会員が語る三鷹寮の思いで

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 昭和36年入寮 宮路和明
 昭和42年入寮 舛添要一



三鷹寮と私の人生   昭和36年入寮 宮路和明

 私は人一倍豊富な寮生活の経験を持っている。高校時代は全て寮生活、大学では三鷹寮のほかに、本郷でも大学の傍らにあった鹿児島県人寮に厄介になった。実社会に出てからも独身時代をずっと寮で送った。その中でも三鷹寮生活は、まさに青春時代を謳歌できて、真に楽しく有意義なものであった。そして私の運命も、この三鷹寮での縁によって決定づけられた。
 私共は同志十人で、昭和三十六年秋より浜田卓二郎(前衆議院議員)委員長のもと両委員会を結成し、寮運営に当たった。私は食事委員を担当し、食い盛りの寮生に安い食費でいかに腹一杯になってもらうか腐心した。これが農林水産省に入ることとなった動機であろう。また、当時から政治家志望であった浜田君は、同五十二年に大蔵省を退官して政界に進出した。私もこれに刺激を受け、同六十年に政界に飛び込んだが、この時、いろいろ面倒をみてくれたのも彼であった。
 有志の皆様のご尽力で、「東大三鷹クラブ」が誕生し、活発に活動されておられることは私共にとって心の支えである。益々のご発展をお祈りしたい。


三鷹寮の思い出   昭和42年入寮 舛添要一

  私が、東京大学に入学したとき唯一人として友達がいませんでした。私は、北九州市の 出身で、高校は八幡高校でしたが、東大に合格したのは、私一人でした。親類も東京には いませんでした。下宿のあてもありませんでした。そこで、三鷹寮に応募したのです。運よ く認められて、早速入寮しました.
  その当時の三鷹は、まだ緑も多く、本当に田舎でした。駒場寮と違って、キャンパスに 通うのにバスに乗らなければなりませんでした。スクールバスの時間に間にあうように、朝 早起きするのが大変でした。最初のうちは、真面目にバスに乗っていましたが、次第に朝起 きるのが大変になって、普通のバスに乗って通学することになってしまいました。
  三鷹寮の一部屋には4〜5人が住んでいましたが、一緒の部屋にいた先輩たちには、随 分刺激を受けました。彼らは、毎日たくさんの本を買ってきました。たとえば、マルクスや エンゲルスの著作を岩波文庫で手に入れて、自分の本棚に並べるのです。まさに、これみよ がしのような感じで、私は自分も頑張らなければという気持ちになったものです。そして、 彼らに負けないように、自分もせっせと本を買い入れたのです。今でも、私の事務所の書庫 にその当時に買った本が並んでいますが、懐かしいかぎりです。
  楽しい思いでといえば、東京女子大の寮にストームをかけたことです。東女の寮は、吉祥寺 にあって、合ハイの後に、はるばる歩いてそこまで行くのです。ところが、残念ながら 高い塀がありて、当たり前のことですが、中に侵入できないのです。先輩の中には、強者が いて、堂々と正面から入って行くものもいました.
  その後、手頃な下宿が見つかったので、三鷹寮を去りましたが、寮生活では、いろんな ことを学びとることができました。まさに、三鷹寮は私の青春の1ページなのです。