第5期委員会をかえりみて(昭和27年3月〜9月)

汲田 克夫

 第五期委員会の任期は、一九五二(昭和二七)年三月から九月にいたる期間であった。と云えば、朝鮮戦争、メーデー事件、破防法を思い出されるだろう。第五期委員会はこのような時期に寮の仕事をゆだねられたのであった。

 1952・3・ 6 吉田首相、自衛戦力は違憲に非ずと答弁
        18 吉田首相、東大事件につき学園は治外法権に非ずと言明
      4・12 労斗破防法反対第一次スト三〇万
        20 第二次東大事件
        28 朝鮮休戦本会議再開
      5・ 1 メーデー事件
        15 破防法案、衆院で可決
      6・10 二一大学で破防法反対スト
        27 メーデー事件送検1,075名と発表
      7・21 破防法公布施行、公安調査庁発足
      8・ 3 吉田首相、保安庁で「保安隊は新国軍の土台」と言明

 暗さ、不安、怒りのようなものが基調となった緊張の六カ月であったように思われる。 僕が何故に寮委員長に推薦されたのか当時きっぱりわからなかった。ずうっと後になってわかったのは、私の声が大きくて拡声機がわりになるから(?)ということで推薦されたらしい。とにかくみんなに信任されて、寮委員長になってからの仕事は、まず委員会づくりと新入寮生の選考であった。

 私を推薦した立役者宅見君をくどいて副委員長になってもらった。平野秀秋、一志道生、小林功の三君に委員をおねがいし、委員会が構成された。三月の休みは、帰省せず新入寮生の選考で宅見君と寮に籠ったように記憶している。三鷹寮への入寮希望者は年々増加し、当時定員をオーバーしていた。私たちはたしか家の収入のすくない人からとっていったように思う。

 五月一日、宮城前広場でメーデー事件が起った。寮生の何人かがメーデーに参加し、夕闇追るころ、二人の負傷者が新しくなったばかりの寮委員の部屋にかけこんできたのであった。私たちは直ちに委員会をひらき、負傷者の救援と寮を守ることについて相談した。私服が寮の内外をうろついていた状態の中で寮生は緊張していた。私たちのとった処置は正しかった。翌日から、メーデー事件の関係者をたいほするというので都下の大学のいくつかの寮が警官隊の侵入をうけた。しかし、幸い、私たちの寮は守られた。

 そのころ、三食定食制がとられた。これは食事部の要請であったが、必ずしも成功したとは云えない。食費はたしか二千七百円程度だったと思う。梅雨を迎えた頃、擬似赤痢患者が数名でて、平野君は遂に入院することになった。そのとき、吉野さんはじめ寮の事務の方々が実によく寮生の世話をして下さったことを感謝なしに思い出すことができない。

 この次々とおこる寮の内外の緊迫した空気の中で、私たちを慰めてくれたものは、寮のレコードであった。寮生の要求をききながら入寮金に、小林功君がバスの回数券を寮生にうってえたわずかな利益を加えて、月々数枚のレコードを購入し、静閑たるレコード室でみんなして耳を傾けた夜のことをなつかしく思いだす。当時、クロイツェルソナタ、ベートーヴェン第三番、白鳥の湖等のクラシックを私たちは寮の財産としてのこした。

 そのころ、寮生がたのしむものは、マージャン、それから野球ぐらいのものであった。卓球もやったが、当時ピンポン台も一つしかなく、木片でバットをこしらえてやっているような状態であった。寮生の中には、テニスをやりたいという要求があって、旧寮と新寮との間の空地の草をむしり、寮の事務の方々の援助をえて、テニス場をつくった。ネットは、教養学部事務長の青木さんから寄贈していただいた。

 当時、寮のバスはなかった。(バスを要求して学校と交渉したのは、私たちの委員会であったが、寮から三鷹台まで、あの道を、パンをかじりながら黙々と歩いた冬の朝の事を、思い出さない寮生はすくないだろうと思う。当時、私たちはよく歩いた。たしかに三鷹寮は不便であったが、私たちは三鷹寮と、その周辺の風物を愛していた。

 寮の構内に、当時、製図の須藤先生が住んでおられた。私たち寮生は、よく先生のお宅へ遊びにいって御馳走になったり、有益なお話をきいたものであった。それが機縁で、平野秀秋君と須藤先生のおじょうさんとが結ばれたのである。

 寮の総代会の出席率はすこぶる悪かった。それは、私たち寮委員の責任でもあったが、寮生の責任感覚にも問題があった。総代会のある夜は、寮は静かであった。総代を呼びにいくと部屋ごといないことがよくあった。その点、駒場寮とちがって、私たちの寮が若干逃避的個人主義的なふんいきがあったのは否定できない。そういう点は、最近克服されてきているだろうか。

 もう一つ遺憾であったことは、夏頃おきた盗難事件であった。新田君、土持君の部屋にひんぴんと盗難がおきた。それが同じ部屋だけなので、お互いに同じ部屋のものに対する猜疑心をもちはじめてきた。そのとき、一人の容疑者(彼こそ第六期吉原委員会のとき真犯人であることが判った)を徹底的に追求せずうやむやにしてしまったことは私たち委員会の大きなミスであった。暗い時代のふんいきの中で、寮を一層暗いものにしてしまったのである。

 たのしかったのは、週二、三度の寮の風呂であった。みんなはだかで、その日のことを湯につかりながら話しあった。寮の友人の多くを私は風呂の中で知った。

 私と苦労を共にし友情をわかちあい励しあった宅見君、小林君、ひじかた君等と、そのたのしい思い出を語りあうことのできないのが、まことにかなしい。この人たちは、あの暗い時代のふんいきの中で、きずつき、過労し、病んで、死んでいった。もう二、三年生きていてくれたら、平和共存の明るい太陽に浴して、新しい生甲斐をもって新しい社会の建設のために、一緒に働くことができたろうに。

 今日の立派な寮にまで、たえず関心をはらい力を尽し、寮生を、変じて下さった、田中さんはじめ寮の事務従業員の方々、食堂の従業員の方々、学生部の早野先生、西村先生、その他教養学部の先生方に、第五期寮生を代表して、心から感謝の意を表したいと思います。(二六年入寮)

全世界民主青年歌

一、われら青年平和と幸もとめ
  誓いは固くわれら斗いぬく
  山川ことなる世界の青年
  腕をとり隊伍くみ声高らに
   いざ共にうたえ歌平和の誓い
   はばむ者にはこたえん高き歌声
   ああ青年のこの熱情は消せない
   平和を愛する熱情ちかいは固い

二、戦いのさなかにたおれた友
  流された血でわれらは結ばれた
  正義を愛する世界の青年
  明るいあしたを斗いとろう
    (以下同じ)

三、われらの誓いは今日もまた
  あらた聖なる旗を高くかかげて立つ
  平和にいどむ力をくだけ
  正義をまもってわれらは進む
    (以下同じ)