ビジネスマン向け啓蒙書さん江」という新作を執筆してもらいたいものだが、それでは斎藤氏に悪いだろう。あんなもん50冊も読んだら、世の中を信じられなくなってしまう。

 私の安らかな日々を取り戻すのにはどのくらいの時間が必要なのでしょうか?「忘却」という攻撃方法を採用したいけれども、この怒りのパワーも、もったいないちゃもったいないような気がするし・・・・ああ、なんだか貧乏性だなあ。それにつけても眠いぞう。

 ぞうといえば、愛子様ご誕生を祝してタイが象をプレゼントしてくれるらしい。いいなあ。(かなり古いニュースである)
 象といえば、セミナーで通ったホテルの売店に「ジム・トンプソン・コーナー」があって、象のヌイグルミを発見して「私がタイの本店に行ったときにはこんなのななった!」と悔しがる。今度の休暇はタイに買い付けに行こうかしら。それほど高価なものでもないので、「3日間我慢した自分へのご褒美」として積立金の還付金で買っちゃおうかなあ。



7月19日(金)

 日曜日から働いていたので、今日を休みにしていた。
 昨晩もガシガシと「7つの習慣、恨みます〜」と別ファイルに怨念を書き綴っていた。そして、今日も、昼過ぎに起きて、またずっと「恨み節」を書き連ねていた。
 昨晩電話してくれたS君にも、まだ恨みをぶちまけていたら、「そんな口調で怒っていたことが前にもあった」と言われた。私、そのときには何に対して怒っていたのだろうか?S君も憶えてないようで「でも、そういう喋り方に記憶がある」と言われた。う〜ん、全然憶えてないや。つうことは、この怒りもそのうち忘却の彼方なんだろうか?まあ、そうでないと、怒りが蓄積してしまうから、とっとと忘れるのは人間がうまく生きていくための賢い方法なんだろう。早く忘れたい〜

 「忘却こそが、最大の攻撃である」って言った人いたなあ?誰だったっけ?昔の偉い人ではなくて、もっと最近の批評家だったような気がする。
 この言葉が印象に残ったのは、それまでは「忘却=防御」だと信じていたからだ。だが、この言葉を見て、たしかにそうも言えるなあと納得したのである。「え?誰でしたっけ?」というセリフは確かに単なる防御とは思えない。

 というわけで、午後を費やして、「忘れる前に書き留めておく」作業をしてから、夕方になってやっと外出。先月末に「イベントのブースのお留守番」をした御礼を受けるべく赤坂見附。鮨をゴチになるのだ。私のリクエストではなくてクライアントの意向である。
 ホヤの塩辛などの珍味にはじまり、ハモのお刺身を久々に堪能し、鰯の握りに感涙し、「私もう、お腹一杯かも〜」といいながら、S君がオーダーした中トロなどを横から手を出して食べていた。お腹いっぱい。おいしかった。

 それから、表参道のワイン・バーに行く。グラスワインが安価で飲める店だという。S君が「あそこだよ」と指差した先には「志賀昆虫」の看板があったので、「え?」と思ったが、志賀昆虫のすぐ隣の店だった。200種類のワインがグラスで飲める。一杯140円くらいから、マルゴーとかは3000円くらいで飲める。メニューを見ながら「そういえば、最近、川島なお美は見ないなあ」と思った。失楽園女優仲間の黒木瞳は20代サラリーマンに「黒木瞳ならOKっすよ!」と言われ、人気俳優である金城君の相手役をやっていたのになあ。

 そういえば、私がセミナーに反発してた最中に、やはり最近見ないと思っていて「やっとワイドショーもあのキャラに飽きたか?」とホッとしていた叶姉妹が、よりにもよって「窪塚洋介とモルジブ愛」などで騒がれてまた脚光を浴びているので、いつもの私だったら、「許せん!」と一応、怒っておくべき事態だが、それよりも「7つの習慣」のほうが重大問題だったので、「はあ、まあ、窪塚君を利用するあたり、この人たちなかなか考えているのね」と感心してしまいました。

 それはいいとしても、ワイン・バーですが、あまりにも種類が多いので、「1、2、3、いっぱい」な私としてはちょっと眩暈がしてしまいました。でも、その気になれば沢山飲めるので、自分の好きな味を気軽に探すのにはいいお店でしょう。



7月18日(木)

 研修も終了したので3日ぶりに出勤。しかし、連続休暇7日後よりも、違和感を感じる。休暇は自分で望んだものだし、基本的に「楽しい」ものだから、「さあ、さあ、また働きましょう」と思えるのだが、「地獄のようにつまらなかったセミナー」を終えた後では、疲れもあって、溜まった郵便物の封を開ける気力もなかった。
 そういうときに限って、マシンが不調でネットワークに入れない。前にも同じようなことがあり、そのときにはシステムの社員が3回くらい再起動したら直ったので、システムさんを呼ぶ前に自分で何回か再起動してみたが、やっぱりダメだったので内線して「ダメです〜」と言ったらすぐ来てくれた。なにか元の設定がダメだったらしいので、すぐに直った。

 そんなこんなで出勤後30分してから、やっとマシンが立ち上がり、その時点でやる気が全く無くなっていた。
 とにかく、「ここ最近、こんなに疲労感を感じたことがない」くらい疲れているのだ。子供のころ、プールに行って半日遊ぶと、頭の芯が痺れるほどの強い疲労感を感じたじゃないですか?そういうときの子供って、ご飯食べながら寝ちゃったりしますけど、久々にあの感覚を思い出した。

 それで、昨日までの3日間が自分にとっていかに過酷だったが、よくわかりました。
 今日の総務部は私以外にもう一人しか社員がいなくて、その子も8月に同じセミナーを受講するので、なるべく事前情報を入れたくなかったのですが、私の異常にけだるそうな様子を観て、彼女も「大変だった?疲れてるみたいじゃない?」と声をかけてくれたので、「まーねー、毎日早起きだし、遠いし・・・・」と物理的なことの愚痴だけにとどめておこうと思ったのですが、ついつい「講師がずっと喋っているのをじっと聴いてるのは辛いよ」とか言ってしまい、そうやってボツボツ愚痴っているうちに、「まあ、はっきし言って私はダメだった。苦手な世界」と言ったら、彼女は「じゃあ、私はもう行く必要ないじゃん」と笑うので、「いや、ぜひ参加して、○○さんにもあれを嫌いになってもらって、一緒に上司に『このセミナーやめようよ』って言おうよ・・・・」とお願いしてしまいました。

 そして、午後になるとさらにボケボケ状態に突入。
 しかも、この3日間、「ぼーっと意識を宙に彷徨わせて、なにも感じてないふり」をすることに専心していたので、すっかり集中することができなくなっていました。仕事の山を見ても、やる気がしないし、どれを先に片付けるべきかも全然思い浮かばないのです。親会社に行く社員が「なにか持っていく書類ない?」と声をかけてくても「ありません」と答えて、その30分後に「あ、やっぱりあった」と気が付いて、しょーがないから自分で出向き、それで帰ってきた後で、「あ、そうだ通帳を記帳しないと・・・」とまた出かけ・・・・と、すっかり「要領の悪い人」になってました。

 「私って、もっと効率的な人だったはずなのに、効率的なのが自慢だったのに、すっかり非効率的になってしまった・・・・私の効率を返して・・・・」

 と、ブツブツ呟きながら、ぼんやりネットのニュースを見ていたら、「アムロ離婚」で「ほぉ・・・・・」と脱力し、「戸川京子自殺」で、「ふぇぇぇぇ」と暗い気持になり、自分が冴えない気分のときって、見るもの全てが冴えないもんだなあ・・・と、思いつつ、夕方が近づくにつれて、だんだん腹がたってきました。

 なんで私がこんな状態に陥らないといけないのか?
 いつも、ぼやっとしているのに、こういう変なところで妙に感受性が強い自分がけっこう好きだが、弱っちいところはあまり評価できない。
 このまま、やられっぱなしで、聴いてなくても催眠学習してしまったので、頭の中が「パラダイムパラダイムパラダイム」になっていて、「あれもパラダイム」「これもパラダイム」「どれがパラダイム?」「きっとパラダイム」と、10数年前の大学生(パラダイムを真面目に乱用するのが流行った)みたいなことになっていていいのか?

 弱っちい私ですが、負けず嫌いなのです。
 でも、いったい何に負けているかもよくわからない。
 そこで、「便利なインターネット」を利用して、「誰か強くて賢い人がコテンパにしてないかしら?」と「先生」を探しに行きました。
 
 「お勧めできる一冊」「受講してみるとなかなかに感動的で、生きる力のようなものが湧いてくる」「僕もミッション・ステートメントを作るべきかなと思ったのでした」「最終日には、「帰りに本を買って帰ろう」と言っていた人もかなりいたので、出席されていたみなさんはかなり影響を受けていたようでした。

 本とセミナーが混ざってますが、「本よりもセミナーのほうがよかった」というコメントも拾ってしまいました。
 先生は見つかりませんでした。

 そうか、検索方法に問題があるんだな。と「○つの習慣 嫌い」にしてみました。

 テキストの内容をそのまま書き写したのかのような、ご紹介文を発見。これ見るとまた吐き気がしてしまう。いかにもな単語のオンパレード。

 「今まで私の大切な何人の人にこの本をプレゼントしたことか」お父さん!それはやめたほうが・・・・・でも、そうか、「金持ち父さん 貧乏父さん」や「話を聞かない男、地図が読めない女」を素直な気持で読めるような人がハマりやすいのかな?それは少し、ほっとする。お父さんありがとう。金持ちになってね。

 「思っていたより専門用語が多かったので難しかったから」と、まあこの人の感想が私が想像する一般的な感想。「外人さんってポジティブなのね」というあたりで納得しているので、「友達」にはなれそうだが、先生ではないな。まあ、こういうレベル(知能ではなく、拒絶レベル)の人はあまり自分のサイトにわざわざ「感想文」を書かないだろうから、なかなか発見できないのかもしれない。

 「買ってはいけない7つの習慣」と書いていると思って、「こ、この人はお友達か?」と期待したら・・・・違った。「地球にやさしい酸素をたくさん作ってくれるケナフ」とか書いているし・・・・・そもそも「好きな本」として「買ってはいけない」を挙げることになんの疑問も抱かない人とは仲良くなれそうもない。

 「Win-Winでいこう!」 これを書いた人は、「そうか!こういうことか!」とかなり納得しているようですし、実際にセミナーの講師が挙げた「実例」もこんなかんじでした。筆者の意図に反して、私がこの考え方に「なんじゃこりゃ?」と思った気分を丁寧に再現できるすばらしい解説です。

 というわけで、「先生」はどこにも見つからなかった。
 これも竹内久美子と同じで、「まともな人」は無視するだろうし、そもそもまともな人は読むこともないであろうし、読んでも「ふっ」と微笑んで終わりだろう。
 科学本ではないので、「科学的に間違っている」と指摘することもない。
 それに、私も、「この本は間違っている」と言いたいわけでもない。

 ただ、なんか、こう、気に入らないのだ。

 それに、「お勧めの本」と胸を張って言える人たちが多いということは、すなわち「私とは違う感性を持った人が世の中には多いのね」という、悲しい事実をまた突きつけられたわけで、まあ、みんなが同じでもつまらないが、自分が少数派であることは人並みに淋しい。
 それに、それに、この内容は、小難しい単語が並んでいるので、そこそこの知性がないと読めないはずなのだ。「どこチー」みたいに薄くもない。
 それで、その程度の知能の人がいつもこういうのを真面目に読んで騙されているのだ。つうか、「わかったような気がして全くわかっていない」ということに気が付いてないのだ。
 そもそも、「この程度の本を読んで、感激するほど、あんたはつまんない人生を送っているのか?」と思う。

 たしかに、すごく当たり前のことを書いてある本なんだと思う。だからこそ、みんな「そうなんだよ。でも、わかっていてもなかなかできないんだよね」と思い、それが「感激」になるのかもしれないが、もっと別のものに感激していれば、この本に書かれているように、わざわざ小難しくご大層に分類し説明しなくたって済むのだ。

 疲れているので、説教臭くなってきました。

 まあ、そういうわけで、「友達は少ないし、先生もいない」というまさに「学級崩壊」な気分に陥り、さらにムカムカして、この気持をどこに持っていけばいいのかわからなくなってきたので、「でも、まず敵を知らないと!」と思い、疲れているというのにブックオフに寄ってしまいましたが、発見できず、それでもあきらめずにあと2軒も古本屋に寄りましたが、やっぱし無い。まあ、でも、ネットで調べる限りは、私の受けたセミナーと本の内容はそれほど違いはないようです。

 しかし、これで私にも「ミッション」ができました。

 とにかく、気が済むまで文句を言おう。気が済むまで揚げ足をとってやる。

 不思議なもんで、疲れているのにも関わらず、家に帰って顔を洗おうと鏡を見たら、あ〜ら私ったら目が生き生きとしてて、いつもより肌ツヤもいいじゃぁあーりませんか!

 人間、素直に納得するよりも、思いっきり反発するほうが美しくなるようです。「これで、どんどんキレいになる」という本でも書こうかしら(笑)
 ま、これは新たな発見ではなくて、映画やドラマの世界でも「反逆児」のほうが美しく描かれておりますからね。

 それにしても対抗心を露わにする「敵」としては相当ショボイが、人間つうのは自分の身の程をわきまえて行動するので、哲学の古典などに喧嘩売るわけがないが、誰かを悪く言ってみたいとは思うのか、こういう手頃な敵を見つけてワンワン吠えて日ごろの鬱憤を晴らすわけですね。大晦日に河口湖を目指す暴走族みたいなもんでしょう。

 というわけで、気が済むまで悪口言うつもりです。
 全くもって「重要でも緊急」でもない作業ですが、私はそういう無駄なことが大好きなのです。



7月17日(水)

 お台場通勤3日目にして、「ゆりかもめ」のドア付近で立って外を眺めていたら、しおどめ・・・・(なんで変換されないの!読み方違った?合ってるわよね。もーしんじらんない!)汐留の旧JRというか国鉄跡地の開発の様子が上から観察できることに気が付いた。
 遠くから見ると、「いつの間にか、立派なビルが沢山できたなあ」と思うが、側で見るとまだまだ建設中のようだ。部品(?)が沢山並べられていた。建設資材が並ぶ姿は、「パソコンの中身」みたいだった。「基盤」とか言うんだっけ?アレに似ている。その「基盤」の中を小さな小さな人間が動き回っていたり、円陣を作って「朝礼」(「安全第一」とか唱和しているのかな。「熱射病に注意しましょう」とか話をしているのかもしれない)している様子は、子供のころ飽きずに観察した「蟻さんの巣づくり」を思い出させてくれて、朝から「ほっこり」とした気分になる。がんばれ働き者のアリさんたち。立派なアリ塚作ってね。

 バカにしているわけではなくて、あんな小さなアリさんたちが、あんなデカいアリ塚作っているということに素直に感激したわけです。
 なんか、3日もセミナーに通っていると、「いいなあ、ああいう仕事は、自分が作ったものがちゃんと形になって見えるんだもん。そんで、家族や友達にも、あれの建設に自分も関わったって言えるわけじゃん?」と他人の仕事が羨ましくなる気分に陥ってしまうのです。

 私の仕事なんて、一生懸命作っている試算表なんて、他の社員が見ると「なんだかよくわかんな〜い」なシロモンだしよ。数字なんていくらだって誤魔化しがきくしよー。(最近のアメリカの経済スキャンダルなんて数字操作の空しさを感じさせて、規模は違えども、決算書を作っている身としては、「決算書なんて陽炎〜♪」と「愛はかげろう」の節で歌いたくなってしまうのでありました)

 まあ、超高層ビルも長い目(3億年くらい)で見れば、陽炎かもしれないけどさ。
 欠陥建築だと、10年単位くらいで陽炎かもしれないけどさ。
 
 ・・・・と、一日目には「墓石」呼ばわりしたビル群を見る目が変わってしまったのが、このセミナーに参加して「私が一番変わったこと」かもしれない。
 
 ああ、これってパラダイム・シフト?(と、今日書いたアンケート用紙に書いてやれば「いかにちゃんと理解できたか」が表明できたのに・・・・、どうして私はこんなにトロいのだろうか?「効果的」な人になる道は遠い)
 

 セミナー3日目。
 
 しかし、私はすっかりふてくされているが、他のみんなはちゃんとこれが「何かの役に立つ」と思っているかもしれないので、「学級崩壊児童」(という言葉はないかもしれないが、ニュアンスとして)にならないように気を遣ってしまうが、それでもやっぱり全然真面目に取り組みたくないのであるが、そんなときに限って、「理解してから理解される」というコミュニケーションの具体的な取りかたというところで講師が「じゃあ、ちょっとロールプレイングをしてみましょう。私は高校2年生の息子で、皆さんがその両親です」と言って、次々に参加者にマイクを向ける。

 「父さん、オレ、もう学校辞めたいよ」
 「なんでだ?」
 「なんでって、つまんねーんだよ」
 「どうして、つまんないんだ?」
 「どうしても、こうしても、全然わっかんねーんだもん」
 「どこがわからないんだ?」
 「どこがって、全部だよ!」

 あたしにマイクが回ってきたら、「あたしも、全然わっかんねーから、辞めようと思ってんの。よっくわかるよ、その気持」とうっかり言うところだったが、残念ながら私にはマイクが向けられなかった。これは自意識過剰かもしれないが、講師はなかなか優秀だったと思うので、ちゃんと「自分の思い通りの反応を返す参加者」を選んでいるから、明らかに「反抗的な態度」である私を避けたのかもしれない。私ったら、見るからにやる気なさそうだったもん(笑)

 そう言えば、昨日は「まず自分が変わろう。小さなことから行動しよう」という一例として、「あるミュージシャンが、アフリカの貧しい国がテレビで紹介されているのを観て、心を動かされて、自分のギャラをその国に寄付することにしたら、それを知った他のミュージシャンが賛同してくれて・・・・・・というのがだんだんと大きくなり、ついには!」
 で、超久しぶりに「We are the world」を拝聴して、「そーいや、シンディ・ローパーって今はなにやってんだろう?」と真剣に考えたりしてしまったが、今日は「シナジー」とか言うやつをやって、「相乗効果」とかいうわけで、パッフェルベルのカノンを拝聴してしまった。あまりいい演奏ではなかったのだが、どこの楽団の演奏なんだろうか?ああ、そうか、各パートの演奏をバラけて録音したりしているから、これはオリジナルで作っているわけだから、演奏のレベルが「パーティーに呼ばれるクラスの楽団」なわけか。いや、それが悪いというわけではないけど、なんか弦の音がちょっと安っぽいような気がしただけで・・・・

 という調子で、怪しいとわかっている勧誘活動に誘われて嫌々出席しているときのように、「絶対に騙されないぞ」という決意を固めていると、なにを聴いても「明後日の方向」に向いてしまう人間心理を堪能してしまった。

 昨日に比べると、今日はいろいろ簡単なゲームをやったので、それほど眠気と戦う必要がなかったのが救いだったが、やったゲームというのも、かの有名な「全員がAを出すと全員マイナス。全員がBを出すと全員プラス」というやつで、ルールと用紙を見た瞬間に、「このゲームって、からくりがわかんない人がやれば、さぞかし楽しいだろうが、わかってやっていると苦痛なんですけど・・・・」と思ったが、やはり広い世間は私みたいに摩れた人だけで埋まっているわけでもなく、真剣に挑んでくれる人もいた。でも、ムキになってAを出している姿を観ると「仕込みの人かな?」と思ってしまう私が嫌な奴なだけです。ごめんなさい。

 でも、ああいう「自己啓発系ゲーム」も、そろそろ新機軸を出してくれないと、新鮮味が無いと思われ。「そうか!そうだったんだ!」と啓発されないのでつまんないんです。

 とにかく、このセミナーは「10年前だったら、これで感激する人いただろうな」という感じなのだ。
 それは、昨日やった「4つの領域」でもそうだし、今日も「人間関係における6つのパラダイム」というところでは、「win-win」「win-lose」などが紹介されたが、こういう単純化というかチャート式の方法って、なんか古くさい気がするのだが、そうでもないのだろうか?すでにチャート式っぽい方法って、まともな人は「ギャグ」として使用しているような気もするが、それも私がスれているだけだろうか?

 まあ、でも、そういう文句を垂れてる自分だって、いつも何か/誰かを「型」に当てはめてわかりやすく考えようとすることは自然にやっているのかもしれないが、でも、型というか「それが原則だ」することが、「いいこと」とは思えなくなっている。
 そもそも、今の世の中、「winをめぐるパラダイム」よりも、「そもそも、winというものの定義を見直さなければ」っていう風潮なわけだから、人間関係にしても、その2種類の言葉でパラダイム化してしまうと、「まあ、なんとなくわかるけど、これを具体的事項に当てはめると、なんだかなあ」と思ってしまうのだ。

 そのへんがしっくり来ないままにテキストを読んでいると、「lose-lose」の「原則」として「社会のルールを守らない人の行動を正さなければならない場合には有効な場合もある」書いてあって、講師はその一例として、「犯罪者を刑務所に入れる」というのを挙げていた。刑務所の維持には税金がかかるがしょうがない、ということらしい。その例もよく考えると「?」なのだが、それよりも私が真っ先に思い浮かべたのは、「アメリカの例のテロ後の制裁行動」であった。NATOによるベオグラード空爆でもよいけど、あれはなんかはまさに「lose-lose」だと思うので、「にゃるほどー、私がいつも疑問に思っていたああいうアングロサクソン的(と型を作ってるけど)なやり方って、こういう発想なのね」と納得してしまった。「正義」というのは「原則」らしい。

 そう考えると、このセミナーは「私にはよーわかんない、アメリカの不思議」をとてもわかりやすく解説してくれているようである。
 でも、なんだかさらに「アメリカって、アメリカって、アメリカって!」と先のW杯でも培ってしまった「アメリカ嫌い」をさらに増長させてしまったことが悲しいといえば悲しい。アメリカにだって、私と意気投合できる人が沢山いるはずだ。

 まーしかし、文句を言っていてもしょーがない。
 この先どうするかが問題だ。このセミナーをうちの会社の「階層なんたら研修」として取り入れるかどうかの判断の一環を担っているのだ。

 素直な気持ち
 このセミナーがとてもよかったので、是非オススメする、ということにした場合、「ええ?これのどこがよかったの?」と私の人格が疑われる可能性がある。自分が最低だと思った映画を他人に勧めるようなもんだ。
 だが、たぶん、うちの会社のレベルだと、ほとんどの人が「パラダイムがどうのこうのとか、すっごい難しくて、よくわかんなかったよ。でも、なんか凄い内容だったみたい。なんかの役に立つかも」というところに落ち着くだろうから、いいんだけど、それってそれって「社員を3日も休ませて、高い金を払った結果」としては、あまりにも損失が大きくないだろうか?だったら「10年目の社員」に宿泊券でも進呈して、温泉で寛いでもらって、「いい会社だ」と思ってもらったほうが、同じ金額を投資するのならマシな効果が生まれるであろう。(lose-win)

 素直じゃない気持ち
 私が3日間も苦しんだんだから、みんなも同じ苦痛を味わえばよい。ふぉふぉふぉ(lose-lose)

 「win-win」にする方法はないのだろうか?
 ないことはない。「なかなか、よかった。勉強になった」と、いい加減なことをいう社員がいたら、「あたしは全然よっくわっかんなかったんだけど、どう良かったのか説明してちょ」と挑んで、相手が学んだ(と自己申告した)ことを徹底的におさらいさせる。自分の得た「負の資産」」を相手のためを思って有効活用するのである。ぜってーやんないけどさ。

 まあ、とにかく、このセミナーが「リーダー研修」であることは上司に伝えないとならないだろう。上司はそのことを知らずに、セミナー会社の「人気セミナーです」という売り文句だけで、「じゃあ、みんな行ってみてください」と指示しているのだ。
 平社員に受けさせても金の無駄である。しかも、普通の中間管理職にも無駄である。
 これはもともと「強い上昇志向を持ってトップを目指す人間に、より効率的に上昇するノウハウを教える」ものであるはずだ。モチベーションが低い人が学んでも意味無し。

 だから、総務部として、このセミナーを推薦するとしたら、「まず社長や役員が受けてみて、これに賛同した場合、『オレは今度から、こうするからな!』という意思を社員に理解してもらうために中間管理職にも受講させる」というシナリオ以外は考えられない。
 そんで、このセミナーの最後は「あなたが学んだことを磨きつづけられるか、その見張り役としてコーチを選んでください」というものだった。その場で選べといわれたので、隣の席同士で「コーチでぇす」とやっていたが、「トップ」が実行して、中間管理職がその「コーチ」というのは有効だと思います。そんでトップががっちりと実践して、うちの会社が(もしくは経営者が)「フォーブス」に掲載されるようになるのを目指す、と。完璧だわ!

 という、私の意見が上司に通用するのか、自分の腕が試されるのだが・・・・・うう、めんどくさ。どう考えても「なかなかいい勉強になりました」というレポートを捏造するほうが簡単だ。その程度の作文能力はあるし。
 しかし、たぶん、「え?うちの会社、オレにこんな研修受けさせて、何考えてんの?うちの会社、だいじょぶ?」という社員が何人か出るだろうから、それを阻止するために「小さな力でも、大きな力になることもある」という原則に向かって行動するほうがいいのだろうか?

 という思考のBGMが♪We are the world〜だと、気が抜けてやっぱりがんばりたくないんですけど。

 全く、根が真面目だと悩みが深くて困りますわい。「シナジー」じゃなくて「エレジー」ってかんじだ。

 家から、会社のメールを開けたら、また新たな商品が増えたようで、「単価設定お願いします」というメールが来ていた。なんで私が単価設定しないといけないのか、誰かあの部署に教えてあげてほしい・・・・ちゅうか、どうせ行くのなら、そういう具体的な研修を受けてくれんかね。「経理がお金のことを決める」って、思い込んでいるらしいのだ。とほほ(一応、その部署のマネージャーには、「私が単価設定してても、いいのでしょうか?なんだか不安なんです。私じゃあ、役不足じゃないかなあと・・・」と下手に出て話しておいたんだけどなあ)
 そもそも、その物品販売している部署は「仕入単価」にも無関心なんですよ。受注と発送だけやっていればいいと思っているらしい。(もともと親会社向けにそういう仕事やっていた部署だった。昔は親から預かった物品だけを扱っていたので、仕入れが発生している今でも、売上管理という感覚が全く無い)そういう仕事していて、面白いのだろうか?と、いつも疑問に思っているのだが、いったいどーしてあげたらいいのでしょー



7月16日(火)

 セミナー2日目。

 しかし、昨晩は早寝したつもりだったのに、夜中(だったのかもわからないが)にS君から電話があり、ついつい研修の愚痴を語り聞かせていたら、ほんとに真夜中になってしまった。おかげで、今朝6時半に起きたら眩暈がしたが、なんとかセミナー会場には時間前に到着したものの、眠気が最高潮のままセミナー開始時間を迎える。

 昨日のおさらいの後、やっと本題に入る。
 でも、やっぱりなんかピンと来ない内容だ。昨日の時点でも気がついていたが、このセミナーは「成り上がりたい人向け」の内容なので、私みたいに「そこそこお給料もらえれば嬉しいけど、あんまし働くのも嫌かな?」という人には、なんだか納得いかないシロモノなのだ。だから、そんなものに参加してしまった私が間違っているのであって、セミナー自体の内容が間違っているとは言わないけど、でもなんかなあ。(今日も文句言う気満々。というか、あまりにもつまらないので、「揚げ足とり」に専心してしまうわけよ)

 まず、今日の最初に気に入らなかった話。
 刺激→反応 というのは犬や猫でも同じだが、人間様の場合には 刺激 → 主体性に基づく行動の選択 が可能であり、それが重要であるという説明があって、その時に講師がアメリカでこのセミナーに参加したときの話をした。

 セミナー終了後にグループで感想を言い合ったそうだ。一人の男性が、「昨日、主体性に基づく行動というのを学んだ後、自分はいつも娘を怒鳴り散らしていた(反応的な行動)をしていたことを反省した。そしたら、昨晩、娘がテーブルにオレンジジュースをぶちまけたので、またカっとなりそうになったのだが、『反応的な行動はいけない。オレはオレンジジュースやテーブルよりも娘が大事なんだぞ』と思い直して、娘にちゃんと『ケガはないか?』と言うことができた。それだけでも、3日間会社を休んでこのセミナーに出席した意義があったと思う」と発言したそうだ。

 もちろん講師はこれを「いい話」として紹介したのだが・・・・・3日間会社を休む+セミナー費用(けっこういい金額) の効果が「娘を怒鳴らなかった」というのも、ちょっと・・・・なんか・・・・まあ、本人がそれでいいならいいんですけど・・・・・

 そんで、他のテーマでは「優先順位」というか、「自分にとって本当に大切なことはなにか?」というのをやって、事前に「自分の最近2週間にしたことを羅列せよ」という宿題があったので、私の挙げた「ここ2週間の私の行動リスト」は

 友達とW杯反省会
 読書(読んだ本を3冊ほどリストアップ)
 スポーツクラブで筋トレ
 友達と長電話
 
 等で、あった。
 その後に「自分にとって大事なこと」を3つ挙げて、それを元にグループで3つにまとめて、全部のグループがそれを発表した。上位になったのは「家族」「健康」「仕事」「友人」「趣味」などであった。
 講師がそこで、「では、皆さんが挙げた、行動リストを自分で見直してみてください。みんな、仕事のことばかり書いているでしょう?でも、みなさん家族や健康も大事だという。じゃあ、家族や健康のために何かやってますか?やってないでしょ?仕事、仕事、仕事でしょ?」

 ・・・・・・あたし、自分の行動リストから仕事を全く排除してました。でも「大事なこと」には「仕事」を挙げてました。・・・・・なんか、逆やっちまったみたいです。でも、健康や友達も大事だと思っているので、それはちゃんと行動してます。っつうことは、やっぱこのセミナーは私には不要?

 どうも、このセミナーは「仕事ばっかりしていて、成り上がりたい人向け」らしいので、やっぱ私には不要な内容らしい。そもそも上昇志向が無いので・・・・つうか、「わたしってかなりイケてるからこれ以上、上に行く必要もない」と思っているタカピーさんなのである。

 ま、そんな流れで「自分のミッション」というのを考えるとかいうのをやって、半分寝てたが、その後は「じゃあ、自分の目的を達成するためには、時間管理が重要だ」という話になった。
 講師が「みんな、例えば健康が大事といいながら、運動している人は少ないですよね」と言う。運動=健康っつうのも短絡的だが、まあ言いたいことはわかる。そしたら、「じゃあ、皆さん、世界で一番忙しくて、しかも重要な仕事をしているのは誰でしょう?」という謎の質問をしてきた。

 「世界で一番忙しくて、しかも重要な仕事をしているのは誰でしょう?
 なぞなぞのようだ。
 そんなの誰が世界一かなんてわかんないし・・・・当然、会場からは反応無し。講師が「え?わかんない?」と問い詰める。わかるかそんなもん!

 「普通に考えてみてよ、・・・・・・アメリカの大統領じゃない?」

 ・・・・・・・たぶん、「??????」と思ったのは私だけではないと思う。そういう空気が漂った。
 「とても多忙で重要な仕事」をしていることは否定しないが、「世界一」というのは何を根拠にしているのだろうか?アメリカが世界で一番重要な国だから?それこそ、「悪しきパラダイム」ではないのかなあ・・・・・
 そう、このセミナーというか、この講師、「パラダイム・シフト」を謳いながら、こういうみょうちきりんなパラダイムを押し付けてくるのが気に入らないのだ。

 そんで、今現在、世界で一番忙しくて重要な仕事をしている(らしい)ブッシュ大統領は、自分の健康が大事だとわかっているので、毎日ジョギングをしてますよ。という話だった。「だから、忙しいから運動できないはずはない」ということを言いたいらしいが、そんなご大層な例を出されてもねえ。それに大統領のジョギングは健康管理というよりも「オレってこんなに健康」というアピールでもあるから、あまりいい例ではないと思うのだが・・・・・

 それで、お次は「時間管理」の具体的な方法になり、物事を「緊急/重要」で分けて4つに分類する。「緊急で重要」「緊急じゃないけど重要」「緊急だけど重要ではない」「緊急でも重要でもない」

 それに当てはまる具体例をグループで話し合う。
 「緊急で重要」「緊急じゃないけど重要」については、わりとすんなり思いつくのだが、「緊急だけど重要ではない」「緊急でも重要でもない」という「重要じゃないもの」については意見が分かれる。「重要じゃないもの」といいにくいのだ。

 てゆーか、「緊急だけど重要ではない」ことって何?
 あとで講師が説明してたけど、これが皆が大好きな行動らしい。「あー忙しい」と会社を走り回っているが、特に仕事をしていない人は専らこの行動に従事していると言われればなんとなく納得するが、それはそういう人が「重要じゃない」ことばかりやっているのか、それともその人がやるから「重要ではなくなってしまった」のか微妙だぞ?

 まあ、そこまで突付いてもしょうがないけど、なんとなく言わんとすることはわかるけど・・・・

 「緊急でも重要でもない」というのは「時間の無駄となる行為」ということなんだが、これも「無駄」とするか「有益」とするかは個人の選択であろう。
 グループ討論でも「惰眠・・・とか?」と誰かが言ったので、「それは私には最重要事項です」と反対した。(笑われた)

 テキストに挙げられている例は「暇つぶし」「単なる遊び」「だらだら電話」「待ち時間」「無意味なテレビ」「くだらない本を読む」「意味のない活動」と並んでいるが、これ見てたら帰りたくなってきた。

 「真のレクリエーション」対「単なる遊び」
 「人間関係作り」対「だらだら電話」
 「勉強や自己啓発」対「くだらない本」
 「改善活動」対「意味のない活動」

 という図式なのだろうか?左側のものは「緊急じゃないけど重要」という「これこそが主体性を持った行動である。目標達成に欠かせない」とされているのに、そこに表面上は「本を読む」でも、それが勉強になっているか、何の役にも立たないのか、という一見それは「自明なこと」のように思えるが、世の中そんなに単純ではないと思うのだが・・・・・

 なんか、このセミナー、こういう意味不明の「絶対基準」というか「原則」というのを振りかざすんだよね。そっちのほうが頭固いじゃんと思うのだが・・・・・

 まあ、でも、忍耐強い私は「重要なのは選択である」という教えを広義に解釈して、「くだらない本」を「重要」か「重要でない」のか選択することができるということにしておこう。
 それに、このセミナーが理想とする人物像は、「社会的な成功者」であり、仕事も家庭も健康も大事にする、「アメリカ大統領」のようなものらしいので、私がいちいち、違和感を憶えるのもそう考えると納得する。「そんなの、ぜったい目指したくない」のである。

 そんでもって、出席している100名のうち、いったいどのくらいの割合で「アメリカ大統領のような人物になることを目指す」人がいるのだろうか?
 あんまりいないような気がするんだけど。

 まあ、どっちにしろ、ここで挙げられた「優先順位」にしたって、どう考えたって「OLには選択できない」ものである。「会社にかかってくる重要ではない電話」を受けるのがOLの「重要な」仕事であるし、「急な来客」や「多くの会議や報告書」も避けて通ることができない。「雑事」を「重要ではない」と位置付けても、「雑事」はなくならない。誰かがやらなければならないのである。もちろん雑事ばかり優先させていたら、成り上がれないだろうから、「大統領」になりたい人は、がんばって重要なことを優先させてやってくださいね。がんばれー

 というわけで、明日もこんな感じで、重要でもないし、緊急でもない「単なる暇つぶしにも、遊びにもならないし、だったら無意味なテレビを観ていたほうが、ストレス感じないだけマシ」というセミナーに貴重な時間を浪費しなくてはならないのだ。私が処理しなければならない、「重要な雑事」が会社で溜まっていることを考えるとうんざりしてしまうが、これも試練だと思ってあと1日がんばります。

 ま、ほんとにこのセミナーの内容に感銘したら「こんなところにいると時間の無駄だ」ときっちり判断できて、明日は欠席するのが正しいと思うが、「そうもできない(目標・計画してもなかなか実行できない)のが人生」だと講師も言っていた。それはその通りなので、そういうことにしておこう(笑)



7月15日(月)

 早起きしてお台場まで行く。初めて自由の女神をナマで拝見した。お台場などちゃんと観光したことがないのだ。しかも、真昼間行くの初めて。これは「(広義に解釈すれば)三代続いた江戸っ子」としては正しいと思っていたのだが、さすが「平成版・東京物語」では銀ブラの代わりに選ばれた土地だけあって、昼間でも「未来都市」な風情に満ち満ちている。ゆりかもめ車内から一望できる新橋方面のビル群が皆同じ方向を向いていて、灰褐色に鈍く輝くその様子は「郊外の丘陵地帯に開かれた大規模墓地」のように神々しい。なむー(うちは浄土真宗)

 前に受けた研修は、わりと実習とか演習主体だったので、今度も同じ会社が主催しているので、「あれと同じように退屈しないといいな」と期待していたのだが、20名というこじんまりした規模だった前の研修に比べると、ホテルのバンケットルームで開催された今回のやつは、6人がけの丸テーブルが14も並ぶという、「100人規模」であった。

 小柄だが精悍なかんじのインストラクターは、いかにも「ベンチャー企業の成功者」という風情で、あまり好きくないタイプだったが、この人がこのセミナーの元となった本を翻訳したらしい。「7つの○慣」っていうやつ。(これから悪口言うつもりなので伏字にしとく)100万部売れて、いまでも平積みされていると自慢していたが、わたしゃそんなもん見たことも聴いたこともないし、このセミナーも「評判いいらしくて、すぐに満席になるらしい」と上司に言われて「ふうーん」と思って、できるだけ先入観を仕入れずに挑んだのである。

 しっかし、なんじゃこりゃ?私は午前中の段階ですでに猛烈に不機嫌になって帰りたくなってしまった。セミナーは3日間あり、今日は本題というよりも、総論というか概要の説明であったのだが、「う、これをあと2日もやったら死ぬ」と思ってしまった。これが、自発的に自費で参加しているものなら、絶対にブッチするのだが、仕事のうち(総務として、社員研修の整備)なので、仕方ないのか・・・・

 どうにも馴染まないのは、これがかなり「アメリカのキリスト教文化」を前提としているようなところと、あと、英語の用語をそのまま訳語化している部分がなんかしっくり来ない。こういう舶来のビジネス書が好きな人にはお馴染みの用語なのかもしれないけど、多くの人は(私も含めて)パラダイムとかQCとかアライメントとかエンパートメントなどと言われてもピンと来ないし、私個人はそんなもん憶えてもなんの役にも立たないし、せいぜいが、そういう用語好きな人と話を合わせられるくらいの効果しかなく、そもそも、そんな用語を当たり前の用に乱用するやつとまともに話しをしたいとも思えないし、そもそも、そういう奴には「えーなんか難しいこといっぱいしってるんですねー。すっごーい」と言うのが効果的なんだろうが、なかなかそうもできない自分をなんとか矯正したいと思っているくらいなので、下手に知恵つけたくないのである。

 しかも、そういう抽象的な概念を補助するために、いろいろ「寓話」が持ち出されるのだが、それがいちいちヘボい!

 まず、「パラダイム」を説明するのに出してきたのが「騙し絵」というか、黒い部分を見るのと白い部分を見るのとでは違う絵になっているという奴で、「人がいかに固定観念にとらわれるか」をそれで説明するのだが・・・・・ダッサー。やりたいことはわかるが、そんくらいで大人を納得させられると思ってんのか?

 そんで、次に「誰でも知っている有名な人物のプロフィール」が読み上げられて、「これは誰のことでしょう?」で「まともな教育を受けられなくて、美術を志望するが挫折し、青年の健康管理に専心し、書いた本は聖書に次ぐベストセラー」で、私は最初誰のことかわからなかったが、「美術志望」でなんとなく「ヒトラーかな?」と思ったし、テーブルで話し合ったら、「我が闘争」の話になったので、「え?あれってそんなに売れたの?そもそもほんとに本人が書いたの?」と思ったが、「青年の健康管理」云々も「ヒトラーユーゲント」だと言わればそれもそうだが、しかし、そこでヒトラーだと思うのも固定観念(パラダイム?)のなせる技であり、ここはやはり「聖書に次ぐベストセラーというのが罠で、聖書が年間100部くらいしか売れないような国の人物なのでは?」と考えたのだが、やっぱ答えはヒトラーだった・・・・・
 「皆さんが、考える独裁者としてのヒトラーもありますが、ここで書かれていることも本当なんです」って、言われてもさ・・・・・芸術家挫折なんて、超有名逸話じゃん。だから「ナチの秘宝」なんつーのが「ルパン三世」あたりでも暗躍したりするわけで・・・・

 あと、どうにもこうにも気色悪かったのが、ある親子のエピソード。
 「ある人の息子は野球狂いで、父は手を焼いていたのだが、あるとき父は息子を連れて6週間もかけて大リーグ観戦ツアーに行った。その間もちろん会社を休んだので、同僚に『そんなに野球が好きなのか?』と聞かれたら、『野球には興味ないさ。でも息子を愛してるんだ』と言った」
 これって、何を説明するときの話だったっけ?忘れた。

 でも、どう考えても、たとえばうちの父が「娘がテクノが好きだから、オレも行ってやろう」などと言い出したら、泣いて許しを乞うと思う。「すいません、もう夜遊びは止めますから、お父さんは来ないでください」

 ああ、思い出した。この「野球ツアー」の話の教訓は「好きな人の好きなことを好きになろう」とかいうことだった。・・・ような気がするが、「あなたのことが好きだから、あたなの興味あることは私も興味を持つ」って発想はキモい。キモいったらキモい。・・・・・と、キモさのあまり、これが何の話と繋がっていたのかさっぱり忘れた。鳥肌がたってしまったので思考停止してしまったようだ。

 あと、「金の卵を産むガチョウ」の話もあった。
 これは、イソップの話なので有名だが、金の卵を産むガチョウがいて、欲をかいた飼い主が「金の元」が欲しくなりガチョウを殺してしまって全てパー、という、子供でもわかる「ばっかみたい」な逸話であるが、これをご大層に「目標達成と目標達成能力」ということのメタファーとして、「目標達成能力を大事にしよう」とするわけだが、それを語るエピソードとしては随分と幼稚だなと思った。だって、そんなことわかりきってるじゃん?金の卵を産みつづけるガチョウを殺すバカがどこにいる?ディズニーはミッキー・マウスを殺したりしないよ?どうしたら長生きするか(著作権を維持できるか)に腐心してるじゃん。
 私だって金のガチョウを持っていれば、その体内から金塊を取り出すことよりも、「有精卵を産ませて、金の卵を産むガチョウを増やそう」とするだろう。そんで、私が経営者で、ヒット商品を産む社員がいたら、自分の娘の婿にする計画をたてるぞ?

 まあでも、金のガチョウはいいとしても、それに続いた逸話が凄かった。

 「ある優秀な人は、毎日遅くまで残業し、飲み屋での付き合いも上手くこなして、若くして営業本部長に上り詰めたが、その直後に脳溢血で入院し、やっと退院してきたが、半身付随になり、閑職に追いこまれた」

 ・・・・・、絶句。
 この話で「彼は目標は達成したが、それを維持することができなかった。目標達成能力を大事にしなかったからだ」と言われてもさー。なんか、デリカシーに欠けてないか?

 もー、なんか全般的にこういう感じで、例えば「目をつぶって北を指してください」って言われたら、慣れない場所だし、みんなバラバラの方向を差すわけで、「じゃあ、どうしましょう?多数決で決めます?」と言われて、結局「でも、北というのは決まっているのです。これが原則というものです」っていわれても、あまり目から鱗は落ちない。「あー、そうでっか」というかんじだ。

 で、パラダイムは変換できるが、原則ちゅうものは普遍で不変で自明らしい。あー、そうでっか。いかにも、キリスト教らしい考え方ではあるが、私にはよーわからんのである。
 とにかく、出てくる話がいちいち気に障るので、「こりゃ、きっついわ」とダレていたら、夕方になって、もっと凄いのが登場した。

 「信頼残高」

 これって、私が前から言っていた、「人間関係において、貸し借り感覚はやめよーよ」という考え方の思いっきり正反対。「ちゃんと貸し借りを数値化して、残高の多い人になろう」という思想である。

 そこで演習問題。「自分の人生の中で大切な人間関係を一つ考えてみてください。今、その人との信頼残高はどの位だろうか」

 「大切な人間関係」を「残高」で数値化していることに矛盾を感じないのか?
 だって、その問題の下には、マイナス10からプラス10までの数値線が書いてあって、目盛りのどこかに○でもしろってことなのかなんなのか知らんが、見た瞬間に私は吐き気がしてしまい、いたたまれなくてトイレに立ってサボってました。

 そんで、「こうすれば信頼の預け入れが増えるかも」「こんなことしたら減るかも」という具体例を挙げろと続いているのだが・・・・・唖然。

 こういう発想は「信頼のおける人=善」という前提がなければ出てこないだろう。だが、こういう絶対的な「善」の思想を私は持っていない。なるほど、「核査察」を拒否したらすなわち「悪の枢軸」という発想はこういう思想を土台にしているのかと、今更ながら納得してしまう。「誠実」「信頼」「忠誠」などという、元の英単語がなんとなく想像できる言葉の数々に、胡散臭さを感じてしまう私が悪いのだろうか?

 今日のセミナーでも「約束を守らない」などは、「信頼残高の引き出し」として、当たり前のように挙げられていたが、「約束を守らない人」が信頼できないという発想は私には無い。
 たとえば、私の日記にもよく登場するカミちゃんは、「約束を守らない」ということで逆に信頼されている。彼女の気まぐれは多くの友達に認められ愛されているのだ。ここで試されるのは、「そういうカミちゃんを許す自分」であり、「彼女はそういう人だから、元々それを想定して付き合っていくべし」という発想である。それは「祟るのか、ご利益があるのかイマイチよくわかんない神」を祭るのと同じような思想だと思う。自分に利益のあるものだけを尊重するのはダメで、祟るもの(不利益のあるもの)も愛する懐の深さが求められるのだ。台風が凄い被害をもたらしても、「台風だから、しゃーねーな」と思う気持ちと同じなのかよくわからないが、近いものはあるだろう。

 まあ、とにかく、明日も明後日も行くのかと思うとうんざりするセミナーであるが、まだ導入部なので、これから「目から鱗が10枚くらい落ちる」のかもしれない。同じテーブルになった人の上司がそう言ってこのセミナーを推薦したそうで、その人も今日の時点では「まだ、鱗が1枚くらいしか落ちてない」という言っていたので、「だいたい、鱗が10枚もあるほうが問題なのでは?」と助言してあげたが、あのセミナーで落とすような鱗がある人のほうが問題だろう。

 まだ、主題に入ってないのに、こんなに文句ブーブーなのも問題かもしれないが、今日の最後は、なんか意味不明の分厚いシステム手帳を作らされました。いまどきシステム手帳なんて使うかよ!かっちょ悪いじゃん!

 まあ、システム手帳は個人の趣味的な問題だから、置いておくとしても、「明日までの宿題」というのが、「自分のミッション・ステートメントを書く」というもので・・・・・それが・・・・・それが・・・・・それがまた超キモいんですぅ。

 例文がテキストに載ってるんだけど、「正直、誠実、憐れみ、平等、思いやりを持って他人に接するように・・・・」「赤ん坊の泣き声にも賢者の声にも耳を傾ける・・・・」「勇気と思いやりと分別を持って行動する・・・・・」

 こんなの書くの嫌なんすけど・・・・・

 つうか、この例文読んで、またアメリカ人が嫌いになってきたのだが、こういうの書く人って多くはないんですよね?

 ああ、でも、そーいや、F君と話していたときに「君のポリシーはなんだい?」とか質問されたなあ。「ポリシー?」と思ったが、向こうはそういう質問は普通だと思っていたようだ。「そんなもん、聞くなよ、うぜぇなあ」と思ったのだが、このセミナーのテキストを読んでいると、アメリカ人はこういうふうに教育されているということが透けてみえてきて、やーな気分になってきた。

 ともかく、どうやらこのセミナーは「私の嫌いなアメリカの側面」を余すことなく堪能させてくれるらしいことがよ〜くわかった。
 そして、「正直、誠実、憐れみ、平等、思いやりを持って他人に接するように・・・・」という先には、「成功者の秘訣を分析したらこういうことでした!」というノウハウがあるらしいのだが、「成功者」と「思いやり」を一緒にしてはいかんという「パラダイム」が私にはあるのだが、明日から2日間でそのパラダイムがシフトするのかどうか、自らを人体実験しなくてはならないらしい・・・・・・

 とりあえず、今日一日、「ぼえええ、帰りてー、もう、やだー」と思いながら着席していたので、「登校拒否」のキモチをリアルに体験してしまったのが収穫といえなくもないが、そんなことを学ぶためにいくらかかってるのか知っているので・・・・・・(自分で自分の研修の支払処理しているから)

 たぶん、明日に続く。


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