港・目黒エリア(江戸城南西)

今井谷六本木赤坂(港区)

 今井谷六本木赤坂絵図

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286666?tocOpened=1

赤坂門(赤坂見附)

 赤坂見附は、現在の東京都千代田区紀尾井町・平河町に存在した、「江戸城三十六見附」のひとつです。現在の赤坂見附の跡地や東京メトロ赤坂見附駅付近一帯を指す地名です。なお、見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)など36の見附がありました。赤坂見附の遺構は、紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣です。赤坂見附は、江戸城から大山へ通じる大山道(現:国道246号)の起点となる門で、1636(寛永13)年に黒田忠之が桝形石垣を築き、1639(寛永16)年に櫓や門が築かれました。

  「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」 広重 国立国会図書館 所蔵

  

赤坂御用地

 東京都港区赤坂にある赤坂御用地は江戸時代、紀州徳川家の上屋敷があったところで、明治維新後、政府に接収されて帝室(現在の皇室)に献上されました。第二次世界大戦の敗戦と日本国憲法の公布とともに日本国有に移され、皇室用財産として皇室の用に供せられています。現在、東宮御所(皇太子の居所)、秋篠宮邸、三笠宮邸、三笠宮東邸、高円宮(たかまどにみや)邸、赤坂東邸があり、園遊会が開催されることで知られる赤坂御苑もあります。

東北側に隣接して赤坂迎賓館は、東宮御所として1909(明治42)年に元紀州藩の屋敷跡に建設されました。その後、嘉仁(よしひと)親王が大正天皇に即位した後、離宮として扱われ、赤坂離宮に改められました。第二次世界大戦後、皇室から国に移管され、旧赤坂離宮として様々な用途に使用されました。この旧赤坂離宮を改修して1974(昭和49)年に現在の迎賓館が完成し、訪日した外国賓客の接遇に用いられています。2009(平成21)年には国宝に指定されました。

紀国坂

 東京都港区元赤坂にある紀伊国坂は、赤坂見附から四谷に向かう外濠通りで、赤坂御用地(旧赤坂離宮)の東側から喰違見附がある紀之国坂交差点まで上る坂です。(喰違は土塁を前後にずらしてクランク状にし、門が横向きになることで、直角にまがらないと城内に入れない虎口(城門)の形態です。)この坂はアカネが群生していた茜山に登る坂であったために「茜坂」と呼ばれ、赤坂の地名の由来であると言われています。

 「名所江戸百景 紀の国坂赤坂溜池遠景」 国立国会図書館所蔵

 

赤坂 Akasaka

東京都港区の赤坂は、江戸時代に赤坂見附周辺から溜池に沿った低地に町屋、高台に大名屋敷や幕臣の宅地、寺町が形成された地域です。赤坂は永田町や霞が関の官庁街に近く、昭和30年代初頭から昭和55年頃まで、銀座と並ぶ高級な繁華街として栄華を極めました。高級料亭やキャバレー、ナイトクラブ、ゴーゴークラブなどが多く集まっていました。また、欧米諸国の大使館や企業の駐在員の住宅、航空会社の職員が宿泊する高級ホテルがあり、外国人も多く利用しました。

溜池

 和歌山藩主に取り立てられた浅野幸長(よしなが)が、家来の矢島長雲に命じて1606(慶長11)年に虎の門に洗堰を築き、池の水を増やして外濠の役目を果たせるようにしたのが赤坂溜池です。溜池の西側の土手には、補強のために早く育つ桐が植えられました。形から「ひょうたん池」とも呼ばれ、1654(承応3)年に玉川上水が完成し、その水が虎ノ門まで送られるようになるまで上水として使われました。二代将軍秀忠が琵琶湖の鮒や淀川の鯉を取り寄せて話したので、鮒や鯉の名所になったと言われています。

 「名所江戸百景 赤坂桐畑」 広重 国立国会図書館 所蔵

榎坂

 矢島長雲が事業の成功を子孫に伝えるために堰堤に榎を植えたのが、アメリカ大使館の北側にある榎坂の名前の由来と言われています。ただし、江戸時代より前の古街道の一里塚を示した大きな榎があったとも伝えられています。

氷川神社

 東京都港区にある氷川神社は、同区内白金にある白金氷川神社・元麻布にある麻布氷川神社と区別するため赤坂氷川神社とも称されます。1730(享保15)年、8代将軍徳川吉宗の命により、現在の赤坂4丁目から現在地(赤坂6丁目)に遷されました。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されています。元三次藩浅野家の下屋敷で、浅野内匠頭の切腹後、夫人の瑤泉院(ようぜんいん)が藩主の娘であることからここに身を寄せていました。ちなみに、氷川きよしの芸名の「氷川」は氷川神社に由来しています。

 

勝海舟邸跡

 1872(明治5)年から77歳で没する1899(明治32)年まで氷川神社近くの東京都港区六丁目氷川武道場のところに住み、「氷川翁」や「氷川の大法螺吹き」などと呼ばれました。現在、サン・サン赤坂(港区立特別養護老人ホーム)の敷地に「勝安芳邸跡」の石碑と説明板が建っています。さらに、2016(平成28)年に坂本龍馬との師弟像が建立されました。

同じ赤坂六丁目には木でできた勝海舟邸跡の小さな碑と解説板が設置されています。1859(安政6)年から1868(明治元)年まで暮らしました。勝海舟が執筆した『氷川清話』では、1862(文久2)年に刺殺も辞さない覚悟で坂本龍馬が訪れ、海舟の考えに感銘を受けて師弟関係が誕生した場所です。また、現在の赤坂三丁目にあった旗本の森川・長島屋敷は、極貧だった勝林太郎が深川の人気芸者だった民子との新婚時代を過ごした場所です。

豊川稲荷東京別院

 東京都港区にある豊川稲荷東京別院は、大岡越前守忠相(ただすけ)が愛知県豊川市にある曹洞宗(そうとうしゅう)の豊川稲荷妙厳寺から「吒枳尼真天(だきにしんてん/ダキニ天)」を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったことに由来します。ダキニ天は寺院を守護する仏教系の護法神で、日本の稲荷神と同一視する信仰が生まれました。

江戸では稲荷信仰が盛んであったため、一ツ木の大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたと言われます。その後、1828(文政11)年に信徒の要望により、妙厳寺が大岡邸の敷地の内の4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立しました。これが、東京別院の創建とされています。

尾張屋版[江戸切絵図](18491870)には、赤坂表傳馬二丁目(牛啼坂の手前)に大岡紀伊守の中屋敷があります。1873(明治6)年、隣(赤坂一ツ木町)に旧赤坂小学校の前身である第三中学区第三番小学校茜陵学校(せんりょうがっこう)が設立され、現在、国際医療福祉大学赤坂キャンパスになっています。

豊川稲荷東京別院は、大岡越前守の江戸南町奉行としての活躍や、旗本から大名へ取り立てられたことなどで、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となりました。1887(明治20)年、大岡邸の一角では手狭になり、現在地(元赤坂一丁目)に移転しました。

明治以降、赤坂で花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えました。現在も赤坂にあるジャニーズ事務所の所属タレントをはじめ、芸能人、スポーツ関係者からの信仰を集めています。

  

 豊川稲荷東京別院の境内に赤い鳥居がありますが、豊川市の豊川稲荷は鳥居がある寺として有名です。古代寺院の中でも特に山岳信仰の霊場では寺の三門に鳥居が建てられていたそうです。ちなみに、大阪府大阪市にある四天王寺の西門も鳥居です。

高橋是清翁記念公園

 東京都港区にある高橋是清翁記念公園は、第20代日本国総理大臣・高橋是清の邸宅跡で、1941(昭和16)年に開園しました。日本庭園の趣きがる公園で、カエデ、モッコク、ウラジロガシなどの広葉樹が四季を彩ります。

高橋是清は、11歳の時に横浜のヘボン塾で英語を学び、14歳で米国へ留学しました。奴隷として売られるというトラブルに会いますが、苦労の末、1868(明治元)年に帰国しました。官吏、日銀総裁を経て政界へ入り、卓抜な英語力と苦境に強い精神力を持ち、「ダルマ」の愛称で親しまれました。1936(昭和11)年226日の2.26事件では、大蔵大臣として陸軍省所管予算の削減を図っていたために恨みを買い、襲撃の対象となって暗殺されました。

なお、1902(明治35)年に建てられた邸宅は、戦前に多磨霊園に移されていたために戦災を免れ、小金井公園内の「江戸東京たてもの園」に移築され、高橋蔵相が襲撃された部屋も公開されています。

 

東京ミッドタウン

 東京ミッドタウンは、東京都港区赤坂にある大型複合施設で、防衛庁の跡地再開発事業として2007(平成19)年に開業しました。江戸時代は萩藩毛利家の屋敷がありました。ミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248.1mで、東京都内で最高層のビルです。サントリー美術館や三宅一生デザイン文化財団が運営する「21_21 DESIGN SIGHT」、東京ミッドタウン公園などがあります。

   

東都麻布(港区)

 東都麻布之絵図

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286665?tocOpened=1

麻布十番

東京都港区にある麻布十番は、町域の大部分は低地で、江戸時代から低湿地帯でした。河川改修によって整備され、明治時代には神楽坂と並ぶ繁華街に発展しました。現在、高級住宅地が多い麻布にあって下町の風情をたたえています。町域には大規模なオフィスビルや商業施設が少なく、雑居ビルや商店に庶民的な住宅地が混在する地域です。「十番組屋敷」、「十番橋」など、江戸時代の町名を復活させて「十番」を町名につけました。

有栖川記念公園

東京都港区にある有栖川宮記念公園はかつての有栖川宮の御用地に造られた公園です。丘陵から渓谷を下って池畔に至る地形やその周辺に茂る樹木は、日本古来の林泉式の修景による庭園です。子供連れでのんびり出かけられる閑静な公園で、自然も豊かで四季の草花、野鳥も見ることができます。

六本木 Roppongi

 東京都港区にある六本木は、「6本の松があった」、また、「青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木(くつき)氏、高木氏の各大名屋敷があった」ことに由来する説があります。2003(平成15)年に六本木ヒルズ、2007(平成19)年に東京ミッドタウンがオープンしました。ガラスの外壁が特徴的な泉ガーデンタワーは、2002(平成14)年に竣工しました。テレビ東京が入っている六本木グランドタワーは、2016(平成28)年にオープンしました。

位于京都港区的六本木有有六棵松青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木的各大名宅邸的由来。2003(平成15)六本木新城,2007(平成19)年京中城开了。玻璃外壁特征性的泉花园塔在2002(平成14)年竣工电视台的六本木大夏在2016(平成28)年开业的

六本木ヒルズ

 六本木ヒルズは、東京都港区にある六本木6丁目地区において、森ビルが事業主となって手がけた都市再開発で2003(平成15)年に開業した複合商業施設です。高さ238mの高層オフィスビルを中心に、集合住宅やホテル、テレビ朝日本社社屋の他、シネマコンプレックスをはじめとする文化施設や商業施設等で構成されています。

六本木ヒルズ内の日本庭園は毛利庭園と名付けられて一般に開放されています。長州藩毛利氏の分家・長府藩主だった毛利綱元の麻布上屋敷の跡地で、「毛利甲斐守邸跡」として旧跡に指定されています。赤穂事件後、赤穂浪士の10人が切腹した地としても有名です。

六本木ヒルズ森タワーの正面の広場には高さ10mの巨大なクモのオブジェ「巨大クモ・ママン(Maman spider sculptures)」が設置されています。フランス・パリ出身の彫刻家ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)の作品です。

  

白金(目黒区/渋谷区/港区/品川区)

 目黒白金辺図

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286664?tocOpened=1

東京都庭園美術館

 東京都庭園美術館は、東京都港区にある都立美術館です。2018(平成30)年にリニューアルオープンしました。昭和天皇の皇后である香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅です。鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1933(昭和8)年に完成しました。当時流行のアール・デコ様式の粋を尽くした瀟洒な内装の建物です。2015(平成27)年に国の重要文化財に指定されました。

 

芝口南西久保 愛宕下(港区)

 芝愛宕下絵図

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286662?tocOpened=1

愛宕山・愛宕神社

 東京都港区の愛宕神社は標高25.7mの愛宕山の山頂にあり、境内に三角点があります。自然地形では東京23区で最も高い山です。なお、人造の山としては新宿区に44.6メートルの箱根山があります。1603(慶長8)年、徳川家康の命により防火の神様として祀られました。奇祭「強飯式(ごうはんしき)」は、江戸で有名な行事でした。1610(慶長15)年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。愛宕神社の正面にある85段の石段は、三代将軍徳川家光が愛宕山の梅を見て、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命じ、間垣平九郎が見事に梅を取って来て献上し、出世した故事が伝えられています。

 The stone steps are known as Shusse-no-ishidan (stone staircase of success) after a legend that a samurai maneged to climb there on horseback to deliver plum blossoms to Tokugawa Iemitsu.

その後、江戸の大火や1923(大正12)年の関東大震災、1945(昭和20)年524日の東京大空襲など、焼失を繰り返しましたが、1958(昭和33)年に御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。

江戸の町が北から南まで見渡せました。幕末にフェリックス・ベアトが撮影したパノラマ写真が有名です。築地本願寺やお台場も確認することができます。

 「名所江戸百景 芝愛宕山」 広重 国立国会図書館 所蔵

  

東京タワー

 東京都港区芝公園にある東京タワーは、1958(昭和33)年に竣工した電波塔です。江戸時代に増上寺の境内で「紅葉山」と呼ばれていた場所に建設されました。高さは333mで、フランスのパリにあるエッフェル塔を越える高さで設計されました。海抜約150mのメインデッキと、海抜約250mにトップデッキの2つの展望台があります。電波塔としての役割は東京スカイツリーに引き継がれましたが、東京の観光名所としてシンボル的な存在です。

 

芝大神宮

東京都港区にある芝大神宮は、1000年の歴史を誇ります。江戸切絵図では飯倉神明宮と書かれています。江戸時代、相撲や芝居、見世物などの興行が盛んに行われていました。

1805(文化2)年に町火消「め組」の鳶頭と相撲取りとのトラブルをきっかけに起こった大乱闘は、歌舞伎の演目「神明恵和合取組(カミノメグミワゴウノトリクミ)~恵みの喧嘩」としても有名です。裁きの結果、打ち鳴らされた半鐘も三宅島へ遠島になり、明治時代になってから芝大神宮に戻って来ました。境内には祭礼の力比べに使用された力石も残されています。

 「江戸百景余興 芝神明増上寺」 国立国会図書館 所蔵

増上寺

1590(天正18)年、徳川家康が江戸城入りの際、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました。そして、江戸城の壕や市街の整備で、1598(慶長3)年に現在の芝の地に移転し、山門や本堂、経蔵、方丈をはじめとする伽藍造営が進められました。増上寺は徳川将軍家の菩提寺であると共に浄土宗の僧侶養成機関でもありました。

戦前、増上寺には伽藍や徳川家霊廟といった第一級の文化的・宗教的施設があり、本堂の左右に立ち並ぶ豪華な霊廟は、国宝に指定されていました。しかし、1945(昭和20)年のアメリカ軍による空爆で焼失しました。

 1590(天正18)年,德川家康入江城之,作德川家的菩提寺而被选为增上寺。然后,因城的壕和街市的整1598庆长3)年迁移到在的东京都港区芝,行了山、本堂、藏、方丈等的伽增上寺是德川将家的菩提寺,同也是土宗的僧机构。

 战前,增上寺有伽、德川家灵等第一文化和宗教施,在本堂左右排列的豪被指定国宝。但是,因1945(昭和20)年的美国军队的空烧毁

 In 1590 (Tensho 18), when Tokugawa Ieyasu entered Edo Castle, Zojo-ji, temple was chosen as a family temple of the Tokugawa family. And, with the maintenance of the moat and the city of Edo castle, Zoji-ji moved to the present Shiba, Minato-ku, Tokyo in 1598 (Keicho 3) , and the construction of the cathedral including the temple’s gate, the main hall, the storehouse for sutra, the house of  the chief priest was advanced. Zojo-ji was a family temple of the Tokugawa shogunate as well as a priest training institution of the Jodo sect.

 Before the World War II, Zojo-ji had first-class cultural and religious facilities such as the Buddhist temple and the Tokugawa shrine mausoleum, and the luxurious mausoleum lining the main hall was designated as a national treasure. However, it was destroyed by the US military bombing of 1945 (Showa 20).

 「東都名所 増上寺」 国立国会図書館 所蔵

  

芝公園

 1873(明治6)年1月、公園制定の太政官布告が発せられ(国の最高機関が東京に公園を作ることを広く国民に告知し)、東京の浅草寺や寛永寺、富岡八幡社、飛鳥山と共に増上寺も候補地に選ばれました。そして、浅草公園、上野公園、深川公園、飛鳥山公園と一緒に増上寺に芝公園ができました。芝公園にある東照宮のイチョウの木は、江戸幕府三代将軍徳川家光が東照宮を建替えた1641(寛永18)年に植えたと伝えられるので、推定樹齢は約380年です。第二次大戦の空襲で神社の本殿などは焼失しましたが、このイチョウは生き残りました。

 1873(明治6)年1月,立了公园制定的太政官布告,与浅草寺、永寺、富八幡社、还有飞鸟山和增上寺也被选为地。然后,与浅草公园、上野公园、深川公园、还有飞鸟山公园和在增上寺建立的芝公园。因为芝公园的树是164118)年由江幕府三代将德川家光改建东照宫的时候种植的,所以推测树龄是380年左右。在第二次世界大战的空袭中,神社的正殿等被烧毁了,但是银杏活下来了。

 In January 1873 (Meiji 6), by a cabinet ministerial decree, Zojo-ji was selected as a candidate place along with Senso-ji, Kanei-ji, Tomioka-Hachimansha, and Asuka-yama. And, Shiba-koen, park was established in Zojo-ji.

 

東照宮

 芝公園にある東照宮のイチョウの木は、1641(寛永18)年に江戸幕府三代将軍・徳川家光によって造り替えが行われた際に植えられたものと伝わります。推定樹齢は380年近くになります。第二次大戦のアメリカ軍による空襲で神社の本殿などは焼失しましたが、イチョウは生き残りました。

 芝公园的164118)年由江幕府三代将·德川家光行更换时种的。估计树龄将近380年。在第二次世界大的空中,神社的正殿等烧毁了,但是杏活下来了

 The ginkgo tree of Tosho-gu in Shiba-koen is said to have been planted in 1641 (Kan-ei 18) when the rebuilding was done by the 3rd general Shogun of Edo Shogunate / Tokugawa Iemitsu. Estimated age is nearly 380 years. The main hall of the shrine was destroyed by the aerial bombing of World War II, but the ginkgo survived.

旧芝離宮庭園

 

芝三田二本榎 高輪辺(港区)

 芝高輪辺絵図

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286663?tocOpened=1

高輪大木戸

 東京都港区に高輪大木戸跡があります。1616(元和2)年に東海道から江戸府内の入口として札の辻に門が設けられましたが、1710(宝永7)年、700メートル南の高輪に移転しえ高札場として大木戸が設けられました。東海道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たしました。

  「東海道名所之内 高輪大木戸」 国立国会図書館 所蔵

 

 新橋から金杉までは陸上、そして、芝からは海上に鉄道が敷設されました。当時、西郷隆盛は「鉄道よりも軍備の増強を急ぐべきだ」と主張し、田町に薩摩藩の蔵屋敷があったため、陸上を通すのは困難でした。

泉岳寺

 東京都港区にある泉岳寺は曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院です。赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れています。1703130日(元禄151214日)に赤穂浪士は両国の吉良邸に討入り、本懐を遂げて、吉良上野介の首級を元赤穂藩主浅野内匠頭の墓前に捧げました。毎年4月初旬と討ち入りの日の1214日には義士祭が催されています。また、境内には赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」があります。

  

慶応義塾大学

慶應義塾大学は、東京都港区三田に本部を置く世界的に有名な日本の私立大学で、1920(大正9)年に設置されました。1858(安政5)年に福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲の中津藩江戸藩邸「蘭学所(蘭学塾)」の講師として江戸出府したのが起源とされています。エンブレムは、「ペンマーク」と呼ばれ、1885(明治18)年ごろ、塾生が教科書にあった一節「ペンには剣に勝る力あり」にヒントを得て帽章を自分たちで考案したのが始まりです。大学内にあるマンホールにまでこのシンボルマークが使われています。

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