寮食堂最悪の冬(第6期委員会)

佐々木晴夫

 寮食堂が、健全財政を続けていることは、まことに御同慶の至りである。というのは、私が食堂委員だった二七年後半期は、その経営たるや、全く悲惨なものだったことを、想起するからである。その時の模様を、お話しようと思いたったが、手許に何の資料もない。不正確な部分があるかも知れないことをお断りした上で、記憶だけに頼って、以下当時の思い出話を書いてみようと思う。

 私達の前の汲田委員会では、食堂利用の方法として今同様の定食制をとっていた。たしか、朝二五円、昼二五円、夕四〇円(一カ月約二、七〇〇円)だったと思う。

 ところで今でもそうだろうが、寮生にとっては、食費の負担はわりと大きい。当時、駒場などと比較して、質のわりには高価であることや、一旦一カ月分の食券を買い入れると二日前までに申し出ない限り、食費が払い戻されない(したがって、余程規則正しく生活しないと、無駄がやたらと生ずることになる)などの理由で、食堂に対する風当りは相当強かった。悪いことに、この苦情は食堂経営責任者が、支配人か、委員会か、不明な状態だったので、持って行きどころがない状態だった。

 強制加入でもなかったから、その不満を反映して、食堂利用者はどんどん減りつつあった。私達が、前委員会から引き継ぐ際には寮生在籍数二〇〇名のうち、食堂利用者は一日平均九〇名程度だったと記憶する。

 これは、食堂経営にとっての由々しい問題だった。今でこそ、寮生は一年を通じて、コンスタントに二五〇名程度あるようだが、当時は、スクールバスもなければ、電話もなく、三鷹といえば不便なところという定評があって、秋以後は寮生数が激減することになっていたものである。だから、当然に食堂利用者は激減することが予想されたので、ただでさえ赤字だった食堂を、いかに維持し、再建して行くかは、関係者にとっての大問題だったのである。

 私としても、全く未経験の問題だし、かといって頭を抱えているだけでも能がないから慌てて、「経営学入門」なんて本を手に入れて、読んでみたりしたものであった。勿論、こんな本が、何の役にもたつものでない。田中管理主任が、企業会計の造詣を生かして作って下さった財務諸表類も、勉強してはみたがさっぱり判らず、そのままを総代会に提出して、チンプンカンプンの説明を試みたりしたこともある。

 そうこうしているうちに、食堂はいよいよピンチになった。委員会での連日の打ち合わせの後、食堂問題をめぐっての寮生大会が開かれ、全面的な食堂改革案が上提された。その骨子は、食堂経営上の全責任を委員が負うこと、定食制を廃して、主食、副食を切り離し、主食については一ケ月毎の食券を発行するが、副食については食事毎の選択制とすること、主食券を、利用しなかった場合には、無制限払戻しを行うこと、などであった。喧騒のうちにも、真剣な討議が行われ、約二時間の後、この改革案は殆ど満場一致で可決された。この採択の瞬間は、今でも嬉しかった思い出としてよみがえる。

 この改革が、食堂利用者を増加させた結果として、資金面で食堂経営を楽にしたのみならず、意識面でも、寮生の食堂という、本来の姿に戻したことは事実だと思う。しかし、その年としては、改革時期が余りにも遅く、資金枯渇は恐れていた通りにやってきた。

 年末、僅か三万円ばかりの資金が、どうしても足りぬ。寮史上、最初に寮債発行論が出たのは、恐らくこの時であろう。が、これは実行する勇気がなく、関係者が個人的に金策を考えたが、どうにもならなかった。私も家から借りるべく帰郷したものの、どうも旨く行かず、今でも田中さんから「逃げ帰った」とからかわれるのであるが、全く冷汗三斗の思いがする。結局、「ない袖はふれぬ」式に一切の支払いに応ぜずということで、やっとこの冬を逃げ切ったものである。

 その頃がヤマ(またはタニ)で、それからの食堂経営は、ほぼ順調だったと思う。で、私達は今度は食堂の施設を、カネをかけずに改善する方法を講じ始めた。つまり、学校との交渉で、買い出し用のジープが欲しいの、カマや諸設備を能率的なものに替えて欲しいだのと、しきりに陳情したものである。だから次期委員の申し送りでは、対学校交渉中事項を羅列したように思う。ジープは大風呂敷に過ぎたようだが、後々の委員会の御努力で他は次第に整って行ったようで、嬉しいことである。

 先日久し振りに寮をおとずれた時、何よりも食堂が良くなっていることについて、今昔の念にたえなかった。随分奇妙な時期ではあったが、今考えるとやはり懐しい。その他のいろいろな失敗や、馬鹿話もあるが、これらは別にお話の機会もあろうと思う。三鷹寮と寮食堂のよりよき発展を祈って、擱筆する次第である。