不良寮生自白

鹿島 和夫

        (一)
 俺があの三鷹の刑務所で二年間の刑期を終え、オンボロの三輸車に一寸した荷物を乗せてガタガタゆられながら出所したのは、数えてみるともう二年半ほど前のことだ。
 あすこにいってから半年ばかり後だったと思うが、俺があそこの寮で一寸ばかり手伝ったのが縁みたいになって、俺は食事委員とかいうのになってしまい、二百人からいる野郎共から食い代をまきあげて飯を食わせる仕事をやる事になった。それから一年間は、委員という高級小使いみたいな奴から足が洗えなかったが、仲間の連中や、学生部の親玉連がこんな経験をすることは後できっと役に立つというんで、俺もまあシャバに出た時役に立つならと思ってやってみたが、まだ、良かったのか悪かったのかわからねえ。
 しかし今考えてみると委員になると少しはいばれて、女の子に会う機会も多かろうという単純な気持もあったような気がする。少くとも本心から寮生のため、寮自治の発展のためというような気持から委員になったかどうかは疑わしいもんだ。
 まあそんなことはどうでもよい。これからあの寮にいた頃のことを思い出すままに書いてみようと思うが、こんな気を起させるところをみると、やはり俺はあの寮とあの寮で過した自分の青春が懐しいらしいな。

        (二)
 まず、あの寮で覚えたことで禄なことはない。煙草を吸うこと。麻雀。酒は前から少しは飲んでいたが、バーに行くようになったのもあの頃からだ。ところで、その煙草なるものを始めて口にしたときのことを白状しよう。あれはそろそろ学校で講義を聞くのにあきはじめた頃だから多分五月末頃だったと思う。あるいはもう少し前がもしれない。一年坊主ばかり三、四人、あの東寮の潜水艦の中みたいな部室で、ゴロゴロしていると、Hの奴が「おい、タバコちゅうもんを吸うてみようか」というので、退屈していた連中はさっそくそれにとびついた。よく覚えていないが、ピースとひかりを一箱ずつ買って来たようだ。みんなで、わいわいいいながら金魚をやっているうちにもうひかりばかり五本目だといっていたKが急に頭が痛くなったといって床にもぐりこんでしまった。とにかく生れて始めての奴が、たて続けに、しかもひかりを五本もやったのだから頭に来るのも当然だろう。Kは相当にまいったと見えて、それから彼がタバコを吸っているのを見たことがない。
 若し、俺は当分たばこなんて飲みたくないとおっしやる感心な新入生がいたら、まずひかりを一箱買いなさいと教えたいと思っているのだが、残念ながら俺のような不良の前には、そんな殊勝な奴はやってこない。それはさておき、俺はHのお蔭で、委員になっても女の子の前で退屈だけはしないでよいようになった。

        (三)
 ここらでそのことを書いた方が良いかもしれないが、委員にとっては、こんなくたびれもうけの奴はない。毎年委員がかわるから、毎年祭が出来るといっても言い過ぎじやないと思うが、世の中には又、一文にもならんことをせっせとやって喜んでいる馬鹿でなければおしゃかさまというような奴もいるから、あまり主張はしない。とにかく、祭の翌朝、食堂の後始末をしているときの気持はなんともいえないものでしたよ。こんなところで愚痴をいっても仕方がない。
 まず祭の準備で一番最初にやることは、祭を何時やるかを決めることだが、これを急ぐ理由は総長というおやじを何月何日何時に招くかということを決めねばならないからだ。せっかく祭をやるからにはおやじに来てもらいたい。しかし秋にやる祭に来てもらうには夏から招待状を出しておかねばならんのだから、全くおやじともなると忙しいもんだなあと思った。
 祭を具体的にどんなスケジュールでやろうということがほぼ決ったのは汽車の中だ。委員長と厚生委員と三人で信州に行っての帰途座席がとれず、床に新関紙を敷いて円陣をつくり、いろいろと研究し、帰り着いてから、みんなともう一度相談し、上の案を修正して実行することになった。
 祭の最初の催しである夕食会で俺は司会をやらされた。おやじや教養学部のおえら方の前でやるので少し得意でないこともなかったが、何かドジをふんで笑われないかと思うとその方が心配で大部あがってしまったようだ。
 その翌日の土曜日は女子寮も祭で茶話会をやるが、場所が狭いので男の寮からは一人宛来て下さいということで、委員長は行けないから俺が行くことになった。そんな訳でうちの祭の方がどうなったか知らないが、後から聞くとまあ大きな失敗もなくすんだらしい。 さて日曜日にはフォーク・ダンスがある。何時も世話役ばっかりさせられて踊る暇がなく馬鹿な目にばかりあっていたので、今日はひとつ十分踊ってやれとはりきっていたのだが、朝飯を食ってから、明寮に開店されたバーにいったのが苦労の始まり。調子にのってダブルで三杯飲んでしまった。顔は赤くなるし、息はくさくなる。これでは、フォーク・ダンスはいくらなんでも失礼だ。と思ったので東寮の掲示板の対面にある蛇口で頭から冷し、口をそそぐこと三回、ようやくさめたのでフォーク・ダンスを始めたが、体をふりまわすものだからまたまた蛸になってきたので蛇口で冷やし、踊っていると又蛸になる、冷す、これを三回ほどやっているうちに、フォーク・ダンスは終ってしまったのである。
 その夜がファイアー・ストームである。委員長が書くと、若人の青春の炎はえんえんと空をこがしとかなんとかなるのだろうが、俺は正直者だからとてもそんな嘘はつけない。とにかく雨あがりで薪はしめっているし、地面は乾くどころか、まだ水溜りがありそうな位だ。油をぶっかけた時だけは景気よくもえあがるが、またすぐ、おとなしくなってしまう。これじゃ若人の意気もなんも変な調子になるのはやむを得ない。白状すると祭のフィナーレにふさわしかったのはこのファイアー・ストームよりも、米びつの中にかくしていた一升ビンを、やっと終ったなといって寝室でまわし飲みにしたときだったと思う。

        (四)
 話はかわるが、三鷹は学校から遠い。学生部にいわせると三鷹は駒場の北海道ということだそうだが、それだけに目が届かないのはありがたいけれども、その為に予算が少くなっては俺達の生活水準が下るということになるので、こちらに都合の良いところは極力PRしなければならない。一寸話が横道にそれてしまったようだ。三鷹から駒場までは遠いといったのは他でもない、それだけ眠い講義はどうしてもサボリたくなるということをいいたかったのだ。その点、運転部長の講義は寮の中で、こちらがごろごろしていると講師の方からやって来て聞かせてくれるのだから楽なもんだ。その上、聞く方がよほどの石部金吉でなけりや絶対眠くならない話なのだからありがたい。しかし運転部長も美しい奥さんをもらわれたことではあるし、講義の内容は発表しないことにしよう。
 いつだったか、俺が部長のサングラスをかけて髪を前にたらしてギターをかかえてみたところが(言い忘れたが俺はその頃青いポロシャツを着ていた)部長に「お前、そのかっこうで『別れの一本杉』をうたって寮内を一周したら丼をおごるぞ」といわれたが、これだけは出来なかった。なあに、委員でなけりゃやったかもしれない。

        (五)
 最後に、俺たちが餅をどうやって食っていたか、書いてみよう。まあ、こんなことはとっくにやっているだろうが。なんて俺がいうと、赤猫のみそ汁にほおり込んで食うのだろうなんて思う奴がいるかも知れないが、俺達はそんな野蛮なまねは絶対にしなかった。もっとも先輩の中には猫を食った人も犬を食った人もいるだろうが、我々はそんな食品衛生法に触れるようなことは絶対にしていない。
 餅をどうやって食うかというと、まず新川の肉屋から鳥のガラを買ってくる。帰りに八百屋で野菜を少々買ってくる。こういうとまた八百屋には店番がいなかったろうという奴が出てくるかも知れないが、俺は畑から失敬してくるなんてことは西瓜はもちろん、いも一つやったことはない。俺も百姓をしたことがあるから、自分の作ったものを盗まれるのがいかにしゃくにさわることか知っているからだ。といっても失敬してきたものを食ったことはある。無理に共犯にさせられたようなもので今もって釈然としない。
 そこでストーブの上に鍋を乗せて鳥ガラを少くとも三十分位煮てスープをとり、野菜と餅の焼いた奴をほおり込んで食う。少々カビが生えていても小刀でけずり落してこれをやると結構おいしい。とっておいた鳥ガラは翌日こんどはたたきつぶしてもう一度スープがとれる。そのあと、又、次の日こんどはすりばちですりつぶしたらもう一度位とれるだろうと思ったが、俺達はそれほど貧乏してもいなかったのでやらなかった。

        (六)
 退屈しのぎにでも、ここまで読んだ人にはこの俺がだれだか、若し俺を知っているならわかった筈だ。あの野郎しようもねえ奴だといわれるのはわかっている。実はこれは寮誌第一号にのせる原稿として書けといわれて書きはじめたものだが、もしこんな駄文を編集委員がとりあげたとしたらよほど原稿が集まらなかったのだろうということになる。残念だが俺にはそんなもんしか書けねえ。没になるのがわかっていて、ここまで書いて来たのはしょせん俺が馬鹿だということなんだろう。