花の交流館 構想

跡地利用への関心と被爆建物の保存・活用

1997(平成9)年9月20日から66日間にわたって開催された“グリーンフェスタひろしま‘97”が11月24日に閉会し、「跡地はどうなるのだろう」「憩いのある公園として残して欲しい」など、会場がどうなるのかということに市民の関心が移りました。

 “グリーンフェスタひろしま’97”会場

広大跡地の再開発構想は、広島市が広島県や中国財務局に呼びかけて設置した広島大本部跡地の利用研究協議会が1995(平成7)年にまとめた「ひろしま遊創の杜(もり)構想」や、「広島県のがんセンター構想」、「広島県庁移転」などがあります。

保存運動が続く広島大旧理学部は、1996(平成8)年、97年に広島県教育委員会が実施した「近代化遺産」の調査対象の一つになりました。旧理学部の建物は1931(昭和6)に建てられ、老朽化がすすんでいるため、保存対策を急がなければなりません。

広大旧理学部の外観を保存しつつ、耐震性のある構造の建築としてリニューアルして、花緑をテーマに市民や来広者が集い交流することができる施設として活用するため、建築設計や花緑のプランナー、活動家などが集まり、「花の交流館」の構想を企画しました。

 

緑の復興

1997年に実施された調査で、広島市民の59%が「広島は緑豊か」と感じしています。広島の街路樹や公園にある緑の特徴は、樹木の種類が多いことです。平和大通りには100種類を超える高木があるとも言われています。早春には梅やミモザが咲き、そしてタイサンボクが甘い香りを漂わせ、クスノキが古い葉を落とし新緑に替わります。夏にはキョウチクトウが赤や白の花を咲かせます。

1945年に原爆が投下された時、平和大通りも、1945年に政府の命令で空襲に備え幅100メートルの防火帯を設けるため、鶴見橋から小網町にかけて家屋の取り壊し作業が行われていたました。被爆後、「75年は草木も生えない」と言われましたが、広島市民は、がれきの下から伸びる雑草にさえ、喜びを感じたそうです。いち早く芽吹いたクスノキが広島市の木、花をさかせたキョウチクトウが広島市の花に選ばれました。

広島の都市の復興は、まさに「緑の復興」でもありました。廃墟になった都市は、60年の歳月で緑豊かな都市に成長しましたが、その緑化運動の歴史は、大きく3つに区分することができます。第1次の緑化運動は、「供木運動」とも呼ばれ、平和記念公園の完成を1年後に控えた1954(昭和29)年から始まります。全国の市に平和大通りなどに植える樹木の寄贈を要請しました。1956(昭和31)年から全国の都道府県から花や樹木の苗木が贈られ、海外からも樹木の種子や植樹資金などの寄付があり、1957(昭和32)年には広島市が独自に育てた樹木とあわせて20万本に達しました。

第2次の緑化運動は、昭和40年代に始まり、中央公園、安佐動物公園、広島市植物園などの計画や整備が行われました。高度成長による都市化による緑の減少を食い止めるため、1975(昭和50)年に、「緑は、生命を浄化し、平和をはぐくむ。人と緑との調査ある発展は、われわれ市民の切なる願いである。・・・」と「緑化宣言」が行われました。そして、広島市内を流れる川の河岸緑化や比治山の整備も進められました。

市民の手で花緑にあふれる都市の創造

第3次緑化運動では、市民による緑化活動を推進するため、その一環として1997(平成11) “グリーンフェスタひろしま‘97”が開催され、さまざまな園芸植物や緑化技術が紹介されました。当時、全国的なガーデニングブームを背景に、述べ155万人の来場者を集め、成功裏に終りました。しかし、このイベントを一過性のものに終らせず、継続的な緑化活動として定着させることが大切です。花や緑があふれる都市を創造するためには、都市生活者である市民自らが、主体的に生活空間と関わっていかなければなりません。

広島大学や広島空港の移転だけでなく、郊外における大型住宅団地の開発、ビジネスやショッピングを目的にしたまちづくりによって、都市部の空洞化が進んでいます。これによって、自然と共生しながら生活してきた日本人の生活文化が失われた都市は、来広者にとっても魅力的ではありません。

生活感があり、花や緑にあふれ、昆虫や小動物を見かけることができる都市。ウォーキングや散策を楽しめる都市。長期間滞在しても決して退屈することのない都市。さまざまな体験や交流、発表などによる生きがいづくりのできる都市として広島市の魅力を高めることが明日の活力になると思います。

「花の交流館」は、自然と共生する都市環境の中で、生活者が生き生きと暮らし、また、国内外からの来広者を心からおもてなしすることができる国際平和文化都市を創造するため、その担い手となる生活者が生涯を通して花や緑に関わる活動に携わることを支援する機能を持った施設にすることが大切です。

広大の跡地を生涯学習の拠点に

広島大学は、戦後日本の高度成長を支えた多くの人材を輩出してきました。現在でも多くの卒業生が活躍しています。広島大学があったこの地を、花緑に関する情報交流の場として、参加・体験・発表型のプログラムをつくり、市民だけでなく来広者も気軽に参加できるようにします。

戦後、新生広島大学の初代学長となった森戸辰男は、広島大学に木を植えるため、1951(昭和26)年から世界各国の大学へ呼びかけました。現在でも世界各国から寄贈された樹木が残されています。その中には、“エビータ”の愛称で世界中の人々に感動を与えたアルゼンチン大統領夫人エバ・ペロンから送られたデイゴの木もあります。

花や緑で生活空間をより豊かに演出する方法や、花緑の育て方、花緑に関わる音楽や小説、文学などについても多角的に学ぶことができるプログラムを実施します。また、植物や昆虫などとの関わりを通して、「いのちの大切さ」や「平和」についても学ぶプログラムも組み込むことが大切です。

さまざまな分野の専門家がボランティアとして集まり、市民と企業、行政がパートナーシップを組む、イギリスのグランドワークを参考にNPOを創設し、花緑の活動をする人々を「フラワーリーグ」などの名称を付け、ネットワークしていくことが望まれます。

花のランドマーク

広島市は中国山地から瀬戸内海に向けて南北に流れる大田川によって形成されたデルタにあります。約400年前、中国地方を統治する城として一番広い中州(広島)に築城された広島城は、約350年に渡って広島のランドマークとして存在していました。

広島大跡地は、広島城から宇品に向けて南北に走る都市軸と、近畿圏と九州を結ぶ国道2号線との交差点に位置していて、21世紀の広島の都市づくりについて、内外にビジョンを発信する上で、最もふさわしい場所であると考えます。花や緑があふれる都市づくりの思いが、枝や根を伸ばし、種子を放出して、広島市全体へ広がり、国内外の都市と結ばれることでしょう。国内外の人々の協力によって植えられた木々が、毎年多くの種子を落とします。それらの種子を利用した環境教育などの取り組みを大切だと思います。