三鷹寮生活の思い出〜第6期委員会のころ〜

平賀 俊行

 私が三鷹寮へ入ったのは、昭和二十六年の夏休みだった。それまで東金市(千葉県)の在の祖父の家から駒場まで往復四時間あまりのところを汽車と電車で都合三回ばかり乗り換えながら不自由な通学をつづけていたのを少しでも楽にし、できるだけ余暇を利用して勉強するようにという殊勝な心掛けで寮に入ることにしたのである。結果からいえば当初の目的はどこへやら、講義を聞きに出たのは入寮後一年半を通算して入寮前半年の十分の一にもならないような有様で、全く寮のとりことなってしまったわけである。

 私が寮に入ろうとした時は、秋口にかかっていたが、そろそろ寮の人口も減少をはじめておりどこの部屋も欠員だらけで、簡単な面接を済ませて軽くOKとなった。委員長は鎌倉節さん、副委員長は小川晃さんだった。

 三鷹寮には私と同クラスの吉原泰助君がいたので彼と同じ十五室(当時は東寮一棟だけだった)の住人となった。まだ夏休みが明けるには間があったので寮は閑散としていたが、十五室には幸い残留民族がいた。それが吉本(亘)さんである。大柄で、笑う時には高々と声を立てる愉快な人で早速「大人」という渾名を献上したがまことに、ピッタリした大陸的な人だった。当時はようやく食料品が出廻りはじめたころで、夜になると新川のたからやに群をなして出撃したものだった。

 吉祥寺北口の「特一番」(ホームラン軒)を教えられ足繁く通ったのも忘れられない。それらのほとんどの場合に吉本さんと同行していたように思う。深大寺から調布、稲田堤方面に、また、方向を変えて富士見ケ丘から桜上水方面に吉本さんはじめ同室の人達と気の向くまま、足の向くまま歩き廻ったのはその年の秋から冬にかけてである。吉本さんはその後鉱山学科を出られて三菱鉱業へ就職された。三十年の六月のはじめ、何気なく目を通した夕刊の紙面で三菱夕張炭鉱のガス爆発事故の行方不明者の中に吉本さんの名があった。私にとってそれは大変なショックだった。今でも吉本さんのあの大きな笑い声と江戸前の歯切れのよい話し声が私の耳に昨日のことのように聞えてくる。

 二十六年十月、私と同室の吉原君が委員長になった。第四期の委員会である。そのころ私はマージャン室の常連だった。小川晃、小佐野治郎、松原青美、村上義章、三船清の諸氏に私などが第一線のレギュラーメンバーだったように記憶している。その年の駒場祭に「三鷹寮の生活」と題する三、四十枚の組写真を展示したが、その中のマージャン室風景の場に私も堂々と一役買っており、何十枚かの写真の中で私の出演しているのは何とその場面だけという徹底ぶりとあっては恐れ入った次第である。

 マージャンとともに私達の間ではトランプも盛んに行われた。十四室にいた村上義章さんがアメリカ製のヌードの裏絵のあるカードを持っており、東寮二階の西側の畳敷が遊び場だった。遊びの種類は、五人でやるルールの「ノートラ」に限られたが、結構面白く何度も徹夜する始末であった。

 明けて昭和二十七年、第五期委員長に汲田克夫君が就任した。その際私に会計委員になるように交渉を受けたが、その理由が何と、私が寮の中で最も在寮時間が長く(一月に一度位登校するほかはほとんど寮にいるのだから全くあたり前の話である)留守番役として最適任だからとのことであった。当時は、委員の任にたえる自信が全くなかったので極力辞退したためこの話は立消えとなった。

 四月から西寮が完成し、最上級の吉本さん等の退寮と同時に宮井、笠井君等の同室の人々は西寮に移り、十五室には吉原君と私が二年生として残った。そして坂田展甫、庄司肇志、松田修一、野口直志、布川功君等の気鋭の士が新たに入って来られた。

 そのころ暖房設備としては自習室の中央に大きな火鉢を置くだけで、厳冬の寒さはひどいものであった。そのため秋から冬にかけて寮生は一人減り二人減りして、三月ころには定員約二百人のところが八十人あまりとなるのが例だった。そうしたわけで二十七年の四月に残った二年生の数は五十名に満たなかったようで、寮生の主力は新しく入って来た人々だった。歓迎コムパの際の汲田委員長の推奨もあり、東寮と西寮の間で、あるいは東寮の中でストームの交換が頻繁に行われた。小型の消火器などを使っている間はまだ無事だったが、ある夜には数人の悪童連が非常用の消防ホースを持出して水を撒いたからたまらない。東寮の廊下が水浸しとなってしまう大さわぎとなった。翌日は責任者一同守衛さんからさんざん油を絞られる結果となったのはいうまでもない。しかしこれが度を過ぎたストーム禍をおさめるきっかけとなったようでその後は寮生の安眠と静穏をいちじるしく妨げるような騒動は後を絶った。

 五月――宮城前広場を血に染めたメーデー事件が起った。時を経ず、破防法が国会に提出されることとなり、寮内にもこうした動きの中で緊張した雰囲気が漂った。私の入寮する前の話だが、二十五年秋の試験ボイコット事件に際し、委員会不信任案が成立するまでに寮生大会が混乱し、寮の内外が殺気だった時期があったと聞いていたが、それ以来久しく持たれなかった寮生大会も開かれた。大会の議題等についてはっきりした記憶はないが平静かつ良心的に議事が進められ、こうした問題に処する寮の態度が決められたわけである。

 三鷹寮から南へ、京王線の仙川駅に通ずる道がある。その道を約十分位行き、左に田圃道に入ると松林の中に植物園風の施設がある。月の明るい夜、吉原、田中(悠紀夫)、安井(恭一)、宮井等の人々と、この中に何となく迷いこんだ末、木立の一隅に清純な女神の石像を発見した時、私達は思わず驚きの声をあげた。その後このコースは私達の最も好む散歩道となった。当時すでに若干崩れかかっていた女神像が今も残っているかどうかはわからないが、寮生の方に是非行っていただきたい場所の一つである。そのころになると、寮の前後左右を走るメーンストリートはほとんど踏破してしまったので私達の散歩道は小径や田のあぜ道が主であった。そして散策の末思わぬ場所に出て驚いたり喜んだりしていたのである。

 その頃食堂と職員寮の間の広い空地にテニスコートが作られ、卓球台と野球場以外に運動施設を持たなかった私達に新しい楽しみを与えてくれた。私は相手さえいれば運動場に出てキッチボールに興じ、あるいは卓球場の主となって夜の更けるまで遊んでいたものである。そのうちに遊びの応用範囲も広くなり、ついにレコード室の横、現在卓球台のあるホールを有効に利用することを考えついた。すなわち、両端に長椅子を置いてこれをゴールに見立て、テニスのラケットとボール(ソフトボール大の手頃なゴムボールがあった)を用いてホッケーを始めたり、ホールの端からテニスの軟球を力いっぱい投げ、これをバットで打って壁にライナーで打込み、ホームラン競争と洒落れ、あるいは天井柱その他にぶつけた場合をアウトとし、三振をとったりして投手と打者だけの簡易な野球を楽しんだりしたのである。小杉栄豊、熊代健の両君がその好敵手だった。しかし、お蔭で天井も壁も真黒になり、その後掃除に大変な苦労をされたと聞き、今もなお天井には点々とボールの後が残っているのを見る時、全く慚愧にたえない。

 夏休みも終って、委員会が交代する時期となった。当時としては異例の二人の候補者による選挙が行われた結果、吉原泰助君が再び委員長に選出された。そしてこの委員会に私も副委員長兼庶務委員として協力することとなったのである。まず型のごとく掲示によって委員の希望者を募ったところ、これもそのころとしては珍しく進んで委員を勤めたいという人が現れた。川島恒明君である。私達は彼に会計委員をやっていただくこととした。そのほか、文化委員に音楽に造詣の深い藤沼秀夫君、食事委員に佐々木晴夫君、厚生委員に三浦英富君と総勢六人のメンバーで第六期委員会が構成された。

 委員会の通常の業務のほか、当時もっとも頭を悩まされたのが第一に食堂問題、第二が頻発する盗難事件であった。食堂問題については直接担当された佐々木君が詳しく述べられているので略させていただくが、盗難事件の処理には全く心身ともに消耗してしまった。真犯人が寮内から現われた時の悲しみと驚きは一通りではなかった。その事後処置には、早野学生部長、西村厚生課長、田中管理主任等の手をもわずらわす結果となったが、学校側の以上の先生方の善意に満ちた処置については、私達は心から感謝し、忘れることはできない。

 この年の秋の駒場祭にも、前年極めて好評だった「三鷹寮の生活」を若干の補作を行い再び出展した。

 それと相前後して三鷹寮でも寮祭をやろうとの相談がまとまり、短時日の間に企画し、実施のはこびとなった。こうして第一回の寮祭が私達の手で開催されたのであるが、それは今のようにスケールの大きいものではなかった。十一月中旬の土曜、日曜を利用して挙行したのであるが、その内容はまず両日にわたって招待野球大会と銘打って三鷹寮チーム及び職員チームのほか三鷹市役所、プリンス自動車、地元青年団、三鷹警察署の六チームによるトーナメント試合が行われた。抽せんの結果皮肉にも三鷹寮チームと警察署チームが一回戦で相対することになり、延長戦の末、三鷹寮チームが4A−3で警察署チームを破り観衆の拍手を浴びた。その他好試合の連続で、地元青年団がプリンス自動車を1−0で降して優勝することとなった。

 土曜日の夜は映画と人形劇が食堂で行われた。同時にホールでは写真、図画等の展示が行われた。日曜日の昼は、野球大会のつづきとホールを利用して少年達の卓球大会、スクエアダンスの集いなどが開かれた。そして最後は講演(帆足計氏――吉祥寺在住)、晩さん会と大ファイヤーストームで賑かに盛会のうちに幕を閉じた。短時日の間に寮祭を曲りなりにも終らせたのは委員はもとより汲田君はじめ寮生の皆さんや事務所の方々の積極的な協力、そして地元の人々の財政的な援助のおかげであった。

 寮祭も終り、その後始末に没頭しているうちの出来事だが、人形劇の舞台を稲田登戸まで返しに行くことになり、私と田中(悠紀夫)君が自転車で寮を出た。そのころ多摩川にはほとんど橋がなく、上流では多摩大橋まで行かねばならなかったが、大きな荷物を積んだ上に遠回りはかなわないので京王多摩川の先の渡し舟を利用することに決めた。さて渡し舟の前に来たが、二人とも一円も持っていない。お互いに他人のふところをあてにして出て来たようなわけで全く途方にくれてしまった。その時ポケットに長野の召田(晋一郎)君のところから送られて来て食べるのを忘れていたリンゴのあるのに気がつき、渡しのおやじさんに三拝九拝してそのリンゴを提供してようやく向う岸まで辿りつくことができた。目的地につくと先方で食べながらでも帰りなさいというわけで二三個ずつの柿をもらったが、帰り舟は柿でとも思ったが、おやじさんの仏頂面を思い出すと、意を決して遠回りすることとし、下流へ出て二子玉川まで行き真暗になってからようやくの思いで寮に帰りついたのであった。今でも田中君と会うと思い出しては二人で大笑いしているのである。

 その頃、住民登録の制度ができるということが決まりかけていた。メーデー事件、破防法反対闘争と学生運動に対する風当りが強くなってきたさなかに突如この制度がとられることとなったので、私達学生がこれに疑いの目を抱いたのは当時の形勢として無理からぬところであった。これに対して再び寮生大会が招集され、満場一致で登録返上の態度が決められた。もっとも結果的にはいつの間にか市役所の手によって職権登録の手続きがとられていたようであり、後に転出の際にそれを発見して舌打ちした記憶のある人もいると思う。私が寮を出た後(追分寮に移って後)、二十八年の暮に多くの波紋を呼んだ「学生の選挙権に関する自治庁通達」の問題と並んで、居住の場所としての寮と密接な関連を有する政治問題として寮内で活発な論議が交された事件であった。

 十二月のなかば頃からだったと思う。一寸した買物をするにも新川までテクテク歩かなければならない三鷹寮に、簡単な売店を設けることを委員会に私が提案した。誰も売店のできることに異議はなかったが、その手間と費用の点で二の足を踏んだ。そこでやってみてからの話ということでとりあえず私が勤めることにしてレコード室の隣で急拠開店した。創業については事務所の小笠原さんに費用から仕入れ先にいたるまで面倒を見てもらった。パンは下連雀の東宝製菓に、みかん、リンゴ等は三鷹駅前の元木青果、雑貨は野崎の本多商店、菓子は三鷹のいなりや等が主な仕入先であるが、とくにパンやみかんの売れ行きが好調だった。

 四月に私が寮を出るときに一応店を閉めることになったが、その間経営の拙さもあり諸種の設備費用その他が償却できぬまま、若干の赤字を出して次期の林君の委員会に引つぐ結果となってしまった。

 売店が開かれて間まなくのひどく寒い、しかも風雨が強い晩、当時の矢内原総長が三鷹寮を視察に来られた。停電のためローソクを手にして総長を送り迎えした光景は全く印象的であった。

 すでに三鷹寮を出てから八年になろうとしている。その後、寮祭の折など三鷹寮を訪れるたびにあたりに新しい建物ができたり、寮の設備がよくなったりするのには驚いている。そして事務所の人達が昔のままの笑顔で私達を迎えてくれる姿に接するとき、ちょうど田舎の祖父のもとへ帰ったような気がするのである。

 一家をかまえ、そして宮仕えの身となった今の私にとって、昔のようにいつでも身軽に寮を訪ねることはできなくなってしまった。しかし、寮の空気を吸い、若々しい後輩諸氏の姿に接するとき、楽しかった寮生活を今もつづけているような錯覚に捉われることがある。

 私の人生経験の記憶の中で三鷹寮の生活は最も楽しい、そして最も印象深い一頁としていつまでも残ることであろう。(二六年入寮)