三鷹寮十年B 昭和28年

田中 新一

 昭和二八年も明寮改築という明るい年である。学生部誕生、早野学生部長、西村厚生課長、大場学生課長が相次いで来寮された。だがこの年の初めに驚いたことが一つ出現した。それは、人工地震である。突然でもあり又相当長時間でもあったので、非常に驚いたわけである。彼等は欣喜躍如している。こちらは大ムクレ、直ちに厳重抗議に及んだ。会談は決裂、遂に彼等は東大地震研究所に問題を持込んだ。それからも大変である。会合、実験そして結論は建物に与える影響は僅少だからやらせてくれとのことである。移転を急速に考慮する。危険建物の補修をする。病人のいる時、試験期はやらない。回数と時間を短縮する。実験の際は必ず予告する。こんなところで今日に及んでいる。

 この年に遂にバス、電話、電気冷蔵庫、湯沸器なるものを手にした。バスの購入と言い、電話の架設と言い、ともに容易な代物ではなかった。市役所前から寮内に並んでいる電柱、電話線は総て大学の負担で実施されたのである。それからバスの購入であるが、都交通局への往復の結果、現物を小滝橋車庫で引渡すというところまで進展した。西那須から上京した簗瀬君を伴い現場へ到着したのであるが、さてどんなバスが我々に振りむけられているのか心配であった。示された指はG・M・C改造車であった。このバスに揺られて安田講堂裏まで行ったのであるが、バスを運転する簗瀬君の緊張した姿は印象的であった。デザインを図学室にお願いしたのであるが出来上りはあまりよい評判が得られなかった。今日となってはこの種のバスは骨董品的存在だが"笑う勿れ"未だ立派に車検を保持している。

 このG・M・Cには本当に泣かされたものだ。修理をしていざスタートすると忽ち故障である。タイヤのスペアーがない。深川の街をうろついて中古品を買って来る。道路に焼跡の灰を撒いたのが悪くパンクの激しかったこと、そしてガソリンを食うこと、職員も毎日の釘拾いに泣いたであろう。これを思うとヂーゼルは地獄に仏である。だがクラーク教授の言は雲の彼方にある。新車購入である。チャーターは既に研究済である。深く静かに潜航しよう。

 この年は林君、光武君、一重君とリレーされていたと思う。食堂経営は全く苦しかった。私も真剣に経営分析を通して運営に助言を繰返していた。佐々木君にバランスシート、インカムステートメント及びその他の分析表を教えたのもこの時であり、又彼が社会へ出てこの種の財務諸表に実際にお目にかかり大変参考になったと言われた時は、一寸と愉快であった。今でも忘れられないのは商店に対する支払金がどうしてもあと五万円不足している。其処で私が三万円、彼が二万円郷里の銀行から都合して来ると帰郷したが、どうにもならなかったことである。

 この年の台風には三鷹寮の被害は甚大であった。図書室の雨漏れは職員の手で喰い止めたが、食堂ホールの雨漏れはどうにもならなくなってしまった。寮祭の晩餐会に雨でも降ったらホールにテントを張ろうか等と考えたものである。幸い雨が降らなかった。スケジュールは寮生の運動会をやった。東女の学生さん約五、六十人が参加して屋外スケアダンスを行った。送迎にはG・M・Cが出動している。車内で合唱する全学連の歌、わが若き簗瀬大人も複雑な表情であった。寮祭終了直後光武君が家事の都合により退学、退寮せねばならなかったことは誠に残念無念であった。

 この年から翌年にかけて朝鮮動乱ブームの終了に伴う激しい不景気がやって来た。寮生の中にもこの渦に巻き込まれて、苦しんでいた数名の者を知っている。苦しみ喘いでいたが、究極にはこれを脱出して立派に大学を卒業している。災害に直面し、激突しながらもこれを打破って行った、勇気と犠牲とに強い賞讃の辞を送る者ものであるが、この勇気と犠牲とが固い友情の襞に包まれていた事実を見落すこことは出来ない。我々はこのことからしても、寮生活を送りながらこの中に人間的な素晴らしい何物かが育ぐまれていることを知り得る。(昭和34年8月、記)