足立エリア(隅田川北岸)

 国立国会図書館 所蔵

千住宿

千住大橋の真ん中で荒川区から足立区になります。千住大橋までの小塚原町と中村町は後から千住宿に加宿され、小千住(南組)と呼ばれていました。そして、千住大橋の北側が大千住(北組)で、南から千住橋戸町と千住河原町を含む掃部宿(かもんじゅく、)と本宿が並んでいました。

江戸時代はこの川が「荒川」でした。明治末期から昭和初期にかけて荒川放水路ができ、その後、荒川放水路を「荒川」と呼ぶようになったため、下流の名称である「隅田川」に変わりました。これが、荒川区が「荒川」に面していない理由です。

1594年(文禄3年)に千住大橋が架けられました。仙台藩主伊達政宗が杭材を奉献したそうです。そして、1625年(寛永2年)日光東照宮の造営に伴って交通の要衝として千住宿が誕生しました。

 名所江戸百景 千住の大はし 国立国会図書館 所蔵

千住は陸路だけでなく、荒川の沿岸は「千住の河岸」と呼ばれ、旅客と共に川越と江戸を結ぶ物流の中継地として賑わいました。また、江戸の市街地へ送る食料の生産地でもあり、幕末から明治にかけてとても繁栄しました。

千住大橋までの小塚原町と中村町は後から千住宿に加宿され、小千住(南組)と呼ばれていました。そして、千住大橋の北側が大千住(北組)で、南から千住橋戸町と千住河原町を含む掃部宿(かもんじゅく、)と本宿が並んでいました。

186853日(慶応4411日)、慶喜は大目付や目付の他、諸隊を含め約1,600人の随行者と共に寛永寺を出発して幼少期を過ごした水戸へ向かいました。千住で江戸に別れを告げた出来事は、演劇などにも取り上げられました。幕臣の山岡鉄舟も千住大橋まで慶喜を送りました。慶喜は葛飾新宿、金町を経て松戸宿、藤代宿、土浦宿、片倉宿に宿泊して水戸へ到着し、弘道館に入りました。千住大橋を渡ってすぐ左に入ると橋戸稲荷神社があります。幕末から明治にかけて活躍した伊豆長八が描いた鏝絵(こてえ/漆喰のレリーフ)が残されているそうです。

千住大橋から墨堤通りまでが千住橋戸町と千住河原町です。「荒川」が氾濫すると水に浸かってしまうエリアでした。やっちゃ場は戦国時代の1576年(天正4年)に創設されたと伝わっています。野菜や川魚などを道端に並べたのがはじまりと言われています。さまざまな物資が橋戸河岸で陸揚げされ、千住宿の問屋や商店に運ばれました。1720年(享保年間)神田・駒込と共に江戸の三市場の一つとなり、幕府御用市場となりました。そして、戦前に至るまで”庶民の台所”として活気に満ちていました。

河原町稲荷神社の境内には1906年(明治39年)に建てられた千住青果市場開設330年記念碑があります。なお、立派な狛犬は、浅草神社の狛犬と似ています。

墨堤通りがかつての掃部堤で、ここから熊谷堤までが掃部宿です。千住宿ができた時は、ここが宿場の入り口で一里塚と高札場がありました。また、宿場の事務を取り仕切る問屋場と貫目改所がありました。

源長寺の北側には剣の腕前と美貌で有名な千葉佐那ゆかりの千葉灸治院がありました。千葉佐那は、千葉周作の弟・千葉定吉の娘で、坂本龍馬が定吉に剣術を習ったのをきっかけに知り合い、婚約までしたと言われています。

千住三丁目には本陣跡がありますが、当時をうかがわせるものはありません。参勤交代に加え、日光東照宮へ参拝する諸大名の往来に利用されていました。しかし大名が支払う宿泊代が安く、日光門主は無料だったそうです。

更に日光道中を進むと、千住絵馬屋の真向いに、細格子づくりの横山家住宅があります。幕末の1855(安政2)年の大地震直後に建てられた商家建築です。土間の柱に掲げられた「地紙漉問屋松屋」の大看板は、山岡鉄舟の筆だそうです。鉄舟は、幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家で、剣や書の達人としても知られています。勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会いましたが、有名な絵には描かれていません。玄関の柱には刀傷とみられる跡が3カ所残っています。「上野戦争で敗走する際に彰義隊がつけた」という話をはじめ、様々な説があるようです。

この先、右に曲がる道が水戸佐倉道です。日光道中は左へ折れ曲がっていきます。直進すると下妻街道(流山道)になります。これら二つの街道は荒川放水路(荒川)が造られたために分断されてしまいました。ここに明和年間(1764年から1772年)に開業したと言われる接骨院があり、現在も整形外科医院として営業しています。ここに残る長屋門は、徳川家祥(後の第13代将軍家定)が1848年(嘉永元年)と1852年(嘉永5年)に鷹狩りの際に訪れたそうです。

 

西新井大師

 東京都足立区にある總持寺は、西新井大師(にしあらいだいし)の通称で広く知られています。空海(弘法大師)が826(天長)年に寺院を建立したことに始まるとされています。境内には弘法大師によってもたらされたとされる加持水の井戸が本堂の西側にあることが西新井の名の由来とされています。中野区にある新井薬師と同じ真言宗豊山派の寺院です。古くから「関東の高野山」とも呼ばれています。

  

 

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