〜三鷹寮十年〜この記録を我が愛する三鷹寮に残す@開寮まで

田中 新一

 昭和三十五年は三鷹寮開寮満十年となる。日数にすると三、六五〇日以上となるのであるからいろいろの出来事があったわけである。この出来事をどんな形で捕えるかにはいろいろな方法があるであろう。例えば歴代の委員長をデッサンしながらでも可能である。でも私はこの方法を採らないで主として三鷹寮の環境の変化を眺めつつ思い出してみたい。  いつであったか私が三鷹、武蔵野市の地図を購ってみると"東京大学三鷹寮"という文字に気がついた。一寸と嬉れしかった。理屈はない、ただ嬉れしかっただけである。先ずこの寮の位置を調べてみよう。寮の西南は調布市である。寮誌雑木林を象徴していた見事な雑木林が寮の柵越しに拡がっていたのであるが忽ちにして研究プルとなってしまった。これから連らなる彼処にはヂエットエンジンの騒音が静寂を破っている。周囲を見てみよう。畑、アパート、三鷹高校、病院、運輸技研、航空技研、船舶技研、消防技研等が隣接して散在している。これらはすべて旧中央航研の敷地約二九万坪の戦後の分賦図である。この敷地は約十万坪を農地に寮が約一万六千坪であるから差引残はこれらの研究所が分割していることになる。

 三鷹寮の誕生には東京高校が焼けてここを一時使用していたことが素因である。当時の峰尾校長、熊谷事務長等がこの地が占領下の真最中にあったために一時使用の認可を得るまでに大変骨を折られたことを聞いている。次いで学制改革である。

 人生は偶然によって支配される場合が多い。私の一高、東大という勤務歴程も偶然であるが三鷹寮の建設を委囑されたのも偶然である。ここで一寸と当時の風物誌をスケッチしてみよう。私の実家は練馬にあるので西武と省線を利用する。電車は動いているのだがその混み方はスサマじい。食べているのはスイトン、サツマ、カボチャである。勇を鼓して連結帯に乗るのであるが、こことても特攻隊員の斗争の場である。渋谷を出ると靴磨きの出迎えをうける。右も左もバラックの屋台だが素晴らしく繁昌していたのは「三千里」という店だ。駅の前面は朝鮮人の店、栄通りは中国人の店が並んでいてここでは砂糖からバナナに至るまで売っていたようだ。道玄坂で家と言い得る建物はこの坂を上った左側の薬屋、パン屋、本屋と印鑑屋の四軒である。

 東大駅での商店街は皆無、一高で校舎として利用し得た建物は本館と五号館だけ、校内いたるところ防空壕あり、焼夷弾の残骸あり、そして空地という空地は畑である。我々の職務も先づ生きるための必需物資の購入であり、課業のための備品諸材料の入手運動である。池袋で喰ったスルメの丸揚げの味、横須賀占領軍のオフィスで旧軍隊の使用した机、実験台、椅子等々の要請運動に、机にアグラをかいて私に物を言う海兵の姿も忘れることは出来ない。

 運動は成功した。トラック十数台分の物品搬出に成功したが、この搬出作業中現地で病に倒れこれを甘く見ていた私の無知が病床に喘ぐ自らを見出し、そしてこれが私を三鷹寮に結びつける結果となったのである。

 三鷹寮が第一回目の寮生を迎えたのは昭和二五年でその数は一六五名であった。寮舎は東寮だけであったが、四月までには少しはイカセル寮舎とするために努力したものである。自習室の間仕切、壁の塗替、便所、電灯配線の改修、揚水ポンプの設置等々の工事が施行された。机、椅子等は古い品物ではあるがこれを借入、配置し玄関には水を打って寮生の御入来を待った感激は私達だけのものであろうか。田辺君がこの時の第一印象記を、「雑木林」第一号に寄稿している。

 当時は市役所は町役場と言い、電気バスが吉祥寺野崎間を走っているのみで舗装道路はなかった。従って田舎のバスにゴトゴト揺られ町役場前で下車、それから歩いて雑草の生い繁った牧場がわが三鷹寮であった。こんな記録がある。

 四月三日
  午後三時東高より引継ぐ、開寮準備のため東高職員八名をかりる。
 四月四日
  藤田氏と共に来る。
  小生宿直十五日迄に出来るだけ寮内外の清掃をしたいから協力してほしい旨を要望。
 四月五日
  東大にて会議。
  熊谷事務長に机、椅子等の借用方交渉。
 四月六日
  机椅子等の修繕のため鶴谷氏の援助を得る。
 四月七日
  三鷹町長を訪問。
  武蔵野バスを訪問、バス券の割引を交渉。

 かくて開寮、入寮者を迎えての忙ただしい日課に追われていたわけである。問題は職員である。これを東高職員から受入れることになったが、私は一日も早くこれらの職員と融合した三鷹寮職員という新らしいものへ発展せしめたかった。駒場から藤田氏、東高職員から小笠原氏の二氏を挾んで新らしいものを創造するための、職員間の相互理解と目標、目的、立場の徹底的理解を図ったことが、三鷹寮の今日あらしめた基調であったと思う。

 ここで三鷹寮開寮に際しての委員会や関係者及び職員名を東寮日誌から拾ってみよう。

一、開寮準備委員会
    委員長 菊地先生 西尾先生
    重田先生 田口先生
    朱牟田先生 加藤君
    市原先生 古館君
二、関係者(来寮者のみ記入)
    教養学部長 矢内原先生
    事務局長 石井氏(本郷)
    厚生課長 今氏(本郷)
    営繕課長 柘植氏(本郷)
    事務部長 青木氏(駒場)
三、職員
    田中氏 藤田氏 小笠原氏 池田氏 富岡氏 竹内氏 松村氏 清水氏 橋爪氏
四、食堂従業員(協同組合)
    三木氏 鈴木氏 軽部氏 石井氏 長戸氏 沢村氏

 六月二四日、第一期委員会が成立した。メンバーは次の如くである。
    委員長  山中実
    副委員長 福田孝明
    庶務委員 長尾英雄 山中義明
    会計委員 古館繁夫
    厚生委員 水野貞雄 高木益夫
    調査委員 乾泰治
    文化委員 上田敏 赤羽隆夫
    記録委員 阿部謙一

 これより以前に三鷹寮に第一の試練がやって来た。それは原因不明の伝染病である。しかもこれが爆発的にやって来た。罹病者約七〇人そのうち、七名は重病者である。重病者は直ちに中村病院の隔離病床に入院せしめ、その他は事務室の総ての室に畳を敷いて其処に隔離した。寮舎内、食堂、便所等々の消毒は厳重を極め、寮、化して病院となるの感があった。細菌検査の結果が容易に出ない。遂に三鷹寮に禁足を施行した。と同時に学校に対して課業についての考慮を要請したのである。幸い、法定伝染病病原体が発見されなかったので、この禁足も六日間で解除することが出来たが、原因、伝染経路が発見出来得なかったことは遺憾であった。

 職員間の寮内美化運動は活溌であった。先ず少しでも雑草地域を除去するために野球場を作ろうということになった。そして、この斗争が鎌と鋤とリヤカーとで開始されたのである。

 当時は、寮と言っても附属施設としては食堂のみであり、又武蔵野バスの運行が極めて緩慢であったので、所謂寮生活としては全くお気の毒であった。殆んどの寮生は毎朝三鷹台まで歩いたようである。ララ物資の放出は大変有難い贈物であった。こんな状況であるから駒場寮への転出者が続出したために、食堂経営は破産に追いやられ私達もやっぱり淋しいこと常であった。七月四日、学校から菊地、西尾、朱牟田、市原各先生が来寮され委員会と私達が参加して懇談会を催した。この日の議題に"女子入寮許可の件〃が飛び出したことを覚えている。会議室では毎晩規約起草の審議が続けられていた。この会合が毎晩々々続けられていたことは私達もほとほと感心せしめられた。ヒーターの取付、窓網の取付けがこの年のプラスであった。

 職員相互の理解と協調とは三鷹寮の環境を変転せしめて行った。私がこの時期に真剣に手をつけたものに道路敷地の買収計画と三鷹寮諸施設の無償獲得活動がある。又強い関心を抱いていたことに寮生と職員との相互理解がある。これは非常に大切なことなので、事務的に流せるものも文書にした。これが寮運営に関する覚書である。

 この時代は社会的にも学校内でも何かと尖鋭化していた。この田園にもその波がやって来たのは、試験ボイコットである。駒場寮は寮を単位としてこれに賛成した如くである。三鷹寮は独自の見解に立脚して激烈な論戦を展開していた。いづれにしても発言の自由が実際に確保されていたことは立派であった。山中君から田辺君へとバトンはタッチされ、冬将軍を迎える前に夢多き企画に踊ったものである。職員は桜道路の建設に取組んでいる。バス取得の夢、電話架設の運動、浴場工事は遂に着工された。特大の火鉢に暖を採りながら思い出多き昭和二五年とサヨナラをしたのである。(昭和34年8月、記)