相生橋から見る原爆ドーム

原爆の投下は、日本に大きな心理的衝撃を与えると共に、ソ連に対しても心理的衝撃を与えることが重視されました。そして、投下する都市の選定においては、重要な軍需工場がある都市で、原爆の効果を確認しやすいだけでなく、「民間人居住地域に集中すべきではいが、できる限り多くの住民に深刻な心理的印象を与えるようにすること」と、民間人をもターゲットにしていたと考えられます。そのため、「日本人に対して事前警告を与えないこと」も必要条件とされました。

原爆投下の条件にあった17都市について検討され、京都と広島が最も適合しているとされました。京都は単に通常爆撃による破壊をまぬがれていたため、原爆の効果を確認しやすいだけでなく、心理的ショックを与える効果が高いとされていました。しかし、戦前に3回京都を訪れたことがあるスチムソン陸軍長官が強力に反対し、戦後世界への展望から、最終的に京都は除外されることになりました。

一方、広島には第二総軍司令部を中心に各種の司令部があり、軍需産業と共に軍需物資の集積地でした。また、2万5千人と見積もられた守備兵の存在があり、まさに「軍事都市」と考えられていました。さらに、戦争捕虜の報告で、広島には中連合国戦争捕虜の収容所が無いことも確認され、第一目標に確定しました。

(私の尾道出身で、姉が広島で働いていたため、原爆の犠牲になりました。姉を探しにいった兄も被爆しました。因島出身の父は、守備兵として広島に駐屯していましたが、結核にかかり因島へ帰ったため、生き残ることができました。)

太田川が元安川と分かれるところにかかる相生橋は、T字型をしているため、原爆投下のターゲット(目標)にされたといわれています。その近くにあった広島県産業奨励館は、南東約150メートルの上空で原爆が炸裂したため、全焼しましたが、ドーム状の屋根が上からの風に強く、また横風を受けずたため倒壊を免れたと言われています。

 平和公園から見た原爆ドーム

 相生橋から見た原爆ドーム

参考:『原爆投下への道』荒井慎一著 東京大学出版会1985年