三鷹寮十年E完 昭和33〜34年

田中 新一

 こんなことを書いているうちに既に石崎君、中前君の現代史になってしまった。昭和三三年後期から昭和三四年ということになる。三鷹寮同窓会設立世話人会として荒木君、平賀君、佐々木君、三浦君等の大先輩から本郷在学の先輩石崎君、中前君等々数十人のスタッフが数次会合している。この寮が寮生による寮生のための寮として生成していることからして同窓会の誕生は素晴らしいことであると思う。歴代の委員会もそうであつたが石崎君、中前君等の寮生活に少しでもプラスになると思われることは兎角やって行こうという意欲には全く敬服せざるを得ない。ラウンジを作りTVを円地四支松先生にお願いして寄贈して頂いたことも、面会室、図書室等もそれ相当の品物等を設備されたこと、其他食堂、ピンポン室等の改善、又三学期から東寮自習室の全部の椅子を新らしい椅子にチェンジするために椅子一五〇脚を購入する。このための資金は自ら工夫して捻出した全資金を投入してやっていることを私は知っている。

 社会、文化活動にも極めて鋭い目を注いでいる。例えばジャーナリズムの話題になった東女との合ハイの件についても、このスタートに際し石崎君とジックリ語し合った一つの線だけの強調である。二人は次の点で意見の一致をみた。社会は男子のみによって指導されるものでないこと、男子はもっと女子の考へ方を知る必要があり、又男子のこれを知ってもらう必要がある。このためには継続的な接触が必要であり、この方法として共通の広場を発見しあったらということである。

 この純理的な考え方は若干甘いかも知れない。しかしこれが単なる男女間の興味本位のものとして宣伝されたことは残念であった。いづれにしても自らの経験を豊富にし、自らの考え方を豊富にするためには男女を問わず他人の経験、考へ方、思想に触れてのみ可能である。

 同窓会の誕生により同期生及び先輩達のこれに触れることはより前進であると思える。私としては三鷹寮の第一期建設コースは終了したと思えない。食堂にも若干の機械化がなされている。プロパンガス、電気冷蔵庫、綜合調理機、魚焼機等、これに消毒機、デコラの食卓が配列されれば食堂施設としてはマアマアではあるまいか。永年悩んでいた手洗所は愈々なんとかなる。便所、浴室にも若干の手が入るであろうが根本的ではない。便所、浴室、東寮の雨漏、南寮、北寮(仮名)それから適当な自習机が入ればこのコースも終了と言っていいのではないだろうか。

 過日矢内原先生が来寮されて、宗教についての講演をして頂き、帰りに一筆を残して下さった。矢内原先生は三鷹寮を生んで下された方であり、又本を寄贈され植樹をされる等、この三鷹寮をこよなく愛していてくれる先生の一人である。先生が残された“愛”の一字は先生が直感的に筆にされた一字であることをお伝えしておきたい。

 最後に我々自身の周囲を見る機会を与えて頂こう。この渺々たる施設を託され、これを自他共に大学の施設として許し得るものに育成するための手段、大学の三鷹寮に投下するインベストも膨大なものである。しかしこれには断層がある。断層と断層とを結ぶ経常的な努力が必要なわけだ。我々が悩み続けて来たのはこの断層間を結ぶ資金の無である。衆人注目の中に寮舎というよりも施設としての維持に焦慮したわけである。開寮以来約五年間の職員の負った重労働には全く敬服する外はない。現在に於ては自らの存在を主張し得ると自認している。施設というより寮というハンデがある部面では寧ろ幸いしているかも知れない。我々と寮生を分離しては全く存在し得ないからである。私が敢えて寮生による寮生のための寮という所以はここにある。三鷹寮に幸あれ。(筆者は三鷹寮管理主任。昭和34年8月、記)