第15期委員会当時(昭和31年12月〜32年6月)

渡辺 良雄

 新制大学の発足と共に新に設立された我々の三鷹寮も、愈々十年の歳月を経て、一世代の歴史を持つことになると聞き、そこを青春の貴重な二年間の生活の場とした者の一人として、ある感慨をもたざるを得ません。

 我々のように寮を追い出されてまだ日の浅い者でも、売店にはテレビがすわり、食堂には綜合調理機・天火等をそなえ、又ゆったりとした新寮をもつ現在の三鷹寮を見ると、少々驚きなのですから、創立当時在寮していた先輩諸兄にとっては、全く驚き以上のものがあり、あらためて十年の歳月をひとしお身にしみて感じられることと思います。

 さて私に与えられた課題は、私が寮委員長をしていた当時の三鷹寮の様々な出来事、即ちささやかながらも三鷹寮々史の一こまを記述することなのですから、思い出をたどりながら由来るだけ忠実にその責をはたしたいと思います。しかしながら私の記述は寮委員会中心の寮史にならざるを得ないことを初めにおことわりしておきます。

 我々の委員会は第十五期で、昭和三十一年十二月駒谷委員会の後をひきつぎ、翌年六月和田委員会にそのバトンを渡す迄の六ケ月間その任にあった。

 私が駒谷前委員長をひきつぎ第十五期委員会を構成した当初、先ず直面した問題は、いわゆる「寮のアパート化」ということであった。社会の経済事情も一応安定し、新しい学制も十年の年月を経て、とやかく言われながらも確固としたものになってきた当時、それ迄苦しい学業生活を強いられてきた我々学生の間にも一種の明るい余裕とも言うべきものが生れてきていた。かくして心ある学生の胸中に、激烈な入学試験と激しい競争を強いる就職試験との間に横たわる谷間と至言うべき教養学部時代を、より充実した自己形成と、かつ又失われた青春復活の時期にしようとする創造的精神が芽ばえて来たことも故なしとしないであろう。かくのごとき中で我々の三鷹寮の実情はどうであったか。残念なことにそこは孤立した寮生個人個人の生活の場を提供するいわばアパートと重言うべきものに堕していた。寮生間の横のつながりは稀薄であり、寮生の意見を反映すべき総代会はしばしば定員を割るような情ない実情で、そこには貴重な青春の二年間を送るにふさわしい生活の「場」というものは見当らなかった。我々十五期委員会はかくの如き環境のもとで「自己形成と青春復活」の創造的時期を送るにふさわしい新しい「場」探求と共に発足したのである。

 我々は手さぐりしながらも、先づ、寮生の中へ入り込むことから始めた。それは「つるし上げられる会」と称して各自習室を訪ね、我々委員と一般寮生との意見の交換、ひいてはより広い交歓を行うことであった。これは委員会がともすれば一般寮生から浮き上る傾向を少なからず是正し、一般寮生に自治意識を喚起したものと今でも確信している。以来我々は新しい「生活の場」建設を目指して、寮アパート化打破のキャンペーンをあらゆる機会を、とらえ行っていったが、折しも寮生間にも新しい話し合いの場を求めて「討論会」グループなるものがつくられたということは特筆に値することと思う。

 更に我々にとって嬉しいことがあった。それは二月初めの「二年生追い出しコンパ」の大成功であった。コンパは完全に寮生のみのうちわの会であったが、あれ程寮生梧互が一つに融け合って盛り上りのあった会を私は知らない。その時、出席していた人は誰しも感じたことと確信しているが、私は青春を三鷹寮で送ることが出来ることをしみじみと幸福に思った。そしてここにこそ我々の求めている「新しい生活の場」としての三鷹寮につながる何かが在るということを感じとり、前途に明るい希望をもつことが出来た。

 二年生を送り出した我々を次に待っている大仕事は新入寮生を迎え入れることであった。我々委員会は目指す「新しい生活の場」建設の目的にそって、入寮選衡及び入寮受け入れを実施することを改めて確認し、入寮希望者全員に「新たに寮生活を送るに際しての心がまえ」という課題のもとに作文提出を要求した。即ち我々は選衡基準として、家庭の経済事情のみでなく、寮生活に対する意識を要求したのである。蛇足ながら、かくの如き選御方法を可能ならしめたのは学生一般の家庭の経済水準の上昇であり、あらためて日本経済の回復、発展を感じた。

 次に入寮決定者に対しては一人一人面接し各自の書いた作文を中心にその所信をただしかつ寮自治意識の高揚を求めた。今これ等のことがどの程度効果をあげ得たか推しはかるすベもないが、寮はアパートではなくそこは多くの若人と交友を結び、若き魂をはぐくみ育てる場、素晴しい青春交歓の場、そしてその自治を各自の手にゆだねられている場であることを意識せしめ、「何かやらなくては」という決意を強いたことは疑いないであろう。

 我々委員の任期も終りに近い五月初め、我々は一つの重大な問題の解決をせまられた。折しも原水爆実験禁止をスローガンに学生運動たけなわの時期であり、駒場寮総代会では全寮のストライキでもって決起するという決議がなされた。それと呼応して我々三鷹寮に於ても総代会で一部からストライキ決起が提案された。かくして我々寮委員会は、総代会で、何等かの決議をすることを前提として政治的問題を議題とすることがはたして妥当かどうかという問題の解決をせまられたわけである。このことは又我々が日頃声を大にしていっていた「新しい生活の場」との関連に於ても我々にとってきわめて重要な問題であった。

 我々委員会としては、寮は政治集団ではなく、いわば生活集団とも言うべきものであるから寮全体が単一の政治的意志によって行動することは妥当ではなく(勿論偶然全員の意志が一致した場合は例外であるが)又その生活集団の意志決定機関である総代会はその限りに於て意志決定能力をもつわけで、政治的意志決定は行い得ないとの結論に達した。

 この結論のもとに政治的問題を総代会で議題としないことを提案し、結局大多数の賛成を得て可決された。

 かくの如き三鷹寮の状態を一部では政治意識の貧困或は反動とさえ非難されたらしいが私はこれこそ三鷹寮の良識だと確信している。

 以上が第十五期委員会当時の三鷹寮の概観であるが、当時の雰囲気を少しでも感じとって頂ければ幸いです。

 最後に当時のより具体的な委員の活動及び寮施設の状態を記録しておきたいと思います

 厚生関係……先ず特筆に値するのは健康保険制度の創設であろう。その基金となった二万円拈出の裏には色々面白いエピソードがあるのであるが、紙面の都合で割愛せざるを得ないのが残念です。唯我々の寮に宿泊した受験生に対する委員の精一杯のサービスから生み出された余剰金であることだけを記しておこう。又その規約は田辺厚生委員苦心の作で絶対黒字になるように出来ているようです。

 次にアルバイト開拓にもふれておかなくてはならない。活版印刷で「アルバイト求む」というチラシをつくり、中央線沿線の各駅口に委員が出張して電車の乗降客に手渡したのですが求職に来たのは十件位で、労多い割に効果の方は大した事はなかったようです。チラシは「アルバイトの手引」なる本を出した出版屋の広告と抱き合せで刷り、その費用がかかっていないので、まあ三鷹寮の宣伝になったことを思うと損にはならなかったことでしよう。

 又、御存知のように我が三鷹寮は火災にはきわめてお誂向に出来ていますから火災予防には力をそそがざるを得ませんでした。,そこで我々はその対策の一環として、全寮生からヒーターを没収して委員室に保管しました。今考えてみて、よく寮生が協力してくれたものと、感謝しています。

 食事関係……前期の委員会の時とくらべ目新しい点は、駒場寮食堂の昼食が駒場寮々生並みの値段で利用出来るようになったこ、しです。又前の委員会当時から話の進められていた三多摩学寮の共同購入も、ソース、醤油、味噌等において実現したことも注目に値することと思います。

 とにかく、食事の内容或はその衛生面に於ても、食費五円値上げと相まって、安橋、大原、山根各食事委員の地道な努力により、一段と改善されたことは疑いないところでしょう。

 受験生宿泊のこと……我々委員会も例年のように受験生の宿泊に寮を提供したものですが、そのサービス振りは前代未聞ともいうべきものだった。朝四時頃起きだし、上野駅、東京駅、吉祥寺駅に夜十時頃まで張り込みノボリを立てて受験生を迎えたものです。一方寮では委員自ら三下をやり風呂をたて受験生をもてなしたり、又、悪いことに試験中雨が降ったことがあったが、我々委員は寮生から、傘を借り集め吉祥寺駅迄迎えに行ったりもし,た。このように書いていくときりのない程苦労談、珍談があるが、我々にとっては本当に懐しい思い出として残っている。

 四寮懇談会のこと……前から行われていたもので駒場・白金・雑司ケ谷・三鷹四寮の親善を深め、お互の問題を話し合う会であるが我々は新機軸を出して、新大深に寮バスで行き、ソフト・ボールに興じたり、森の中を散歩したりして、その実を大いにあげた。

 その他……残された紙面で是非ふれておかなくてはならないことは植樹のことです。寮の広い空地を緑でうめようという計画は前々からあったようですが、我々もやっと、ヒマラヤ杉その他十数本の植樹をしたのみで終ってしまいました。このことは是非今後実現して三鷹寮を緑でうめて欲しいものです。最後に例のバスですが、十四期委員会は大いにそのむら気に悩まされたものですが、我々十五期の時には幸いなことに大したヒステリiも起さず動いてくれました。懸案だった新しいバスのことがだいたい目安のついたのもその当時だった。

 素晴しき三鷹寮の二年間を壊しみつつかつ又、三鷹寮の将来のより発展を祈りつつ以上で私の記述を終ります。(30年入寮)